傾倒

篠宮りさ

傾倒

 夏江が結婚するらしい。

 驚いた。恋人の影なんかまったく感じなかったのに。

 あれほど待ち焦がれていた模試の結果が霞んで見える。次の定期試験の範囲もどうでもいい。とにかく夏江に会いたかった。夏江に直接その事実を確かめたかった。職員室のドアを閉める頃には、私の心臓はドクドクと私を強く叩いていた。

 本当に夏江は結婚するのだろうか。でも私たちは、まだ高校生だ。それに、今結婚なんてしたら、受験に差し障るし、第一どうやって結婚生活をするつもりなんだ。誰と結婚するんだ、どんな人なんだ。結婚ってことは、夏江もその結婚相手に恋愛感情を持っているのか。夏江が誰かを好きになるなんて考えられない。夏江、嘘だと言ってくれ。

 いつもの渡り廊下までが長い。西棟の渡り廊下はガラス窓で、そこからはちょうど向かいの東棟にある階段が見える。その階段の踊り場には校章をかたどったステンドグラスがはめられており、夏江はどうやらそのステンドグラスの下がお気に入りの場所なのだ。私はそれに気が付いてからたびたびわざと教室から遠いその渡り廊下を歩くようになっていた。三回に一回の確率で夏江はいた。ステンドグラスの光が届いた夏江は本当にきれいだった。しかしほとんどその姿は見られなかった。東棟はあまり使われておらず、電気が消され昼間でも暗い。太陽光だけが頼りの暗闇だった。特に梅雨になると太陽の出る日は極端に少なく、ステンドグラスもくすんで見えるほどだ。そんな日でも夏江はあの場所にいた。きっと湿気が多く濁った空気さえ流れているだろう場所に。夏江の意図は分からない。夏江はクラスにいても何を考えているのか分からないような奴なのだ。

 ふと考えがよぎる。

 私は今夏江に会いに行こうとしているのか?

 渡り廊下についた。向かいの校舎に、夏江は、いた。夏江がいつもと変わらずその場所に佇んでいるのが嬉しく、思わず安堵する。夏江はいつも通りステンドグラスの下で、階段の手すりに肘をかけて身体を預けていた。今日は雨だった。西棟と東棟の間には絶えず水の槍が降っていた。それは私にそれ以上夏江に近づくなと言っているようだった。私は真っ先に、心臓が高鳴る前に行こうと思った。傘もささずに西棟から飛び出した。本当は二階に階段があるのだが、そんなことを考える余裕はなかった。思った以上に雨は強く、水滴が鋭い槍となって私の身体に刺さった。しかしそんなことはどうでもよかった。私は手で雨を避けるでもなくただ走った。感情に踊らされているのは重々承知していた。どこかでチャイムの音が聞こえる。私はその音をも振り切るように走った。東棟に到着する頃には、私の制服はほとんどが濃く変色していた。

 思った通り東棟は暗い場所だった。湿気で空気がどんより沈んでいた。ぽたりと私の指先から水が滴る。ぽたり。数回それが続いたところで、私は意を決して足を踏み出した。廊下を曲がると急に開けた場所になる。昔使っていたであろう食堂や部室が暗闇の中で息を潜めていた。右を見ると大きなステンドグラスが見えた。そして夏江は、その下で何ということもなく雨を眺めていた。

 どう声をかけようか迷っていると、夏江が振り向いた。少しも驚いた様子は見せず、ただずぶ濡れの私を雨を見るのと同じ目つきで眺めていた。こんなに近くで、正面から夏江の顔を見たのははじめてだった。一重瞼からは長い睫毛が何本も生え、毛先は少し上を向いていた。瞬きすると暗闇の中で睫毛が艶めいてよく見えた。夏江の顔は地味ながらも端正だった。すらりと通った鼻筋は鼻の存在感を消すのに十分だった。一文字に締められた唇は薄く、ほんのりと血色感が感じられた。そして極めつけはたくさんのそばかすだ。鼻筋から横に広がったそばかすは夏江の纏う端麗な美しさを大きく助長させていた。

 私は恥ずかしくなった。私は私の容姿を自分で自覚しているつもりだった。私の大きくて低い鼻や分厚い唇はまさに夏江と対照的だった。この場において、勝者は夏江であった。圧倒的な優劣がこの瞬間に体現されていた。ずぶ濡れの自分が醜く思えた。前髪から水滴が垂れた。その水滴は私の鼻の横を伝って顎から落ちた。

 先に口を開いたのは夏江だった。何か用?と、夏江は表情を崩さずに言った。私は負けじと言い返した。君が結婚するというのは本当?と。

 夏江はまたその話かと言わんばかりに私から目を背けた。本当だよ。その言葉はどこかで私が何度も想像した言葉通りだった。本当だよ。予想していたはずなのに、その言葉は私が思っていたよりも重く私にのしかかった。何度か頭で反芻する。血が上る。一瞬くらりと世界が少し傾いた。そうか、夏江は結婚するのか。


 夏江は高三の大事な模試を前にいとも簡単に学校を去った。夏江の席はそのまま隣の派手な生徒の荷物置き場になった。もともと夏江には友達が一人もいなかったので私たちの世界はそう変わらなかった。ただ私の目の端には、体操着やお菓子の空き箱が積まれた夏江の机がちらちらと映った。夏江と話したのはあれが最初で最後になった。

 私は悲しかった。私は明らかに夏江を神聖視していた。夏江は他の生徒とは違っていた。身に纏う空気から指先まで全てが美しかった。だからこそ、結婚なんて俗っぽい言葉は夏江には似合わないと思った。夏江はそんな言葉とは無縁の生活を送り続けて欲しかった。

 もう夏江には会いたくなかった。結婚した夏江は私の求める夏江ではなかった。しかし何を言ったってもう夏江には届かない。夏江はきっと遠いところへ行ってしまった。夏江は夏江ではなくなったのだ。

 西棟の渡り廊下を通ると、向かいに東棟が見える。東棟の窓にはステンドグラスがはめてあって、光が入ると黄色やオレンジの光が反射してとてもきれいだ。春、私は高校を卒業した。晴れた日だった、桜の花びらがそこかしこに落ちていた。私はきらきら光るステンドグラスから目を逸らした。夏江のないステンドグラスには魅力を感じなかった。

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傾倒 篠宮りさ @risa0621

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