ノーマルエンド
大宮コウ
ノーマルエンド
五歳の頃、僕の母親はいなくなった。
前触れはあったかもしれない。予兆だって、気づかなかっただけかもしれない。いずれにせよ、彼女は誰に何の言葉を残さずに姿を消してしまったのだ。
以降、僕は父親と二人暮らしが始まる。しかし、そもそも僕と父親との間に血縁関係はない。僕が母親の連れ子であると、酒で酔った父親に話されたのが小学校四年の頃。
それから六年。僕は実質的な一人暮らしをしていた。父親は、僕をマンションに一人残し、数年前から仕事で別の県へと出張している。
出張というのは口実でしかない。いや、本当に出張であるのかもわからない。彼と最後にはなしたのはいつだったか。
僕は、諦められていた。
時計の針は午前七時。予定通りの時間。目覚ましの音はつけていない。騒音紛いのあの音が嫌いだからだ。
いや、目覚ましだけではない、この世のあらゆる音が耳障りだった。
眠っている間に外れていたヘッドホンをつけなおす。鳴りっぱなしの音楽が耳を貫く。名前も知らない音楽だ。インターネットに違法アップロードされた動画を、違法ダウンロードした曲。そんなものでも、至る所で無秩序に鳴る音よりはよっぽどマシだった。
ベッドから抜け出す。トースターで食パンを焼いている間に顔を洗う。焼けたパンを、何もつけずに口に押し込む。牛乳で飲み干す。
制服に着替える。荷物を確認して、家を出る。
何度も繰り返した流れだ。
でも、外に一歩出た瞬間、今日は少し違う気がした。
熱気だ。春の陽気とも違う、五月の日差しだ。
空が抜けるように青い。一足早い夏が迫っていた。
さりとて代わり映えもない。いつものように、俯いて階段を降りる。このままアスファルトを視界に入れて、ヘッドホンから流れる音に耳を傾けていれば、いつの間にか学校に着く。
そのはずだった。
強い風が吹いたのだ。
視界の片隅に、異物がちらつく。僕は顔をあげた。
――季節外れの桜が舞っていた。
白いそれは、僕の方へ身投げするように落ちてきていた。
僕は、それを手に取った。落ちてくるのが思ったよりも早くて、半ば反射でもあった。
掴むのは容易だった。だって、桜と言うには大きくて長すぎるのだ。白い長い布。ごわごわとした表面。
そして、黒。
黒い染みがついていた。白と黒の縞になっている。
包帯、だろうか。
もう一度、顔を上げた。マンションの四階の手すりから、身を乗り出している少女がいた。ショートカットの、学生服を着た少女だ。
この布は、きっと彼女のものだろうと思った。
直感みたいなあやふやなもので判断したのではない。その少女には、明確な特徴があった。頭と腕に包帯を巻いているのだ。事故にでも遭ったのだろうか、とでも思うような大仰な巻き方だった。
驚いたようにこちらを見る彼女は、あわてて階段へと向かう。
待つこと数十秒。
息を切らして、彼女は僕のところまで降りてきた。
近くで見ると、不健康そうな少女だった。やたらと白い肌に、折れてしまいそうな細い身体。
布を差し出すと、彼女はおそるおそる受け取る。包帯を、つけていなかったほうの腕に器用に結び直した。
それから。
彼女は扉の前から動かない。口を噤んだまま、顔色を伺うようにこちらを見ている。
まだ用があるのか、と不思議に思うが、何か話したいのだと気づいた。仕方なく、ヘッドホンを取る。
雑音から雑音へ。より耳障りな音に目を細めてしまう。
だから、一言だけ聞いたらヘッドホンを付け直そうと思っていた。
「ありがとうございます、その、取っていただいて」
澄んだ声、ともいうのだろうか。ノイズを感じさせない声だった。
環境音だけではない。僕は人の声も苦手だった。そのはずだ。
だから彼女に尋ねてしまったのも、その声のせいだ。
「その怪我、どうしたの」
問えば、彼女は慌てて腕を隠す。
「これは、その、わたし昔から不注意で……」
「……まあ、気をつけなよ」
「はい……あの、ありがとうございました」
再度礼をいってから、道路を小走りで駆けていく。
その後ろ姿を見送って、僕も同じ方へと歩き出す。
「同じ学校、だったな」
彼女の制服は、僕の通う高校のものだった。
とはいえ、関わることがあるわけでもない。ヘッドホンを付け直す。ノイズを耳元でまき散らす。
ほら、もう彼女の顔も思い出せない。
けれども、瞼の裏に残るものがあった。
結び直した包帯の下、そこには不注意ではたとえきれないほどの傷痕があった。
保健室に向かっていた。
頭痛がひどく、まともに授業を受けていられなかったためだ。
休み時間は、一人でヘッドホンをつけてさえいればいい。ゆるい教員の授業なら、隠れてイヤホンをつけていても注意されることはない。
先ほどまで受けていた日本史の教員は、僕が受けている中で一際厳しい教師だ。ひどく耳障りなダミ声で、やたらと騒音をまき散らす。
おまけに今日は何か悪いことでもあったのか、始終不機嫌そうな声だった。
授業が終わると共に、ヘッドホンを手に廊下を駆ける。次の授業には遅れるが、よくあることだとお目こぼししてもらっている。
保健室には養護教諭はいなかった。そんなときは、多少待っていれば来る。
扉を閉じると、喧噪は遠くなる。学校ではない隔絶した空間にいる気がして嫌いではなかった。
だから、そう、油断していたのだ。
まさか、先客がいるなんて夢にも思わなかったのだ。
ひと目をやった先で、先客と視線が交わる。
保健室の奥、入り口からは死角の場所に彼女はいた。
彼女は口を閉じては開く。違う。僕が聞こえていないだけだ。
僕はヘッドホンを外す。
彼女が再び口を開く。
「朝の人……ですよね」
「ああ、うん」
「同じ学校だったんですね」
気づいていなかったのだろう。心底驚いていた。男子の制服は、シャツと黒いズボンだ。慌てていれば、気づくはずもない。
彼女は椅子に座って、包帯を巻き直していた。
生々しい痣が、その存在を主張していた。
「……痛そうだね」
「え……?」
「その傷だよ。どこでどう怪我すればそうなるの?」
こんな怪我をしていて、普通に学校に行っているのが信じられない。病院にでも行くべきだろう。もしくは行ったあとなのか。
「え……と……」
「ああ、ごめん。聞かれたくないことだった?」
「い、いえ、そういうことじゃないんですけど」
「そう? まあ、いいよ。別に気になるわけでもないし」
沈黙。
とっさに話しかけてしまったが、話が続くはずもない。やはり、慣れないことはするものではないな、と心の中で嘆息する。
授業開始のチャイムが鳴る。
「行かなくていいの?」
「……あ、はい!」
ぼうっと、なにか白昼夢でも見ているみたいに、心ここにあらずの彼女。気づいていなさそうだったので教えてやれば、せっせと包帯を巻き直し、椅子を立つ。
「あ、あの」
扉に手をかけたまま、彼女はこちらを向かずに、声をかけてくる。
怪訝な目で見ていれば、彼女は口を開く。
「放課後、お話したいことがあるんですけど、お時間よろしいですか?」
「え……うん、大丈夫だけど」
深く考えずに、返事をしてしまう。返事を聞いた彼女は保健室を出て……ちょうど入れ替わるように、養護教諭の女性が入る。
「あ、またお前?」
「ええ、まあ、すいません」
養護教諭の先生には、僕の保健室通いは一年の頃から知られている。呆れたような顔をされるのが常だ。
「今日も頭痛薬?」
「あー、いや、なんか治ったんで、いいです」
「そう……ねえ、話し声が聞こえてたけど、さっきの子とは知り合い?」
「さっきで会ったのは二度目で、三度目に会うのは放課後の予定ですね」
「へえ、そうなの」
色々な意味が込められているような気がする「へえ」に聞こえた。
「ちょっと変な子だけど、仲良くしてあげてね」
「変? まあ、包帯ぐるぐる巻きだから、不思議な子だとは思いましたけど……」
返答に対して、彼女はいうべきか、いうまいかと悩んだそぶりをして、結局口を開く。
「あの包帯の下、何もないのよ」
下駄箱で待っている彼女を見たとき、それが彼女だとは気づかなかった。包帯をつけていなかったのだ。僕にとって、彼女の特徴そのものだ。であるにもかかわらず、彼女の姿は目を惹いた。
包帯に隠されていたもの。それは摺り痕、切り傷、火傷痕、打撲痕。数々の傷痕の展覧会。赤に塗れた肌を持つ彼女は。伏し目がちに、けれども凜と立っている姿は。
そう、綺麗なものに見えたのだ。
僕でなくても目を向けてしまうに違いない。そう思った。
にもかかわらず、誰も気にするそぶりはない。
行き交う生徒も、教師も、彼女になんて目もくれていなかった。
不気味だ。不気味な光景だ。
僕の感じる違和感にかまわず、こちらに気づいた彼女は駆寄ってくる。
「待たせたか?」
「いえ……あの、帰り道、ご一緒していいですか?」
「……ああ」
一緒に帰りを歩く。速すぎず遅すぎず。つまりは普通程度の速さで。
並んで歩いて、帰路を進む。
彼女は時折顔色をときおり伺うだけで、何も話さない。だから僕も、すぐにヘッドホンを付け直して、無言で歩く。
一緒に帰る人間がいること以外、変わらない帰り道。
何が起きるわけでもない。
当然、何も起きなかった。
マンションの前に着いた。
僕は、ヘッドホンを外した。
僕は、彼女に向き直る。彼女も僕を前にする。やたら長い、目元までかかった前髪の隙間から、答えを求めるようにじっと見つめられた。
「わかりましたか?」
「……つまり、見えてないんだな。お前の傷は」
僕の解答に、こくり、と彼女は小さく頷いた。
彼女からの出題は正解というわけだ。
つまるところ、彼女は気づいてもらいたかったのだ。僕からもう一度言及して欲しかったのだ。
僕は彼女の傷痕が見えると。
彼女の傷は、他の誰にも見えていないと。
だって、確かにそこにあるものがないのだといっても、到底信じられることではない。それこそ実際に経験してみなければ、あり得ないことだ。
「私のこの傷痕は、私以外の誰にも見えないんです……どうしてかは分かりませんが、あなたにも見えるみたいですけど」
「で、それを教えて、僕にどうして欲しいんだ?」
「……どうしてもらいたいんでしょうね、私」
しらんがな。
と返すわけにもいかないだろう。
返す言葉も見つからず黙っていれば、彼女はゆっくりと口を開いて、言葉を繋げる。
「これまで、これは、私にしか見えないものだったんです。ないものをあるものだと、私が思いこんでいるのかも、なんて思っていました」
「もしかしたら、僕もお前も頭がおかしいのかもしれないよ」
「そうかもしれません。でも、見えているのが一人じゃなくて、二人なら、きっとそこには意味が有るんですよ。そう思いたいんです。だから――」
急に言葉を止めた彼女は、ひらめいたみたいに、目を瞬かせる。
「あ、気づきました。私、嬉しいみたいです……この傷が見える人が、他にいて」
「嬉しいんだったら、表情を少しくらい変えてくれ」
「あんまり顔を動かすと、痛いんですよ」
「……そうか、悪い」
「いえいえ、気にしないでください」
そう返す彼女の口元は、小さく笑っているようにも見えた。
「あの、この怪我のこと、誰にも言わないで欲しいんです」
続く彼女の言葉は、一見矛盾していた。
見えない傷なのだ。だから、誰にいっても意味なんてないはずだろう。
疑問に思う僕に気づいたのか、彼女は言葉を続ける。
「これまでは、誰にもみえなかったのかもしれません。でも、もしかしたら貴方が見えるという認識を他者に共有したとき、他の人に見えるようになるかもしれないじゃないですか」
「いいじゃないか、とっととみんなに見てもらえるようになって、病院でもどこにでも行けば」
「あなたには、私の身体は傷だらけに見えると思います。でも、他の人たちにとっては違うんです。私は傷だらけでも、かわいそうでもない、普通の女子高生なんです。心配されることも、騒がれることも、嫌なんですよ。ほら、面倒じゃないですか。もしこの傷があるんだったら、見えないままのほうが楽ですから」
「僕には見られているのに?」
「あなたは、特例で許します」
「なんだそれ」
怪我を知られたくない。その気持ちは理解できずとも、推察はできる。親にいじめを隠すいじめられっ子のようなものか。
僕と彼女にとっては見えるが、周りの人間にとっては、傷跡も何もないのだ。
もっとも、それはそれで弊害があるだろう。たとえば、怪我をしていないのに包帯を巻く変人、という風に見られたり。
結局のところ、独白する彼女の内心はわからない。なにせ、出会ってまだ一日とも経っていないのだ。
他人である彼女が決めたことに対して、僕がいえることはひとつだけ。
「……僕はお前のことを知らない。だから、お前がそれでいいなら、僕はいいよ」
「そう言っていただけると、助かります」
「代わりに、条件がある」
僕の言葉に、彼女は顔を上げる。
傷痕だらけの顔だった。彼女は、どうして誰にも見えないのに、包帯で隠しているのだろうか。何によって傷つけられたものなのだろうか。
数々の疑問が湧く。でも、それは僕にとっては重要ではない。
「たまにでいいから、お前と話したい」
「もしかして……いま、口説かれています?」
「……そういうことじゃない。ただ、」
ただ……なんだろう。自分はどんな言葉を繋げるつもりだったのか。
普段、人と会話しないせいで少ない語彙の中で、適切な言葉を探す。
「お前の声が、嫌いじゃないんだ」
「やっぱり、口説いてるじゃないですか……いいですよ。私と先輩、二人だけの秘密ですからね」
彼女の透明な声に、明かりがついた気がした。
気のせいなのかもしれない。次に口を開いたときには、元通りになっている。
「えっと……先輩って、先輩ですよね?」
「なんだ、そのトートロジー」
「使っていた下駄箱の位置からの妥当な推測なのですけれども。あ、ちなみに私は一年生です」
「予想通り二年だよ、一年」
「なら、先輩と呼ばせてもらいますね。名前は聞きません。そっちの方が、面白そうなので」
「勝手にしてくれ……というか、思ったより口数、多いだな」
「先輩は、こういう後輩は嫌ですか?」
「……嫌いじゃない」
「またそういう。私も、先輩のこと、嫌いじゃないですよ」
声音は平坦。何を考えているのか読めない声。
でも、彼女と話すことは思いのほか楽しかった。それは確かだった。
「じゃあ、また明日、ここで、会いましょう」
「ああ……また、明日」
ぱたぱたと手を振る彼女を見送る。
彼女の傷が何であるのか、聞いていないことに気づいた。
彼女の声を聞くためには、必然、ヘッドホンを外さなければならない。身の回りの雑音の不快さに耐えるのも、必要経費だと思っていた。
けれど、意外にも意識がそちらに向くことはなかったのだ。
「私、実は魔法使いなんです。夜な夜な悪霊と戦っているんですけど、そのときに受けた傷は一般人には見えないんです……というのはもちろん冗談ですよ、冗談ですって。だからそんな面で見ないでくださいよ」
朝。登校中の会話。
傷について尋ねると、つらつらとその場で取り繕ったような妄想をあげられた。
「言いたくないなら、別にいい」
「そう言ってくれる先輩のこと、私は嫌いじゃないですよ」
何を気に入ったのか、昨日のこちらの言葉をやたらと真似してくる。
ことあるごとにするものだから、多少の恥ずかしさが出る。まともに取り合ってはいられないので、話を続ける。
「なあ、それって痛くないのか?」
「痛いですよ」
いつもより、はっきりとした声だった。
その鋭利さに、言葉を返すことが躊躇われる。しかし後輩はといえば、気にした風もない。包帯を巻いた顔は冷涼そのもの。
「痛いです。じくじくして、ひりひりして、いまも痛いです。お風呂に入る時はいつも慎重に入ってますね……あ、変な想像、しないでくださいね?」
「うるさい……なにか、僕にできることはあるか?」
「……急になんですか。変な先輩ですね。ひょっとして、私のこと好きなんですか?」
「勘違いするな。そんなんじゃない」
「そうですよね。先輩は、私と話していたいだけ、ですもんね」
彼女は意地悪くいうけれど、そこに毒のようなものは感じられない。じゃれているだけ、という気もする。
彼女の声に、耳を傾けていられるのはこれのおかげだろう。声に不快さを感じない。だから聴いていることができる。
「じゃあ、代わりに私から質問なんですけど、先輩、いつもヘッドホンつけていますよね。どうしてですか?」
聞かれて当前の質問が来た。僕にとっては、何度されたかわからない質問だ。
僕が彼女の傷について疑問に思うことが当然であるように、彼女も僕のこれに疑問を持つのは当然だ。
不快に思う必要もない。隠し立てスル必要もない。ただ、事実を述べるだけ。
「音全般が苦手なんだ。医者には聴覚過敏って診断された。誤魔化すためにつけてるんだ」
「……それは、先輩にとっての包帯だったんですね」
彼女の喩えは、特に深い意味はなかったのだと思う。
けれど、自分の中でなにかが腑に落ちた気がした。
あるいは、だから彼女が他の人と違って接することができるのかもしれない、だとか。
かたちは違えども、同類だから気兼ねする必要がないと錯覚してしまうのだ。
「そう、なのかもな」
「あ……えと、私がこうして話しかけているのも、ひょっとして嫌だったりします?」
「だからいってるだろ、お前の声は嫌いじゃないって。というか、むしろずっと話していてくれ。お前が話している間は気が紛れるけど、黙られると耳障りな音が戻ってくるんだ」
率直な意見を伝えたのだが、彼女はなぜか口をとがらせていた。
「……なんだよ」
「お前って呼ばれるの、なんか、いやですね。上からっぽくて」
「そっちか。といっても名前も教えてくれる気もないんだろ?」
「ミステリアスな方向で売り出し中なので」
「まあ、確かに包帯だらけの女子高生ってのはミステリアスだけど……なら、後輩、とかでいいか? そっちは先輩呼びだし。おそろいだ」
「……先輩が、それでよいのでしたら」
「不満があるならいってくれ」
「いえいえ、ぜんぜん何にもないですよ」
当たり前のように話していた。不思議なことだ。出会ったのは昨日なのに、まるで数年来の友人を前にしているようだった。
そんなものはいないのだけれど。そんな風に思えるほど、気安くはなすことができていた。
彼女と話していたら、いつもは長い道も、またたく間に校門前に着いてしまった。
「じゃあ……また放課後か?」
「あ、それなんですけど、先輩、お昼は空いていますか?」
「……なんか用か?」
「お昼ご飯、一緒にできたらな、と」
おずおずという彼女。身長差もあって、上目遣いで様子を伺われているように見える。
いつもより殊勝な気がする態度に、調子が狂う。
か弱げな雰囲気に、「仲良くしてあげて」といった養護教諭を思い出した。
怪我もないのに包帯を巻いてる少女だ。教室では浮いてしまうか。
さりとて、僕も同類みたいなものだ。友人がいるわけでもない。
「……まあ、わかった。それと、なんだ。もしかしたら、用事ができるかもしれないし、遅れるかもしれない。だから……」
歯切れの悪い言葉では要領を得なかったのだろう、後輩は首を傾げていた。察しの悪い彼女に、不承不承の一言。
「連絡先、教えてもらえるか?」
「え、あ、はい」
僕の頼みに、彼女は慌てて鞄を漁り出す。あわあわと掘り返している。
中学生でもしないような初心な反応に、尚更恥ずかしくなってきてしまう。
彼女が取り出したのは、いにしえの産物。タッチパネル式ではない、閉じて開く、いわゆるガラケーだった。
「久しぶりに見たな……まだそんな骨董品使ってるのか」
「道具は、使えるならそれでいいんですよ」
中庭のベンチにて昼食を食べた後。
余った昼休みの時間に、彼女が頼み事をしてきた。
「そうだ、先輩。手、貸してくれませんか?」
「……いいけど、変なことはやめろよ」
「しませんって……あ、ちょっと待ってください」
しゅるりしゅるり。
彼女の布が解かれていく。彼女の傷痕が、露出していく。
その光景が、なにかいけないものでも見ているような気がして、目を背けてしまう。
「先輩、どうかしましたか?」
「いや、別に。で、どうすりゃいいんだ?」
「えーっとですね……頼むの、少し恥ずかしいんですけど」
「なんだ」
「……なでてもらっても、いいですか?」
なでる。
どこを、とは考えるまでもない。彼女の傷の部分だろう。
「……どこをだ?」
とはいえ、場所が多すぎる。ただでさえ傷だらけなのだ。もしかしたら、彼女の服の下にだって隠されているかもしれない。
無確認で触れてしまえば、セクハラそのものだ。
「えっと、じゃあ、腕をお願いします。手、借りますね」
有無を言わさずに、手を引かれる。彼女の腕に誘導される。
僕の手が彼女の肌に近づいて。
傷痕に、触れた。
感じたことのない手触りだった。生き物の生ぬるさと、無機物めいたでこぼこの肌触り。按撫する。彼女の肌の凹凸に触れるたび、傷痕は確かにそこにあるのだと実感する。
しばらくそうしていると、声が聞こえてきた。互いに無言でいたせいだ。周囲の声が嫌でも耳に入ってしまう。
周囲の声は、僕らの行動に対するものだった。つまりは、周りにいる人間が見られていることに気づかされた。
そのせいで、相当こっ恥ずかしいことをしていることを自覚する。
ちらりと、後輩を見る。心地よさそうに目を細める彼女は、気づくどころか想像さえしていないようだ。
水を差すのも気が引ける。まあ、僕が我慢すればいいだけだ。
結局その日の昼休みは、彼女の腕を撫でさするだけで終わった。
「ありがとうございました。また、やってくださいね」
「……こんなことでいいのか?」
「はい。これだけで、いいんです」
「先輩、遊びに行きましょう」
不思議な少女と登下校を共にするようになってから、ひと月。授業が午前中で終わる日。
後輩から、そう提案された。
「あんまりうるさいところは、無理なんだけど」
「なら、人があまりいないところですよね。もちろん、それもちゃんと織り込み済みですよ」
彼女と共に向かった場所は、駅だ。ICカードを通して改札を抜ける。ホームに上がって、すぐに来た電車に飛び乗る後輩。僕も慌ててついていく。
対面座席の窓際に、彼女と向き合うように座る。
「で、どこで降りるんだ?」
「いえ、降りませんよ」
「……何?」
「とりあえず、行けるところまで行って、終点まで着いたら引き返すんです」
「……贅沢な時間の使い方だな」
「いいでしょう?」
外の景色を見る。もう、見たことがない景色になってた。
後輩が、ぽつりと話し出す。
「友達ができたら、やりたかったことの一つなんです。電車から降りないで、知らない景色を見に行くの」
「僕たち、友達っていっていいのかね」
「広義の友達と言うことで、ここはひとつ。いまならお弁当もついてますよ」
「……作ってきたのか?」
「食べてみたいって言い出したのは先輩じゃないですか」
「いやまあ、確かにそうだけど」
「味には期待しないでくださいね」
そういって、彼女はスクールバックから弁当箱を二つ取り出す。
人が少ない快速電車で、ふたりで食べる。
後輩は謙遜はしていたものの、彼女の弁当は美味しかった。きっと、味だけではない。人が作った料理を食べるのは、久しぶりだったからかもしれない。
彼女の作った弁当を食べて。
景色を見て。
僕が聞いている音楽について聞かれたり、彼女のクラスの愚痴について聞いたり、他愛もない話をして。
三時頃には、終点にたどり着いた。
「じゃあ、戻るか?」
後輩の当初の提案通り、僕は戻るつもりだった。あまり長居する必要もない。明日だって授業だ。
けれども、彼女は顔を俯かせては動かない。
「その、帰りたくないっていったら……どうします?」
「どうするって……」
プラットホームに、潮風の香りが吹く。
彼女の髪が、惑うように揺れる。
靡く髪を押さえる後輩の視線の先には、水平線が広がっていた。
「とりあえず、海にでも行くか?」
無言の彼女の手を引いて、改札を抜ける。海辺まで歩く。
人はいなかった。波の音と鳥の鳴き声だけが響いていた。
海辺の音は、嫌いではないが、好きでもなかった。寄せては返る波の音を聴いていると、郷愁にも似た錯覚が、胸を締め付ける。
互いに無言のまま、ベンチに座って海を見て、波風に当たっていた。
数分か、数十分か。しばらく経ってから、彼女は僕に肩を預けてきた。小さくて、軽い肩だった。
「先輩は、急にいなくなったりしないですよね?」
声が震えていた。言葉にすることで、事実、そうなるのではないかと怯えているように、彼女はいった。
「どういう意味だよ。僕がか弱い人魚姫にでも見えるのか?」
「そういうことじゃ、ないんですけど……」
胸にたまっていたものを吐き出すように、彼女はいう。
「不安なんです。先輩といると楽しくて、嬉しくて、これが夢じゃないかって思うんです。目が覚めたら、消えてしまうんじゃないかって思うくらいで」
「……僕は、そんな風に期待されるような人間なんかじゃ、ないよ」
「だからいいんですよ。そんな先輩と、私は一緒にいたいんです」
一体何を考えて僕と一緒にいるんだろう、とは思っていた。けれど、こんなにも心を向けられているとは思ってもみなかった。
依存か、逃避か。
その感情は健全とは言いがたく、彼女の境遇を思えば仕方がない。
結局、僕にできることは先延ばしと現状維持の二つだけ。
「いなくなるわけないだろ。だから、ほら、もう帰るぞ」
彼女の不安を保証できる証明なんて、どこにもない。だから、言葉が空虚だとわかっていても、僕はそう返すのだ。
帰りの電車は、お互い、口数が少ないままだった。
電車に乗っていただけとはいえ、体力は使う。
「先輩、お願いがあるんですけど……今日の夜、空けておいて貰えますか?」
「……流石にこのあとまたどこかに行くのは厳しいんだが」
「あ、その、どこかに行くって訳じゃなくて……電話を、したいんですけど」
「……何時ぐらいだ?」
「えっと……深夜の、私が気が向いたあたりといいますか」
歯切れが悪かった。なにか後ろめたいことでもないだろうに。
普段から、殊勝な態度をとるくせに図々しいのだ。今更気兼ねする必要もあるのだろうか。
「わかった。どうせろくに眠れないからな」
「……いいんですか?」
「お前が言っておいて、なんなんだ」
「その、流石に変なお願いかなって」
「言ってるだろ、お前の声は、嫌いじゃないって」
「ふふ……でしたら、お願いしますね、先輩」
念を押すように、頼んでくるから、適当にわかったと返事をする。
それから。
帰り道。
道中。
「あ……」
駅から出てすぐの場所で、後輩は突然足を止めて、顔を俯かせた。
どうしたか、と問うよりも早く、彼女はいつもより早口でいう。
「ごめんなさい、先輩、お先、失礼します」
「ん、あ、ああ」
突然、彼女は駆けだした。向かったその先は、ひとりの男がいた。
白髪交じりの髪。父親、だろうか。
彼は後輩といくつかの会話をしたあと、こちらに目を向けられた。つい、小さく会釈をする。
ヘッドホンを付け直している間に、ふたりの姿は見えなくなっていた。
夜一時。
日付は変わっている。
流石に疲労もあって、眠りに落ちてしまいそうだった。それでも、約束をした以上睡眠欲に屈する訳にはいかない。
とはいえ、まぶたが重いのは仕方がない。
逡巡ののち、ヘッドホンを外す。
これならば、電話が鳴る音にも気づくことができるだろう。
目を開けたまま、真っ暗な部屋の天井を見る。
後輩と出会ってからのことを思い返す。
傷だらけで、包帯だらけの不思議な後輩を。
いびつな行為を向けてきた、彼女のことを。
ああ、認めよう。彼女の存在は、確かに自分の中で形になっていた。
電話が鳴ったら、何を話してやろうか。先ほどの父親の話でも訪ねてみようか。思えば、彼女の身の回りについては聞いていない。
この先のことに思いを巡らせて暗い天井を見上げていれば。
天井から、音が聞こえた。
上の部屋の音だろう。
騒音が鳴っていた。小さな音だけど、冴えていた聴覚は正確に音を拾っていく。
たたきつける音。割れる音。怒鳴り声。
鈍い音三回。殴打。殴打。殴打。ド、ド、ド、と調律をしているみたい。ときおりドは鈍くなったりならなかったり。ド、ド、ゴ、ド、ゴ。
一際大きな殴打音と共に、新しい音が混ざる。それは人の悲鳴のようで。再生される。何度も、何度も、繰り返し再生される。
でも、現実の音楽は際限なくリピートされることはない。
不意に、しんと静まりかえる。
雨が上がったあとみたいに、自分の部屋の機械の駆動音が蘇る。
でも、それ以上に、今は自分の心臓がうるさかった。
しばらくして。
電話が鳴った。暗闇に光る。
僕は電話を手に取る。
『……ん、ぱい』
小さい声だ。隠れているみたいに、声を潜めている。普段よりも掠れた声が聞こえる。
『聞こえてますか?』
「ああ、聞こえてるよ」
『よかった……もう寝ちゃったかと思いました』
「……なあ、後輩」
『どうか、しましたか?』
「……いや、なんでもない」
『……変な先輩ですね』
「本当、変だよな」
彼女に聞きたいことがあった。
でも、それには触れないまま、彼女が眠るまで、いくつかのつまらない話をした。
それから。
朝。
いつもより、少し早い時間、僕は家を出る。
一睡もしていなかった。寝られなかったのだ。
階段を一階ぶん上る。
いつも見ているよりほんの少し高い景色を背にして、ある部屋の前で、僕は待つ。
果たして、しばらくすると扉は開いた。扉からは、ひとりの少女が顔を出した。
彼女の玄関の前で待っていた僕に、目を瞬かせていた。
「先輩、なんで……」
「僕の家、三〇三号室なんだ。そっちは、四〇三号室。ひどい偶然だな」
後輩の部屋は、僕の部屋の上だった。
彼女の肌を隠す白は、昨日より増えていた。
首元にも包帯を巻いている。絆創膏の数も多い。口元には腫れたあと。
彼女の有様を見ても、何も思わないはずだった。それなのに、いまは胸の鼓動がやけにうるさい。
「ああ……そうなんですか」
「昨日の……父親か? あいつが、やったのか?」
「ええ、はい」
端的に答える。答える彼女は、苦しそうには見えなかった。
僕と同じだ。苦しいことも、ありのまま、事実を答えているだけだと。どうにもならないことだから、そういう認識に切り替えるのだ。
「別に、先輩が気にすることではないですよ」
「いや……僕が、もっと早く気づくべきだった」
「だから……!」
淡々と話していた後輩は、突然、いらだつように髪を掻いた。初めて見る彼女のその仕草に、息をのんだ。
それだけじゃない。掻き上げられた髪の下、彼女の耳があらわになって、彼女の耳朶で光る銀色のそれに……驚いてしまったのだ。
ピアス、だろうか。昨日まではなかったはずだ。
血がにじんだ飾り気のないそれは、楔のようにも見えた。
「お前、それ……」
「……本当に、なんで、気づいちゃうんですかね」
驚くほど静かな声だった。
力のない表情を向けられる。
「私のお父さんは、魔法使いなんです。だから――」
それが世界の理だとでもいうように、彼女は告げる。
「先輩がいても、きっとなにも変わらなかったですよ」
彼女は語る。
「私のお父さんは、水曜の夜になると、人が変わるんです。それはもう、満月の日の狼男みたいに。それ以外は、普通のお父さんなんですよ。本当に、いい人なんです。男手ひとつで私を育ててくれて……でも、その日だけは、わたしにひどいことをするんです」
彼女は語る。
「その日につけられた傷は、私以外、誰も気づかないんです。次の日に目が覚めたお父さん自身も、気づかないんですよ。笑っちゃいますよね」
彼女は語る。
「昨日は、ひどかったですよ。たぶん、先輩に嫉妬したんだと思います。お父さんは私のこと、大好きみたいですから。このピアスも、その一つです……ああ、先輩が気にすることじゃないですよ。こんなものを開ける用意したってことは、そのうちやる気だったってことですから」
彼女は語る。
「でも、私は耐えられました」
彼女は語る。
「これからも耐えられます」
彼女は語る。
「だから、気にしないでください。先輩だけは……私を哀れまないでください。お願いです。何もしなくていいですから。私はただ、先輩に一緒にいて欲しいんです」
彼女は……堪えきれなかったように、くしゃりと笑った。
傷痕だらけのその笑顔は、痛みを堪えたその笑顔は、ひどく歪なものだった。
最後に後輩と話してから、一週間が経った。
彼女と顔を合わせるのが怖くて、逃げていた。
会わない時間は、覚悟を決めるための時間だった。
同時に、後ろめたさで会えなかった時間だった。
きっと、これからしようとしていることを、彼女は喜ばないと思うから。
水曜日の真夜中。獣が目覚める時間。
僕は、扉の前に立つ。
チャイムを鳴らす。
出ない。
チャイムを鳴らす。
出ない。
ぴんぽーん。鳴らす。ぴんぽーん。鳴らす。ぴーんぽーん。鳴らす。ぴーんぽーん。鳴らす。ぴーんぽーん。鳴らす。
カチャ、と間の抜けた音。
「こんな時間に、なんだね君は」
現れたのは背の高い男だ。あのとき見た男だ。近くで見ると、壮年、という老け方か。白髪交じりの黒髪に、皺が年相応に刻まれた顔。そこらへんにいるような、ただの大人の男。
到底、娘を痛めつけているような人間には見えない。
「ああ……あのときの。娘の友達、だよね? もう夜も遅いし、何か用事があるならまた明日にしてもらえるかな?」
「すいません、急ぎの用事なんですけど……」
「そうは言われてもな……」
男はわざとらしく考えるそぶりをしたあと「少しだけだよ」と招き入れた。
曖昧な笑顔で、他人の家に入る。
喉が、酷く渇いていた。
居間に入ると、後輩が倒れていた。飾り気のない下着姿。あられもない姿だ。そして、痣だらけの身体だった。
彼女の首元には黒いコードが巻かれていて、力なく四肢を床に投げ出していた。冷たく動かないその姿は、生きているのか、死んでいるのかもわからない有様だった。
がつん、と。
気を取られていた僕の頭に、物理的な衝撃が響く。
意識よりもはやく、身体が落下する。顔から勢いよく後輩の横に倒れた。おかげで気絶せずには済んだ。
痛みのせいか、聴覚がやけに冴え渡る。彼女の口は薄い呼吸を繰り返している。生きているみたいだ。
後輩の安全を確認している間にも、僕はひっくり返された。目に映るのは、大の大人の醜い顔。後輩に少しも似ていない、彼女の父親の顔。
腕を振り上げられる。下ろされる。視界がスパークする。遅れて、顔を殴られたと気づく。
きっと、こうされると思っていた。いくら傷つけても世間に知られることはないのだ。だったら、そうする。僕だってそうする。下衆の勘繰りが当たって嫌になる。
最悪な水曜日だった。もっと最悪なことは、これを後輩が繰り返しているということだ。
殴られて、殴られて、殴られ続けるのがおかしくなって、笑ってしまう。馬鹿らしくなって笑ってしまう。
不愉快そうに、男は顔をゆがめた。
「お前、何が面白――「黙れよ」
僕がそう告げる。
しん、とする。
音がなくなる。
目の前には、誰もいない。音もなく消えた。
やるべきことはやった。力の入らない足で、立ち上がる。
あとは、彼女の前から去るだけだ。
もう、彼女に向ける顔なんてないから。
「せん、ぱい?」
だというのに、そんな僕を、隣の声が引き留めた。
彼女は倒れたまま、声を絞り出していた。
「先輩、何を……したんですか?」
僕がやったのは、後輩から言わせれば余計なことだ。彼女との関係が変わる決定的なことだ。
僕はありのままの事実を述べる。
「僕は、お前の父さんと同類なんだ」
「お前の父さんは認識を消すことができる。僕は存在を消せる。やってることは違うけど、まともな人間が使える力じゃないのは間違いない」
「……先輩は、他の人もこうして消したことがあるんですか?」
「一度だけ、な。だからこれで二度目だ」
「……誰を消したのか、聞いてもいいですか?」
「自分の、母親だよ」
きっかけは些細なことだった。両親が喧嘩している光景だ。
いつもは優しい母親。彼女が金切り声を上げている姿が、どうしようもなく見ていられなくて。
気づいたときには、僕は『それ』を使っていた。
あとに残されたのは、血縁のない不仲な父子。もしかしたら、目の前で父親が姿を消した父は、母親を消したのが僕だとわかっていたのかもしれない。だから自分が消されないために、距離を置いているのかもしれない。
「先輩のお母さんは、消えたあと、どうなりましたか?」
「どうなった、って、いなくなっただけだよ」
「お母さんがいなくなって、他になくなったのものはありませんでしたか?」
「……ないよ。そんなこと聞いて、どうする」
僕の問いには答えずに、彼女は続ける。
「私のお父さんを戻す方法、ありますか?」
「もしかしたら、僕を殺せば戻ってくるかもな」
「……現実的な話をしてください」
「非現実的なことなんだ、そんな話をしてどうなるんだ……よ」
視界がぐらつく。体に力が入らない。思っていたより、体には堪えているみたいだ。
立っていられずに、腰を落とす。
倒れている彼女は、そんな僕のざまを前にして、いびつに笑う。いびつなのは、痛みのせいだろう。彼女が屈託なく笑う姿は見たことがなかった。
「先輩、今日は一緒にここで寝ませんか?」
「もう動けそうにないから、それは、願ったり叶ったりだけど……いいのか?」
「ひとりだと、怖いんですよ。いったでしょう? 先輩がいなくなるんじゃないかって」
「人が、そう簡単にいなくなるかよ」
「それ、先輩がいっても説得力ないですよ」
彼女のいう通りだった。ぐうの音も出ない。
「私、お父さんが嫌いです。好きだけど、嫌いでした」
「……そうか」
「先輩は、どうですか? ずっと会ってないんですよね」
「……わからない」
「取り返しがつくのなら、話した方がいいですよ」
「ああ……そうするよ」
耳が痛かった。心が痛かった。とがめるようなその言葉を、僕はただ受け止めるしかできない。
「このあと、どうなるんですかね」
「……どうにもならないよ」
この世はどうにもならないことばかりで。
人ひとりいなくなっても回っていく。
意識が朦朧としている。まぶたが重かった。
後輩は身体を起こして、こちらに這うように近づいてくる。
見下ろしてくる彼女に、問われる。
「先輩は、どうしてこんなことしたんですか?」
心底、不思議だとでもいうように、彼女はそう尋ねてきたのだ。
「どうしてって……お前が、聴いていられないような声、出すからだろ」
昔からこんな力さえなければいい。こんな耳さえなかったのならよかった。そんな風に思っていた。
ただ祈ったものをいなくしてしまうだけの力、それは人の身に余る武器を不用意に持たされていることと同義だ。ついうっかりで人を消してしまう。そんな人間が、どうして他人を対等に思えるだろうか。親しい相手なんて、できるわけがない。
力の代償とばかりに呪われた聴覚は、孤独に拍車をかける。自分がいるべき場所はここではない。どこにいたって耳元に囁かされるようについてまわった。
だから。
呪わしいそれを、一度くらいは、信じてみたかったのだ。
「先輩は、ばかですね。そんなことしなくても、私は一緒に逃げてくれるだけで、私はよかったのに」
「……それは、考えもしなかった」
「本当に、ばかです」
「返す言葉もない」
呆れられても仕方がないことをした。そんなこと、承知の上だ。
考えもしなかった、なんて嘘だ。ただ、一番簡単な方法を選んでしまっただけだ。
「先輩……目、閉じてください」
何を、と反応する間もなく、視界が暗くなる。
後輩の顔が近づいた、と気づいたときには。
唇に、何かが触れていた。
血の味がした、気がした。
「先輩は、私のこと、忘れないでくださいね」
彼女の言葉が、僕の鼓膜を揺らす。ずっと聴いていたい彼女の声に、気が緩む。
意識が、遠くなる。
夢現の中で、彼女の言葉を聞いていた。
「仮説を三つ、考えました」
「これから、私がどうなるのか」
「ひとつめは、この傷は今まで通り、誰にも見えないんです。これは何も起こらない場合です。私のお父さんがいなくなっただけで、他には何も変わらない場合です。
もしそうなったら、きっと、先輩と一緒に学校に行って、たまにどこかに遊びに行く、今まで通りの日が続くんです」
「ふたつめに、傷が他の誰にも見えるようになる場合です。私に魔法をかけていたお父さんが消えてしまったことで、魔法も解けるんです。
でも傷って、二種類あるんですよ。体の傷と、心の傷。かさぶたを剥がしたら、血が出るでしょう?
もしかしたら、お父さんが使っていた魔法は、私の心にも蓋をつけていたかもしれません。そうだったら、私の心は耐えきれずに壊れてしまうでしょうね」
「最後に、傷がなくなる場合です。先輩が私のお父さんを消したことで、この傷も、痛みも、一緒になくなるかもしれません。最初から、不思議なことだらけですから、そんなことがあってもおかしくないですよね。
でもそのとき、きっと私は――」
目が覚めると、いつもの天井だった。
自身の肌を触る。なんの傷もない。
何もかも、夢だったのだろうか。
ベッドから抜け出す。トースターで食パンを焼いている間に顔を洗う。焼けたパンを、何もつけずに口に押し込む。牛乳で飲み干す。
制服に着替える。荷物を確認して、家を出る。
何度も繰り返した流れだ。
でも、少しだけ前から加わった日課がある。マンションの前で人を待つのだ。
ぐるぐる巻きの包帯がトレードマークの、傷だらけの少女を待つのだ。
けれども。
待てども少女は来ない。いつもなら来ているはずの時間に、彼女は来なかった。
待つ。女性が通る。別人だ。待つ。スーツ姿の男性が通る。待つ。女性が、男性が、女性が。
少女が。
少女が通り過ぎた。
通り過ぎた彼女を、その後ろ姿を見る。彼女の横顔では気づけなかった。通り過ぎてしまうまで、彼女が誰だか気づくことができなかった。
でもいまは、確かに彼女だと気づいたのだ。
壁に背中を預けて、空を仰ぎ見る。雲一つない、抜けるような青空だった。
通り過ぎた少女の肌には、傷も、肌を覆う布も何もなかった。
つまり、彼女にかけられた魔法は解けたらしい。
後輩の最後の言葉を思い出していた。彼女の予想は的中したのだ。彼女の身に起きていたことは、なにもなかったことになったのだ。
傷も、痛みも。そして二つに由来する、僕らの出会いも。
後輩と出会ったときのような晴天で、今日は、とてもいい日だった。
なのに。どうしてこんなにも苦しいのか。
「あの……誰か、待ってるんですか?」
立ち尽くしていた僕に、声がかけられる。
足に力を込めて、聞き慣れた声に、目を向けた。そこにいたのは、先ほど通り過ぎたばかりの少女。
「あ、すいません。お節介ってわかってはいるんですけど、なんか気になっちゃって」
飛び跳ねるような、明るい声だ。屈託のない声だった。透き通るような、声だった。
後輩と顔も声も同じだというのに、どうしようもなく違うものだった。
もう、僕の知る後輩はいないのだと突きつけられて。
眩しくて、目を細めてしまう。
「人を待っているんだ。同じ高校の、一つ下の後輩を」
「へえ、仲、いいんですね。そういうの、うらやましいです」
「……でも、最近ちょっと上手くいってなくてな。仲直りをしたくて待ってるんだけど、来てくれないみたいだ。もしかしたら、僕が知らない間に、どこかに引っ越したのかもな」
語る僕の隣に、少女は並んでくる。
彼女はにこりと、僕に笑いかけてくる。
「一緒に待っていても、いいですか?」
「……学校、行かなくていいの?」
「かまいません。どんな人だか気になりますし。それに今日はなんだか、サボっちゃいたい日なので」
「別にいいけど……たぶん来ないよ。それでもいいなら、勝手にすればいいよ」
「では、勝手にさせていただきますね」
ふたり、並んで人を待つ。
かつて後輩と呼んだ彼女と待つ。
もう二度と来ることのない彼女を、いつまでも待っていた。
ノーマルエンド 大宮コウ @hane007
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