泥濘の喜劇

七夕ねむり

第1話

あんたの全てが欲しかった。


呟いた声が届いたのかそうでなかったのかは、知風の呆然とした表情を見ると明解だった。

驚いた?冗談だよ。そう言ってしまえばいいとわかっていた。でも私は出来なかった。私の言葉で安堵する彼女はあまりにも容易に想像出来てしまった。かなしいぐらい現実を帯びて。

「ゆ、こ」

「あんたの髪も肌も指も全て私のものになればいいのにね」

ゆらゆらと揺れる知風の瞳が綺麗だと思った。厚い水の膜を張った彼女のガラス玉は、今にも溢れそうだった。

「いいよ」

短く響いた声ははっきりと耳に届く。

「私の髪も肌も指も心も全部ぜんぶ柚子にあげる」

辺りの空気を集めた空砲で脳味噌を撃ち抜かれたみたいだ。今度は私が驚く番だった。

「ほんと?」

掠れた声は、自分でも上手く聞き取れない。

「ほんと。今日から私は柚子のもの」

知風の言葉が私の身体をじわじわと侵食し始める。渇いた頬に何かが触れて、ああ私は泣いてるのだとわかった。これが私の望んだことだった筈だ。

柚子、と名前を呼ぶ甘い音が細胞を占めてゆく。甘くて痛くてかなしい音だった。

私は今からずっと今日の愚かしい私達を、何度も、恐ろしいほど後悔する。そして知風のこの瞳はその度に私を突き刺すだろう。

「知風」

「うん」

「知風」

「なあに」

あやすように、宥めるように返事が響く。

知風。あんたは馬鹿だ。馬鹿で狡くて、優しくて愚かしい。柔らかな腕に背中を絡め取られながら、私は思う。


知風の髪や肌や指や心が手に入っても。あの美しいと思った瞳だけはきっと私のものにはならない。好きだとも、愛してるとももうあの知風には言えない。


あの瞬間の彼女が、私が何よりも欲しかった最後の知風だった。

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泥濘の喜劇 七夕ねむり @yuki_kotatu1

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