男の娘、初めてのカレーライス

夏山茂樹

カレーが食べたい男の娘

 人は人生という海に飛び込んで、やがて深海まで沈むと体が少しずつ海の要素へ姿を変えて海物かいぶつに食べられる。その体を侵食するものは現実であれ、夢であれ、人にとっては害あるものでしかない。

 それでも自分が愛しいと思える海物は、それに食われても憎めないものだ。むしろ愛しさが増して、自らその身を捧げたくなるほどだ。


 私もそんな海物に身を食われてこの世という海から姿を消した。だが、かつて共に過ごした海物への感情が消えず、こうして夜の町を幽霊として漂っている。

 農協の事務所にひっそりと立つ時計台を見上げると、時計の針はとっくに十二を指していて、人っ子ひとり見かけない。シャッターのしまった家には明かりがつき、息子と思しき若者が暴れる声が聞こえてきた。


 そんな光景から少しでも離れようと、私はかつて高校のランニング大会で男子一位だった健脚で走り出す。だが離れると、自分の意志に背いて脚が動いてくれない。何度も「動け」と命令しても、私の脚は走ろうとしなかった。

 いや、走り方を忘れてしまったのだ。そういえばむかし、同じ小学校で実習をしていた仲間がこんなことを言っていた。


「骨折して手術するじゃん? ギプスをした脚でいざリハビリとして歩こうとすると脚が動かないんだよね。歩き方を忘れてしまったみたい」


 そう笑って私の隣で弁当のおにぎりを頬張る彼女は、子供のように赤く染まった頬をしていて、可愛らしかった記憶がある。


 私を食った海物も、雪のように白い肌をリンゴのように紅潮させて笑う姿が可愛らしい子だった。その実習の前に私が出会ったその子は、私がベビーシッターのバイトをしていた子で、自己紹介の時は「もうすぐで六歳になる『そうです』」と可愛らしいうつむき加減で話していた。


 「もうすぐで六歳になる『そうです』……?」フリルのついたワンピース姿にリカちゃん人形を持った彼はそう答えていた。そのことが自分の中で引っかかって、どうしても雇い主である彼の父に聞こうとしたことがある。


 普通の子供なら、五歳児であっても自分の誕生日くらい分かるはずだ。私はそう思いながら機関車トーマスを知らない彼に鉄道模型を与え、一緒に街へ出かけた。するととある春の訪れが近い季節、街のカレー屋に通りかかった私にその子は言った。


「カレーが食べたい」


 カレー? カレーなら普通に食べに行けばいいじゃないか。そう思って私は彼に聞いてみた。


「カレーならいつでも食べられるじゃないか」


 するとその子は、小さな足をその店の前で止めて、私の腕を必死に引っ張る。幼いながらも全体重をかけて私の足を止めようとするものだから、とうとう私も進む気になれずに彼の話を聞いてやることにした。


琳音りんねくん、そんなにカレーが好きなのかい?」


 涙目になりながら、私の腕を引っ張る小さな琳音に根負けして、優しく微笑みかけてやる。少女の服を着た幼い少年と、話を聞く若者。兄弟にしては歳が離れすぎて、親子にしては歳の差が近すぎる。

 人々はそんな私たちに人目を引かれたのだろう。彼らは通り過ぎるごとに私たちをじっと見ながら去っていく。帰りのタイムラッシュで人がよく通る時刻だった。

 私たちを見て何か嫌なものを見た様子でひっそり話す親子から、私たちを睨みつけて去っていくサラリーマンまで、実に様々な種類の人間が私たちを見ては去っていった。

 そんな人目に嫌気を感じながら、私は琳音のボソボソと話す事情に耳を傾ける。


「あのね……。カレーを食べたことがないんだ」


「え……?」


 私は一瞬彼の言葉を飲み込めないまま、彼の言葉を疑うような一言を吐いてしまった。信じてもらえていないのがすぐ分かったのだろう。琳音は大声で自分の事情を、生まれた過去や環境を呪うような言葉を叫んだ。


「ぼくってレッテでしょ? レッテにとってはカレーって特別な食べ物で、普通のルーで作ると発作が出ちゃうんだって。だから高いルーを買うか、お店に行って食べるしかできないの!」


 レッテこと、インデル症候群の患者たちは症状として日光を浴びると疱瘡ができ、やがて皮膚が溶ける。その上、生まれつき血液の中に人間に含まれる特定の酵素がないため、その酵素を普段から薬で補っている。その薬がなければ本能として鏡化(酵素を必要とするための本能帰りで、逆に理性を得ること)してしまう。


 そのことは知っていたが、まさかカレーも食べられないとは……。しかし、どうしてカレーがそんなに高級品なのだろう。発作と言っていたあたり、何かあるらしい。


「ごめん琳音。ちょっとにいちゃん、調べてみるわ」


 そう言って私は琳音を押さえて、携帯でレッテ社会でなぜカレーが高級品なのかを調べる。どうやら、レッテにはカレールーに含まれるスパイスに対してアレルギーを持つ人が多くて、そのスパイスを置き換えるか除くかしたカレールーが高値で売られているらしい。


 だが琳音の父は海外の人気小説や医学者などを翻訳する人間だ。息子の世話ができないほど忙しくとも、翻訳した本の印税でそこそこ稼いでいるはずだ。なぜ息子にカレーを食べさせたことがないのだろう?

 精神的に幼かった私は、琳音と視線を合わせて苦笑い。自分の給料ではカレーを作ったり、レストランで食べさせてやれないことを謝罪した。


「琳音、ごめんよ。にいちゃんの給料ではお前に食べさせられないよ」


 そう言うと、琳音は私の着ていたジャンパーの裾をつかんで小さくうなずいた。


「うん……」


 そのまま再び街を行く私たちだったが、空気は淀んでいる。琳音の小さな泣き声が雑踏から小さく聞こえてくるのが私の心に刺さった。


 それから五年の月日が流れ、私が二十六歳の時に彼と赴任先の学校で再会した。その時の彼はなかなかの腕白坊主で、言い換えればクソガキで、学校でも問題児としてよく知られていた。

 だがそんな彼でも私の前ではしおらしく、可愛らしい姿も見せてくれる、何人かの顔を持つ少年へと成長していた。まあ、光を浴びると紫色に光る黒髪を長く伸ばし、制服も女子用のセーラー型ワンピースだったけれども。


 彼と出会って親しくなったばかりの頃、彼とテレビを見ていると昼ドラがたまたま流れていた。ちょうど夕食のシーンで、主人公の子供がカレーを美味しそうに頬張っている。

 そのシーンを食堂で一緒に見ていると、琳音が珍しく真面目にテレビを見ていた。いつもなら昼ドラを「バカバカしい」と一蹴して遊びに行くのが彼なのに、この日はやけに真剣そうな面持ちをしていた。


 五年前の夕方の出来事が頭をよぎる。もうあの頃の琳音ではないのに、幼い琳音が隣で私の腕を掴んで「カレーが食べたい」と腕を引っ張る白昼夢が見えた。そんな私を見てか、成長した琳音が私を心配そうな表情で見上げてくる。


「にいちゃん、大丈夫?」


「あ、ああ……。大丈夫だよ」


 嘘。本当なら、幼い琳音への罪悪感でいっぱいで、今にもカレーを食べさせるために色々してやりたくなっていたところだ。


 早く昼食を終えて教員室へ帰りたい。そう思っていたところに、琳音が私の手を握って、体を預けてくる。


「カレーってどんな味がするんだろうね?」


 そう笑って聞く琳音の目は笑っておらず、どこか寂しそうだ。私はとうとう本音を漏らしてしまった。


「なあ、琳音」


「なに?」


「……カレー、食べに行こうか?」


 すると琳音が目を見開いて、あからさまに驚く顔をした。開いた口が塞がらない。この言葉を体現したかのように、彼の開いたままの口からよだれが少し顔についていた。


「嘘じゃねえよ。安心しろ」


 そう笑って頭を撫でてやると、琳音はどこか嬉しそうな顔をして私の腕に抱きついて本音を漏らした。昔とは違って、今度は誰にも聞かれないように、小さな声で。


「おれの誕生日プレゼント?」


「そういえばお前、昔は誕生日を知らない子だったよな」


「今もわかりませんよ」


 笑顔でそう答える彼に、私は冗談だと思って聞き返す。


「おいおい冗談だろ? おれはお前の先生だからな、ごまかしは聞かねえぞ」


「四月二日って答えるんでしょ? あれは事件が起きた日で、その日までおれは戸籍がなかったんだよ」


 ……つまり、本当は琳音の誕生日が分からないということか。

 私が琳音への性的虐待を雇い主に怒って、黙り金を積まれてクビになってからすぐ彼は殺された。その日まで彼は偽物の戸籍で生活し、息子の出生届も出さなかった。


 そんな事件が五年前の春に起きた。私はその事件を五年前、ニュースで知ったが当時は子供にまつわるバッシングが酷かった。中にはベビーシッターだった私へ、その息子がどんな生活を送っていたか聞こうとする記者まで現れる有様だった。


 そんなことがあって私はマスコミが嫌いになり、テレビもあまり見なくなった。そんな中、被害者の一人で左目をえぐられた琳音は、当時もトラウマを抱えながら学校を運営する孤児院で生活していた。


「本当の誕生日が分からないのか……」


「うん……」


 そう小さくうなずいてうつむく琳音に、「守りたい」という気持ちを強くする。私はとうとう琳音の手を握り返して、言った。


「カレー、食べに行こうか」


「マジで? にいちゃんマジ?」


 さっきまでの寂しそうな顔がパァッと明るくなって、琳音は口角を上げて元気よく聞いてくる。


「マジだぞ。今度の土曜日、私の家に来い」


「うん! にいちゃん、今度はお邪魔します。よろしく!」


「ああ、食べよう」


 嬉しそうな琳音の顔に、私も思わず微笑んでしまう。この笑顔を守らないといけない。そう思った瞬間だった。


 さて、土曜日の夕方。私が自宅のマンションで準備をしていると、呼び鈴がけたたましく鳴り響く。インターホン越しにドア前の客を見ると、そこには赤いレインコート を羽織った琳音で、長い髪をしずかちゃんのように二つに結んでいる。


「あ、あの……」


「琳音か?」


「そうだよ。にいちゃん、中へ入れて」


 時刻は夕方。夕陽がマンションの共有スペースである玄関前にもよく映える時刻だ。早く琳音を中に入れないと、彼の体がもたない。


「ああすまん。ほら、中へ入ってくれ」


 慌てて私が玄関のドアを開けると、琳音はうつむき気味にお邪魔しますと言って中に入る。片付けたとはいえ、男がたった一人で暮らすマンションはどこか生活感があって、あまり大人の部屋で過ごしたことのない琳音にとっては驚きだったようだ。


「ええ……。にいちゃんの家、きったなあい」


「まあお前も成長すればこうなるさ」


「と、いうと?」


 不思議そうな表情をした琳音の目が私を見つめて、どこか気まずい雰囲気になる。私はとりあえず、答えを彼に教える。


「ほら、スパイスの匂いがするだろ?」


「んー、なんかツンとした匂いはするけど……」


 そのまま相変わらず不思議そうな顔の琳音の手を握って、キッチンへ連れて行く。キッチンへ近づけば近づくほどスパイスの匂いが強くなっていくようで、琳音は小さな鼻をつまんで私についてくる。


「鍋を見てごらん」


 私がサーカスの道化師のように言って見せると、琳音は鍋の蓋を開けてその中身に目を丸くして騒ぎ出した。


「これってカレー? すごいよにいちゃん! カレーってこんなに辛そうな匂いがするんだね!」


「そりゃあ、スパイスを使うからな」


「もしかして、おれのためにスパイスの混ぜ込み料を払ったの?」


「まあな。幸い片付けをしていたら、お前のアレルギーについて書いた紙が見つかったからな。あの時捨ててなくてよかったぜ」


「本当にねえ。にいちゃんって本当にいい人だねえ、ありがとう」


 カレーを見ながらそうお礼を言う琳音に、私は一万円ほどしたカレーのスパイス生成代にひいひい内心言いながら彼の笑顔に笑みを浮かべた。


「じゃあ、食べるか。琳音、テーブルの上に二人分の皿があるからご飯とカレーをよそってくれ」


「えっ、おれがしてもいいの?」


 琳音は今まで、自炊したことがないのか? まあ施設で育っているならそうなるか。そう自己完結しながら私はご飯の盛り付けという大役を彼に任せた。


「ああ、もちろんだ」


「やったあ! 今までやったことがないんだ!」


 嬉しさを言葉や顔に表しながら皿にご飯を盛り付けようと、琳音が炊飯器の蓋を開ける。その途端、炊き上がったばかりの白米の甘い匂いと共に、水蒸気が琳音の顔に襲い掛かった。


「甘い匂いだなあ。炊飯器ってこんな湯気が出るんだ!」


 私にとっての日常は、琳音にとっての非日常だった。私が普段経験する当たり前を琳音は経験するたび、驚きの声を上げて、私に驚嘆の表情で嬉しそうに笑いかけてくるのだ。


「…………」


 琳音がどこか深刻な面持ちでカレーと睨み合いっこをしているのを見て、私はテーブルから声をかけた。


「大丈夫か?」


「にいちゃんは声をかけないで! おれ、今悩んでるんだ」


「おお、何にだ?」


「だから! 声をかけないでったら! おれ、どれくらいカレーをご飯にかけようか悩んでるんだ」


 少女のように可愛らしい顔が紅潮して、私を睨み付ける。装いは少女らしくなんちゃって制服のシャツに短いチェックのスカート。青いカーディガンを羽織っているのに態度は少年そのものだ。やはり女装しているとはいえ、心は年頃の少年なのだ。


 その相反する姿に思わず私は声を上げて笑い出す。地団駄を踏んで「本気なんだから」と怒る琳音はやっぱり可愛らしい。五歳の頃のように、琳音の素直で幼い姿を見せてもらえて私は心の底から喜んだ。


「なあ、俺は一杯でいいんだ。一杯で。でもお前は好きなだけかけていいぞ」


「ほんと?! じゃあ、皿から溢れるほどにかけちゃおうっと」


「ああ、いいぞ」


 やった。そう小さくガッツポーズをする琳音がどこか近い存在に思える。ベビーシッターとそのお世話する子供から、時を越えて教師と教え子の関係に変わった。だが、その関係以上に私と琳音の距離は近くなっていくように思えたのだ。

 父と息子。いや、兄と弟。もしくはそれ以上に近い隣人へ。より親しくなった琳音を見ると、面白いことでいっぱいだ。


 赴任前はただ教師という聖職に誇りを持ち、学校に使える日々をなんとなく、当たり前のように送っていた。教え子たちはただの子供たちで、それ以下でもそれ以上でもなかった。

 だが、琳音と再会して、私は教師という職業の責任性や重要性を強く感じるとともに、教え子たちを自分の子供たちのように思う心がどこかできていた。


 その事実に気付いて、私は心のどこかがくすぐったくなってきた。また声を上げて笑い出すと、今度は琳音も笑ってご飯とカレーを盛った皿をテーブルに置いた。


「にいちゃん、何がそんなにおかしいの……あー、おれもおかしい。あははは……」


「絶対に教えねえ……あーははっはは……」


 そうお互い会話をしながらスプーンでカレーをよそって食べる。皿とスプーンの触れ合う金属音が琳音には新鮮に思えたようで、一瞬彼の驚く顔を見ながら私はまたその姿に口角を上げる。


「にいちゃん、笑わないでよ!」


「ああ分かってるさ。いやあ、今日はお前の驚く顔を何回見たことか。俺はその回数に驚いてんだよ」


「へえ。おれ、そんなに驚いてたの?」


 改めて、目を見開いてカレーを食べようとする琳音の顔を私は見つめる。そんな私の視線をよそに、カレーを口いっぱいに頬張る琳音の感想はどうだろうか?

 小さな口を精一杯開けて頬張る琳音はルーを口元につけて、肉や野菜と共にカレーを咀嚼し、飲み込んだ。それからすぐ、自然とした笑みがこんな言葉と共に彼からこぼれた。


「……おいしい」


「だろ?」


「……普通の人って、当たり前にこんなおいしいものを食べるんだね」


 琳音の様子がおかしい。さっきまで嬉しさと驚きで満ちていた琳音の顔が急に暗くなる。うつむいて、涙を目に溜める琳音に、私はなんといえばいいか分からなくなる。


「……泣いてごめんなさい……。好きな人と話しながらおいしいものを食べるって、こんなに楽しいことだなんて思ってなかったから……」


 涙を流す琳音の言った言葉に私は驚いた。自分がまさか琳音にとって、好きな人だと認識されていたのが意外だったのもあるが、私の当たり前が琳音の非日常だと改めて認識するのに、少し時間がかかったからだと今になって思う。


 少し時間を経て私は、琳音の隣に座って慰める。


「よしよし。お前はいつもそうやって泣いてたよなあ」


「……うん……。今日はいっぱい泣いてもいいよね……」


「ああ。いっぱい泣け。いっぱい泣いて、明日また笑顔で帰ろう」


「うん……」


 私に体を預ける琳音を抱きしめ、背中をさすりながら子守唄を歌ってやる。ベビーシッターだった頃、よく泣いていた琳音を慰める方法で。


 すると、徐々に落ち着いてきた琳音は少しずつ眠くなったようで、やがて瞳をつぶって眠りについた。


 成長したとはいえ、琳音はまだ十歳だ。それにそれが本当かも分からない。いや、本当の誕生日なんてどうでもいいのだ。私は琳音の願いを叶えて、心の底からの笑顔を引き出すことができて嬉しくて、それと同時に守らなくては、という思いに駆られた。


 琳音をベッドに寝かせて、彼を見守る。規則正しい呼吸音をたてて眠る琳音は、やっと平穏を得られたようだ。そんな気がして、私は一度琳音から離れて、彼の住む孤児院に連絡を入れた。


「もしもし、柚木ゆぎです。琳音くんなんですが、寝てしまって。今夜は泊めてもいいでしょうか……」


『大丈夫ですよ。ちゃんと守ってあげてくださいね』


「……はい、分かりました」


 なんとあっさりとした答え。なんというか、琳音が守られていないというか、大事にされていないというか。どこか施設に不信感を覚えながら、私は電話を切った。


 部屋に戻ると琳音が眠っている。やはり、琳音を守らないといけない。彼を守ろうとするものは無いのだから。


 気の毒な彼の頬を手でさすってやる。すると、琳音の細い指が私の手を掴む。その刹那、彼は瞳を開けて小さな声で私に話しかけてくる。


「……にいちゃん、泊めてくれるんでしょ」


「聞いてたのか?」


「当たり前じゃん。やっぱり寝るならにいちゃんといっしょがいいな」


 そうニヤける琳音の顔に安堵のため息を漏らして、私は彼の眠る布団に入る。新卒の時に購入したシングル用のベッドは、二人が眠るには狭かった。


「やっぱり二人入ると狭いな」


「でもあったかい」


「……だな」


 私は琳音を抱きしめてやる。子供だからだろうか、彼の体温は熱くて生々しい。それでも、私には懐かしい記憶と共にこみ上げてくるものがあった。


「……おやすみ」


 琳音にそう静かに話しかけると、彼も静かに返した。


「おやすみなさい。いい夢を」


 琳音はどんな夢を見るのだろう。私は彼の夜に平穏があることを祈りながら意識を手放した。


 私は琳音という愛しい海物に全てを蝕まれ、この世から消滅した。だが魂は残り、知らない町を彷徨っている。家族を知らない海物に全てを喰われた私も、また孤独の中で生きた人間だった。その隙間を琳音に埋めてもらい、代わりに体を与えた。


 琳音がどこかで生きていれば、今年で十五歳の中学生だ。せめてその成長を見届けてからこの世から旅立ちたかった。その後悔と共に、さっき夜の十二時を告げていた時計台に戻ってきた。


 歩き方を忘れていた脚を無理矢理動かして戻ってきた後の感覚は正直よろしくない。だが、せめて同じ町で琳音が生きていたら。そう思ってやまないのだ。そのかすかな希望とともに琳音を探している。琳音の成長した姿を。

 

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