さきゆき①
駆を乗せた早苗の軽自動車は、自然に恵まれた山の中腹を、延々と走った。
坂道をいくつも上がった気がしたが、やがて脇道に入り、細い路地を走行した。
はて、どこかで見かけたような景色である。
紹介したい人がいると早苗は言っていたので、行き先はその人物であると見ていいが、この舗装された車線のない道は見覚えがある。
やがてたどり着くと、短い坂道が横にそれ、その先に木造の古めかしい家屋があった。
「着いたわ」
早苗の一言に、我が目を疑う。
――勇三の家だ……。
二人して車を降りると、エンジン音にでも気づいたのか、家の中から出てきたのは、頭を短く刈り上げた、黒いダウンジャケット姿の勇三だった。
「おお、かっちゃん! 久しぶりだなあ!」
言いながら坂を降りて近づいてくる勇三を見て、駆は懐かしい気持ちになった。
「ゆっぞ! この間はありがとな! おかげでこうして先生と会えたわ。……会うのは高校以来か?」
「だっけ? いやあ何かあまり高校の時と変わらんね……」
「ゆっぞも変わらないねえ……」
「さなちゃんも一緒か!」
勇三は早苗に向かってそんな言い方をした。
「さっきラインしたもんね」
早苗のその返しかたに、駆は頭を傾げそうになった。
「先生、紹介したい人ってこいつなんですよね?」
「そうだよ」
「ああ、そうそう、まだかっちゃんには言ってなかったか」
勇三は、早苗の肩に腕を回した。一見、軽率な行動に駆には見えた。無遠慮に女性に密着するとは、勇三もそういう人間に成れ果てたか、と思ったのだが――。
「俺たち付き合ってるんだ!」
勇三は高校の時、モデルガンの知識を延々と話すことがあり、今吐いた台詞もどことなくそれに似ていた。本人にはその気はないかもしれないが、高校の頃みじめな思いをしてきた勇三が今になって自信をひけらかすかのような、そんな言い様だった。
おおー! と、駆はさも嬉しそうに拍手をして見せた。友人の幸福は自分の喜びと同じというように、必死にいい友人を演じてみせた。
実際は、置いてけぼりを食っていた。
固い友情で保たれていたのではなかったか……。
まるで、幸せを出し抜かれたかのような気分だった。
久方の対面に積もる話もあるだろうと、早苗は気を回してくれたようだった。勇三の母親と話があると言うのだ。
そろそろ東京へ帰ろうかと考えていた駆は、そのことを二人に伝えると、勇三が送っていくよと、言ってくれた。
早苗の乗ってきた車に乗り込む。助手席に座った駆は、シートベルトを締めながら、
「親も知ってる仲なんだね」
勇三はハンドル横のスイッチを押し、
「互いの親が知ってる仲さ」
車がエンジンを吹かす。
車の横にいた早苗に、挨拶を、と駆は窓を開ける。
「先生、ありがとうございました」
「いえいえ。また会いましょ!」
「ご家族によろしくお伝えください」
駆は言って手を振ると、車は来た道を戻っていった。
「ていうかさ」
勇三がハンドルを握りながら、
「先生はもう先生じゃないんだ……」
言っている意味が判然としない駆は、勇三の次の言葉を待った。
「平日なのに、家にいる先生に違和感感じなかったか?」
「ああ、そっかあ」
「さなちゃん、以前ちょっと生徒の親と一悶着あって、それが原因で辞めちゃったんだ」
付き合っているだけあって、詳しいなと駆は思い、
「いつから付き合ってたんだ?」
「高校卒業して、俺も一時期東京に住んでたんだけど、二、三年くらいして戻ってきてさ。さなちゃんとは高校卒業以来、たまに連絡取り合ってて、さなちゃんが辞めたときに話聞いてたりしてたわけよ」
「それで、恋が芽生えちゃったと……」
そういうこと、と勇三は言った。勇三は続ける。
「かっちゃんも、東京でいい人いた? 東京でなくてもさ、好きな娘とかできただろ?」
「いたにはいたんだけどね」
駆の脳裏に早苗の顔が浮かぶ。
「当分は恋だのなんだのって話はいいかなって……」
「そっかあ」
勇三は本当に残念そうにそう呟いた。駆にとっては、勇三のそれは笑みを浮かべ、普通の人間ならば本当に残念に思っているように見えるのだろうが、どこか嫌味を含んでいるように感じた。
「かっちゃんなら、いい人見つかるよ」
「ああ」
「浩ちゃんも、りゅうさんもみんな人生を謳歌中だ。浩ちゃんは書いた小説が銅賞とって、今度小説家デビューするんだって。りゅうさんはすでに結婚して、子供が一人いる。マイホームも買って、俺たちの中じゃ一番順風満帆!」
「そっか……」
勇三のみならず、駆の高校時代の友人たちは、どんどん自分の人生を突き進んでいっている。駆は、返事を短く返しながら、ふと自分だけが高校の教室に取り残されている気がした。
それにしても、あの劉司が結婚して家も買うとは……。これこそ現代人の当然の営みのように思えてならない。
「結婚してたっての知らなかったな……。なんだ、みんな俺の知らないところで集まって祝ってたってのかよ」
「ああ。何か俺も言いにくいけど、ごめんね、かっちゃん……。りゅうさんが結婚するとき、俺も浩ちゃんもこっちに戻ってきててさ。一人暮らしの経験上、かっちゃん的に金銭面では無理があるだろうって、りゅうくんなりの気遣いだったんだ」
――気遣いねえ……。
その分祝儀などでの出費は抑えられたからよかった。であれば、劉司の心くばりはいいことであるはずなのだが、駆としてはどこかすっきりしない。
勇三は追尾するミサイルのように、虚を見つめるだけとなってしまった駆に明るく話しかける。
「恋愛っていいもんだぜ? 俺も好きだった銃よりも生き生きとした人生を送れてるから!」
「へえ」
「かっちゃんは、あれか? 交際そのものもしたことないんだっけ?」
「まあ……」
「結婚の願望とかある?」
「いや」
「まじか?」
「今無職だしな」
「そっかあ」
ミサイルが全て命中していった。
結婚という言葉が、この人生の途上、生乾きの衣服のように居心地悪い感触でまとわりついてくるとは思いもよらなかった。
曽屋駆、三十二歳。もう自分は大人であり社会人だ。高校の教室にぽつねんと一人、黄昏れるのもいい加減卒業しなくてはならない。
そうだとしても駆は、ただひとり孤独を感じていた。
勇三にはかすれ声でこう答えておいた。
「結婚は、何か俺にはハードル高いな。人を好きになる以前に、疑っちゃうんだよな。自分と他人を」
これまでの経験から、仲良くなってもまた陰口を言われてしまうのかもしれないという懸念があった。
せっかく心が通じあえても、言われてしまうことは、駆にとってある種の裏切りに近い。
それが病の症状だとしても、伴侶となる相手と、二人して人生を歩んでいくということが、駆の中で上手くイメージできないのだ。
病のことを話すのは、勇三には伏せていた。
「疑っちゃうって、かっちゃん、そんなに人間不信だったっけ?」
「まあ……」
どことなく、会話することに抵抗感があった。
幸福を知らせてくれたことで、嫉妬心が芽生えなかったというのは嘘になる。病を告白したとして、勇三からこれ以上の追撃を被らないための防御でもあった。
そのため、極力二文字の言葉ででしか反応せずにいた。
――うっせえ、ボケ!
胸中で吐き捨てると、勇三の話はまだまだ続いた。いやが上にも逃げようとする駆の背中を追跡するかのようだ。
「結婚しようと思っててさ。さっき俺の母に話すって言ったのも、それがらみみたいでさ」
「ほう」
「まあでも、不安でもあるかなあ。結婚がゴールってわけじゃないしさ。そっからが大変なんだよね」
「うん……」
きっと勇三は、幸せなことが続き充実しているのだろう。声からして、元気がみなぎっている感じはするし、一方的に話し続ける様子を見てみても、駆には十分幸せそうに見えた。
心底、羨んだ。
無職である現状、そして声や劣等感に悩まされている現段階では、羨ましがる以外になく、自分の不出来さが性格を歪ませていた。
車中、そうした話に終わりがないように見え、会話を発展させたくなかった駆は、徹頭徹尾、相槌を打つだけにしようと努め、勇三の方に視線を送らないようにした。しかし、一度だけある質問を勇三がしたことで、駆はある持論を述べた。
「漫画家の夢はどうすんの? 俺なんかは上京してすぐ夢が打ち砕かれた感じだけど、かっちゃんとしてはそこらへんは?」
「わからん」と駆はそう述べると、
「夢っていうのが現実の陸続きなような気がしてな。その分叶えられるかもっていう望みも出てくるんだけど、プロになったらなったで大変だぜ? 面白い話を描き続けなくちゃならない。当たり前のことだけど、それと独り暮らしして思い知ったのがメンタルの弱さ? 今でさえそんなことに嘆いているのに、プロになったらもっと嫌な目に遭いそうでさあ」
「プロになる前からそんなことで悩むの?」
「事前に情報収集するのも、嫌な目にあうことの防御壁になると思って。気付いたんだよ。夢も叶えてしまえば現実なんだって。憧れたり夢見たりするのもいいけど、飛び込んでみれば厳しい現実が待ってるんだ……」
だとして、駆は自分がどの場所に着地するか、自分の考えをここで述べても、都会を彷徨うような状況に変わりはない。
一つのことに結論を見出せても、それは枝葉のようなもので、幹や根っこの部分は保留にするしかなく、それは路頭に迷っているのと同じような気もした。
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