死に焦がれ
物心ついたときから、心を動かされたことが無かった。たとえば、飼っていたイヌが死んだとき。たとえば、親の都合で転校しなくてはいけなかったとき。たとえば、第一志望の大学に合格したとき。
でも、人間は心を動かされて生きるものだ。喜び、泣き、怒り、楽しむものだ。しかし俺は、その感情の揺れ幅というものが非常に小さいと感じていた。怒りのあまり人を殴ったり、悲しみのあまり死んだり――感情に乗っ取られて行動するなんて、俺にはあり得ないことだ。
だからこの「仕事」も別になんてことは無い一つの仕事にすぎない。落ちにくい汚れをなんとか拭き取る心は無に近かった。
◆
三年サクラダゼミの懇親会に、見慣れない人がいた。いや、大学生にもなれば、普通に知らない人くらいいるのだろうが、それにしても彼だったら一目見て忘れることは無いだろうと思う。ほとんどが同じ学部から上がってきたメンツなのに対し、彼は編入して入ってきたらしかったのだ。
彼は自己紹介を終える。少し長めの前髪からは、赤い瞳が覗いている。眼鏡をつけていて地味そうに振る舞っていても分かる――とにかく顔立ちの良い男だった。たとえるなら、そう、韓国のアイドルのようだった。目鼻立ちも良く、挙げ句に背まで高い。冬でもないのに長袖を着ていて、それがまた色白でか弱そうな彼に似合っている。女性陣がコソコソと彼について話しているのが分かった。
男性陣はというと、見た目が若干地味そうでかつイケメンだなんて、受け入れにくかったのだろう、少し距離をとっている。中には俺に、彼奴ノリ悪そうだよね、なんて言ってくる馬鹿な奴もいた。どうせ嫉妬だろう。
仲間外れだとか、逆に囃し立てるのだとか、そういうのは嫌いだ。俺はわざと大きく声を上げて、その男の名前を呼んだ。
「えっと? セキガハラフユキ君……だっけ? へー、セキガハラって言うんだ、珍しい名字だよなー」
一瞬緊張感が走る。誰も話しかけようとしなかった相手に、俺が話しかけたからだ。
すると、彼はへらりと笑い、そうだよ、と柔らかいバニラの声で言った。
「でも、オケハザマって名字も珍しいと思うよ、僕は」
「だよなー。ってか背ぇたっか! 何センチあるの、それ」
「えー? 背は高くないよ。百七十八センチ。自販機よりは大きくないよ」
俺たちが仲良く話し出したのを見ると、周りの雰囲気も和み始める。思っていたよりもノリが良いフユキを見てのことだろう。友人の一人が俺と肩を組み、からかうように続けた。
「ナツキさ、背ぇちっさいこと気にしてるんだぜ。何センチだっけ、百五十センチ?」
「百六十九点八! 四捨五入すりゃ百八十センチって言ってんだろ!」
皆がどっと笑い出す。また言ってるよー、と女子の誰かが言った。これで良い。俺はこういうキャラなのだ。もちろん、フユキもケラケラと笑っている。その様子に誰も文句を言ったり、眉をひそめたりはしなかった。
俺が話しかけたのを皮切りに、女性陣からいくつも質問が飛んでくる。フユキは一躍人気者だ。彼も楽しそうに笑いながら話に乗っていく。男性陣も男性陣で、ノリの悪い人間ではないことを知ったので、編入前の生活などについて質問を飛ばすのだった。
彼が言うに、彼は短期大学を卒業してから、このサクラダゼミに入るために編入してきたらしい。サクラダゼミといえばこの辺一帯でもかなりの有名所だ。
「えー、英語とか喋れるの? ってか、タメ口で良い?」
「良いよ全然、僕だって同い年だし。英語かー、ちょっとは喋れるよ」
「喋れる人皆そう言うんだよねー!」
フユキはそれを否定するでもなく軽く流すと、今度は俺たちに質問をしてきた。その中でも真っ先に興味を持ったのは、俺のことらしかった。
「ナツキ君ってさ、なんで半袖着てるの? まだ夏じゃなくない?」
何を聞くかと思えばそんなことか、と思ったが、口にはしなかった。よく考えてみれば、俺はいつも半袖を着ているような気がする――冬になればさすがに上着を着るけれど。仕事上、長袖を着ると面倒なのだ。
「気になるー、ナツキ君っていっつも半袖だもんね」
「あー、俺暑がりなんだよねー」
「ほんと? 僕は寒がりなんだよね」
「ナツとフユで暑寒コンビじゃん」
「なにそれ、もっと良いネーミングセンス無かったの?」
暑寒コンビだなんて一括りにされて、多少困惑しても良いだろうに、フユキは何が嬉しいのか少し照れていた。俺もそう反応したほうが良かったのだろうか? 俺はただいつもどおりの愛想笑いを浮かべただけだった。それでもバレないんだから、人間は本当に他人のことを見ていないんだろう。
そんなことを考えていると、スマートフォンが通知を鳴らした。仕事先からの連絡だ。今日は休むと言っていたのに、人手が足りていないらしい。住所と顔写真が送られてきている。
俺は少し気まずそうな顔をして、あー、と苦々しい声を上げた。視線がこちらへと向く。たいそう申し訳無さそうな声で、ごめん、と前置きをした。
「ごめん、バ先が急に人が足らなくなったみたいで……行かなきゃ、俺。いくら払えば良いんだっけ?」
「相変わらずナツキは仕事熱心だよなー、そんなに金無いの?」
「金はいくらあっても足りないからな!」
また俺の一言で皆が沸く。いったい、何が面白いんだろう。
副ゼミ長にお金を渡して、急いで居酒屋を出る。向かうのはこんな繁華街じゃなくて路地裏だ。皆がいなくなったところで、鞄の中に隠していたタバコを一本取り出して、口に咥えた。
◆
「や、やめてくれ、命だけは!」
顔を不細工に歪めて、裏返った声で悪人は言った。
たいていの悪人がそう言う。死刑になりたいとかほざくくせして、普通に殺されるのは嫌がるのだ。まったく、見上げた希死念慮だといつも思わされる。
「お前の罪状は強姦……だったか?」
「ちげぇよ、あれは和姦だって。あの子も喜んでたんだって!」
「そのあと精神病院に入ったそうだが?」
「知らねぇよ、俺は悪くない!」
嗚呼、なんて紋切り型の命乞いだろう。こんなことの繰り返しだ。それでも工具を振り上げればこの喧しい口も閉じる。
「言い訳は地獄で聞こうか」
「やめろ……やめてくれ……!」
振り下ろせば、ぐしゃり、頭蓋骨が割れて脳に突き刺さる音がする。脳は使う必要が無いからいくら殴っても良いと、父さんも言っていた。ただし、眼球を潰すのは止めろとも言われている。適度に死んだと思われるところで手を止める。
静かになったところで、タバコを一本取り出して吸いながら、電話をかける。灰皿はこの醜く無様な男の頭蓋骨で良いだろう。
「標的を仕留めました。死体の回収をお願いします」
「はい、坊っちゃん、今向かいます」
父さんの跡継ぎだから、坊っちゃん。死体処理班は俺のことをそう呼ぶ。顔は見たことが無い、いつも黒いサングラスに黒いマスクをしているから。
肺をメントールが満たしていく、湧いたアドレナリンを抑えるように。俺はこの瞬間が好きだ。人前では絶対にタバコは吸わないようにしているが――イメージが違うと言われかねないからだ――自ら無になれる感覚を味わえる。
嬉しいとか、楽しいとかは分からないけれど、世のため人のために仕事をしたあとは一定の達成感がある。悪人は法で裁かれるべきだと言うけれど、裁ききれていない者ばかりなのが現実だ。天網恢恢疎にして漏らさず、なんていうのは嘘で、漏れてしまったそういう悪い奴は殺すしか無い。そして臓器を他人に売ったほうが人助けができて良いではないか。
父さんはよくそんな俺を、殺しに向いていると言って可愛がってくれている。だったらそれで良いじゃないか。
そんなことを一人で考えていると、カシャ、とどこかから音がした。振り向けば、黒いフードの高身長がスマートフォンをこちらに向けていた。
バレたか? いや、俺は今後ろを向いているはずだ。それに、俺自身も目出し帽を被っているから、分かるのは身長や体格だけだ。だとしたら、追いかけることによってリスクはどうなる? 見つかったら口封じに殺さなくてはならないだろうか?
瞬間、脳が凄い速さで回る。昔野球部で鍛えた足の速さを生かして追いかけるが、路地裏を出たところで繁華街にぶつかってしまった。不審な格好をしているのは自分のほうだ、これ以上はまずいだろう。
仕方無く目出し帽を脱いで路地裏へと戻ってくる。死体の回収と同時に俺も回収されなくてはならない。
夜空の星は俺の吸う煙によって曇っていく。今日は星一つ見えないな、と、変にロマンチックなことを考えていた。
◆
「とりあえず、今座っている隣の人が今期のペアになるから、ちゃんと挨拶をしておくこと」
サクラダ先生がそう言ったので、俺はすぐに隣を見る。そこに座っていたのは、あの編入生・セキガハラフユキだった。フユキは少し申し訳無さそうに笑ったあと、よろしくね、と言った。きっと新しい環境で不安なのだろう。俺はあえて歯を見せて、にかっ、と笑ってみせた。
「よろしく。英語できるんだったっけ?」
「ちょっとね、ちょっと。全然いろいろ知らないから、迷惑かけるかもだけど……」
「気にすんなって! こちらこそよろしく」
「ナツキ君、で良いかな」
「何でも良いよ、変な名前じゃなきゃ」
フユキは少し悩んだあと、ぱっ、と顔を明るくした。赤い目にほんのり光が灯る。
「じゃ、僕は『ナツ』って呼ぶから、僕のことは『フユ』って呼んで」
「おう、『フユ』だな。よろしく、フユ」
フユキ改めフユは、俺の言葉を受けて端正に微笑んだ。相手が女性だったら見惚れていたかもしれないだろう。俺ですらも、綺麗な顔をしているな、と思わされたくらいだから。
サクラダゼミは授業が早い、と聞いていたとおり、ペアを組んでからすぐに実習が始まった。まずは練習程度に、と言われたが、それでも英語を使って話さなくてはならなかった。
英語で話し出すサクラダ教授に、次第に皆の顔が曇っていく。理解はできるが、当てられてもちゃんと話せない。俺も当てられて、落ち着いて話そうにも言葉が出てこなかった。するとサクラダ教授は芝居がかった素振りで肩を竦める。まるでアメリカか何かの外国人だ。
次に当てたのはフユだった。フユは少し悩んだあと、流暢な英語で答えた。皆から視線を集めても、フユは何とでもないような顔をしている。俺ももちろん目を向けた。
「英語に慣れてるね。留学経験は?」
「いえ、無いんですけど、親が英語を話しまして」
サクラダ教授からの質問には、少し照れた様子で答える。おー、と誰かが声を上げた。
「じゃあオケハザマ君は楽ができそうね」
「えっ? え、あ、はい、そうっすね!」
「そう答えちゃ駄目でしょ」
フユがクスクスと楽しそうに笑う。そんな調子で、一日目のガイダンスは終わった。サクラダ教授はどっさり宿題を出して、気分が良さそうに去っていった。げっそりする他の学生たちとは反対に、フユはどこか楽しそうに俺に話しかけてきた。
「宿題多いね。ナツ、一緒にやらない?」
「え、あー……ちょっと待って、シフト確認するから」
すかさずスマートフォンを手に取る。他の人に見られても良いように、まるで普通のバイトのようにシフトを書き込んでいる。もちろん、アルバイトなんてしてないのだけれど。
今日の午後は空いている。笑顔を作ってそう答えれば、フユはぱっと周りに花を散らして俺とは違う笑顔になった。心底から嬉しいとき、人はこういう顔をする。
「じゃあカフェテリアで勉強しよ」
「とか言ってさ、勉強なんてしないんだよな」
「まぁ、そういうもんだけどさ」
あはは、とフユは笑った。それから英英辞書を抱え、まずは飯からだね、と言った。
「お先に失礼しまーす」
「お先に!」
俺たちがそう言えば、ゼミ生たちは皆俺たちに手を振った。どうやら好印象を得られているらしい、それはやりやすいことだ。
カフェテリアに向かう最中、フユはいろんなことを俺に聞いてきた。きっと俺と仲良くなりたいのだろう、それにしたって食いつきが凄い。懐かれている、のだろうか。
「ねぇねぇ、ナツは高校時代何部だった?」
「俺? 俺は野球部だったよ」
「へー! 野球できるんだ、いいね。大学でも野球やってるの?」
「いやー、それがさ、肩壊しちゃって。今はバイト一筋って感じ?」
これは決まった話の逸らし方だ。大学に入って、少なくとも十数回はこの話をしてきた。当然、人生で一度たりとも野球をやっていたことは無い。中学生になって、ある程度声や背が大人と同じくらいになった頃には、もうすでに仕事を始めていたからだ。
フユは、仕事熱心なんだね、と皆が言いそうなことを言ってきた。この答えだったら俺も慣れている。
「金が大事なだけだって」
「その話、懇親会のときも言ってたね。そんなに金欠なの?」
たぶん向こうは茶化すつもりでそう言ったのだろう。この答えも用意してある。
「普通に金欠だぜ? だってこの間の懇親会の飲みホだってそれなりにかかったし……遊びまくってるからかな、大学生って感じするよな」
「そう? なんかナツってもっとしっかり勉強してるイメージあったから……」
これには驚きだ。フユは赤い目を丸くしてこちらを見ている。普通に関わっていれば、俺が勉強熱心だなんて思う奴はいないだろうから。
俺は反応に困った。するとそれが伝わったのか、フユは片手を立てて謝った。
「ごめんごめん。フツーにノリ悪かったわ」
「いや、そういうわけじゃないけどさ……言われたこと無いわー、と思って」
「そ? じゃあ意外な一面があったってことで」
そうこう話しているうちにカフェテリアに着いた。勉強しよっか、と言ったフユは本当に真面目に勉強をしていた。勉強熱心なのはお前のほうじゃないか、と言いたくなった。
どうやらフユはバイリンガルらしく、英語の読解にはことに長けていた。俺が分からないところはどんなところでも答えてくれた。逆に学校の制度には慣れていないらしく、何の単位が簡単に取れるだとか、どれをどれだけ取れば良いだとかは俺が教えてあげた。そうするうちに、気がつけばフユは俺とほとんど同じ時間割になっていた。
フユは何が嬉しいのか、明るい声で、ほとんど一緒だね、と言っていた。別に嫌な気はしなかった。むしろ、何の感情も無かった。これから一年間、俺は表では此奴と同じ生活をするんだな、というくらいの感情だった。
よく思えば、こうやって誰かと一対一で仲良くなったのは初めてかもしれない。いつも大人数のグループの一人として――おふざけ担当として――振る舞ってきたから、常に群れていた。だが、俺がフユと仲良くしたから周りが冷たくなったということも無かった。だとしたら、道化を演じるのが一人で良いと考えるだけで少し楽になったような気がした。
◆
「ナツってさ、意外と薄情そうだよね」
「は?」
ぐつぐつ煮えた鍋を箸でつつきながら、フユは不意にそんなことを言った。
前期の授業を無事に終えた俺たちは、夏休みに近づくにつれてこうして遊ぶことが多くなってきていた。今日この鍋を用意したのはフユだ。俺の家のキッチンを勝手に使って、それなりに美味い料理を作るというのが最近の習慣になっていた。俺の家には何か危険なものがあるというわけではないし――凶器などは実家にある――今までも人を上げてきたことはあった。
「どういうとこがだよ」
「え、ギャップありそー、って思って。僕が死んでも葬式で泣いてくれなさそう」
「泣きはしないかな。メンヘラかよ」
「えー、ナツ薄情」
「じゃあ泣いてやるからさ……そういうフユはどうなんだよ」
人は友達程度の葬式でも泣くものなのだろうか? 俺には分からなかった。だから、フユに振ってみることにした。
フユは相変わらずの長袖から覗く、白い手を顎に当てて、うーん、と唸ったあと、眉を下げて小さく溜め息を吐いた。
「僕はナツと違って薄情じゃないからなー」
「でも、裏で彼女殴ってそう」
「してないよ! ちゃんと優しくするしー。彼女いたらの話だけど……」
そう言う彼にはなぜか彼女がいない。こんなに優しくてノリが良くて顔も良いのに、どうしてだろうか?
俺がそんなことを考えていると、フユは、ふふ、と小さく笑った。一人で笑い出してどうしたのかと思えば、こんなことを続けた。
「最近さ、ナツが意外と考え無しの陽キャじゃないんだなーって感じることが多くなってさ。なんか親しくなった気がして」
「何だよ急に」
「ほら、ナツって最初僕に話しかけてくれたじゃない? あのときはもっとこんな辛辣じゃなくてノリで全部何とかしそうなタイプでさ。そーゆーとこも良いと思うけど、実際のところはもっと落ち着いてるところがあるって分かってからは、あー無理してんだなって思うようになってさ」
「無理なんかしてねーよ」
そうは言いつつも、心の緊張が緩んだのを感じた。そう、少しだけ心が動いたような、そんな感じだ。心臓が動いているのを意識したような、そんな。こんな感情は初めてで、俺はまた何て返せば良いか分からなくなった。
また、だ。フユといると、心がぐしゃぐしゃになることが無い。ずっと無でいられる。その感覚がどこか心地良いと感じているのだろう、きっと。
「でも辛辣だし優しくないし彼女は出来ないと思うよ」
「……人が気にしてることをなー」
「気にしてないじゃん、別に」
沈黙する。確かに恋愛沙汰には興味が無い。表ではそういうふうに見せているけれど。
まぁ良いよ、とフユは言って、一際大きい肉の塊を口に運んだ。さっきから此奴は肉ばっかり食べている。
「ナツの部屋っていつ来ても綺麗だよねー、やっぱ金欠ってのは嘘なんじゃない?」
「家具とか物に金使わねーだけだよ。ってか、フユといっつも遊びに行ってんだろ? あーやって金が無くなってくわけさ」
「まぁねー。でも、部屋の片付けが得意ならうちに来てほしい」
「なんで?」
そう言えば、フユの家に遊びに行ったことは無い。気にしたことは無かったし、そういう話になったことも無かった。確か実家暮らしだと言っていた。それにしても、フユが一瞬だけ遠い目をしたのは気のせいだろうか?
「僕、部屋の片付け苦手なんだよね。もう家ん中ゴミとか物だらけで」
「うわ。食事中に言う話じゃねーぞ」
「育ち良いねぇ君。まぁ良いや、とにかく、うちに来て片付けしてほしい」
フユは両手を合わせて、お願い、と上目遣いをしてきた。自分のほうが背が高いくせに。
片付けは嫌いじゃないし苦手じゃない。幼い頃から父には常に身の回りを清潔にするよう言われてきた性分だからだ。生活感を残せば、そこから何かを辿られてしまうだろう。それに、片付けをしているうちは無でいられる。部屋の汚れは心の汚れとも言うが、部屋を片付けているときは心に溜まったぐしゃぐしゃも捨てられるから好きだ。
俺が承諾すれば、やった、と彼は拳を握ってみせた。
「やったね。あ、そういえばだけど、うちは火気厳禁だからタバコは吸わないでね」
「……え、あ? お前にタバコの話言ったことあるっけ」
ぴん、とピアノ線が張り詰めた。緩んでいた心が一瞬にしてキツく締まる。瞳孔が縮む感覚がした。
フユは、えー、と斜め上を見て、笑顔のまま続けた。
「ときどきタバコ臭いよ、君。言ったら失礼だと思って言わなかったけどさー」
「……そ? 気をつけるわー」
徹底的に消臭してから会っているはずなのに、何に煙が移ったのだろう。体に染み付いているのだろうか?
フユのゆるゆるとした口調に、ピアノ線は弛んだ。俺はまだ残っている肉を探すように鍋の中へと箸を入れた。
◆
一言で言えば、汚い。清潔の反対にある。動線なんてものは無いし、人が住めそうな気配も無い。冷蔵庫とキッチンだけが綺麗になっているが、そこ以外はおよそ人の住む環境ではなかった。ゴミも物もたくさんあって、埃を被っている。床には物が散乱してて、壁には昼間なのにカーテンが閉まっている暗さのせいでカビが発生していた。
そんな中を、フユは悠々と歩いていって、奥の部屋へと向かう。それから、あ、と声を上げて、二つの部屋の前で立ち止まった。
「こことここ、母さんと僕の部屋だから。片付けるのは後にしてね」
「あ? あぁ、分かったけど……ヤバいな、お前。これは病的だぞ」
「だよねー、僕もそう思う。僕もやるからさ、手伝ってよ」
「これ、一日じゃ終わんねーぞ……」
「そしたら日給出すよ。金欠なんでしょ?」
そこまで言われてしまっては、返す言葉も無い。諦めて承諾して、片付けへと入った。
実家暮らしと言っていたが、母の物が多いような気がした。化粧品が入っていたらしい紙袋がそのまま置かれていたり、洋服が入っていたゴミが落ちていたり。あまりフユも物に執着はしないようで、捨てるぞ、と言っても適当な返事が返ってくるだけだった。
こうして片付けをしていると、普段死体処理を担当している職員の気持ちになる。あんなに中身も外身も汚い罪人を毎日綺麗にしているなんて、本当に可哀想だ。俺だったら、日給を払われても仕事体験はしないだろう。
それでも、しばらくすると終わりは見えてくるようで、ペットボトルのゴミ袋が三袋になる頃には、少なくとも生活できる程度には物が片付き始めていた。その頃にはもう、日も暮れていたけれど。
日給を払うと言った言葉どおり、フユは、ん、と言って札束を渡してきた。一万。高くも低くもないな、と俺は思った――日雇いバイトの金銭感覚なんて俺は知らない。
「料理も作るよ。なんか食っていきなよ、せっかくだからさ」
「まぁ……部屋も綺麗? になったしな」
「じゃあ買い出し行ってくるから。あ、明日は母さんと僕の部屋をやってもらうから」
「はいはい」
フユを見送ってから、俺はなんとなく二人の部屋へと向かった。明日片付ける場所がどんな魔境か気になったからだ。ちなみに今日は片付けているうちに例の害虫は出なかった。
母さんの部屋、と言われていた扉を開ける。その途端、生臭さが襲ってきた。この臭いは、血だ。鼻を摘みながら部屋を見ると、壁一面に誰かの写真が貼られていた。芸人だろうか、派手な服を着ている。しかし、写真の中には、メイクも衣装も着ていない普通の大人の写真もあった。床には飾り付けられたたくさんの団扇が落ちていたり、グッズらしき物が落ちていたり、くしゃくしゃに丸められた紙が落ちていたりした。よくよく見れば、その丸められた紙から血の臭いがしてくることも分かる。
芸人の顔に見覚えがあり、携帯で調べてみる。すると真っ先に出てきたのは、ストーカー、と言うワードだった。ニュースを見てみれば、そこにはストーカー被害を報告したとの記述があった。どうやら真夜中に外で刺されたらしく、重傷を負って今も職場に復帰していないらしい。そしてそこで捕まった五十四歳の女性の名前には、見覚えがあった。
セキガハラ。珍しい名字だから覚えやすい。俺の頭の中には、嫌な想像が湧いていた。
犯人たるセキガハラは一言、こう供述していたという。
――愛していたから、殺そうと思いました。
そんな支離滅裂な発言に、コメント欄は大荒れになっていた。
俺は咄嗟に部屋から出た。心臓がバクバクと早鐘を打っている。これは警戒の感情だ。まるでぎこちないロボットのように、徐に首を横に向ける。もう一つの扉は、フユの部屋の物だ。
ごくり、唾を飲み込んでドアノブに手を掛ける。まるで人を殺す前にあるような緊張感を纏いつつ、部屋を開けた。
そこからは何の臭いもしないけれど、それでも目を疑った。この部屋も写真だらけだ。床にはゴミや物が散乱しているのは他の部屋と変わらないのだが、何より壁に目を奪われた。
そこにも、同じように写真が綺麗に並べられていた。目出し帽をした少し背の低い男が、いくつも並んでいる。そして、それを脱いだ姿も――赤い髪に青い瞳。ごく普通にいるような男性。その姿は、俺そのものだった。
この光景を見てはっとする。そうだ、最近つけられていた。写真を撮られたこともある。黒パーカーの背の高い男だった。今思い出せば、車のライトに照らされて目が赤く光っていたような……
「――見たんだね、ナツ」
そう、後ろから声をかけられた。
振り向けば、そこには刃物を持ったフユが立っていた。前髪の下に隠れて表情は見えない。俺が咄嗟に刃物を跳ね飛ばそうとすると、彼は、すっ、と刃物を下ろした。
「ううん、僕は君を殺さないよ。殺すのは君のほうさ」
「……何だって?」
「いやぁ、長かったよ。君を初めて見たときから、今に至るまで……」
フユはゆっくり、ゆっくりと近づいてくる。人影が俺を見下ろしていた。白い頬は赤く染まり、捲った腕には無数の赤い線が引かれていた。
腰を抜かす、というのはこういうことだろうか。全く動けなくなり、その場に座り込む。そうすると、フユも刃物を持って座り込んだ。刺される、と思ったそのとき、フユは俺に刃物を握らせた。ぎゅっと、優しい手つきで。
「君、殺し屋なんだって? 初めて会ったときは驚いたよ」
「お前、なぜそれを……!」
「ずっとね、ずうっと見てたからだよ。君が人を殺すところ! いやぁ、滾って仕方無かった。だって君、それだけ人間のことを愛してるんだろ……?」
「は?」
人間のことを愛してる、と言うフユは、舌なめずりをする。そして強い力で俺の手を掴み、刃物を自分の腹へと向けさせた。
「母さんが言ってたんだ! 人を殺すっていうのは最高の愛情表現なんだって。母さんは僕より安い芸人を、あんなクソみたいな面白くもない人間を選んだんだよ。誰が僕を愛してくれるの? そうだよ、君だよ。君が殺してくれなきゃ!」
「何馬鹿なことを――」
「なに? 僕は真剣だよ? 本当の本当に真剣。ずっとナツが僕のことを殺してくれるときを待ってたんだ!」
あはぁ、と笑う彼は涎を垂らしている。まさに恍惚の極みといったところか。俺は今、フユを殺すように言われているのだ。
「さぁ、証明してよ! 僕のことを親しい友達だと思ってるって。大切に思ってくれてるって! さもなくば、この写真をばら撒くよ!」
「……俺は……」
こめかみがドクドクと音を立てる。手先が震える。人を殺すのにこんなに感情が動いたことは無い。恐怖か、警戒心か、それとも――いや、俺には分からない。ただ漠然と動悸をもたらす不安でしかない。
俺は、見られていたから此奴を殺すのか? 何の正義も無く? 正しいようで正しくない。フユは悪人じゃないし、ましてや――まったくの赤の他人でもない。フユは俺にとって、何だ?
頭がぐるぐると回る。フユは眉を顰め、さらに強く俺の手を握った。
「なに戸惑ってるの? 殺し屋でしょ? なんで殺さないの?」
「……俺は……正義を成す以外に人なんか殺さねーよ……」
「はぁ? 正義?」
フユが目を見開き、低い声でそう言った。
「なにそのくっだらない話? 人殺しは悪でしょ? 何だよそれ、何だよ、くっだらない!」
くだらない。くだらない。彼の言葉がずっしりと刺さる。くだらなくなんてない、そう言いたかったのに、何も言えなかった。フユが泣いていたからだ。頬に一筋、涙が流れる。
「僕のこと愛してないの!? 僕のこと殺してくれないの!? そんなの、僕の片思いみたいじゃん。サイアクだ……!」
「……お前……意味分かんねーよ……」
俺はそう返すことしかできなかった。フユは刃物を自分で持ってふらふらと立ち上がると、涙を拭って部屋から出て行った。吐き捨てるように、こう言って。
「運命の人だと思ったのに。もう帰って。二度と会いたくない」
青い髪から覗く赤い瞳が、憎しみにぎらついている。嗚呼、胸が痛い。もしもこれが感情なのだとしたら、「悲しみ」なのだろう。彼の言うとおり、フユは「運命の人」だったのだろう。
でも、殺すイコール愛であるという彼の考えはとてもじゃないけど理解できなかった。くだらない、と言われた正義に固執していることを知った。自分を歪めることができなかった。
俺も立ち上がり、部屋から出ていく。今後どうなるかは分からない。それでも、呆然としたまま夜道を歩くことしかできなかった。
……その後、彼が写真をばら撒くことは無かった。そして、学校に来ることも、二度と会うことも無かった。
◆
「ナツはさ、本が好きなんだよね」
これは過去の回想。俺の部屋に遊びに来たフユが、不意に言った一言。
確かに俺は本を読むのが好きだった。部屋には本がたくさんあって、棚に入りきらないくらいだった。フユはそのうちの一冊を取り上げて、爽やかな笑顔で言う。
「ナツはどの本が好き?」
俺はその問いに答えられなかった。好きな本なんてものは無かったからだ。心を動かされたものも、涙を流して読んだものも無かった。ただ、本を読むことが好きだった。文字を読んでいるうちは無になっていられたから。
フユはそれを、活字中毒なんだね、と都合良く理解してくれた。そして本を戻すと、僕はね、と話し始めた。
「好きな本があるんだ」
「へー。どんな本?」
「先生と女生徒の話なんだけど。女生徒がね、先生が集めている標本に嫉妬をするんだ」
そう言って、遠くを眺める。赤い瞳は仄かに光っていて、奥で煌めいていた。
「それでね、自分にピンを刺すんだ。先生の前にピンだらけの姿で現れるの。先生はそんな女生徒を抱きしめて、そこでおしまい」
「めっちゃ怖いじゃん」
「怖いかなぁ。まぁ、フツーじゃないけどさ。そんな愛の示し方もあるんだな、と思ってのめり込んじゃった」
「こっわ」
俺があまりにも怖い怖いと連呼するので、フユは口を尖らせて拗ねてしまった。ごめん、と言えば、良いよ、と優しく返してくれた。
「まぁ、理解されないよね。でも好きなんだ、僕。何度も読み返すくらいはさ」
そのときのフユの顔はよく覚えている。目が艷やかに光っていて、頬が赤く染まっていて、花唇を描いていて、まるで何かに恋するかのような、惚れているような、そんな綺麗な顔だった。顔が良い人が恋をするとこんな顔をするのだろうか、そう思った。
……そんな顔をした遺影が、今俺たちの前にある。
退学をした五年後、フユは殺害された。出会系アプリで出会った女性に刺し殺されたらしい。フユのことが大好きだったサクラダゼミの女子たちや、もともと彼と友達だった大勢の人がフユの死を悼みにここに来た。
たいそう幸せな顔をしていたのは、彼女がいたからだと結論付けられていた。結局、その彼女に殺されたわけだが。嬉しそうな顔をしたフユとは対照的に、人々は涙を流して彼の死を悲しんでいた。俺はそんな場所に居づらくて、一人外へと出る。
タバコの箱に手を掛ける。昔に比べて吸う量が増えた。サクラダゼミの友人たちとも縁が緩く切れて、もう誰も俺がタバコを吸っている姿を見て意外そうな顔をする人もいない。きっとここに参列した仲間たちにとっても、大学の思い出の片端にあるどうでも良い記憶の一つになっているだろう。
メンソールを大きく吸い込んで、煙を吐く。煙は空へと上っていって、星々を隠した。今日も暗い夜だ。
俺はフユが死んでも涙を流すことはできなかった。昔フユと話したときと同じだ。だが、それには理由がある。きっと俺以外の誰も知らない、理由が。
人を殺すとき、ときどき彼の顔が過ることがある。そして、手が震える。人を殺すことを恐れるかのように。感情なんて無かったはずなのに、今ではその恐怖に怯えながら過ごしている。俺があのときフユを殺していられれば、こんなことは無かったのだろうか。
――なにそのくっだらない話? 人殺しは悪でしょ? 何だよそれ、何だよ、くっだらない!
そのくだらない正義感に、今も俺は縋っているんだよ、フユ。
叶わなかった愛を想うと、胸が押し潰されそうになる。それを忘れるように、俺はタバコをもう一本口に押し込んだのだった。
取り留めのない短編集 神崎閼果利 @as-conductor
★で称える
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