第2話 大地を揺るがす者

 ハルモニアの外部に広がる草原。月明かりに照らされた草花が、そよそよと揺らいでいる。


 そして、その静寂を乱すひとつの影。真っ白な髪と長い顎の髭。威厳を感じさせる、壮年の顔立ち。銀の鎧に真っ赤なマントを風になびかせ、黄金のたてがみを持つ馬を走らせている。この存在こそがポセイドンである。


「『調和』か。実にくだらん。天上界は力こそ全て。戦う意思を持たぬなど愚の骨頂、愚かさの結晶よ」


 高笑いをするポセイドン。


「ずいぶんと、争うことが好きなのね」


 ふわっ。そこへ一人の女神が現れる。


「……見かけない奴だな。畏怖いふする心も知らぬ低俗な者よ、一体何の用だ」


 馬を止め、イデアを蔑ろにするような目で見るポセイドン。


「『戦わない』という選択も、『戦う』という選択と同じくらい価値のあるものよ。あなたの知能から生じる価値観では、そうではないようだけど」

「ふん、世迷言を。力を持たぬ者など、風の前の塵に同じ。この世界は力こそが全て、力があれば何でも手に入れられる」

「そう。あなたは力で買えるものにしか相手にされなかったのね」


 ポセイドンが顔をしかめる。


「フレイアはあなたよりも強いわ」

たわけ」

「あなたは、自身の力で全てを動かしていると考えているようだけど、実際は周りの者がなんだかんだ言って従ってくれているから動いているだけ。あなたは力の、魔法の本質を理解していない。本当はあなた一人では何も変えられないというのに……」

「よいだろう……その言葉が本当かどうか、試してみれば一目瞭然」


 ポセイドンを包むように風が起こる。彼の装備している銀の鎧が光沢を見せた。風に含まれている塩が、鎧を研磨しているのだ。


「さあ、構えよ」


 ポセイドンが武器を構える。先が三つに割れた鉾、トリアイナだ。彼を包む海の風がイデアに強く吹き付け、髪とドレスをなびかせる。


「その必要はないわ」

「よいだろう、ならば死ね」


 ポセイドンが両腕を広げる。同時に、彼の左右後方に渦を巻くように上昇気流が現れる。人間界における『竜巻』と同一のものだ。


「風よ、敵を滅ぼす剣となれ。テンペスト」


 竜巻の勢いが増す。彼が竜巻に権能を与え、上位互換したのだ。それらは地面を掘り起こし、巻き上げながら、真空の刃となってイデアに襲いかかる。


「低俗な者よ。無へと帰すがよい」


 ポセイドンは勝利を確信したような表情を浮かべるが――


「ふう。全く、血の気の多い神ね」


 ひゅるひゅる……。先ほどまで轟々と音を立てていた巨大な竜巻『テンペスト』は、イデアの目の前に来ると、あっけなく消えてしまった。


「戻りなさい」


 イデアが地面に向かって言う。次の瞬間、そこにあるのは先ほどまでと全く変わらず、風の吹き抜ける静かな草原。竜巻が地面を抉った痕跡は、跡形もなく消えていた。


「なんだ、これは……」


 驚いた様子を見せるポセイドン。通常、魔法というものは詠唱を行い、特定の動作を伴うことで発動する。しかしイデアは、そのいずれもなく魔法を使って見せたのだ。


 依然としてイデアは、ポセイドンの前に現れた時と同様、腕組みをして一歩も動かず、長い髪とドレスの裾をなびかせながら立っている。


「だから言ったでしょう? あなた一人では何も変えられないと。この世はあなたのために在るわけではない。ついでに言うと、あなたのために存在しているものなんて、何もないわよ」

「黙れ! 小癪こしゃくな奴め……凄惨せいさんにして蒼古そうこなるいかづちよ、我に仇なす敵を討て!」


 半ば叫ぶように唱え、右手に持ったトリアイナを前に突き出す。


 ぱん。ひとつの雷が落ちたと思うと、続けざまに無数の雷が落ち始める。同時に、先ほどのテンペストとは比べ物にならないほどの竜巻が、イデアを閉じ込めるように発生した。


「大地よ、砕けろ。大海よ、湧きあがれ!」


 ポセイドンの命令に従うように、大地が大きく抉れ、海水を伴って竜巻と融合する。辺りに存在していた木々や動物は死に絶え、彼の目的を達する道具となり果てた。


「万物を支配する権限を持つ、このポセイドンを侮辱するなど、万死に値する無礼と知れ!」


 まさに天地創造を思わせる力。確かにこの天上界において、彼に匹敵する力を持つ者はそうそう現れないだろう。だが――


「自分が無力だと気づけないほど愚かなのかしら」

「な……」


 現れた時からその場を一歩も動かず、魔法の原理原則も無視し、絶対的な自信を持っていた究極の魔法でさえも、その痕跡ごと消してしまう。その存在を前に、ポセイドンはもはや何も言えず、ただ茫然と立ち尽くすことしかできなかった。


「魔法とは、大いなる存在に奇跡を乞うこと。その力は決してあなたから生まれたものではない。それを理解しているかどうかがフレイアとあなたの違い。私は指一本で、いえ、ただ思うだけで、あなたの命を『選択』できる。けれど私はそうしない。なぜだか分かる?」

「……我に、慈悲じひを乞えと言うか」

「いいえ。違うわ。ひとつはこの世界の秩序を乱さないため。もうひとつは――」


 一瞬、時が止まったような感覚に陥る。彼女が隠している『大いなる力』が、溢れ出したのだ。


「この気配、まさか……いや、あり得ん!」


 何か、重要なことに気付いたような表情のポセイドン。イデアが最後に発した言葉は、その衝撃のせいで聞き取れなかった。


「帰りなさい。在るべき所へ」


 ふわっ。ポセイドンは何かを言おうとしたが、有無を言わせず彼女の力で、元の場所へ移動させられてしまった。


「さて、私も帰るとしましょう」


 ポセイドンが帰ったことを確認すると、イデアも小さな風の音とともに消えた。

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