昼間と夜の境界で
木船田ヒロマル
昼間と夜の境界で
道端に倒れていた自転車は、クラスメイトのものだった。
その自転車に貼られた名前シールの名前が別の誰かのものなら、そのまま無視したかも知れなかった。
学校からの帰り道。
時刻は五時半になろうかと言うところ。
私の家の団地に向かう坂道の途中。道の端の低い傾斜ブロックに寄りかかるように、銀色のスポーツ自転車が一台持ち主に捨てられてふて寝している。
自転車に付属してたのだろうビニール保護付きの名前シールには、カクカクとした生真面目な名前が油性ペンで記されている。
田中克人
クラスメイトの田中くんだ。
住宅街から少し離れた緩やかな登り坂の途中、家も店もないこんな中途半端な場所に、自転車を乗り捨てたりするものだろうか。
柴崎や木村あたりなら、帰路で見つけたヘビでも追い掛けて、ギャーギャー騒ぎながら自転車乗り捨ててどっか行ったりすることもあるかも知れないが、田中くんはそう言う馬鹿っぽい男子のイメージはなく、むしろ物静かで知的な印象だ。
だからかも知れないが、田中くんはクラスの男子たちのグループとはどこか距離のあるような振る舞いが目立っていた。
いじめられているという感じではない。
他の男子と話している所は見るし、班行動や行事の時も自然にみんなの輪の中にはいる。
でもどこか、纏っている空気が違うというか、一人だけ落ち着いているというか、浮いてはいないが、溶け込んでもいないのだ。
その時、ふと見上げた自転車が倒れ掛かるコンクリブロックの上の茂みに、人一人が屈んで通れる程の灌木の枝葉が作るトンネルがあったのに気がつく。
自転車周囲の状況から見て、田中くんが事故や犯罪に巻き込まれた可能性は低そうだ。
近付いて見ると、自転車のスタンドは起立状態のまま自転車自体は倒れた状態になっている。
つまり、田中くんは自転車を降りて、スタンドを立てて自転車を駐輪した。その後に、自転車がバランスを崩して倒れたのだろう。坂の途中に駐輪すると何かの弾みで前輪側が坂を下って駐輪した後から自転車が勝手に倒れることがある。
田中くんは自らの意志で自転車をここに停め、スクールバッグを持ってこの場を離れた。おそらく、茂みの秘密のトンネルの向こう側へ。
なぜ?
なんのために?
スマホの時計を見ると17時34分。
季節の頃合いからいうともう日が暮れる。
田中くんは、あのトンネルの先に、何をしに行ったんだろう。
あのトンネルの先には、何があるのだろう。
私はきっかり4秒間だけ迷ったあと、茂みのトンネルの先を確かめることに決めた。
***
倒れた自転車を立て直し、前輪の方向を壁側に向けた。
六角形のデザインが組み合わさった形のコンクリブロックの出っ張りにえいやっ、と足を掛けて登り、恐る恐る植物のトンネルの中を覗く。
薄暗い登り坂。地面は踏み固められていているが足跡らしいものはハッキリは見えない。獣道とかではなく、そこそこ人が往来する道のような印象だ。蜘蛛の巣や変な虫は今のところ見えない。
私は深呼吸を一つすると、わしわしとその坂道を登り始めた。
別に田中くんだからじゃない。
クラスメイトとして心配だからだ。
こんな場所、こんな時間。
私がパッと思いついたのは「自殺」だった。
まさか田中くんに限って、という気持ちもあったが、田中くんならもしかしたらという気持ちも同時にある。田中くんは、私には理解の難しい男子なのだから。
トンネルの中は一本道で、緩やかな登り坂が続く。周りの景色が変わらないのでどれくらい歩いたかがよく分からない。振り向くとトンネルの入り口は暗くなって来て見えなくなっていた。30メートルなんだか100メートルなんだか、とにかく私はトンネルの坂を登り切って、その出口に出た。
おおっ、とおっさんのような低い感嘆が漏れた。
(わあ、なんて可愛い驚き方をする女はそう訓練されているか、カッコいい男の前にいるかのどちらかだと思う)
私がいたのは街全体を広く見下ろす高台で、高いフェンスで遮られた崖っぷちだった。
トンネルを構成していた茂みは切れ、フェンスから3メートルばかりは剥き出しの地面になっている。フェンスの基部はコンクリートで、崖面は均一なブロックが護岸の役割を担って壁面全体を覆っているらしかった。眼下には、段々畑のように造成された住宅地が広がり、その更に先には、夕陽に照らされてオレンジに染まる私たちの街が見える。大きなスーパーの看板、高架橋の位置などから、私の知る私の街の地図となんとなく配置を重ねたりして景色を眺めた。
「佐藤さん?」
「はいっ!」
不意に名前を呼ばれて、必要以上に元気よく返事をしてしまった私は、その声でここに来た理由を思い出した。
名前を呼んだのは、私より数メートル先で、驚いた顔でこちらを見ている田中くんだった。私は同じクラスになってから今まで、かなり長いこと田中くんのことを観察していたが、田中くんのこんな表情を見るのは初めてだった。
「どうしたの? こんな所で」
「えっと、自転車! 倒れてて! 名前! 書いてあったから! 田中……くんの」
なぜか強めに焦ってしまった私は、日本語を覚えたてであるかのように辿々しく答えてしまった。さっきの低い「おおっ」も聞かれてしまっただろうか。田中くんの前でまともな受け答えができない感じを晒してしまったことを意識した私の顔の温度は上がった。
「ああ、自転車倒れたのか。それを起こそうとしたら僕の名前が見えて、木のトンネルに気付いて、心配して見に来てくれたんだ」
「そ……そう。そんな感じ」
「自殺でもしてるかなって?」
「ばっ……そうは、思ってないけど……」
田中くんはふふっと笑った。
私も釣られて頬を緩めた。
そして自分の心臓の鼓動が耳に聞こえる程に強くなっていることに気がついた。
「さっき一度強い風が吹いたからね。その時に倒れたのかもしれない。他人の倒れた自転車が気になるとは、真面目で親切だね、佐藤さんは」
「そんなこと、ない……よ」
「でも、起こしてくれたんでしょ? 僕の自転車を」
私は頷いた。
田中くんはまたふふっと笑った。
その時、街の方から田中くんの言葉通り強い風が吹き付けた。
私は息を飲んで制服のスカートの裾を手で抑える。前髪は吹き上げられておでこは全開だが、火照った顔に空から直接吹くような澄んだ風は心地よかった。
「あの木のトンネルはね、多分、このフェンスや造成地の管理をしている土木工事の人たちの通り道なんだ。向こう側に少し行くと、フェンスの向こう側に出る鍵の掛かった通用口がある」
「へえ……」
「何回かここには来てるけど、実際に工事の人と会ったことがあるわけじゃないから、僕の想像だけどね」
「田中くんは……どうしてここへ?」
「時間だ」
田中くんは私の質問には答えずに、フェンス越しに夕焼けの街に向き直った。
沈み掛けた太陽は左手奧の山陰に入ろうとしていて、街の、建物の、車や行き交う人の影は、私たち側に向かって長く長く伸びきって街全体に無数に同じ傾きの斜めの模様を描いている。
大気の具合か、空は今まで見たこともないほどに赤く赤く、その赤を写す街に走る無数の影の線。
と、思った途端に今度は、左手の山の麓から滑るように山自体の影が伸び始めた。
山の影は他のどの影よりも巨大で、黒々としており、街の赤を、個別の影の斜線をするすると飲み込んでゆく。
山の影に飲み込まれた場所では、街路灯や車のライト、家の灯りなどが灯って、小さな宝石のように白く輝く。
私はそれが、夜なのだと知った。
私は今、私の暮らす街が端っこから順番に夜に飲み込まれて行く様を、その境目を目の当たりにしているのだ。
そう気付いた時、なんだかいつも当たり前に暮らす私の街が酷く貴重な、儚いものに思えて、私は興奮しつつ集中しながら、昼と夜とが織りなす光と影のショーに見入った。
やがて夜は、街の反対の端までその支配域を広げて、さっきまで赤い夕焼けの街だったそれを、すっかり灯火瞬く夜の街へと変えた。
高架橋の上を規則正しく緻密に並んだ光が滑ってゆく。
さっきより優しく吹いた風にまた前髪を撫で上げられた時、私は、この世界は美しい、ということを知った。
「おしまい」
田中くんがショーの終わりを告げる。
「まあ日が暮れるだけなんだけどね。天気や季節やでタイミングが合う時はたまに見に来るんだ。これが答え。日暮れを見に来てる。すごい秘密じゃなくて、申し訳ないけど」
田中くんはそう言って、照れたように笑った。
「変なことに付き合わせちゃったね。お家まで送るよ」
そして私は、私が田中くんのことを、好きなのだと知った。
*** 了 ***
昼間と夜の境界で 木船田ヒロマル @hiromaru712
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