彼女の名前



 一瞬時が止まったような感覚がした。

 彼女が消えた・・・?

 どこに?

 俺はあまりにも彼女のことを想い過ぎて、幻覚でも見たのだろうか。

 ふと写真フォルダを開く。そこにはたった今撮った写真、それといつもいつも眺めている写真がある。

 俺と、シクラメンの写真・・・。

 絵に近寄る。

 右下に「C,to S」というサインを見つけた。


 イーゼルには細い筆が一本置かれていたから、彼女の真似をしてそっと手に取ってみる。

 『TAKAHARA CHIHUYU』のネームシールが貼ってあった。


 「C,」というのは、CHIHUYUのサインだろう。

 

 俺はまたあの写真を見た。やはり俺とシクラメンしか写っていない。


 彼女に会えるのは今日が最後のようだ。

 自然にそう感じた。

 けれどずっと聞きそびれていた名前を知ることができたのだ。

 「たかはら ちふゆさん・・・」

 彼女は騎士のペンダントを受け取ってくれていた。

 やはり彼女に似合っていた。

 「to S」とは、佐藤のS、俺のことだったらとても嬉しい。

 

 彼女の命が込められている油彩画。

 納得がいくまで描き続けたかったのだろう。

 やっと、終わったんだ。そんな気がする。

 俺と彼女は、深まっていく秋の夕刻を時々共に過ごし、絵の具が塗り重ねられていく様も共に眺めていた。それだけは確かだった。

 

 そして、さよならをする時が来たようだった。


 俺はその絵から目を離したくなかった。

 ずっと覚えておこうと必死に目に焼き付けておくために。先ほど引いたはずの涙が今度は次々と流れていく。

 潤んだ瞳の中でも、彼女のシクラメンはやはり鮮やかだった。


 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

油彩画 @estela

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る