生きてて、えらい。
柳人人人(やなぎ・ひとみ)
第1話
私には特殊能力がある。
けど、ファンタジーでもSFでもない。ただの変哲もない現実の話だ。そう、これはなんでもない筆者の
それは、目の前に裸の女性がいて、その人にまさに悪魔という形状の尻尾があったとしても、だ。
「きもちいい?」
三月の寒空を背景に、温泉の染みる感覚にふやけていく私の頭上から女性の声が落ちてくる。
わしゃわしゃ、と。やわらかく心地よい振動が頭の中に響く。
ほんのり温かい石鹼の匂い。耳の後ろから頭の天辺まで包む。
「ふふっ♪ お顔がとろけてるよ?」
そのとき突然、ふーっと。耳に息を吹きかけられる。
彼女は細い唇をさらに薄くして、笑った。鼻がふれてしまいそうなくらい、顔が近い。しかし、彼女の紅い瞳で見つめられた私は離れることができなかった。その容姿のとおり、まさに小悪魔と言えばいいだろうか。
布一枚隔てた裸体の女性が、こちら頬をくすぐりながら微笑むのだ。内なる童貞が暴れださずにはいられない。
吐息をかけるように小さく囁きながら、ハート形の尻尾で耳を突いてくる。
その肉体に手を伸ばす――そのときだった。
「いかがでしたかぁ? 今回の配信は」
その言葉を聞いて、目を見開く。パチリッと視界に見知った白い天井が映った。
周りを見回しても温泉はなく、ただ自室のベッドがあるだけだった。
『次もまた会おうね』
パソコンの画面で悪魔の格好をした女性キャラクターが笑っていた。夢と同じように。
………もうすこし、もうすこしだけあとに目を覚ましても良かったんだぞ、私! と、激昂しても夢の続きは見れなかった。
「まぁ、でも……実験は成功か」
これが私の特殊能力――『夢で好きな相手と会える』というものだ。枕の下に写真を入れるような、ありふれてしょうもないお
「ハクシュンッ!」
盛大にくしゃみを散らす。自分の姿を見下ろすとパンツ一枚だった。クオリティへの飽くなき探究心は自分の長所だと思っているが、さすがにこの格好に三月早朝の寒さは堪える。枕元に用意しておいた服に手を伸ばす。
「うっ、つめた……!」
袖を通すと冬場独特の感覚に全身が縮みこむ。でも、そんなことも言ってられない。やれることは全部やる。そう、決めた。
私に残された時間はもうあまりないのだから。
… … …。
あれは半年前のことだ。
その日も私はASMR動画を聴きながら寝入った。ASMRとは立体音響などの刺激で脳がゾワゾワする感覚のことで、そのリラックス効果は安眠に最適だった。
すると、夢の中でとあるキャラクターが出てきた。それはバーチャルYouTuber(某動画配信サイトにてキャラクターの姿で活動する人)で、ASMR動画の投稿者だった。
最初こそ驚いたが、夢の内容が動画内のシチュエーションと酷似していたことである計画を企てた。そこから、いろいろと試し始めた。
『夢で好きな相手と会える』と言ってもいくらかの制限がある。正確に言えば『特徴的な声で』『容姿が想像できる相手の』『ASMR音声を聴きながら眠る』ことでその相手に会える。それに必ず成功するわけじゃない。三回に一度会えれば上出来だ。夢ではその音声のシチュエーションが反映されやすい。ここ半年でさまざまなASMRを聴いて実験を試みた結果、分かったのはこのくらいだった。
この能力を極めれば、文字通り夢が叶う。まさに夢は無限大だった。
今までの研究を
ASMRでは音声や機材の違いはもちろん、その日の耳の調子によっても左右される。聴く状態になっていない耳で聴いてもうまくASMRに没入できない。
それに夢を見るためにはレム睡眠、つまり眠りの深度が大切である。そのためには眠気があまりなく、けれども音を聴きながら寝られる絶妙なタイミングを狙わなければならない。疲れはあるが眠くはない……時短された仕事から帰ってきたような、ちょうど今みたいな状況だ。
この二週間、タイミングを見計らってやっと訪れたベストコンディション、これは夢が叶う――などと意気込むのは禁物だ。期待に胸が高鳴っては寝付けなくなる。本末転倒だけは避けなければならない。このミッションは慎重かつ大胆さが求められる。なるべく思考を空っぽにして、自然に炬燵布団の間に挟まるのだ。
ちょっと高めのワイヤレスイヤホンに新調したのも、音声編集ソフトの操作を覚えたのも、この日のためといっても過言ではなかった。
用意しておいたプレイリストを再生を始める。
『ちゃんと生きてて、えらい』
『ちゃんと食べれて、えらい』
『ちゃんと寝れてて、えらい』
『好きなことを好きなだけできて、えらい』
やわらかい声が耳を撫でる。
一番目は『ひたすらあなたを褒めまくる』というタイトルの動画。今回の計画には関係ないが、最近のお気に入りである種のお呪いみたいなものだ。
二番目は眠りに就くための声無しASMR。微風の吹きぬける感覚が左右の耳から交互に揺さぶっていく。
本番は三番目以降。不安も期待も全部呑みこんで
チリンッ チリンッ
どこかで鈴の音が鳴る。すこしずつ近づいてくる。
やわらかく温かいなにかが足元をすり抜けて、炬燵から出ていく。そして近くに寄って、私の額にかるくキスをした。
ああ。ああ。
一年ぶりだね。
やっと会えたというのに、キミは答えない。けど、静かに見下ろしている。今目を開けると夢が覚めてしまいそうだったが、気配ですべてを感じとれた。
キミはこちらから近寄ったらそっぽを向くくせに人肌が好きだった。とくに炬燵は大好物だったね。去年はずっと炬燵に入り浸っていた。本当に、生きてる間はずっと。
そう、去年、キミはこの炬燵で亡くなった。
去年の夏頃からキミは入退院を繰り返して。
目も見えなくなって。
耳もほとんど聞こえなくなって。
足が動かせなくなって。
自力で食事もできなくて。
いつしか声も聞かなくなって。
どんどんやせ細っていって。
そして、冬を越えれなかった。
朝起きて、死んでるキミを見つけた。
ぐったりと倒れて、虚ろな目でなにかを見ているようで。
助けを呼ぶこともなく、ひっそりと死んでいた。葬儀も身内だけでそっと執り行った。
それから私は軽度の睡眠障害になったんだ。安眠のためにASMRに手に出したのもその頃だったかな。
あれから一年、色々あったよ。キミに合わせていた生活リズムも変わったし、職場も変わった。
キミにとって私はどういう存在だったんだろうか。
キミのために私はなにかできただろうか。
こんなことで悩んでいると知ったらキミはなんて思うんだろう。
なんて。いろいろ考えて、考えて。キミがいなくても季節は巡って、なにもかも変わって。今日も必死にしがみついて頑張ってる。
だから、この冬中にどうしてももう一度キミに会いたかった。暖かくなって、この炬燵をしまう前に。だって、さよならを言うには、来年の冬じゃちょっと遅すぎるだろう?
チリンッ チリンッ
鈴の音がする。遠くで鳴っている。
ああ。ああ。
今度こそちゃんとさよならを告げたかったのに。
温もりが手元からすり抜けていく。
行かないで。いかないで。
手を伸ばしても、届かないのに。
もっと強くなるから。一人でも生きられるように。
だから、だから。
夢の片隅でもいいから。
見守っていて。
けど。
声がする。キミの声が。遠くで。
もう、夢が終わる。
『生きてて、えらい』
その言葉は光になって、瞼に突き刺さった。滲んだ視界が夢から醒めたことを物語っていた。どうやら音声はループ再生で最初に戻されたようだ。
『ひたすら褒めまくる』というタイトルの誰も登場しない映像に音声だけが流れる動画、そのバッググラウンドに猫の鳴き声が聞こえる。編集ソフトで私が入れたものだった。
みゃぁ…… みゃぁう!
聴き慣れた、特徴的な声。いつか録音した音声。
動画と音声のプレイヤーを停止させて、背伸びを一つ。
いい朝だ。春の陽気をどこか感じる。庭で眠っているキミに挨拶して、今日も出掛けよう。口の端に言葉を携えて、今日も。
「生きてて、えらいっ」
ここで生きていたいから。
生きてて、えらい。 柳人人人(やなぎ・ひとみ) @a_yanagi
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