第4話 その呪詛の名は幸福

 ここはメーデイアの支配する都市。一見、鬱蒼うっそうとした森にしか見えないが、ここで暮らす者にとっては、この木々こそが家なのだ。


 その最奥にある、廃墟のような薄暗い神殿の中。ほこりを被ったような色の髪と、漆黒のドレス――というよりも、ふわふわと漂う、長い帯に身を包む女神が、木の根っこで創られた椅子に座っている。


 向かい合うように、大地を揺るがす者。二人は酒を交わしながら話をしている。姿は見えないが、目の前で二人の会話を聞いているイデア。


「あのような形でよろしいのだろう? ポセイドンよ」

「ああ、上等だろう」

「そして、次の災いはどうする」

「そうだな……なるべく多くの災いを用意しなければならない。それも近いうちに、だ」


 そう言って、何かを考えるように下を向くポセイドン。


「ずいぶんと急いでいるのだな」

「そうだ。お前には感じ取れないかもしれないが、我には感じ取ることができる。まずは人間界から滅ぼさなければならん。ゆえに、人間のことに最も詳しいお前を頼っているのだ」


 二人はどうやら人間界に生じさせた大災害のことを話しているらしい。


「その話、詳しく聞かせてもらおうかしら」

 

イデアがようやく、二人に認識できる姿で現れる。


「お前は!」


 ポセイドンが慌ててトリアイナを手に取る。メーデイアは静かに立ち上がった。


「そなたがポセイドンと戦ったという女神か。名を何という?」

「私に名などないわ。それより、人間界への過干渉は罪のはずでしょう? 一体何を考えているのかしら」

「どうする、ポセイドン」

「仕方あるまい」


 メーデイアとポセイドンが目配せする。


「また争うつもり? 何度やっても結果は同じよ」

「いいや、結果などは関係ないのだ。我らはただ戦うのみ。行くぞ、メーデイア」

「承知した。ゼールム・アパリーシュ・スミタニル――災いあれ!」


 メーデイアがそう唱えると、イデアの足元から、何やら邪悪な気配と共に黒い煙が噴き出し、イデアを閉じ込めるように球状になった。


「どうだ? 全ての感覚が失われる気分は」

「しょうがないわね。少しだけ、相手をしてあげましょう」


 つまらなさそうに言うその声が聞こえた瞬間、イデアを閉じ込めていた球体は一瞬にして溶けるように消えてしまった。彼女が感覚を失った様子は一切ない。


「ほう、確かに奇妙だ。別の術を試そう――アテー・マルクト・ヴェゲブラー・ヴェゲドゥラー。全能なる者、輝ける者よ、この者に裁きを!」


 メーデイアが胸で十字を切るようにして唱える。しかし、何も起こらない。


「駄目だ。やはり、あいつに物理的な攻撃は効かん」

「そうか。ならばこれではどうだ? サータン・サータン・オムシグ・デニルス!」


 たちまち白い霧が辺りを包みこみ、やがて辺り一面が真っ白で何も見えなくなった。


「さあ……そなたの心はこの霧の世界に何を映し出すかな?」


 メーデイアは妖艶な笑みを浮かべ、その様子を眺めている。


 真っ白な世界の中、イデアはただ歩いていた。彼女は次々と移り変わる景色を見て、それを『夢』であると認識した。


「夢。脳と呼ばれる情報処理器官が、記憶を整理する過程で生じるもの。または、酸素濃度の減った脳が見せる幻。特に、心の中に強く残るものが映し出されるとか……もしかしたら、私の『無意識』もここに?」


 まだ姿を持たずに世界を歩き回っていた頃のこと。人間の前に初めて現れた時のこと。フレイアの創ったハルモニアに、初めて足を踏み入れた時のこと。


「確かに、これは私の記憶ね。もっと戻れないかしら」


 夢を支配し、より過去の記憶への接触を試みるイデア。


≪わたくしの、子供たち。わたくしの愛する子供たちは、本当に美しいのです≫


 いつもと違う聞こえ方のする声。耳という聴覚器官を介さない、古代の言語だ。


「あれは、聖母……」


 イデアはかつて、『聖母』と語り合った時のことを思い出した。


≪いくら魔の手に落ちたとはいえ、かつてわたくしの可愛がっていた子供達が、わたくしに向かって剣を突きつけて来たとき、わたくしに彼らを切ることは出来ません。どんなに悲惨な姿になっても、わたくしの大切な子供だからです。わたくしの深い悲しみはそこにあります≫


 さらさら。場面が切り替わる。


≪これで、良いのです。わたくしは愛です。愛は見返りを求めた時点で、死んでしまうのです――≫


「ああ言っていた彼女も、結局は死んでしまった。願いを叶えられないなんて、不幸なことね」


 夢はさらなる深みへと達し、次第に、形のないものを映し出してゆく。あの時の感触、気持ち、言葉。それら記憶の粒子を、彼女はひとつずつ拾い集めた。


「これは――」


 突然、夢の世界に奇妙な音が響く。水の焼けるような音に、大地が唸るような音。それは森羅万象の叫び声。しかし、それはイデアの記憶の中に在るものではなかった。


「これが、私の無意識? つまり世界がこのようになることを、私は願っていると……だけど」


 音は絶えず鳴り響く。それは怒りのようにも、苦悶のようにも聞こえた。しかし、どのようなことが起きればこれらの音が実現されるのか、イデアには分からなかった。


「もう、十分だわ」


 イデアが言うと、辺りを覆っていた霧が晴れ、夢は終わる。


「おお、この術まで破るとは。素晴らしい力だ。だが……名もなき女神よ、そなた、呪われているな?」


 メーデイアが言う。


「どういうこと?」

「そなたは既に、他の誰にも解けぬ絶対的な呪いを受けている。だからわらわの呪いが効かなかったのだ」

「絶対的な、呪い……?」


 その言葉に、イデアは自身の存在を確かめるかのように、自身の手のひらを見た。


「ポセイドンよ、戦いはやめだ。この者は、おぬしの想像した通りの者かもしれないぞ」

「なんだと! では、やはり……」


 ポセイドンがトリアイナを持ったまま後ずさりをする。メーデイアは構えを解き、再び妖艶な笑みを浮かべた。


「名もなき女神よ。その力を、見せてはくれぬか」

「この力のことね。いいわよ」


 彼女の問いかけに対し、イデアは隠していた『大いなる力』を開放した。イデアの髪の毛、その一本一本が生きているように動き出し、周囲の物質は彼女に共鳴するように倍音を発する。


「ああ……」


 おそれをあらわにするポセイドン。


「やはり、おぬしは根源たるもの――カオス! 魔法という概念が生まれるより前、時という概念が生まれるより前に生まれし、神々の、いや、世界の創造主!」


 興奮した様子で言うメーデイア。


「カオスよ、改めて申し上げる。そなたは呪われている。不老不死、いや、永久不滅と言った方がいいだろう。そなたはその性質上、絶対的な真実――イデアとして、この世に存在し続けなければならない。そしてそれこそが、そなたの願いを叶える妨げとなっているのだ」

「私の願い? あなたは、私の願いを知っているの?」


 イデアはその言葉に大きな関心を示した。


「分かるとも。永遠の命を欲する者にとっては信じがたいことだが、それを持つ者にとって、永遠とは、完全なる不死とは、必ずしも幸福とは言い切れないのだろう。そうすれば、この音の正体とも辻褄が合う」

「そうか、この終末の音は、単に我らの死を暗示するものではない――これこそがカオスの願いそのものであるということか!」


 ポセイドンが全てを理解したように声を上げる。


「我らは、世界の意志に従い、終末を遂行せねばならないと考えていた。だが――」

「ああ。真実はもっと大きいものだったのだ、ポセイドンよ」

「終末の音? あなたたちの言うそれは、何を意味しているの?」


 まだ状況を理解できていない様子のイデア。


「そうか、そなたは、死を知らないのだな」

「カオスよ、死を認識するのだ。聞こえるはずだ。世界を黄昏たそがれに導くこの音が……」

「死を、認識――」


 突然はっとした表情を見せるイデア。


 何か、巨大なものがぶつかり合っているような音。続いて、森羅万象の叫び声。まさしく、メーデイアの見せる夢で聞いた、あの音だ。水の焼けるような音に、大地の唸るような音。その音の正体が、自身の願いの正体が、今のイデアには全て認識できた。


「帰るわ」


 しばらくの沈黙ののち、イデアは一言、そう言った。


「行くのだな、カオスよ。ならば妾も静かに、闇へ溶ける時を待とう……」


 メーデイアは、新しく木の根っこで創り出した椅子に、静かに座った。


「そうか、ついに黄昏が来るのだな。我もあるべき場所に戻るとしよう」


 こうして、それぞれが、それぞれのあるべき場所へ還る――

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