さきゆき②
その後も続いた勇三の話に、何だかんだ嫌な思いをしたが、勇三は三島駅まで送ってくれた。勇三の自宅からは一時間以上はかかった。地方などでは車を扱うのが常で、東京での徒歩や自転車、電車などでの行き来とは異なり、それくらいの時間の浪費は、やむを得なかった。
終始、主に聞かされていたのは勇三の自慢話だったが、伊豆箱根鉄道に乗る電車賃などの出費を回避できたので、感謝くらいならできるだろうと、助手席のドアを開けた駆は、笑顔で勇三に礼を述べた。
勇三はまだ話したいことがあるようだった。去り際に呼び止められ、
「みんなとはりゅうさんの結婚以来、音信不通だったんだ。今度伊豆へ来るときは余裕もって知らせてくれ。みんなと集まれる準備をしとくから!」
「そうだな。久しぶりにみんなとも話してみたいし……」
駆は手を振り上げ、
「じゃあ、どうもありがとう!」
「とんでもない。また来てくれ !」
との声を聞き、ドアを素早く閉めた。
瞬間、車中から、うざっ、というような声が聞こえた。
聞き逃しでなければ、ざっ、と言ったような気もしたが、駆は少し考え込んだ。
うざいと言ったのか、であれば、やはりここまで送ってくれたのは面倒くさかったのだろうか。本人の親切心からここまで乗せてくれたにしては、本心では、ことを手短に済ませたかったのかもしれない。
――何か悪いことさせちゃったかな……。
勇三が勝手に気を利かせたことだと思ってもよかっただろう。だがそれ以前に、また幻聴の類いだった可能性も大いにあり得る。
しかし、勇三が去り際、うざっと言ったのは駆の耳にははっきりと聞こえた。
そう考え出すと、今度は車で来られなかった自分の不甲斐なさや、免許は取ってあるが、いかんせんペーパードライバーであるし、車も買えない、保険も入れない、そうしたいくつかの事柄に、自分が無職であるのも
相俟って劣等感を募らせる。
――先生が言っていたじゃないか。そんなダメな自分を認めてやるんだって……。
耳にしたばかりで、それをどう実行していくか、まだ思案しなければならない段階なのだろう。
――今度医者に行かなきゃなあ……。
果たしてこのポジティブな考え方に、医師はどう答えてくれるのだろうか。前向きな返答を期待したいものである。
小さな声一つ一つにしても、いちいち悩まなくてもいいことのはずなのに、声がきっかけでこのようにネガティブな思考へとどんどん堕ちていく。
ある時は、突如聞こえた悪罵と、胸中で言い合いになることもある。
それが寝床のある自分の部屋で起きたりすると、余計に疲労度が増す。
声が幻聴かどうかであることの境界も曖昧で、気のせいかと割りきれれば苦労はない。
駆は駅構内を歩きながら、ふと早苗の言っていたあの言葉を思い出した。
……好き……。
思えばあれは幻聴だったのだろうか。医師と話したときにこう聞いたことがある。
誉め言葉などの好意的な声も症状の一つである場合もあると。
そしてこうも言っていた。
思考化声〈しこうかせい〉と言い、頭の中で思ったことが、さも外から聞こえてきたように感じることもあると。
東京のアパートにいるとき、近隣から耳にする戯言なども、恐らく思考化声というものに違いないだろう。
早苗は、駆のことを少しも恋愛対象として見ていなかった。
境界のはっきりしないぼやけたような声のいたずらは、時として失恋にも至らしめるのか……。
溜息をつきながら、電車に乗り東京へと向かった。
小田急線に乗り換え、シートに座ったまま、体になんとなく疲労感が生まれた。
イヤホンをして音楽を聞いていると、どこからともなく中傷が聞こえてくる。
だっせ! などという声が、音楽の合間に届いてくるのだ。
自分の容姿が格好悪いということか、それとも音楽が音漏れしその曲が古いと言いたいのか、そんなことを考えるのも常だった。
他人から見れば、そんな悩みなど、小さきことであるだろう。
駆にはそのことに対しても、自分を卑しめてしまう一因になっていた。
小さな悩み、そう、自分よりも苦労をしている人はいる。病の重さも、自分よりも重度の人はいるだろう。
だから、そんなことで悩む必要などないはずだ。
それでも悩んでしまう自分は、本当に弱い……。
弱いという言葉が、駆の胸の底へと沈んでいく。
それが沈めば沈むほど、奥の方でじんわりと冷たく染みていくのだ。
自分はだめだ。情けないやつだ。どうしようもないやつだ……。
「ほんとどうしょうもないよ!」「弱い! 弱いなあ!」「ギャハハハ!」
電車内で生じた騒がしい話し声が、イヤホンをする駆の耳と耳の間を通っていった。
――空耳アワーだ……。
いつものように冗談めかすが、頭を垂れつつ、微苦笑を浮かべる。
旅の疲れもあってか、今回はそのワンクッションに、声の打撃をやわらげることができずにいた。改めて考えてみると、某有名テレビ番組から盗んだ、面白味のない言葉と、傷つくばかりの自分に自嘲するほかなかった。
帰宅ラッシュともあって電車内は混んでいた。
沢山の人が駆を見下ろしているようで、誰もが自分よりも強く、立派に見える。
浅はかな比較にさらに自分は奈落の底へと堕ちていく……。
だめだ。自分はだめなのだ……。
翌日は朝から雨が降った。
駆は、先日早苗から言い聞かされた事柄を確認するために、通っている心療内科に連絡を取った。
その日は火曜日で、診察も空きがなかったため、二日間の休診日を挟んだ金曜日に予約を取った。
昼食は茹でたパスタに、市販のソースをかけるというだけの簡素なものだった。
食べ終わると、スマートフォンで、ネットの掲示板を見ていた。たまに閲覧するまとめサイトだった。
ある芸能人が乳がんで、余命間もないという記事に、死を急かすかのような悪辣なコメントの書き込みを何とはなしに読んでいる最中、スマートフォンが鳴動した。
勇三からの報せだった。
〈昨日言うの忘れてたけど、りゅうさんのお子さん、生まれながらに病気を持ってるみたいだね。肺かどこかが弱いって言ってたよ〉
――ざまあw――
返事を保留にして、コメント欄を再び眺めていた駆の目にその言葉が入り込んだ。
――早く死ね!――
そんな罵詈雑言が文字として、ネットのコメント欄に散乱していた。
便所の落書きと呼ぶにふさわしい言葉が、勇三が知らせてくれた友人のある不幸と重なって、駆の頭の中がもやもやし出した。
そんなことを書き込める人間が、この世界のどこかにいるのだ。
それは自分も同じか、と誰もいない部屋で嘲笑する。
芸能人なんて赤の他人に過ぎないが、例え自分と関わりがないとはいえ、重篤な病を患った人物の死を煽ることは、罪を犯しているのと同じはずだ。駆は自分を冷たく弱い人間だと思い込んでいた。そんな自分も、そういった連中と肩を並べるにふさわしいのではないか、と思うのだった。
それでも自分はひとりだ。あの夕暮れ時の教室に取り残されたまま、声に悩み明日から向こうの見通しがはっきりせず、ただ友人の不幸にネットの書き込みが代弁しているような気がして、余計、ひとりにさせるのだった。
勇三へは、無難な言葉で返しておいた。
〈そっか。そりゃ知らなかったな。大変だなりゅうくんも……〉
再びスマートフォンが鳴動する。
母からの電話だった。
突然の電話に、駆の第一声は問いかけになった。
「どうした?」
母は女性にしては太目な声色をしていた。
「仕事見つかりそうかい?」
「あんまり……」
「早いとこ見つけないとまた大変だぜ?」
「今度病院に行くから、そのついでに職安に行ってみるよ」
「病院て、また調子悪いの?」
「月一で通ってるからね」
「そうかね」
一弾指、間が空いた。母の明るい口調が、スマートフォンのスピーカーから聞こえてきた。
「こっち帰ってきたら?」
「いや、伊豆の方には帰ったんだけどね」
駆の両親は名古屋に住んでいた。数年前に営んでいた保養所が先行かなくなり、保養所を管理していた名古屋の保険会社から、幸運にもお呼びがかかり、引っ越したということだ。
伊豆には昔過ごした住まいがあったが、早苗の用事を優先したために、立ち寄る時間もなかった。
「何しに帰ったの?」
「ちょっと野暮用でね。友達に顔出しといた」
誰? との母からの問いに、駆は勇三と伝えた。
「ああ、勇三くんか」
親がらみの付き合いもあり、そのせがれとも顔見知りだった母はそう驚いてみせた。
「恋人ができたみたいでね」
へえ、と受話器の向こうで笑っているようだ。
「結婚も考えてるんだってさ」
「すごいね」
「何か出し抜かれた感があってね……」
「あんたも頑張ればいいじゃん」
「頑張る、か……」
嘆息を一つつく。
その態度で母は理解したのか、
「あんまり結婚とかする気ないかね?」
どうにも答えづらい質問だった。駆自身、漫画の専門学校に入らせてくれた親を前に、それ相応の結果を得られていないという親不孝者であるという思いがあった。勇三のときは心安い間柄でもあったので、そういう話は出来たが、実の母親にあまり人生の行く末を左右するような話は避けたかった。
「何て言うか、せっかく夢見て東京来たから、なるべく夢を叶えたいって思いの方が強いのかもな。このままそっちに移住する形になっても、後悔しそうだし」
「まあ、あんたの人生さ。何でも好きなことしな」
「何か悪いね。そっちにもなかなか帰れない状況続いてるし」
「また仕事始めたら、帰ってくれば?」
そうだね、と一言返事をした。
その後十分ほど電話は続き、切りのいいところで通話を終えた。
母も父も、高齢になってきていた。
通話を終えた駆は、しんと静まり返った六畳分のスペースのあるフローリングの部屋を見て、この先、上手くやっていけるか、将来に薄く影がかかっていることに、心細さを覚えた。
――夢を叶えるって言ってもなあ……。
結婚を放って漫画を描くことに夢中になれることがあれば、のんだくれになるよりもまだましだと言える。だが、はっきり言って、賭け事をやっているのとそう大差ないのではないかとも思っていた。
自分の少ない財産が減ることはないものの、心血を注いでできたものに人生を賭けるのも博打と同じような気がする。
本当はこんなにのんびりしている場合ではないのではないか。
それはごくごく当たり前の疑問に違いなかった。
そんな甘さを改めさせることもないまま、二日が過ぎた。
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