化粧

風子

第1話

背後に感じた気色悪さに、全身が強ばった。わたしは思わず振り返ってしまう。部屋の静けさが肩越しの天井に、見えない重みを加えた。人の気配は、気のせいのようだった。背後には誰の姿も見当たらなかった。

最上級の美しさが母であることに気付いたのは、わたしが生まれて十数年も経ったつい最近のことであった。

滑らかな白い肌や、まっすぐな長い睫毛はもとより、やわらかく描いた眉から綺麗に閉じた唇を縁取る紅の色にいたるまで、化粧の選び、巧みさ、すべてが揃って母を作り上げていた。その顔から立つ芳香に魅せられたわたしは、すでに嫉妬でがんじがらめになってしまっていた。母の顔がちいさな四角に区切られた範囲だけしか見えない美しさになってしまっていたとしても、わたしは胸を掻きむしりたくなるほどその顔を疎んでいた。

前に押し出した足に、背の低い椅子が当たった。鏡台に付属している椅子だった。母の好んでいた、縦に長い三面の鏡はすでに開いてある。生唾を飲む音がいやに響く。鏡に吸い寄せられるように腰は勝手に椅子へと落ちた。わたしは母の鏡を覗き込む。いままで美しい顔を映し続けていたはずの鏡には、母より数段ぼんやりとした印象であるわたしの顔が映った。母の血を色濃く継いでいるはずの顔はその実、粗がとてもよく目立った。とりわけ額にできた小さな吹き出物の跡に眉をしかめる。母の、白い陶器のような額を脳裏に描く。鮮明に思い起こすほどに、鏡の中の自分に眼を瞑りたくなる。いわば自虐行為となっていた。臓に食い込む惨めな心境をなかったことにして、映った顔を睨みつける。

わたしは化粧を思い立った。

鏡台に据えられた化粧ポーチに手を入れ、乱暴に掻き回す。オシャレなコンパクトやらメイクブラシのようなものが、不規則に動く五本の指に掴まれてはまた中に戻る。今まで化粧をする機会が少なかった私にしてみれば、それらが一体どこに塗られ、どこを描くための道具であるのか、あやふやであった。摩訶不思議なものを詰めたポーチを大量に荒らしているという自棄だけが冷え切った手のひらに残った。

何度もかき混ぜた中からようやく、ファンデーションを取り出した。ブラシの毛先にファンデーションを移して顔にあてる。ひと撫ですると、隙間なく塗ることだけを意識して手が動いた。

わたしは微かな期待をもって閉じていた眼を開ける。しかしそこには、以前とさして変わらないぼやけた顔が鏡の表面にうすっぺらく張り付いているばかりであった。少しばかりのため息がこぼれた。肌の表面がかさかさと乾いて息苦しく感じる。口の端をゆがめながら、ふたたびポーチへ手を突っ込む。切れ長の眼にかぶさる瞼はとろりと眠そうに垂れていて、わたしはリキッドアイライナーでそこに睫毛を書き足した。慣れない化粧道具を手に取るたびにどうしたらいいのかわからないわたしを差し置いて、自分勝手な手は次々と化粧を施していく。

顔作りの見本として、母を思い描いていることにわたしは次第に気づかされるのであった。

奥行きのない鏡の中のわたしは、半眼になって首をかしげる。生気のない顔に、何かが足りない。足りないものはすぐに思い出せた。それは、化粧をしない人間にさえあまりにも強い印象をあたえる、ある種、不可欠な化粧道具であったからだ。しかし、ポーチを何度、掻きまぜてみても、目的のものは見つからなかった。ないはずはない。鏡から外した視線を床に彷徨わす。はずみで落ちてしまったのかもしれないし、落ちれば転がるものであったからである。ひとかたまりのホコリさえ見逃すまいと舐めるように畳を這う目線は、部屋の敷居を超えたところでぴたりと止まった。ああ、やはりあった。わたしはみつけたものを拾うべく、鏡台を離れて手を伸ばす。これがなくては完成しない。拾いあげたのは、人差し指ほどの大きさの口紅である。捻ると、真っ赤な顔料があらわになった。つやつやと濡れた紅を唇に乗せることを思うだけで、わたしはすでに母に勝ったような気になっていた。

母の顔はどこまでも作り物のようで、ひらたくいえば、この世のものではない美しさだった。完璧なまでに整い、配置された双眸は筆で描いたように閉じられており、すっと結ばれた唇の赤さがいつまでも際立っていた。

母の唇の形を思い出しながら、紅を唇に押し当てる。ぎゅっと横に引いた手に、紅を引いた弾力は残らなかった。訝しさに眉をひそめ、唇から紅を離すとその先端を凝視する。力を入れて引いたためか、不規則に丸くなっていた。


箱の中の母。小さな四角の窓越しに見て、あらためて、わたしは母を美しいと思った。等身大の箱にぴったりと行儀よくおさまっている。閉じられた瞼は、もう二度と押し上げられることなどなく。わたしは、畳の上に横たわる白っぽい棺の脇に膝をついた。動くたびに、部屋に充満する線香が薫った。わたしは母だけを見ていた。いつもより一段と白く透き通るような母の顔に、わたしは精一杯、自分の顔を近づけるのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

化粧 風子 @yuu1204

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る