絶対零度のサルベーション
植木 浄
第1話 静寂が私の首を絞める
朝、目が覚める。またあの夢だ。愛する妻が目の前で消えた、あの時の。彼女は庭に植えるチューリップの苗を買って喜んでいた。彼女はその日も、悪いことなど何もしていなかった。
どさっ。突然、チューリップの苗が地面に落ちた。土は崩れ、茎は折れ曲がっていた。その時にはもう、彼女はどこにも居なかった。
今でも、この静寂の音の中に彼女の声が聞こえるような気がする――いけない。静寂はすぐにこうやって私の記憶を引きずり出し、私の心を踏み荒らしていく。その度に私は首を絞められるような苦痛を覚えるのだ。
私はベッドから起き上がると、すぐにレコードを流し、ロッキングチェアに座り、暖炉の前で新聞を読む。
≪今日未明、再びテレポーテーション事件が起こりました。場所は――≫
≪――外に出るときは十分ご注意ください≫
「またか……」
テレポーテーション事件。数年前から起こり始めた、突然人が消えてしまう超常現象。一度発生すると、その周辺では数日間は人が消え続ける。多くの場合は数人程度で済むが、町によっては数十人消えることもあるらしい。
多くの人々は『これは神による選別だ』などと言っているが、私はそうは思わない。これは神のような崇高な存在のものではなく、もっと邪悪で大きな何か……でなければ、彼女が『捨てられる者』に選ばれるわけがない。
彼女は正直な人で、嘘もつかなければ、人を傷つけるようなこともしたことがない。本当に神が選別を行っているのなら、神を心から信仰していた彼女が、常に正しく生きてきた彼女が、この世から捨てられるなどあり得ない。そう信じたいのだ。
さて、こんな記事を読んだ後で外には出たくないが、もう二日はまともな食事をとれていない。何か食べ物を買いに行かなければ。今度の発生地は隣町だから大丈夫だろうが、いざという時に動きやすいように歩きで行くことにしよう。
毛皮のコートをはおり、少々警戒しながらも家を出て、店のある大通りまで歩く。そういえば今日は、彼女の誕生日だ。いつものミートパイを買おう。彼女もここではないどこかで、食べているかもしれないから。
石畳の路地を抜ける。相変わらずここは車が通っていたり、こんなときでも商売をしてくれる店があったりして、それなりに人は居る。が、やはりどことなく緊張感が漂っているようだ。私も早く買い物を済ませて帰ろう――
どさっ。後ろの方で何かが落ちた。と同時に、誰かが悲鳴を上げる。その場から離れようと、道路を無理やり横切ろうとする人々。鳴り響く車の急ブレーキ音。なぜだ。発生地は隣町のはずだ。
だが、すぐにその考えは間違いだと気づいた。誰も『テレポーテーションは一度に一か所でしか発生しない』とは言っていない。
どさっ。逃げようと私の横を通り過ぎた人が消えた。地面に落ちた果物が道路に転がってゆく。まずい、囲まれた。どうする。どうすればいい?
いや、そもそもこれは『その地点を通った人間が消される』のか『特定の人間が直接消される』のか、どちらなんだろう。前者であれば外へ出なければ――いや、家の中で消えた人間もいたはずだ。では後者か? だが、もし後者であったら――
あまりの理不尽さに怒りが湧いてくる。何が『十分ご注意ください』だ。何も見えない、何も分からない。逃げられない。気を付けようがないじゃないか。
ずっとここにいても仕方ない。とにかく家に帰るしかないだろう。買い物はできなかったが仕方ない。少し――いや、決して少しどころではない不安を抱きつつも、来た道を折り返し、閑静な住宅街に戻る。
きっと、大丈夫だ。そう言い聞かせているうちに自宅が見えてくる。
そして自宅のドアの前に辿り着いた瞬間。
「うっ……」
突然めまいを感じた。視界が黒とグレーのモザイク模様になり、思わず目を瞑る。耳鳴りがひどい。しゃがみ込みそうになるのを何とか耐える。
数秒後、それらが治まり目を開いた時、私は驚愕した――
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