第5話 黄昏は来たれり

「おかえりなさい」


 いつものフレイアの声が聞こえる。空はほんのり忘却の色。雲がやや赤みがかった空に溶け、鱗のように輝いている。


「フレイア――」


 イデアは分かったこと全てを話そうとするが、フレイアの顔を見て、言葉を詰まらせる。


「分かったのですね。答えが」


 フレイアはそんな様子を見て、察した。


「ええ……。ところで、あなたは、いつからこの音が聞こえていたの?」

「神々の神聖なる戦いが始まる、少し前からでしょうか」

「そういうことね」


 先ほどのポセイドン達の話を思い出すイデア。


「それで、あなたはこの音を聞いて、どう感じた?」

「はい。多くの者はこの音を『怒り』だと言っていました。気に入らない種族を指して、それを怒りの原因だと。またある者は『号令』だと言っていました。ですが――」


 フレイアは一瞬、ためらうような様子を見せた。


「私は、『嘆き』だと思いました。それが絶対に叶わないと知りながら、願うことをやめられない苦痛や悲しみ、やり場のない怒りが、あのような音を生み出したのだと」

「そう。きっとそれは正しいわ。だけど、問題はそれがどのような原理で生じているか」


 その言葉で、フレイアは全てを理解したようだった。


「……あなたたちを巻き込んでしまうことは、きっと悪いことなんでしょうね」

「はい。ですがそれは、私たちの不完全な知能から生じる特有の価値観に過ぎません。全知全能たるあなたに、そんな『呪い』は必要ない。私はそう思います」


 ふふっ、と小さく笑うフレイア。


「人間も神も、いつかは必ず死ぬことになる。どんなに長く生きられると言っても、そういう意味では、みんな平等。この世に存在する森羅万象だって、今こんなにも輝いている星だって、いつかは必ず死んでしまう……でも、私はそんな生命を、ずっと羨ましいと思ってた」


 ふわっ。一瞬、浮遊感を覚える。高いところから落ちるときに感じる、あの感覚だ。


「ああ――ついに、時が満ちる――」


 イデアの視線が空に釘付けになる。その様子を、黙って見ているフレイア。


 ふわっ。再び浮遊感を覚える。すると突然、空が鉛色になった。――皆既日食。地平線は赤く染まり、壁面には陽炎のようなゆらめきが生じる。まるで闇夜に支配されたかのような空に、黄金の輪が現れた。続いて、星たちが一際強く、赤く輝き始める。


「流れ星? いえ、違う。あれは――」

「黄昏が、来るのですね」


 輝きは次第に大きくなり、螺旋らせん状の尾を引きながら、空を割る。ひとつ、遠くにある広場の噴水に当たった。 噴水はそれが当たった瞬間、跡形もなく砕け散った。


 またひとつ。次は近くの方に見える塔。天を裂くような衝撃を肌で感じたその瞬間、鋭い光芒こうぼうとともに、綺麗に、ゆっくりと塔が崩れてゆく。あらゆる生命が、長い年月と命を費やして積み上げてきたものが、何の価値もないもののように、あっけなく消え去ってゆく。


「美しい……」


 胸が締め付けられるような感覚。弱い電流が体の中を駆け巡っているような感覚。これが何によって生じているのかは、もはや誰にも分らなかった。


「これが、私の唯一の願い」


 誰にとも言わず、ただイデアは話し始めた。下の方では、たくさんの生命が恐怖におののき逃げ惑っている。普段ならそれを哀れに思うフレイアだが、今はただ、儚く散っていく世界を眺めていた。


「私はただ、甘美な夢が見たかった……私はずっと無限の時の中にいた。いつ終わるのかも分からない、永遠の空白の中で、私は一人だった。私が創り出したこの世界の中でも、私はただの不滅でしかなかった。死を知らない私にとって、死の先にあるものは――」


 その時、先ほどまでのものとは比べ物にならないほどの、すさまじい轟音ごうおんが響きわたる。


              *   *   *


 その頃、人間界では。神聖な空気の漂う廃墟に、なにやら不審な動きをする一人の男がいた。


「ようやく見つけた……」


 男が床板の下から取り出したのは、一冊の本。外見は人間界における一般的な本と大して変わりはないが、唯一の違いは、金を延ばして作ったような装飾が施されているところだ。


「これが、アポカリプス!」


 神が、選ばれた預言者にのみ与えたとされる、この世界の秘密。男は終末を止める術を探して、世界中を歩き回り、そしてようやく辿り着いたのだ。


 この本に記されているのはこの世の『全て』。この本を持つ者は、天地創造の理論から、過去や未来の歴史まで、知りたいと思った全ての情報に接触することができる。


「素晴らしい! 神々の命の秘密も、森羅万象の構造も、宇宙の理論まで記されている……」


 男は夢中になり、様々な情報に接触する。そのたびに、淡い光を放つアポカリプス。だが。


「まさか、そんな――」


 不意に、男の手が止まる。男は身震いをして、本を落としてしまった。そこには無かったのだ。終末に関する記述など、どこにも無かった。本来であれば使用者の問いかけに対し、答えを示すはずのアポカリプスが、何の反応もしない。


「なぜだ、終末の音は、この音は何だ! なぜ全知全能であるはずの神ですら、このことを知らないのだ――誰か教えてくれ!」


 だが、やはり反応はない。理由は簡単なことである。彼らが全知と呼んでいる存在は全知ではなかった。全知と呼ばれている存在ですら、その知識を持つには値しなかった。ただそれだけのこと。


「もう、終わりだ……」


 力なく、地にひれ伏す男。同時に、強い重力が発生する。山や海が、天へと吸い込まれてゆく。空間が裂け、耳鳴りのような音が世界を支配する。人間界の生命は、もはや死滅した。


              *   *   *


 人間界が滅びても、天上界にはまだ終末の音が響き渡っていた。


「ねえ、フレイア。前にもこんなことがなかった? この世界の外側にある『空白』が終われば、間違いなく私たちは死ぬ。だけど、本当にそれが終わりなのかしら」


 その問いに、フレイアは少し困ったような顔をした。


「残念ながら、私はその答えを知りません。私たちの認識では、生と死は生命に与えられる一度きりの奇跡ですから。ですが、また、お会いできたらいいですね」


 そう言ってフレイアは微笑む。何の曇りもない、聖母のような笑みだった。


「そうね。ではまた、その時まで」


 最期の時を告げる終末の音。空間は砕け散り、森羅万象も死に絶えた。不気味なほどゆっくりと、静かに、空が墜ちる――


「ああ、なんと心地よい――」


 その日、女神は甘美な夢を見た。

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女神は甘美な夢を見る 植木 浄 @seraph36

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