現代百物語 第36話 河原にて

河野章

現代百物語 第36話 河原にて

『センパ……藤崎さん、今時間ありますか?』

「あるけど……どうした?」

『ちょっと困ってまして……』

 びゅうっという突風のような音が、時々谷本新也(アラヤ)の声を遮る。

 藤崎柊輔はスマホをスピーカーにして音量を上げた。電波も悪いのかザーザーと時折雑音が混じっている。

 日曜のうららかな昼間だった。藤崎の家では庭の桜も散り、新緑が芽吹き始めている。

 仕事の執筆が一段落したところだった。

 気持ちの良い風に誘われて、茶を一服と席を立とうとしたところだ。

 一方の新也はスマホを手に河原を歩いていた。

 周囲は夕方が近いのかもう薄暗い。曇った空には日光の名残もなく、春先の冷たい風が吹いていた。

 雨などは降っていないのに、ぴちゃり──と、背後から音がした。

 先程からずっと続いてついてきている。

 湿った足音と、なにかを齧り咀嚼する湿った音。それが交互に聞こえる。

『あの──またなにか、拾っちゃったみたいで』

 そっと肩越しに振り返ると、泥だらけの裸足の、爪が所々剥げた小さな足が見えた。

 ばっと顔を前に戻す。

 藤崎は顔をしかめた。またいつものか……と思う一方で、スマホ越しではよく状況がわからない。

「お前今、どこにいるんだ?」

 あまりの音の悪さに、藤崎は声を大きくして聞いた。

 ガビガビとした音質のまま、新也が答える。

『それが、わからないんです。午前中に、ちょっと買い物に出たはずなんですけど』

 手元のコンビニの袋を揺すって音を聞かせる。

 足元は湿った土だった。どうやら堤防の上。

 ただおかしいのは左右がともに草原の下り坂になっており、水位の上がった濁った川に挟まれていた。川はゴォゴォと音を立てて流れている。

 周囲は段々暗くなっていっているようだった。

『そっちは、昼間ですか?』

「午前十一時過ぎ……だな」

 スマホをタップし、時間を確認して藤崎は答える。

『そっか……知らないうちに河原を歩いてて、それでもう二時間近く歩いているんですけど』

「帰れないのか」

『道が……まっすぐ続いているだけで……どこに……』

 音が聞きづらい。

 スピーカーのまま、藤崎は耳元へスマホを近づけた。

 その時だ。濁った、粘つく様な男の声が聞こえた。

『ぞこにぃるのは誰だ』

 思わず、藤崎はスマホから耳を離した。

 ──何だ?

 新也の声ではなかった。

『たれだ』

「お前こそ誰だ」

『俺か──ぉれは……だ』

「何だって?」

『俺は、死んだ!』

 声が叫び、プツリと音声が途切れる。

「新也!?」

 再度、履歴から新也の番号を押そうとして、藤崎の指先は固まる。着信者不明の不在通知がズラッと並んでいる。

「そんな……」

 後にはスマホを握るだけの藤崎が残された。

 

「先輩!?」

 いきなりだった。

 藤崎が自分ではない誰かと話し始めたかと思うと、次第に藤崎の声が遠ざかっていき──名前を『新也!』叫ばれて、通話は切れた。

 気づけばじっとりと手のひらに汗をかいている。

 不意に、耳元で腐った魚のような匂いとともに粘ついた声がした。

『借りぃ……たぞ』

 ぞわりと背中に冷たいものが走る。

 足元を確認すれば、先程の小さな子供の汚れた素足が、自分のすぐ後ろにいる。

 多分小学校の低学年くらいの子供だ。

 だが濁った声は大人で、新也のすぐ耳もとで響いた。

 後ろに何がいるのか……。

 道はまっすぐ続いている。川はゴォゴォと流れて渡れそうにない。

 後ろは……怖くて振り返れなかった。

「先輩……どうしろっていうんだよ」

 頼みの綱の藤崎とは通話が切れてしまった。

 通話履歴を見ても、不在着信ばかりが並び、先程まで立っていた電波の印も今はなくなっている。

『ぁるけ……歩け』

 後ろの声が命令してくる。

 いつかは開放されるだろうかと慄きながら新也は歩き続けるしかなかった。



【end】

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