ハル

更科 周

ハル

 秋でも冬でも夏でもなく、春が嫌いだ。と彼は言う。


 最も日本で愛される季節だと言われているが、それでも彼は春が嫌いらしい。うららかな日差しが彼の庭に差し込み、あたたかな風が吹いているにも関わらず春になると彼の縁側の障子はぴしゃりと閉じられていた。筋金入りだ、と近所の者は彼を笑ったものである。普段心穏やかな彼がそのような態度をとるのは周りの人間にとってふしぎなことであった。しかし、そのような態度をとるというのは何か理由があるのだろうとみなが考え、春の間は誰も彼の家に近づこうとしなかった。それぞれの家の子どもをちかづけさせることもしなかった。ある意味で近所の者は彼にとって優しかった。しかして、春の彼の家はまるで冬の国にあるようであった。


 彼は一人で暮らしている。十年も前に事故で妻を亡くしてからずっと一人でこの家に暮らしている。妻が死ぬまで随分と任せきりであった家事なども随分と一人でできるようになった。薄暗い部屋の中で茶を入れる。こぽこぽという音が部屋の中に響いていた。春の午後の事である。


「郵便です」

 古めいたインターホンの音が、彼を呼んだ。彼には親類も手紙をくれるような友人にも心あたりがなかった。自分を知っている人ならばこんな時期に手紙をよこしてくることはしないだろう、と彼は訝しがりながらも重い腰を上げた。


「はい、お待たせしました」

 門の外で待っていた郵便屋は小柄な女性だった。

「お忙しいところ申し訳ありません。はい、これ桂木さん宛てのお手紙です」

 郵便屋は謝りつつ、一通の手紙を彼に手渡した。

「手紙ならポストに入れてくれればよかったのに」

 インターホンを鳴らすものだから、書きとめや速達なのではないかと彼は考えていたのだ。ポストがありながら一通の手紙のためにインターホンを押すというのは変なことだ。

「それ、大事な手紙なんじゃないかと思いまして」

 ふふ、と郵便屋は笑った。何故そのようなことがわかるのか、彼にはわからなかった。なんだこいつは、と彼が呆気にとられていると郵便屋は、「それでは、また」と去っていった。


 彼女の言ったことがわからないまま、彼は家の中に戻りながら手紙を確認した。桜色の封筒は透けそうなほどに薄く、なめらかな和紙でできていた。


差出人の欄にあったのは、死んだはずの妻の名前であった。住所は、彼の家で。


彼の胸は詰まりそうだった。悪い冗談だと笑い飛ばそうとしてみたが、空笑いに終わってしまった。どういうことか郵便屋に問いただそうと踵を返したが、とうにどこかへ行ってしまっていた。焦る感情を抑えながら家の中に戻り、手紙を開けることにした。

悪い冗談であってくれ、と彼は呻いた。しかし、薄い和紙に書かれたやわく美しい文字の羅列はどう足掻いてみたところで長年愛した妻のものであった。内容は当たり障りのないもので、元気にやっているか、食べるのに困ってはいないか、といった彼を気遣うようなものであった。

その晩彼は一人で泣いた。十年ぶりの涙は、白い枕を鼠色に染めた。そして、春にはいいことなどないとまた春を嫌いになった。


それからも週に一度か二度、死んだはずの妻から手紙がくるようになった。はじめは悪いいたずらだと信じて疑わず、悪意に身を慄かせていた彼であったが、愛しい妻の手紙を待たずにはいられなくなっていた。  

いつも運んでくるのは女の郵便屋だった。手紙の出どころを聞こうとするが、いつも適当にはぐらかされてしまっていた。あまり無理に聞くと手紙が届かなくなってしまうような、そんなような淡い不安が彼にそれを聞けなくさせていた。しばらくの彼の生きがいは手紙が届くのを待つことであった。


「その手紙、お子さんからなんですか。随分と楽しみにしておられるようですけど」

ある日、郵便屋がそう彼に尋ねた。同じ苗字からの手紙であるから、そう思うのは自然だろうと考えられた。

「いいえ」と答えて、彼は少しはにかんだ。死んだ妻からだと言おうものならこいつは頭がおかしくなったと思われるだろうと思った。そして、はぐらかそうと別の質問をすることにした。

「今日こそ、教えてくれてもいいんじゃないですか、この手紙の出どころ」

郵便屋はまたか、と言わんばかりの顔をしてふう、と一息ついた。

 「じゃあ、一つ質問に応えてくれたら教えてあげますよ。この手紙の出どころ」

帽子の下から読み取れない表情に彼は困惑した。


「桂木さんは、どうして春が嫌いなんですか」


彼は何故一介の郵便屋に自分が春嫌いであるということを知られているのだろうかと不思議に感じた。そして、表情の消えた彼女の顔を見て、答えなければならないような気がした。

「近所の人に聞いたんです。いつも穏やかな桂木さんは春になるといつも様子がおかしいって」


 しばしの沈黙の後、彼は口を開くことにした。

「私が何故春を嫌うのか。それは、春が別れの存在を思い知らせる存在だからです。出会いの季節などと言いますが、別れの辛さを引き立たせるもののような気がしてならないのです。生ぬるい空気が心苦しい別れを有耶無耶に美しくしてしまうのが嫌なのです。母も、父も、妻も春にいなくなりました」

 話過ぎた、と彼が気づき顔を上げると、郵便屋は複雑そうな顔で微笑んでいた。

「随分と悲しい思い出をお持ちなんですね」

と同情の意を示した。それに彼はなんだか腹立たしいような心持ちを感じながら、次の言葉を待った。複雑な表情に写る微笑みが気になったのである。

「しかし、人との縁は事故のようなものじゃないかと私は思うんです。いつ起こり得るかわからない。春夏秋冬いつでもありえる話です。偶然も必然も起こることは同じです。それならば、前を向くしかないのではないでしょうか」

微笑んでいた顔気が付けば涙ぐんでおり、彼は困惑した。

「何で君が泣くんだ」

思わず彼は思いやりのない言葉を吐いた。

「春が嫌いという貴方の言葉が何故だか悲しくて。違うとわかっているのだけれど。春にも素敵な家族との思い出や、私との思い出があるはずなのに」

泣き出した郵便屋の言葉は所々おかしかったけれど、それを指摘する気にはならなかった。その代わりに、彼女を抱きしめることにした。理由はわからなかったが、自分の言葉が彼女を傷つけたことには変わりないと思ったからだ。彼女の身体は冷たかった。温かい春の日差しが嘘のように、彼女の身体は冷たかった。


そうしているうちに、彼はたくさんのことを思い出した。春の小川にて親子三人で遊んだこと、桜の花を見に妻と二人ででかけたこと、最後ばかりが悲惨で温かい思い出も凍り付いてしまっていたことを知った。


彼女の頭を撫でながら、彼は言った。

「私は少し、大事なことを忘れていた気がするよ。思い出させてくれてありがとう」

彼の腕の中で彼女は。

「私がいなくなったのも春だったけれど、出会ったのも春だったじゃない。忘れてもらっちゃ困るわ」

そう言って、彼に最後の手紙を渡した。


「ぜーんぶ私からです」


そうして、彼の元を走り去っていった。


もう会えないような気がして、彼は去りゆく郵便屋に尋ねた。


 「君の名前は」


 「ハル」


それは、死んだはずの妻の名前であった。

ハルを愛していたくせに、春が嫌いだったなんて馬鹿だな、と彼は一人ごちた。そういえば郵便屋は若いころのハルに似ていた。


最後の手紙を開く。


桜の栞が一枚、入っていた。







 

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ハル 更科 周 @Sarashina_Amane27

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