音姫について考察したら2時間経っていた

皆さまは「音姫」をご存知でしょうか。これはトイレに設置される、流水音を流す電子装置の登録商標です。「音姫」なる雅な名前で呼ばれているのはTOTOの製品だけで、正式には「トイレ用流水音発生機」などと呼ぶそうです。まあ、以下、この種の機械を私は音姫と呼称しますが。


そんな音姫ですが、元々は放尿音に羞恥心を感じる女性が、木を隠すには森とばかりに水洗式トイレの水を流しながら用を足していた現実に節水の必要性を感じた業者が開発したようです。自らの恥を隠すために水を一度余分に流す…などと言うのは実は他国ではあまり見られないらしく、日本人女性特有とも言われています。よって、音姫の認知度には日本国内でも男女により多少差があるようです。

しかしながら、ある時、この音姫について職場の同僚がある発言をしたがために、私は2時間も音姫についてガチ考察する羽目になったことがあります。同僚をAとBとしてその時の会話を再現しましょう。


A「大変です! 女子トイレの水が流れたまま止まらなくなってます!」

B「ありゃあ、リアル音姫ですか」


ごく普通の会話に見えますね。しかし私は、Bの言った「リアル音姫」という言葉が妙に引っかかりました。デジタルでないリアルの流水音ゆえにリアル音姫、分からなくはないのですが、どうしても何かが引っかかります。これを頭に留めたまま帰宅し、私は夕食を胃に放り込みながら、風呂に入りながら延々と、リアル音姫がなぜおかしいかについて考えました。


ではここで一つ、言語学の概念を紹介します。認知言語学の領域に、意味拡張というものがあります。これは『ある語において従来とは違う新たな意味が派生すること』(「シリーズ認知言語学入門 第3巻 認知意味論」松本 曜 編を参考)を指します。例えば「私は犬を飼っている」は普通に動物のイヌを指しますが、「あいつはまるで政府の犬だ」と言えば飼い主に忠実な犬のごとく政府の言う通りに動く人のことを指しますね。この場合には前者が基本的な「プロトタイプ的意味」、後者が拡張された意味です。こういう時には大体、具体的な物を指すプロトタイプ的意味から、抽象的なことを言うように変化していくきらいがあります。考察の際、これを音姫を利用した様々な表現に当てはめたらすっきりしました。ではその実験を見てもらいましょう。


【チキチキ!音姫という言葉はどこまで通用するのか!? 大実験スペシャル!】

①まずは実験のために音姫の定義を固定しておく(これがプロトタイプ的意味でもある)

定義: 音姫は録音された流水音を再生する電子装置である。


②音姫についてできる限り例文を作る

a「節水のために音姫を使いましょう」

b「せせらぎの音を録音した。不謹慎だがまるで音姫のようだ」

c「音姫の電池が切れていたので、しかたがなく水を流してアナログ音姫にした」

d「万が一のためにスマホに音姫のアプリをインストールした」

e「野外で用を足す音を隠すため、野生の音姫を探した」


③考察する

aからeの分はプロトタイプ的意味から、拡張された意味になるように並べています。aは言わずもがな、音姫という具体的な物を指しています。少しずつ抽象的にしていきましょう。bはせせらぎと同じく流水音を発する音姫を比喩の対象としています。「〜のようだ」とあるので直喩ですね。cは現実の水洗による流水音をその代替品として作られた音姫のさらに代用にしています。

そこで、ここで目をつけて頂きたいのが、a,bとcでの音姫の意味の変化です。最初2つの文では音姫は流水音発生機そのものですが、cでは「用を足す音を隠すための流水音」そのものを音姫と呼んでいます。アナログというのがミソです。この形容詞があることにより、電子部品の力でなくアナログな水洗の仕組みに頼って音姫から再生されるはずの流水音を実現しているのです。ここで一度、音姫は具体的な物から抽象的な概念へと拡張されていると私は考えました。

さらに見ていきましょう。dでは、現実に存在する音姫という実体を伴う機器が、スマホ内のプログラムで機能するバーチャルなものになっています。実際そのようなアプリはあるのですが、もちろんその名称は音姫ではありません。最後に、eの「野生の音姫」です。この場合、例えば山で遭難して、それでもなおあの音を誤魔化すために音を立てて水が流れている所を探したと言っているのです。これらc〜eの中では、流水音そのものが音源の仕組みは何であるにせよ、音姫という呼び方をされているのです。

ここまで考えて、私はなんとなく「リアル音姫」の真相に近づいた気がしました。


④Bの発言のリアル音姫に違和感があった理由

では例文にも触れながら考察をします。B「ありゃあ、リアル音姫ですか」という発言でしたが、違和感を感じた原因というのは多分これらです。


1: 音姫というのはそもそもバーチャル流水音を流す機械である。

現実世界に存在する音姫とは、デジタルの流水音を再生する装置です。それならば「リアル音姫=バーチャル流水音発生機」なのだから、流れ続けるトイレの水とその音はいわばアナログ音姫で、よってリアル流水音は本当の音姫ではないのです。


2: c〜eの例文では、話者は流水音を「用を足す音を隠す」目的で話題に出している。しかしBの発言はそうではない

これには人間の意志というのも関わってきます。そもそも音姫は「恥ずかしい音を隠したい」女性の思いから生まれたもの。それならば、TOTO等が出している装置以外の流水音をその目的で使用すれば、私が出した例文のように、拡張された意味での「音姫」が成立します。しかし、Bはただ流水音を例えるためにこの言葉を例えで使ったのです(例文bに近い)。それならばこれは目的に基づいた流水音の使用ではない―したがって、リアルという形容詞も合わさり違和感があったのではと考えています。


【まとめ】

なんとこのような内容に2600字も費やしてしまいましたが、例えである以上、トイレの故障による水の流れは本当(リアル)の音姫とは例えられない。メタファーやシネクドキーという概念までも持ち出すとえらいことになりそうなので止めましたが、疑問はとりあえず解決しました。また、音姫は「放尿音を隠したい」 意図で流水音を使えば、成立するということも分かりました。人の意志あってこその産物というわけなんですね。長々と書きましたが、今日はこの辺で。


どっとはらい


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和毛雑記帖 和毛玉久 @2kogeta9

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