第2話 白銀の夜想曲
真っ白。いつもの町が、辺り一面、雪と氷に覆われている。生き物の気配も感じない。それに、色がおかしい。空は黄色く、太陽は青く視える。
試しに、庭にあるポンプのレバーを動かし、水を呼んでみる。ぽた、ぽた。ペールオレンジの液体が、数滴落ちてきた。色覚が狂ったのか? いや、そんなわけはない。ということは、まさか――
状況を理解し始めた時、とてつもない寒さに気づいた。寒い、とにかく寒い。家のドアを開けようにも、凍っていて開かない。窓はもはや雪だか氷だか分からないようなもので塞がれている。呼吸をするたびに肺が痛む。そして――静かだ。
『絶対零度』そんな言葉が思い浮かぶ。音までもが凍り付いたかのように何も聞こえない。音のない空間に響くあの『静寂の音』だけが、この世界には満たされている。
このまま凍え死ぬことになるのだろうか。静寂に首を絞められながら? 冗談じゃない。
コートの袖で鼻を覆いながら、必死にこの静寂を破ろうとする。地面を蹴り、壁を叩く。だが、次第に手足に痛みを覚え、自身の行いを悔いた。もうだめだ――全てを諦めそうになったその時、どこからともなく――
「ピアノ……?」
音が聞こえてくる。私にはそれがどこから聞こえてくるのかが分かる。近くにあるコンサートホールだ。あそこには、この辺では最高級と言われているグランドピアノが置いてあったはずだ。
私は走る。私以外にも人がいるという期待、そして少しでも寒さが紛れるように、息が切れて、肺が痛くなっても足を止めない。石像のある広場、近所では有名な幽霊屋敷。何度か雪に足を取られそうになりながらも、路地を駆け抜ける。
「はあ、はあ……」
意外と早く着いた。家から走って五分もかからなかった。必死に走るとこんなに早いなんて。
今聞こえているのは、ベートーヴェンの悲愴。確か彼は友人宅で療養中、吐血しながらこの曲を書いたんだったか……悲惨な目に逢っている人間と自分を比べるのは健全な精神ではないだろうが、今回くらいはいいだろう。
美しい旋律に、思わず寒さを忘れて聞き入ってしまう。一体どんな人が弾いているんだろう。気になってホールのドアを開ける。どうせここの職員なんていないんだから、お金を払わなくたっていいだろう。
扉を開くと、人影が見える。良かった。ちゃんと誰かが居てくれた。ステージの前まで近づいてみる。大きなステージの真ん中にあるグランドピアノ。上には豪華なシャンデリア。そして、
「美しい」
思わずそう呟いてしまうほどの女性。周囲とは明らかに違う秩序と、澄んだ空気が彼女を包んでいる。真っ白なドレスに、真っ白な肌。腰まで流れるブロンドの髪に、聖母のような、どことなく悲しげな表情。
たまらずステージに上がる。女性は私には見向きもせず、ただピアノを弾き続けている。次の曲はショパンのノクターン、 作品九の二。妻が愛していた曲だ。あの時からずっと聞かないようにしていたが……。
声をかけることも忘れ、私はただその女性の演奏を聴き続ける。とても心が安らぐ。妻を失ったあの時から毎日感じていた苦痛も、静寂に首を絞められる恐怖も、この音色を聴いていると全て忘れてしまいそうになる。
ああ、きっとこの方は女神様なんだ。この私を哀れに思って、せめて安らかに眠れるよう、全てを忘れさせてくださるのだろう。何だかそんな気がする。
そうか、ということは、これは神の選別などではない。愛する我が妻はやはり神に捨てられたわけではなかったのか。良かった――そう言えば、彼女はどんな顔をしていただろう、もう覚えていない、思い出せない。
ガシャン。ちょうど私の頭上にあったシャンデリアの鎖が、音を立てて弾けた。張力を失ったシャンデリアは私をめがけて落ち始める。不気味なほどゆっくりと。
ああ、シャンデリアが落ちてくる。もうすぐ死ぬというのに、美しい旋律は私の感覚を狂わせる。死んだっていい。もはや今までの人生に悔いはない。この世界にも、前の世界にも十分満足した。だから次の世界へ行こう。ああ、女神様。ありがとう、ありがとう――
視界が真っ暗になると、突然体が軽くなったような感覚を覚える。続いて、勢いよく天に向かって落ちるような感覚。何も見えないが、雲や風を切って、この体が遥か空の彼方へ飛ばされていくような浮遊感がある。
やがて浮遊感が終わると、今度は沢山の小さな光が見えた。やがてそれらは集合体のようになって、渦を巻くように動き始める――銀河だ。見たことも聞いたこともないが、なぜか分かる。
それは、酸素濃度の減った脳が最期に見せる幻。そうしているうちに銀河も消え、完全なる暗闇が戻ってくる。これで、終わりか。
体の感覚はとうに消え失せていて、残っていたこの意識も眠りのように薄れてゆく。今度は幸せな世界に行けるだろうか――
微かに、肩に温もりを感じた。
「あなた、目を開けて――」
絶対零度のサルベーション 植木 浄 @seraph36
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