魔法のコトバ(中編)
三村小稲
第1話魔法のコトバ(全編)
かつてうちの隣に野村さんという人が住んでいたのだが、米澤修平はきっかり十年間そのことを忘れていた。
忘れていたというのは記憶が色褪せてしまったからではなく、野村さんにまつわるさまざまな事柄もそっくり記憶から抜け落ちてあたかも部分的記憶喪失のような状態だったからだった。
が、ある日まったく唐突にすべての記憶が蘇った。
それは野村さんと会った最後の日から数えて3650日目で、修平は「忘れていた」ことそれ自体が野村さんの「魔法」だったことを瞬時に理解し、不覚にも涙が零れた。
そう、十年前、隣に住んでいた長い髪の、痩せて陰気な野村さんは「魔法使い」だったのだ。
米澤修平は当時十七歳。平凡な高校生だった。
家は大きな公園のそばのマンションで、家族構成は父親と母親の三人。父親は公務員、母親は専業主婦。ひっそりとした穏やかな家庭だった。見た目だけは。
修平は十七という年齢なりの知恵と洞察力を身につけており、すでに両親の関係の破綻も、表面上は平和に取り繕われていることも理解していた。
修平は家庭の冷たさを感じていた。言い争ったり、罵ったすることなく、静かに淡々と日々を過ごし、毒にも薬にもならない世間話のような会話をしテレビを見るのだが、誰の心にも愛や喜びはなく、微笑むそばから暗い溜息が漏れ聞こえるような錯覚を覚える。頭はのぼせたような暖気にとりまかれ、足元からは凍るような冷たい空気が這い上ってくるのだ。修平はそれを「呪い」のように暗澹としたものだと思い日々をやり過ごしていた。
修平は自分を無力だと思っていた。両親の前でどちらの敵にも味方にもならず、かといって反抗的な息子になって彼らの関心を集めるでもなく、ただ冷戦の中にひっそり身を沈め、学校でも取り立てて目立たず、いじめられるわけでもなければ人気者になるでもない。成績だって良くもなければ悪くもない。
それらは修平にとって「どうでもいい」ことで、そんな風に思うこと自体がすでに無力さの証明だった。争いは心身を疲弊させるし、努力や情熱もまた自身を消耗させるので避けて通り、陽が昇り、また陽が沈むにまかせるだけ。修平はそれに満足し、たぶんこのまま自分は「人生」というものを「やりすごして」いくのだと思っていた。
そんな十七歳の初冬。隣りに引っ越してきたのが野村さんだった。
隣の部屋は南向きの角部屋で、バルコニーが広い作りになっていた。
もともと空室ではなかったが、人の出入りは修平が知る限り一度もなく、誰かの名義なり何なりではあるものの人が住んでいるわけではないという奇妙な部屋だった。
そこへ引っ越し業者が現れ荷物を運びこんでいるのを学校帰りに目撃した修平は、「ふーん、誰か住むのか」と開け放された扉の奥を覗きこんだ。
テーブルやソファといった家具やダンボールを運ぶ引っ越し業者の屈強な男達の姿と、玄関から奥へと続く廊下に女の人が立っているのが垣間見えた。
通りすぎようとして、ちょっと目があったような気がして、修平は軽く会釈をした。女の人も会釈を返した。
女の人は黒いセーターを着ていて、胸が薄っぺらで貧相で、暗い表情をしていて、あまり若くはなかった。
修平はそのまま自分のうちの鍵を開け中へ入り、居間でテレビを見るともなく見ている母親に「ただいま」と声をかけた。
母親は「おかえり」とテレビの方を向いたまま答える。それから修平はそのまま自室へ行き、父親が帰宅して夕食に呼ばれるまで引きこもるのが常だった。
十七歳男子なんて皆そんなものだろうと修平は思っていた。家に母親と二人きりでいて、話すことなどあるはずもない。それはたぶん母親の方でも同じことで、修平に母親の何が分かるわけでもなし、親子でありながら、いや、親子だからこそ二人の距離は果てしなく遠かった。
静かな夕刻。日没は早く、すでに空は藍を流したように暗い色に染められ、今日最後の太陽の光が消えて行こうとしていた。
制服を脱ぎ、部屋着にしているよれよれのネルシャツを羽織る。いつもは静かすぎるほど静かなのに、その日は隣の引っ越しの気配とわずかに漏れるがたごとという重い物を動かすような音のせいで何か落ち着かない気分にさせられた。
壁一枚隔てた向こうに誰かいると思うと、これまでの静寂がどれだけ貴重なものであったことか。修平は机の引き出しに入れてあった煙草を取り出すと、窓を開けてベランダに出た。いつもは暗闇に包まれていた隣のバルコニーに黄色い光が投げられている。修平は煙草を咥え、百円ライターで火を付けた。
修平が喫煙することを恐らく母親は知っているだろう。修平にしてもおおびらにしているわけではないが、こそこそするつもりもなかった。バレたらバレたで、それでもいいと思っていた。
奇妙な真面目さと小心さとで修平は自宅ベランダ以外で煙草を吸うことはしなかったし、吸った後はわざとらしくガムを噛むことにしていた。バレていいと思うわりにはくだらない小細工だと我ながら思うが、修平はそれがある種の「思いやり」のように感じていた。
母親は修平の喫煙を問い質すような面倒なことはしたくないだろうし、修平もまた父親の前に引き据えられてねちねちとお説教を聞くのはごめんだった。そもそも父親にしても、煙草如きで息子を叱らなければいけない役割にうんざりするだろう。
互いに日々を「やりすごす」為には、波風を立てないことが肝要だということを、修平たち一家は熟知していた。それも無意識のうちに。
修平が吐き出す煙がすっかり暮れてしまった宵闇の中に消えて行く。目を閉じると車の音や犬の鳴き声が遠く聞こえる。今日も平坦な一日が終わる。
翌日、修平がいつもの通りに学校から帰ると居間のテーブルに箱入りの菓子と、この家では誰も飲まない紅茶の缶が置かれていた。
修平は不思議に思い、外国製の洒落た紅茶の缶をなにげなく手にとった。
「これどうしたの」
テレビを見ている母親の背に尋ねる。母親はテレビに視線を向けたまま、
「昨日引っ越してきたお隣りの人が、挨拶に持ってきたの」
と、答えた。
「……隣の人」
修平は呟く。
「なんだか暗い人だったわ。愛想笑いの一つもしやしない」
「……」
「センター街の澤沢文具。あそこで働いてるんですって」
「……ふうん」
センター街の澤沢文具というのは、この町で一番大きな書店の隣に位置する、やっぱりこの町で一番大きな文具店だった。
地味な女に地味な職場。修平はそんな感想を持ったが、紅茶の缶には妙に心惹かれるものがあった。
固く冷たい缶の手触り。軽く振るとかすかな手ごたえとさらさらと茶葉の擦れ合う音が耳をくすぐる。修平は鞄を置くとそのまま紅茶の缶を手に台所に入り、おもむろに薬缶を火にかけた。
それから食器棚をがたがたと探り始めたが、ティーポットなんてものはこの家にはなく、しばし思案するうちに薬缶が熱い蒸気を噴きあげ始めた。目についたのは水切りかごに伏せられた急須だった。
まあ、これでも用途は同じか。修平はスプーンの先を使って缶の蓋をこじあけ、急須に二杯ほど茶葉を掬い入れた。それから薬缶の湯を注ぎ、厚手のマグカップと共に盆に乗せ、そろそろと捧げ持つようにして自室へ引き上げて行った。
勉強机に盆を置くと、制服を脱ぎすてる。
滅多に台所になど足を踏み入れない修平だが、かたすみの分別用のゴミ箱にビールの空き缶がどっさり入っているのを見過ごすことはできなかった。ビールだけじゃない、ワインの空き瓶等も何本も入っていて、袋を今にも突き破ってしまいそうだった。
父親は滅多にアルコールを口にしない。酒に弱いのだ。少し飲んだだけで顔を真っ赤にしてしまうし、平日は寝過ごすことを恐れてまず飲まない。ではあの大量の空き缶空き瓶は誰が飲んだものなのか。答えは一つだった。
修平は紅茶をカップに注ぐと、引き出しから煙草を取り出した。自分が喫煙を隠す気がないように、母親も飲酒を隠すつもりはないのだ。それが何を意味するのか。修平は一瞬瞼を閉じ、すべての思考を遠ざけようと試みた。
紅茶は透きとおった薄紅で、花のような匂いがしていた。修平はそのカップと煙草を手にベランダへ出た。
夕暮れ時、次第に冷えていく外気と相まって紅茶はひどく熱く香ばしいものに感じられ、カップに唇を触れると湯気が優しく鼻先をくすぐった。
しばらくじっとして紅茶の放つ香気を嗅いでいると、がらりという音を立てて隣のバルコニーの窓の開く音がした。次いで足音と、風に乗ってスパイスのような不思議な匂いが流れてきた。
陰気で愛想のない、澤沢文具の店員の女。修平は手すりにカップを乗せ、非常時には蹴破っていいことになっているベランダの薄い仕切り板に身を寄せて隣の様子を窺った。
どうやら女は電話をしているらしく、低い声で何か話していた。
修平は盗み聞きをしようと思ってそうしているわけではなかったが、昨日垣間見た時の女の印象と、彼女が持ってきた紅茶の味に奇妙なまでに心がざわつくのを感じていた。
母親が言ったように、確かに暗い顔の女だった。痩せていて不健康そうに見えた。けれど、ほんの一瞬目が合った時に気のせいかもしれないが背筋にぞくっとくるものがあった。黒目勝ちの大きな目だった。
あの感触は運命的な出会いを意味する電撃的なものではなく、単純な恐怖感だったと思う。確かに陰気な空気をまとっていた。でも、その暗さは性格的なことではなく、もっと違うもので構成されているような気がする。それが何かは分からないけれど。
修平は動物が危険を察知するように、本能的に隣りに引っ越してきた女を警戒していた。
女は仕切り板越しに身を潜める修平に気づくわけもなく、話しをしている。
「ええ、そう。引っ越しは終わったわ。別に問題はない。仕事? まあ、普通よ。え? 普通っていうのはね、問題ないって意味よ。私、こういう生活が性に合ってるみたい。こういうっていうのは……普通の人間の生活ってことよ。……そうよ、魔法と関係のない、まともな人間の生活よ。なによ、なに怒ってるの。別にママたちがまともじゃないなんて言ってないでしょ。ただ、私は、この世界のほとんどを占めてる魔法と関係のない人たちこそが世界を動かしてると思ってる。彼らこそがまっとうな、真面目な人間だって言ってるだけ」
魔法? 修平は眉間に皺を寄せた。
なに言ってるんだ、この人は。魔法っていうのは何かの比喩的表現なのか。それとも他のものを表わす隠語なのか。
「うるさいわね。いい加減文句を言うのはやめて。私は自分のルーツを捨てたわけじゃないし、ママたちのいる世界を否定するつもりもない。ただ、魔法を使わなくても生きて行くことはできるって言ってるの。それもちゃんと便利に、楽しくね。もうこれ以上この事で議論する気はないわ。暗くなる前に帰ってちょうだい」
息を凝らして隣家で交わされる言葉と気配にさらに耳をすませようとした刹那、修平の尻ポケットに入っていたスマートフォンが静けさをぶち破って鳴りだした。
修平はぎくっとして慌てて立ち上がった。その拍子に手すりに乗せていたカップに体が触れたのか、カップが落下し足元で大きな音を立てて砕け散った。
「ああっ」
修平は咄嗟に声をあげた。と、同時に、隣のベランダから大きな一羽の鳥がばさりと羽の音をさせ飛び立っていった。
それは見たこともない大きな鳥だった。黒い背にグレイと白の混じった胸と腹。鳥は高く飛翔したかと思うと、彼方で旋回し、修平のいるベランダへまっすぐに飛んで来ると驚いたことにすぐ目の前まで来てまた大きく羽ばたき、急上昇して姿を消した。
修平は唖然としていた。今目の前を飛び去った鳥の、金色をした鋭い目と目が合ったような気がして。
こんな町中にあんな大きな鳥がいるなんて。カラスや鳩より他に見たことがない。なんという鳥だろう。修平は焦りと驚きとで胸がどきどきしていた。
しかしそのどきどきを心臓ごと握り潰すような冷たく厳しい声が仕切り板の向こうから修平めがけて放たれた。
「誰。そこにいるのは」
「……」
今さらだが修平は息を殺して気配を消さんと努めた。足元には飛散したカップの欠片と飲みかけだった紅茶が大きなシミを作っている。その中をそろそろと抜き足差し脚、部屋へ戻ろうとした。
「誰なの。正体を見せなさい」
「……」
正体って言われても。仮の姿があるわけでなし、自分は自分以外の何者でもないわけで。
「逃げられないわよ」
ダメだ。これはマジだ。修平は家に怒鳴りこまれでもして問題が大きくなってはまずいと思い、観念して体をひねると手すりから大きく身を乗り出した。
隣家の女がどこの国の言葉か分からないが、何か外国語のようなものをぶつぶつ言っているのが聞こえてきた。
「すみません!」
修平は手すりから身を乗り出す格好で仕切り板の向こうに顔を覗かせた。
見ると女は右手に電話ではなく木の枝を持っており、修平の姿にぎょっとして硬直した。
修平は相手を怒らせないように、怯えさせないように、なるべく愛想よく、しかし申し訳なさそうに、
「別に盗み聞きとかそういうんじゃなくて、今、たまたまベランダにいただけで……。あ、あの、紅茶ありがとうございました。美味しかったです」
女は外国語を口走っていた唇をぽかんと開けて、修平を凝視していた。
「今の大きな鳥、見ました? あれ、なんでしょうね。初めて見た。今、すげー近くまで来ましたよね?」
「……」
修平は引っ越してきたばかりの隣家のバルコニーに無数の鉢植えが置かれてあたかも森を思わせるちょっとした庭園になっているのに目を留めた。
「あー、やっぱ植物とかあると鳥がくるんですかねー」
女は張りつめたように怒らせていた肩をほうとため息とともに緩めると、
「……タカよ」
と呟いた。
「はい?」
「さっきの鳥。オオタカ」
「へえ、初めて見た。詳しいんですね。こんな町の中でもいるんですね」
「……」
女は修平の言葉にふっと鼻先で笑ったようだった。修平はそれを見ると、ああもう怒られないなと緊張を解いて、
「こっちのベランダが僕の部屋になってるんです」
と、自室を指し示してみせた。
「あの、ほんと、すみませんでした。別に僕覗いたりそういうことしませんから。それじゃあ……」
それだけ言うと修平は体を引っ込めようとした。すると女が尋ねた。
「さっきの話し、どこまで聞いた?」
「……いえ、別にどこまでもなにも……」
「……」
「じゃあ……」
嘘だった。女の会話はつぶさに聞こえてきていた。が、それを言うべきではないと頭の中で警戒のブザーが鳴っていた。
修平は体を引っ込めカップの欠片を跨いで部屋に飛びこみ、窓を閉めた。
女は電話をしていなかった。あの魔法云々は独り言だったのだ。修平はその場にへたりこんだ。
頭のおかしい女が隣に引っ越してきた。修平は好奇心よりも恐怖心を覚え、しばらくそのまま動悸が静まるのを待った。それが修平と隣家に引っ越してきた野村さんとの初めての邂逅だった。
隣に引っ越してきた頭のおかしい女は、しかし、おかしな行動をとるわけでもなく静かにひっそりと暮らしているようだった。
一人暮らしの静けさとでも言おうか。それは本当にしんとして気配のない様子で、ベランダで独り言みたいにして喋っていたのもあの一度きりで、オオタカの飛来もそれっきり見ることはなかった。
修平が学校に行く時間にたまたま出くわすと、黒いタートルネックのセーターに黒いパンツ、黒いコートといった黒ずくめで、長い髪を一つにまとめて頭のてっぺんにお団子にして乗っけて、にこりともしないで「おはようございます」と挨拶をする。
「おはようございます」
修平が挨拶を返すと、野村さんは何か言葉をつなぐでもなく仏頂面で修平の顔をじっと見つめてきた。
それはなんらかの感情もこもった視線ではなかった。とてつもなく静かで、それでいて奥底に奇妙な熱の含まれた視線。修平の心の奥の奥を覗こうとするような、または刑事が犯罪者を探るような鋭利な目だ。それでいて悪意は感じられないのが修平を戸惑わせた。
野村さんは修平から視線を逸らせると、やってきたエレベーターに乗り込み「学校ってまだ休みじゃないのね」とぼそっと言った。
「えっ、そりゃそうですよ。まだ11月じゃないですか」
「……じゃあ、いつから休みなの?」
「クリスマス前ぐらいから」
「いつまで?」
「1月の1週目まで」
「そんなに短いの」
「普通どこもそうじゃないですか」
野村さんは「普通……」と呟くように繰り返した。
エレベーターが地上に着くと、野村さんはすたすたと玄関ホールを通り過ぎて行く。
修平はその一歩後ろを歩きながら「昔はもっと休みが長かったのか? いや、どっちかっていうと短かったって聞いたことあるけど」と思いつつ、歩幅の大きな野村さんのお団子を見つめた。
マンションの玄関を出ると修平は「それじゃあ」と野村さんに会釈をした。
すると難しい顔をして何か考えていた野村さんが「ちょっと待って」と修平を呼び止めた。
「このあたりで……その、できるだけ自然の状態になっている……原っぱみたいなところってないかしら」
「はい?」
「ええと、植物が自生していて、虫とかトカゲがいるようなところ」
「……はあ……」
この人なに言ってんの。そこまで田舎じゃないだろう、この町は。修平は自分の顔が明らかに不審な表情になっているのが分かった。困惑。そして、警戒。しかし野村さんはそんな事にはまるで頓着しないで、真面目な顔で「できれば日本の固有種があればいいんだけど」と付け加えた。
原っぱ? 虫? トカゲ? 固有種? 修平は野村さんが何を意図しているのかさっぱり分からなかった。そんな事を聞いてどうするつもりなのかも、それらの言葉の意味も。
「……さあ、ちょっと分かりません……。ググってみたらどうですか……」
「ググる?」
「ネットで検索」
「……ネット……インターネット?」
「あの、それじゃあ……」
修平の言葉をいちいち確かめるように口の中で繰り返す野村さんを尻目に、修平はそそくさと学校へ向かう道へ足早に出て行った。
変な人。やっぱり変な人だ。修平は振り返るのが怖くてずんずん突き進み、角を曲がる時になってようやく視界の端にマンションの入口をちらっと確認した。野村さんの姿はもうなかった。
なんでこんな寒い時期に自然な状態の原っぱになんて行きたがるんだろう。山ガールか? それとも森ガールなのか? いや、でもあの黒ずくめはそういうジャンルじゃなさそうだ。
学校が近づくにつれ、同じ制服姿がぞくぞくと通りを埋めていく。修平はその光景に安堵を覚えた。そこには平坦な日常がある。制服がすべてを無個性にし、一つの群れを作りだす。群れとは即ち守られたコミュニティでもある。そこから逸脱しない限りは平和でいられる。制服はその象徴だった。
奇妙な隣人の奇妙な言動から解放され、修平はほっと息をついた。そしてもう一度落ち着いて、野村さんの言葉を思い返してみた。
自然な状態。植物の自生。日本の固有種。ふむ。理系のキーワードだな。それも割とガチな、硬派な学問寄り。スタイルとしてのネイチャー系ではなくて。趣味……なのか。それとも、澤沢文具の店員というのは一時的な姿であって、何かの研究をしているのか。
修平は野村さんが野鳥に詳しいことをふと思い出した。そういえばバルコニーに大量の植物があったことも。
隣のバルコニーは引っ越してきた日よりも確実に鉢植えの数を増やしており、ベランダからは風に乗って濃密な緑の匂いがする。風にざわめく葉ずれの音からしてもかなり大きな鉢もあるらしいのを感じていた。
煙草を吸うべくベランダに出る時、冬の冷たい空気に混じって緑の匂いがする。それはあたかも呼吸するかのように、濃くなったり薄くなったりして、修平の元へ漂ってくる。修平はそれが決して嫌いではなかった。しっとりと濡れた気配を感じると、なんだか気持が落ち着くようで。それが自然の力というものなのだろうか。
学校に着くと修平はスマートフォンで近くの公園を検索してみた。自然な状態という時点ですでに公園は相反するものなのだけれども。虫がいて、トカゲがいるような、そんなところ。修平は地図を指先でなぞりつつ、野村さんを不気味に思い警戒すると共に、関心を寄せずにはおけなかった。
実際、修平が野村さんを奇妙だと思うように、なんとなくではあるけれどもマンションの住人たちも一人暮らしの妙齢の、いつも眉間に皺を寄せている女性に怪訝な目を向けていた。出くわせば挨拶ぐらいはするけれども、無理に微笑もうとするから顔の筋肉は強張り、ますます奇妙な印象を与える。あの黒い服がいけないんじゃないのか。修平はそんな事を思いもした。
野村さんはいかなる時も黒い服を着ている。地味好みでグレイやベージュを着ている日があってもよさそうなものを、とにかくひたすら黒一色。しかも同じ服を何枚も持っているのか、いつも同じ黒いパンツに黒いタートルネックのセーターだ。アクセサリーひとつ付けていない。似合っていないわけではないのだけれど、黒が野村さんにしっくりきすぎていて、というのも陰気な表情にマッチしすぎていて、だからますます野村さんの奇妙さが際立ってしまっていた。
修平は野村さんを近所のスーパーで見かけたことがあるが、彼女が買い物をする姿は実におかしなものだった。
野村さんは豆苗やかいわれを手にとって眺めていた。修平は母親に頼まれた買い物をしていたのだが、思わずそっと陳列棚の影に身を潜めて野村さんの様子を窺った。
品定めをしているという以上に、もっと真剣な、食い入るような目で豆苗と対峙し、たっぷり三分間は微動だにしない。何か問題でもあるのだろうか。それとも豆苗にこだわりでもあるのだろうか。
声をかけることはしなかった。修平は野村さんが奇妙だろうと、豆苗に異常な執着心を持っていようとどうでもよかったから。恐らくは野村さんだってこんな場面を目撃されて、その行動について問われても困るだろう。けど、でも、しかし。修平はスーパーの野菜売場の一角で、一人だけ世界から浮いているような野村さんの存在から目が離せなかった。
変な人なんて近頃いくらでも、どこにでもいる。でも野村さんの変さはそういう類いのものではない。個性だとか、猟奇・変質性のものではない。もっと異質で暗い空気が野村さんの体から立ち上っていて、それが頭のてっぺんのお団子から煙のように薄く空気中へたなびいていく。修平は野村さんを見ているとその煙に取り巻かれてしまうような錯覚を覚えるのだ。
その後野村さんは豆苗をカゴに入れた。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ。
そんなに一人で食うんか。修平は野村さんが体の向きを変えたのを潮にその場を離れた。食べるんじゃなくて、案外、バルコニーで育てるんだったりしてな。そんなことを思いながら。
それから三日後のことだった。修平は夕方帰宅する道すがらのことだった。
マンションのそばの大きな公園をとりまく外周道路はランニングや犬の散歩をさせる人たちの格好の周回道路になっており、特に時間帯によっては様々な犬種に遭遇することができる。
修平は学校帰り、何の気なしにその道を歩いていると、前方を同じ方向に歩いて行くお団子頭を見つけた。
仕事帰りなのだろう。野村さんの足取りは朝見かけるよりも少しゆったりとしていて、時折公園の植栽に目を向けたりしているのがお団子の動く角度で分かった。
ここも大きな公園だから、人の手が入っているとはいえ虫やトカゲぐらいいるんじゃないのだろうか。虫ってどんな虫のことを指しているのか分からないけれど。修平はぼんやりと野村さんのお団子を眺めていた。
二人の進む道の先からこちらに向って犬を散歩させる人が近づいてくる。ミニチュアダックスフントだ。さらにそれに続いて柴犬を連れた人がやってくる。
犬たちは飼い主に従順にてれてれと歩いていた。時には電柱に寄り道をしてみたり、花壇に足を踏み入れてみたりしながら。実に呑気に、牧歌的に。
その時だった。前方を歩くお団子頭がぴたっと足を止めたのは。
野村さんは前からやって来る犬を待ち受けるかのように、じっと歩道の真ん中に立っていた。
なんだ……? 首を傾げる修平の脇を散歩中のラブラドールが追い越して行った。
野村さんが立ち止っているので修平もなぜかしら足を止め、前後からやってくる犬と立ち尽くす野村さんの背中を見つめた。
すると、犬たちは野村さんまで一メートルというところで急にぴたっと歩みを止めた。
一匹の犬が立ち止るぐらいなら驚きはしない。犬が立ち止まるのは用を足す時だし、飼い主に逆らうこともあるだろう。けれど、偶然居合わせた三匹の犬が一斉に野村さんを真ん中に置いて動きを止めたのだ。修平は一体これはどういうことなのかと固唾を飲んで事態を見守っていた。
犬たちは飼い主にリードを引っ張られても、声をかけられても微動だにしかった。ぐっと足を踏ん張って一歩たりとも動くまいとしていた。それどころか、最初に威嚇の唸り声を上げ始めたのはどいつだったろう、犬達は飼いならされた愛玩動物の立場も忘れ、信じられないほど獰猛で野性的な、強暴な唸り声をあげ、次いで狂ったように吠え始めた。そう、黒ずくめのお団子頭に向って。即ち、野村さんに向って。
ラブラドールの飼い主が慌てて犬を押さえこみ叱りつけたが、犬はそんなことはおかまいなしに牙を剝いて、体を低くしならせ今にも野村さんに飛びかかりそうな勢いで吠えまくった。
前方の小型犬も、全身の毛並みを総毛立たせ獲物を狙うかのように激しく吠えたて、飼い主はわけが分からず犬をなだめ、抱きあげた。が、犬達は吠えるのをやめなかった。
野村さんはどれだけ犬に吠えつかれようとも動く気配はなかった。
そうこうするうちに、右手に広がる公園の緑の中から、通りの向こうから、またはどこかしら離れた家の庭から、四方八方から犬の雄叫びのような鳴き声が響き始めた。
オオカミの遠吠えってこんな感じなのだろうか。修平はあたりを見回してみた。犬の姿は他に見当たらなかったが、遠く近くから多数の犬の鳴き声がこだまし、それは次第に大きくなり、緊急のサイレンのように鳴り響いていた。
野生動物に囲まれて襲われる。そんなイメージが脳裏をよぎる。今目の前で犬を連れた人たちも俄かに顔面から血の気が失せていた。
ラブラドールが前足で地面を叩き、よだれを垂らして、飼い主の制止をも振り切って野村さんに飛びかかろうとしたその瞬間。修平は咄嗟に叫び声をあげた。
「危ない!」
野村さんがその声に反応したのか、はたまた犬の気配に振り向いたのかは定かではないが、くるりと後を向くと素早く腕を伸ばして手のひらを犬の鼻先に突き出した。
修平が目撃したのは、犬が後ろに飛び跳ねるように後ずさったのと、野村さんの広げた手のひらから放たれた電撃のような閃き。そしてぞっとするほど冷たく、恐ろしい目をした野村さんだった。
犬は殴りつけられでもしたかのように体を伏せ、鼻を鳴らして今度はぶるぶる震え始めた。飼い主はすっかり動転して犬の傍に膝をつき、必死に名前を呼んでいた。
野村さんは後ろに立っている修平に一瞬視線をくれると、すぐに前方の犬たちに向き直った。犬たちは吠えるのをやめ、ラブラドール同様にがたがた震えていた。
一体なにが起こったのか修平にはさっぱり分からなかった。犬が野村さんを見てまるで敵を見つけたかのように吠えまくり始めたことも、町中の犬が仲間を集めるように鳴き始めたことも、全部目の前で見ていながら訳が分からなかった。
呆然と野村さんの背中を見ていると、野村さんは修平を再び振り向いた。前後にはがたがた震える犬。野村さんは何を思ったのか、突然公園の敷地と歩道を分ける60センチほどの高さに積まれたレンガに足をかけ、植え込みの中に身を躍らせた。そしてがさがさと枯草を踏む音をさせながら木立の中を分け入るように野村さんはそのまま公園の中へ走り去って行った。あたかも逃げるようにして。
修平は思わず野村さんの名前を呼んだが、野村さんはもう振り向くことなく、それこそ動物が森へ逃げるように落ち葉を蹴りあげて公園へ消えて行ってしまった。
修平はしばし呆然とその場に立ちつくしていたが、我に返るとその場から走りだし、公園の入口へさしかかるとそのまま中へと突き進んだ。
ちっぽけな植栽に思っていたそれも、こうして見ると思ったよりもみっしりとした木立で、常緑樹の冬の緑が濃く重い色合いで空へ向かっていた。
枯れた芝生にも、石畳の広場にも、公園を周遊するプロムナードにも、人口の池にもどこにも野村さんの姿は見当たらなかった。夕暮れ間近で気温はぐんぐん下がり、修平は微かに身震いした。
なぜ野村さんがレンガを乗り越えて植え込みにダイブし、犯罪者が逃走するような勢いで木立へ走り込んだのかその理由が皆目見当もつかなかった。走りだす必要がどこにあったのだろう。気が動転したとでもいうのだろうか。犬が怖かったとか。
でも修平にはそんな風には思えなかった。なぜなら犬に吠えまくられる野村さんは怯える様子は微塵もなく、むしろ慣れた様子でさえあって、静かに自分の置かれた状況を受け入れていた。それにあの冷たい目。殺意などの暴力的な気配ではなく、感情のない目。ガラス玉みたいだった。人間じゃないみたいだった。澄んで美しい黒眼だったけれども、その美しさの分だけ薄気味悪くて、修平は矛盾しているけれども追わずにはおけなかった。
修平はあたりを見回しつつ公園の奥へと進んでいった。ぽつりぽつりと街灯が灯り始め、あたりは急速に夜へと塗り替えられていく。都会の僅かな樹木を目指してムクドリが飛来するのが視線の先をかすめる。カラスの声が藍色の空に一声響く。
帰るか。修平は野村さんを探すのを諦め、くるりと方向を変えようとした。その時視界に冬枯れた薔薇園が見えた。
最早すっかり暗闇と化した薔薇園の入口で、今はただの枯れ木のように寒々しく剪定された薔薇の木の植え込みに目を凝らした。いた。修平は薔薇の木の傍に立っている野村さんを見出した。暗くてここからでは野村さんが何をしているのかまでははっきりと分かりかねた。が、野村さんはペンライトでも持っているのか、手元からぽっちりとした白い光が薄ぼんやりと辺りを照らしているのは見てとれた。
LEDか? 野村さんの手元の光は小さい割には強く、陰影をつけながらぼんやりと顔を照らしていた。
野村さんのお団子は全力疾走のせいで幾分乱れていた。
ぱきっと乾いた音が響き、続いて枯れた草の上を何かが落下する気配がした。ぱきっ、ぱきっと幾度も音がする。その度に野村さんの手が白い光を伴って上下に動く。修平はその光の軌道と残像をイリュージョンでも見るような気持ちで見ていた。
乾いた音はどうやら薔薇の木をへし折っているせいらしく、枯草にその枝を払い落しているのだと次第に分かってきた。
修平はいくら花が咲いていなくても公園の薔薇を折っていいものかと眉間に皺を寄せたが、野村さんの手があまりに苦もなく薔薇を折っていくのが不思議でもあった。
ひとしきり薔薇をへし折る野村さんを見ていたが、いよいよ辺りは太陽が最後の光りを失って完全な夜へ包まれると、ふっと蠟燭の炎を吹き消すように白い光は消え去った。
「野村さん」
修平はそれを合図のように声をかけた。
声をかけずに立ち去ることもできた。だが、追いかけてきた以上は声をかけないと気がすまないような気がしたし、野村さんがなぜ薔薇を折るのか、手にしている白い光はなにかということにも興味があった。
野村さんは勢いよく体を反転させ、後へ一瞬飛び退った。が、声の主が隣りの高校生であると気づくと、観念したように空を仰いで大きく息を吐いた。
「……あの、大丈夫ですか……?」
修平は恐る恐る野村さんに近づきながら尋ねた。
野村さんの足もとには無数の薔薇の枝が落ちている。野村さんは修平の問いには答えず、しゃがみこんで枝を拾い始めた。
湿った土の匂いが足もとから冷気を伴って立ち上り、鼻先をくすぐる。野村さんは枝を鞄に突っ込むと、修平の前に立った。そして怖いぐらいまっすぐに修平の目の中を覗き込んだ。
「私、犬に嫌われるタイプなの」
「はあ」
「……犬は魔を嫌うからね」
「ま」
修平はオウム返しに繰り返す。野村さんの言っていることの意味がさっぱり分からなくて、手元に視線を落とす。野村さんはペンライトなど持ってはいなかった。少なくとも白い光を発するようなものは何も。
修平は薔薇の枝が収められた鞄を指差し、
「そういうの集めるの趣味なんですか」
と尋ねた。
野村さんは質問の意味が分からなかったのか鞄と修平を交互に見た。
「そういうの何に使うんですか」
「……なにって……」
「あ、ガーデニング?」
「……。薔薇の木には傷を治す力があるから」
「へえ? そうなんですか? え? 傷ってなんの傷?」
「……」
カラスが外灯の上に止まって鋭く一鳴きした。野村さんはそれを見上げると、
「帰りましょうか」
と一瞬だけ鼻先でふっと笑い、歌うように言った。
「カラスが鳴くから、帰りましょう」
と。
修平が帰ると母親は台所で夕飯の支度をしており、包丁を使いながら、
「聞いた? 夕方、ものすごい犬の鳴き声してたでしょ。あれ、なにかしらね。怖いわね。町中の犬が一斉に鳴いてるみたいだった。びっくりして窓から見たら、その辺散歩してた犬がみんな狂ったみたいに鳴いてたわ」
「……」
「でも、すぐに鳴きやんだけど。大きな地震でもくるのかと思ったわ」
「なにそれ」
「だって動物はそういう前触れ分かるんでしょう」
「……さあ……」
冷蔵庫から飲み物を出しながら修平は曖昧に答えた。
修平は野村さんの言葉を口の中で繰り返してみた。意味がさっぱり分からなかった。「ま」って「魔」だよな。犬は魔を嫌うから、か。
「今日お父さん遅くなるって」
「……そう」
「ごはん、もうすぐできるから」
「……」
母親の言葉には答えず、修平は自分の部屋へ引き上げて行った。台所の隅に並んだお酒の空瓶がまた増えたようだった。
早く捨てればいいのに。修平はこんな時でさえも母親が燃えないゴミを袋にいっぱいになるまで溜めてから出すのかと思うと、まるで見せつけられているかのようで息が苦しくなった。キッチンドランカーの母親の苦悩と、知らん顔を決め込もうとしている自分と、恐らくはその原因を作っている父親。それぞれの姿を、その責を「燃えないゴミ」が克明に物語っている。
修平は机の引き出しから煙草を取り出すとベランダへ出た。ひやりと冷たい空気が肌を刺す。百円ライターの固い手ごたえを感じながら煙草に火をつけ、深く吸い込んで、長々と吐き出す。紫煙は空へするすると立ち上っていく。
「魔」というのは具体的に何を指しているのだろう。魔物の魔、悪魔の魔。どれも異世界のものだ。即ちファンタジーだ。現代っ子の修平にとってそれらは映画やゲームの中にだけ存在するもので、信じるとか信じないとかいう以前に、考えたこともなければ口にしたこともなかった。しかし野村さんは至極当然のような調子でその言葉を口にした。犬は魔を嫌う、と。
何かの隠喩的表現なのだろうか。犬が苦手だとか。でももしそうだとしてもあの異常な犬たちの咆哮をどう説明すればいいのだろう。
あの時、犬達は野生を取り戻し野村さんに襲いかかろうとしていた。「襲う」ということは動物の本能で野村さんを敵と認識してのことだ。人間を、ではない。野村さん一人をだ。なぜならその場にいた飼い主たち、そしてたまたま居合わせた修平、その誰に対しても犬は牙を剥いたりしなかった。野村さんにだけ殺意を露わにし、そして、怯えきっていた。
犬にとって野村さんは生命を脅かす敵であり、恐れだった。なぜかは分からない。野村さんから犬の嫌う匂いでもしていたのだろうか。でももっと分からないのは野村さんが向けた手のひらから閃いた電撃だ。あれが本当にスタンガンのような電気的なものだったかどうかそれも定かではないのだけれど、静電気火花のような光と犬が軽く吹き飛ぶように後方へ後ずさったのも確かに目の当たりにした。そして犬達が震えあがって野村さんに屈するのも。
犬は魔を嫌う……。修平は今一度口の中でその言葉を転がしてみた。煙草の灰を足もとに落とし、隣りのバルコニーの仕切り板に視線を向ける。……魔法?
修平は自分が心の底でなぜという確たる理由もなく野村さんを恐れていることを思い出し、はっとした。そんなバカなこと。思いがけなく浮上する考えを打ち消すように、修平は自嘲的に笑った。
リビングで母親が呼んでいる。修平は仕切り板に煙草をぐりぐりとなすりつけるようにしてもみ消し、夕飯の席に着くべく部屋へと戻って行った。
犬にめちゃくちゃ吠えつかれても野村さんに変化があるはずもなく、毎日黒い服を着てお団子頭で澤沢文具へ出勤して行き、修平もまた疑問を感じつつも単調な日常生活を繰り返していた。
ふと思いついて学校帰りに澤沢文具へ行き、買い物ついでにそっと店内をうろついてみたりしたが、野村さんは黒い服の上からデニムのエプロンをかけ、名札を付けて普通に働いているだけでやはり変わった様子はなかった。
変わっているというか、まあ、普通じゃないなと思うのは接客業だというのに野村さんはいつものむっつりとした無表情で、レジを打ち、低い声でお金のやりとりをし、商品を袋に詰めて心にもなさそうな「ありがとうございました」を呟くことぐらいなもので、お客さんから何か尋ねられれば静かにそれに答え、売り場へと案内する。それだけだ。
修平はそれをひっそりと盗み見ながら、なんだかおかしくなってきて一人で笑っていた。
事務用品のところで野村さんは複写式の納品書だか何だかを手に取り、お客さんに説明していたが、その違和感ときたらどうだ。澤沢文具の明るい蛍光灯の下で野村さんは暗く沈んだ顔で淡々と接客している。そしてそれを聞いているお客さんまでもが野村さんに生気を吸い取られるようにみるみる暗い表情に変わっていく。まるで二人は事務用品についてやり取りしているのではなく、魂を売り買いでもするような悲壮な雰囲気で、修平は心から野村さんに接客業は向いていないなと思った。
ただ目の前にあるものを当たり前に、納得したお客さんがそれを買っていく。一連の動きになんの不自然なこともないはずなのに、野村さんの表情のなさや低い声、時々言葉を探して「えーっと……なんて言ったらいいんでしょうか……」といって沈思する様子が滑稽だった。
そんなある日、うちへ帰りつきエレベーターを降りると、ちょうど野村さんの部屋の扉の前に人が立っているのが見えた。
修平が近づいて行くと、それは花屋の配達員らしく、透明なセロファンに包まれた花束を手にインターフォンを押しているところだった。
数回に渡ってインターフォンを押す配達員を横目に見ながらポケットの鍵を探った。
配達員の兄ちゃんは金色に近い髪の色をしていて耳にはいくつものピアスを連ねており、隣りの部屋のドアを開けようとしている修平に声をかけてきた。
「あの」
配達員の兄ちゃんは白いバラの花束を抱えてひどく困惑した顔つきで、
「あの、すみませんけど」
「はあ」
「隣りの人ですよね」
「はあ」
「ここの人って」
兄ちゃんは野村さんの部屋のドアを指差した。
「いつ帰ってくるか分かります?」
「……夜には帰ってくると思いますけど……」
「マジすか。毎日配達に来てるんすよ。で、毎日、不在票入れてるんすよ。でも全然再配達の連絡ないんすよ」
「……じゃあ、その花どうするんすか?」
「再配達できない場合は送り主に届けるか、それができない時は廃棄」
「はあ……」
「まあ、金もらってるからいいんだけど。けどさ、受け取ってないのに毎日ここんち宛に配達あるんだよ」
「えっ、毎日?」
修平は思わず頓狂な声をあげた。兄ちゃんはほとほと困ったような顔で頭を振り、嘆くように言った。
「なんかさー、ほとんどこれって受取拒否じゃん。電話にも出ないし、再配達の依頼もないし。そのことは送り主にも報告してるんだけど、にも関わらず毎日配達頼まれてんだよ。この男もいい加減あきらめろって言いたいよ。ほんと」
兄ちゃんは修平が高校生であることからいつの間にかタメ口でぼやくと、再配達の用紙をドアポケットに差しこんだ。
「ここの人ってそんな美人なの?」
「……いや……そんなでも……」
「ふーん? もし会ったら、再配達の連絡くれって言っといて」
「あの、それ預かるとかしたらだめなんですか」
「荷物とかさー、イマドキ本人以外に渡せないからねー」
「……」
「もったいないよな、花」
それだけ言うと兄ちゃんは笑って花束を抱えて立ち去った。
修平は野村さんに毎日花が贈られているという事実に愕然としていた。どこの誰が野村さんに。しかも男。修平には経験はないが、男が女に花を贈るなんて理由はひとつだ。そしてそれを受け取らない理由もひとつしかないだろう。
花ぐらい受け取ればいいのに。そう思った修平はぱっと身を翻すと、エレベーターを待つ花屋の兄ちゃんを追いかけた。
エレベーターホールで追いつくと、兄ちゃんは怪訝な顔で修平を見た。
「あの、野村さん、たぶん九時過ぎに帰ってくると思うんすよ。それぐらいの時間に来たらいると思う」
「そうなの?」
「毎日同じ時間じゃないかもしれないけど。夜はそれぐらいの時間には帰ってますよ。音するから分かるんすよ」
「マジか。じゃあ、もう一回来るわ」
「できるだけ、遅い方がいいと思う」
「よっしゃ。サンキュ。とにかく一回ぐらいは受け取ってほしいよな。それか、もう、ちゃんと受取拒否って言ってほしいよ。そしたらこっちも相手にそう言えるじゃん」
エレベーターが到着する。花屋の兄ちゃんは修平に礼を言うと、今晩再訪すると言って去って行った。
毎日花を贈るってどんな人なのだろう。受け取ってもらってないのにそのガッツはすごいと思うが、同時に空気読めよと鼻白む気持ちにもなる。
それにしても。修平は野村さんと色恋沙汰というものがイマイチ結び付かなかった。一人暮らしの奇妙な女に恋愛という取り合わせが想像できない。あの色気のない黒ずくめも、お団子頭もロマンスから遠いものに思える。
でも世の中にはいろんな人がいるからな……。真剣な顔で野菜を見つめる姿だとか、犬に吠えまくられる姿に魅力を感じる人もいるのかもしれない。
人の好みというものは分からないから、例えば澤沢文具のお客さんが無表情ながらもてきぱき働く野村さんに思いを寄せたとしてもおかしくはないのだろう。たぶん。修平はふつふつと沸いてくる笑いと好奇心に頬を窪ませた。
ようするに修平は興味があったのだ。野村さんに花を贈る相手に。いや、詰まるところ、野村さんに。でなければ花屋を追いかけたりはしなかっただろう。
然して修平は自室で漫画を読んだり、宿題をしつつ、隣りの物音に耳をすませていた。
その日は父親はいつもより早く帰宅し、家族揃って食事をした。母親は食後にお茶を入れ、父親は自然な調子でそれを飲み、くつろいだ様子でソファに体を預けてテレビを見ている。時々二人で言葉を交わし、笑ったりなどして。
修平はダイニングの椅子に座ったままその光景を見ていた。こうして平静な顔で家でくつろげる父親の神経が分からないと思ったし、はりついたような笑顔で話しかけている母親の気持ちも分からなかった。
しばしぼんやりと彼らの狂った精神に思いを馳せていると、不意に母親が修平を振り向くと共に壁にかかった時計を見上げた。
「お隣、もう帰ってきてるかしら」
「えっ?」
修平は驚いて母親を見た。
「自治会費、集金しないといけないのよ」
「……」
「会計なんて面倒な係になってしまって、本当にうんざりよ」
母親が誰に言うでもなく、ぼやく。そういえば専業主婦であるところの母親は自治会で何かと役をしているんだった。修平はやれ敬老の日だ、子供の日だとやってくる行事に母親が借り出されてバザーだの高齢者向けの体操だのを手伝いに行っていることを思い出した。
そうか、今は会計だったか。母親は引き続き誰に言うでもなく、自分が担当する世帯を一軒ずつ回って自治会費を集めてまわる面倒さと、煩わしい人間関係、若い世帯の支払い拒否などについてえんえんとこぼしている。父親は聞いているのかいないのか分からないが、テレビの画面から目をそらさず適当な相槌を打っていた。
「……俺、行ってこようか」
「え?」
母親は修平の言葉が意外すぎて、ぐるっと首をねじって修平の顔に見入った。修平は急に気まずくなり、視線を逸らしながら、
「隣りだろ。いいよ、俺、行ってきても。隣り、働いてるからいつも留守なんだろ」
と、わざと事もなげに言ってのけた。
「……じゃあ、これ、封筒と領収書。お釣りがいる時はその封筒から出してちょうだい」
「ふん、分かった」
母親はテーブルに置いていた手提げから集金袋と領収書を取り出した。
「もし払いたくないって言ったらそれでもいいわ。トラブル起こしたくないから」
修平は母親の言葉に黙って頷いて見せた。父親はいつの間にかソファでうたた寝をしている。
花屋の兄ちゃんは再配達に来ただろうか。修平は家を出ると後手にぴたりと扉を閉じて、ひとつ深呼吸をした。それからおもむろにインターフォンを押した。
応答はなかった。その事実が空気を一層しんと静まりかえらせる。ためらいつつ、もう一度押してみる。
修平は集金袋の中を探り領収書をメモ代わりに取り出すと、そこに自治会費を集金しているので帰ったら知らせてほしい旨を書き記した。
花屋の不在票も無視する女がこんな走り書きに応えるとも思えなかったが、ともかく修平はドアの隙間にそっとメモ代わりの領収書を差し込んだ。
うちに戻ると父親は寝室に引き上げた後らしく、母親が一人でぼんやりとテレビを眺めていた。その様子から、わずか数分の間に彼らの間で何らかの争いがあったのだろうことが推測できた。まるで花火の燃えた後に火薬の匂いが漂うように、隠そうとしたって証拠は残るのだ。分からないはずがない。
「いなかったよ」
「あらそう」
「メモいれてきたから。帰ったら知らせてくれって」
「……」
母親はその言葉には答えず、テレビに見入っていた。まるで会話を避けようとしているように。
バラエティを見ているはずなのに、暗い目が修平には恐ろしかった。家族がいる時は酒を口にしないのが母親の矜持のようだが、それが崩壊するのも目前に思えた。
修平は台所で薬缶に火をかけ、戸棚を探った。野村さんが引っ越しの挨拶に持ってきた紅茶。あれは思いがけなく美味かった。
結局、野村さんはこの町で自然の風景が残された場所を探すことができたのだろうか。虫や鳥や、草花の咲くようなところを。
犬に吠えつかれて走り込んだあの公園はこのあたりでは一番大きなもので、よく手入れされているし、自然の森を模したエリアもある。あそこなら虫だとか、日本の固有種なんてものもあるかもしれない。
薬缶が蒸気を勢いよく吹きあげている。修平は棚から取り出した紅茶の缶を見つめる。修平は野村さんがここではないどこか遠いところから来たのだと半ば確信していた。
紅茶を入れると修平は自室へ引き上げようとした。するとそこへ玄関のチャイムが鳴り響いた。
修平はぎくりとしたものの、平静を装い、母親に「いいよ、俺が出るから」と言って台所脇のインターフォンを取り上げた。
「はい」
「野村です。隣りの。こんばんは……」
「あっ……どうも……」
「遅くにすみません。自治会費持って来ました」
「あっ、はい。はい、ちょっと待って下さい」
修平は一瞬ちらりと母親を見たが、母親は心ここにあらずといった様子で来訪者が誰かを尋ねることもなく、ぼんやりしている。修平は溜息がこぼれそうになるのをかろうじて堪えて、玄関へ急いだ。
玄関扉についた魚眼レンズのようなスコープを覗く。扉のど真ん前に野村さんは立っていて、顔をあげて、まるでこちらが見えているかのようにまっすぐな視線を投げていた。
鍵を開け、ドアを細く開く。
「こんばんは……」
なぜか修平は恐る恐る口を開いた。野村さんの言っていた「魔」という言葉が突如思い出され、何か背筋の寒いような気がした。陰気な顔の妙齢の女が怖いはずもないのに、修平の心の奥が恐怖という冷たい水にじわじわ濡れていく。
野村さんはいつも通りの黒い服で、ポケットから財布を取り出して、
「今帰ったとこなんです。わざわざ来てもらってすみませんでした」
「いえ、そんな……」
「はい、これ」
財布から抜き出した札を受け取ると修平は何か言わなくてはという焦りに駆られ、
「花屋の不在票見ました?」
と口走った。
「……花屋?」
野村さんは眉間に皺を寄せると修平をじろりと睨んだ。
「花屋が、なに?」
言ってからしまったと思ったが、もう遅かった。修平はしどろもどろになりながら、言葉を次いだ。
「帰ってきた時にちょうど配達の人に会って。いつ頃帰ってくるのか聞かれたんですけど……。不在票入れても連絡ないから困ってるって話してて、それで……」
「……」
これは非常にまずい。野村さんは怖い顔をして黙って腕組みをし、左の手を唇に触れ思案に耽っている。
修平は焦りながら、言いわけのように、しかしわざと明るく無邪気さと能天気さを装って言った。
「聞きましたよ。毎日花届くんですってね。モテモテなんすね。すごいっすよね。てゆーか、毎日贈るなんて超金持ちじゃないっすか」
「……」
ダメだ。これ以上何も言わない方がましだ。頭では分かっているのに、気まずさと焦り故に修平は自分が暴走するのを止めることができなかった。
「でも、なんで受け取ってあげないんすか。もったいないじゃないですか。花、廃棄になるらしいっすよ」
「……欲しいならあげるけど」
「へ?」
「花」
「いや、そういう意味では……」
「……」
「……あ、領収書持ってきます」
修平はもうどうにも空気を変えることはできないと分かり、そそくさと部屋の奥へ引っこんで領収書を書いて持って来ると、開いたままのドアの前でやっぱり眉間に皺を寄せている野村さんに差し出した。
野村さんは「どうも」とぼそっと言うと、一瞬、思い悩むように視線を彷徨わせ、その後に意を決したように顔をあげて修平の目を覗き込んだ。
「あなた、もしかして、霊感が強いとか勘が鋭いって言われたことない?」
「……いえ、別に……」
「何か不思議な経験をしたことは?」
今だよ。あと、この前な。修平はそう言いたかったが「ありません」と答えた。野村さんは相変わらず不気味な雰囲気で、暗黒の宇宙みたいな目で修平の目の奥を、何か探ろうとでもするように見ている。
気がつけば修平の腕には鳥肌が立っていた。
野村さんは不意に「ふん」と鼻先で息を吐くと「じゃあ、どうも、お邪魔しました」と言うとくるりと回れ右をした。
修平はまるでその野村さんの回転に引き寄せられるようにドアの外へと滑りだした。
「野村さん」
背中で静かにドアが閉まる。
「この前の、犬がまを嫌うのまっていうのは、魔法の魔のことですか」
「……」
「魔物の魔とか」
「……」
「なんでそう思うの」
「なんとなく……」
「……あなた、やっぱり勘がいいわね」
野村さんはその時初めて少し笑った。野村さんは領収書を手に、隣りのドアを開けると「じゃあ」と言ってするりと中へと消えて行った。
修平は気がつくと裸足で扉の前に立っており、半ば呆然としながら野村さんの部屋のドアを見つめていた。
気がつくと季節は真冬へと移行し、修平も制服の下にセーターを重ね着し、行き帰りはマフラーをしっかり巻きつけて行くようになっていた。
一方、野村さんはいつ見ても同じ黒ずくめで厚着している様子でもなく、頭のてっぺんに乗っかったお団子のせいでむき出しになった耳が寒風にさらされ赤くなっていることもしばしばあった。
学校では期末試験も終わり、明日から試験休みという日のことだった。
修平は久し振りに、試験の終わった開放感もあり友達と集まってカラオケに興じるなどして遊んで帰るところだった。
夜の街は来るべきイベントシーズンを前に色とりどりのディスプレイが施されていて、明るく、幸福な雰囲気を演出していた。
澤沢文具もご多分に漏れず飾りつけられているんだろうな。修平はセンター街を歩きつつ思った。
その後野村さんは花をどうしただろう。花屋に受け取り拒否を申し出たのだろうか。それとも受け取ったのだろうか。そして以後も花は送られていたりするのだろうか。だとすればきっとクリスマスにも花や何らかのプレゼントは届くのだろう。修平は野村さんの陰気な雰囲気とクリスマスの華やかなイメージがかけ離れたものに思えてならなかった。
ともあれ、明日からしばしの休息だ。ゆっくり寝てやろう。修平はそんなことを思いつつ歩みを進めていた。
その時だった。視線の先にどうも見覚えのある背中と横顔を見つけたのは。
平凡なスーツとグレイのコート。どこにでもいそうな平均的な眼鏡の中年サラリーマン。修平が見たのは、父親だった。
試験が終わった気分の良さも手伝って、修平は父親に声をかけようとした。どうせ帰り道は同じなのだし。しかし、そうしなかったのは修平が父親に接近するより早く路面の化粧品店から女が出てきて父親に並んで歩きだしたからだった。
女は長い髪を背中に垂らし、踵の高い靴を履いて父親の肘のあたりに軽く手を添えていた。若い女だった。
二人が談笑しながらセンター街を進んでいくのを修平は静かに見送った。
……ああ、とうとう見てしまった。修平は二人の姿が完全に人ごみに紛れてしまうと大きく息を吐いた。こんな日がいつか来るのではないかと思っていたのだ。目撃するとか、明らかな証拠を掴んでしまうとか。
修平はもうずいぶん前から父親に女がいるのを知っていた。それは母親が台所で酒を飲むようになった頃と一致するのだけれども。
あれは同僚とか仕事関係の人かもしれない。友達かもしれない。季節的にも父親だって社交というものがあって、女の買い物に付き合うとか飲みに行くことだってあるだろう。しかし修平はそういった可能性を初めから全面的に否定していた。
父親が女といた。ただそれだけでは父親の不倫の証拠にはならないが、ほとんど動物的な直観とでも言おうか修平には彼らを取り巻く空気の色みたいなものがはっきりと見えていて、それはほんのりと薄赤く色づいていて否定する余地などないように思えた。
実際、修平は父親があんな風に優しく穏やかに笑うところを見たことがなかったし、寄り添うような距離感だとかは男女の関係のそれだと思った。
ふと頭をよぎったのは、かつて父と母にもあのような瞬間があったのだとしたらということだった。
それはとてつもなく悲しいことだ。甘い恋愛の末に結婚し、子供が生まれてきて、今はもうその子の母であり妻であるはずのかつての恋人は愛していない……。修平は急に自分の存在に罪悪感を覚えて、浮かれていた心が地に堕ちて、トラックで三回ぐらい丹念に轢き殺したような無残な死を感じた。
修平は途端に家に帰る気が失せ、あてもなくぶらぶらと町を彷徨った。
こんな気持ちのままうちに帰って、家でテレビを眺めているであろう母親と台所に溜まった酒瓶を見るのがしのびなかったし、その両方を見て冷静でいられる自信もなかった。
予測していたこととはいえ、思ったよりも修平は自分がダメージを受けていることに我知らず苦い笑いを浮かべた。
家に帰りたくなくて大型書店で何を探すでもなく店内をうろつき、いよいよ閉店の時刻になるとやむなく修平は夜の街を離れた。
公園沿いの道を重い足どりで歩く。冷え切った空気のせいで緑の匂いは感じられず、風が吹き散らす落ち葉のかさかさという音だけが侘しく聞こえていた。
公園はすっかり暗闇に包まれ、散歩する人はもうない。修平の吐く息だけが白く薄靄のように広がっては、消える。
ふと気がつくと野良猫が一匹。修平の前をてれてれと歩き、低く積まれたレンガ塀に飛び乗って公園の中へと消えて行った。猫が越えて行ったのは、以前野村さんが飛び越えて行ったレンガ塀だった。
猫は落ち葉を踏んでも足音もさせず暗闇へ姿を消し、修平の目ではもう探すことはできなかった。
溜息がちに歩みを進めて行くとまた猫がゆっくり歩いて行くのが目に入った。
野良猫、多いな。修平は猫が公園へ入っていくのをぼんやり見つめた。そしてはたと気が付いた。猫がさっきからあちこちから出てきて、あるものは歩き、あるものは走り、公園の中へ入っていく。次々と現れてはどれもが申し合わせたように同じ方向へ進んでは暗闇に消えて行く。
これはもしや都市伝説の猫会議……。修平はさっきまで轢死したようだった心がわずかに息を吹き返すような気がした。即ち、好奇心で。
恐れを知らない高校生である修平は茶色い猫が一瞬立ち止まって修平を振り向き、じっとこちらを見つめてからさっと身を翻して公園へ入っていくのを潮に自分も猫について塀に足をかけて植え込みの中へ飛びこんだ。
思いがけなく枯葉を踏む音ががさっと大きく響いたが、修平はそのまま駆け出した。
それは前に野村さんが走り込んだのと奇しくも同じルートだった。森のような木立を抜け、遊歩道に出て、街灯がうっすらと照らし出す猫の影を追いかけて行く。
猫たちは背後に迫る修平に気づいていながら恐れるでもなく、まるではっきりとした目的を持っているようにまっすぐに突き進む。
猫は遊歩道を抜け、噴水のある広場へ走って行く。修平の靴音だけが誰もいない公園に響いている。広場の入口まで来ると修平は噴水から水が出ていないのを知り、その静けさに息を呑んだ。
静寂や暗闇を恐れる気持ちがないと言えば嘘になる。しかし修平は見えないものを信じるタイプではないので、わずかに怯みはしたもののゆっくりと石段を下りて行った。
猫は全部で10匹以上いただろうか。暗さに目が慣れて来ると修平は広場の全貌を理解し始めた。石畳に座る猫、噴水の縁に座って水を飲む猫。月の光がその影を長く伸ばす。
修平は冷えた指先に息を吐きかけた。猫集会って本当にあるんだな。まあ、ただ単に水場に集まってるだけかもしれないけど。修平は猫が逃げないように距離を保ってじっとその光景を眺めていた。
すると修平がやってきたのと逆の入口から、即ち噴水の向こう側から人が、靴音を響かせてやってくるのが分かった。
途端、猫たちは急に立ち上がりその方角へ向かって走り出した。
修平はその様子を固唾を飲んで見守った。これは所謂、猫に餌をやりに来る人? それを待っていて、そして走っていくのか。
修平のマンションでも猫の餌やりについて揉めているが、修平自身はその現場を見たことがあるわけではないので「これが、そうか」と思いながら指先を温め続けていた。
今頃、父親はどうしているだろう。どこかで飯でも食って、酒でも飲んで。それから? その後は?
もやもやしたものを振り払うように頭を振る。嫌な想像だ。
暗がりの中、細い影が噴水の脇に立っている。ああして野良猫に餌をやるのも孤独を埋めたいからなんだろうな。修平はそんなことを考えていた。
……帰るとするか。修平が観念して猫たちに背中を向けようとした時だった。広場をとりまく木立の間からひゅっと鋭く空気を切り裂くような音がしたかと思うと、何か丸いものが吹っ飛んできて噴水の中へ吸い込まれて行った。
ボール? いや、違う。こんな時間に。こんな暗いところで。しかも木立の中から。
続いてまた丸いものが今度は地面から近いところから猛烈なスピードで飛んできて、早さの分だけもう少し大きな水音を立てて噴水へ落ち込んだ。
狙撃? まさかそんな。そうしている間にも白くて丸いものがいくつもいくつも吹っ飛んできて噴水へ飛びこんでいく。修平は今度は思わず声をあげそうになった。なぜなら、噴水の傍に立っている人の手元がペンライトを持っているようにぼんやり光ったかと思うと、みるみるうちに光は大きくなり、その人自身を青白く浮かび上がらせ、その光が腕を振る動作に伴って光の残像を暗闇に描くと、噴水に飛び込んだいくつもの丸い物体が静かに、しかし確かに、ふわりと水から宙へと浮かび上がった。
空中にふわふわ浮かぶ白い謎の球体と青白い光と、その光を操る人。修平は光の輪に照らされるお団子をはっきりと見出していた。
手品? 違う。イリュージョン? 違う。……犬はまを嫌う。の「ま」は「魔法」の「ま」? だとしたら……?
白い球体は空中を静止していたかと思うと、また腕が光の残像を残しながら空気を切り拓くように動いたのを機に一斉にその人物の鞄の中へ音もなく吸い込まれて行った。そう、お団子頭の野村さんの鞄に。
修平はそっと後ずさった。見てはいけないものを見てしまったと思って。怖かったわけでは、ない。野村さんの不思議さと奇妙さの理由がはっきりと分かったというか、合点がいったような気がして、といってこれを見続けてもいいかというとなんとなく悪いことに思えて修平はそっとその場を立ち去ろうとした。
が、間の悪いことというのはあるもので。今夜修平が浮かれてうろうろしていたら父親の不倫現場を見てしまったのと同じように、タイミングの悪い時はもうすべてが悪い方にしか行かないのだろう。運悪く修平の尻ポケットに入っていたスマートフォンがまたしてもこんなタイミングで賑やかな着信音を鳴らし始めてた。
慌てて修平がスマートフォンを掴みだすのと、猫たちが一斉にこちらを見るのと、野村さんがの腕が素早く振り切られて青白い光が飛び出すのはすべて同時だった。
それは本当に一瞬の出来事だった。手にしたはずのスマートフォンが、青白い光が放たれた瞬間修平の手をすり抜けて消えてしまったのは。そして気がつくと修平のスマートフォンは野村さんの手の中で着信音を鳴らし続けていた。
野村さんは自分の行動と、手の中のスマートフォンと、それから隣の家の高校生を身比べ口をあんぐり開けて固まっていた。驚きを通り越して、我を失うようなそんな顔だった。
修平は猫たちがまるで会話をするように鳴き交わしていることに気が付いた。
「……電話、誰からすか?」
他に何を言えばよかっただろう。修平が尋ねると同時に着信音が途切れた。
野村さんはよろめきながら修平に歩みを進めると、スマートフォンを握った手を差し出した。
「……お母さんから……」
目の前でがっくりと項垂れる野村さんを前に、修平はかける言葉が見つからなかった。ただはっきりしているのは、野村さんが「魔法」を使えるということだった。
修平は終始無言の野村さんと並んで帰路についた。野村さんはいつにも増して暗い顔をしていて、時々深いため息をついた。修平もまた気づまりで、隣に住んでいるというシチュエーションを呪いたい気持ちだった。
マンションの互いの部屋のドアの前まで来ると修平は軽く会釈しながら「じゃあ……」と鍵を取り出した。
なぜ見てしまったのだろう。なぜ野村さんを見つけてしまったのだろう。修平は偶然とはいえすぐにあの場を去らなかった自分を悔いていた。もう二度と野村さんの顔を見てはいけない。そんな気さえしていた。
「……ちょっと待って」
「え」
「時間、ある?」
「……」
「……話したいことがあるの。ちょっと寄って行って」
野村さんは低い声でそう言うと自分の部屋のドアを開けた。修平は野村さんが鍵をかけていないことに驚いた。
その驚きが顔に出ていたのだろう。野村さんは「この部屋には別な鍵がかかっているから」と言った。
別な鍵って一体なんのことだろう。それもやはり魔法のことなのだろうか。今や修平は野村さんが魔法を使うということを、空想ではなく「事実」として認識していた。
ドアを開けて体をすべりこませた状態で野村さんは修平を振り向いて、じっと見つめた。修平はその視線から逃れることなどできはしないのだと悟り、しぶしぶ野村さんに従って部屋へ足を踏み入れた。
背中で静かにドアが閉まると、初めて修平は「生きて帰れないかもしれない」生命の恐怖に胸がすうっと冷たくなるのを感じた。
まあ、でも、それも仕方ないか。てゆーか、この際それでもいいかもしれないな。修平は沈んだ気持ちのまま、自分のうちと同じ間取りの部屋を進んで行った。
こんな風に厭世的で、絶望的な気持ちになるのは今日目撃してしまった父親の姿が関係ないとは言い切れなかった。分かっていたこととはいえ、見てしまうとやっぱり気持ちは乱れる。
母親のことも考えないわけにはいかなかった。別れるのだろうか。彼らの中に別れを望む気持ちはあるのだろうか。だとしたら、別れた後、母親はどうなるのだろう。台所で飲む酒はやめるのだろうか。それともさらに加速するのだろうか。
修平は彼らの争いや孤独、愛憎と関わりたくなかった。面倒だというのでは、ない。ただ単純に関わりたくないと思っていた。それはある種の恐れでもあった。両親が傷つけ合う場面を見たくないということと、自身が傷つくことへの恐れ。そういった意味では修平はすでに我知らず傷つき、問題の解決を探るよりも目をそむけて遠くへ逃げ出してしまった方が簡単だと無意識に考えていた。
野村さんが廊下を進んでリビングの扉を開けると修平はぎょっとして立ち止った。
リビングは植物の大きな鉢が置かれ、その中のいくつかは天井に届きそうな巨大さで、カーテンレールからもハンギングバスケットがぶら下がり蔓状の植物が垂れていて、室内はまるで植物園の温室の中のようだった。
その植物群の間に重厚な木製のテーブルや、薔薇の模様の入った古びた布張りのソファが置かれていた。
テーブルの上にはビーカーや試験管、シャーレなどの実験器具が所狭しと並び、本やノートが山積みになっていてそこだけは化学の研究室のようでもあった。
野村さんは「どうぞ座って」と修平にソファを進めると、テーブルの上に置かれた小型のコンロに火をつけ、琺瑯の薬缶でお湯を沸かし始めた。
修平はソファの端に恐る恐る腰を下ろすと部屋をぐるりと見回した。
本棚に並んでいるのは図書館にでもありそうな時代がかった装丁のハードカバーばかりで、間違っても漫画だのラノベだのはなかった。ハードカバーはどれも英語ではない外国語で、修平にはどれ一つ読み取ることはできなかったし、その本の間に透明な水晶玉が絶妙なバランスで乗っかっているのも見逃すことはできなかった。
野村さんはお湯が沸くとガラス製のティーポットに紅茶を入れ、やはり同じくガラスのカップを用意して、
「コーヒーの方がよかった?」
と尋ねた。
「いえ、おかまいなく……」
修平は答えてから、野村さんが部屋の中でも靴を履いたままなことに気がついて「あ」と小さく声を漏らした。
「なに?」
「……靴……」
「靴? ああ……。私、家で靴脱ぐ習慣なくて」
野村さんはそう言うと小さく鼻先で笑った。確かに部屋の中央に敷かれた中東風の模様のカーペットは土足で踏み荒らされている証拠にくたびれて、色あせ、汚れていた。
「どうぞ」
野村さんは引っ越しの時に挨拶に持ってきたのと同じいい匂いのする紅茶を修平に手渡した。
テラスでは風が強いのか鉢植えの植物たちがざわざわと枝を揺らしている。その音が不穏で、修平は緊張した面持ちで紅茶を一口啜った。
「海外にいたんですか」
「うん、そう。親の仕事の関係で」
「ずっと?」
「ずっと」
「どうりで……」
修平は呟いた。野村さんは修平の言葉のニュアンスが分からない様子できょとんとしていた。
「この鉢植え、すごいですね。バルコニーもすごいけど。趣味なんですか」
「ううん。研究」
「なんの」
「魔法の」
「……」
野村さんがあまりにもはっきりと言ったので、修平は黙り込むより他なかった。
野村さんは立ったまま紅茶に口をつけると、鞄の中身を実に乱暴にテーブルの上にひっくり返した。
ごちゃごちゃしたテーブルにハンカチや手帳、財布といった当たり前の持ち物がこぼれ出たかと思うと、次いで公園で見たあの白い球体がごろごろと転がった。
公園で暗闇から吹っ飛んできた時には青白く光って見えたそれは、蛍光灯の下では濁った半透明の白で、目を凝らせばその中に何かが影のように映っているのが分かった。
「私ね、学校を出てからずっと新しい魔法について研究してるの」
「……はあ」
「魔法はもうこの世界では通用しない」
独り言のように話しながら野村さんは白い球体を一つ指先でつまみ上げ、蛍光灯の明かりにかざした。つられて修平も球体に目を凝らす。
「なんだと思う?」
「……」
「よく見てみて」
野村さんはソファに座る修平を手まねきした。その目が心なしか輝いて見える。半貴石のような艶々した黒に。
ほっそりした手の動きには抗えない力があるようでもあった。これが魔法というものなのか。修平はふらりと立ち上がるとテーブルを挟んで野村さんのかざす白い球体に見入った。
途端、修平は「あっ」と小さく声をあげた。これは、もしや。
「分った?」
野村さんがにやりと微笑んだ。
修平は愕然としながらも、かろうじて頷いた。白濁した、卵の白身のように心もとなく不確かな丸い球の中に封じ込められているのは、蝉の幼虫だった。
「どうやって、これを……」
白い幼虫はくるりと丸まった姿勢のまま、静かな眠りの中にいて微動だにしない。野村さんはじっくりと丹念に観察するとテーブルにそれをそっと転がした。公園で集めていた白い球体はすべて同じように蝉の幼虫が閉じ込められていた。
「なんにするんですか……」
修平は自分が二つも質問を重ねていることに気がつかなかった。
しかしそんなことに野村さんはまるで頓着せず、乱雑に散らかるテーブルの端からビスケットの箱を取ると、修平にすすめながら、
「あなたは自分では気がついていないようだけども」
「……」
「あなたには、魔を察知する能力がある。たぶん百年に一人の逸材。ものすごい才能。あなたは、魔法使いを嗅ぎつける力がある」
「ありませんよ、そんなの」
「いいえ、あるの。でないと私を見つけたりしない」
「見つけるもなにも……」
隣に住んでるんだから。修平は言いかけて、ビスケットを箱から一枚取り出した。
「あなたは自分でも意識しないうちに私に近づいてくる。それはあなたの才能がそうさせるの。あなたには魔法使いの匂いが分かるのよ。好む好まざるを関係なく、あなたは魔法の力を感じる能力がある」
「それ、何かの役に立ちます……?」
「別に」
「……」
「むしろ私たちにとっては不都合なことだわ」
「私たち?」
「私たちはね、魔法のことを知られてはいけない掟があるの」
「……俺、見ちゃいましたけど……」
「そう。そうなの。だから、困ってるの」
野村さんは全然困ってなさそうに言った。
魔法の力を感じる能力? それは一体どんなものなのだろう。野村さんがいちいち気になったのもそのせいだったのだろうか。いや、それは違う。野村さんの奇妙さは誰が見たって同じように感じるはずだ。
しかし、そう思いつつも修平は心のどこかで合点がいったようにも感じていた。
スーパーの野菜売場で、公園の暗がりで、澤沢文具で、修平はほとんど探さずとも野村さんがどこにいるのか分かる気がしていた。野村さん一人がこの世界から浮いてみえるのは、彼女の個性故ではない。彼女の纏う空気が周囲の誰とも違うのだ。
それに、野村さんに真っ向から見つめられた時の心のざわつき。ほとんど恐怖心といっていいような、肌の粟立つ感触が野村さんの言うところの「魔法」を感じる力なのだとしたら。
もしや自分はこれまでにも魔法使いに出会ったりしているのだろうか?一体誰がそうで、誰がそうでなかったのだろう。急に修平は興味が湧いてきて、お茶を飲みながら試験管立てに並んだ試験管の中を注意深く観察している野村さんに尋ねた。
「魔法使いっていうのは、どこにでもいるんですか」
「いるわよ。でも、魔法を使わない人もいると思うわ」
「え、なんで」
「使う場面もないと思うし」
野村さんは自分のカップに紅茶を注ぎ足すと、ふっと鼻先で自嘲気味に笑った。
「あなた達は魔法ってものを無限の力のように思っているかもしれないけど」
「はあ」
「実際のところ、魔法には気力も体力もいるし、お金もかかるのよ」
「お金? どこに?」
「例えばね……」
野村さんは言いながらセーターの袖口に指先を差し込むと、木の棒のようなものをするすると取り出してテーブルの上に置いた。
「それはもしかして」
「そう、魔法の杖」
これが、あの。公園で野村さんが手にしていた、青白い光を放つものの正体か。修平はじっと野村さんが言うところの魔法の杖なるものを見つめた。ぱっと見た感じはちょっとつやつやした、流木を思わせる材質の「木の枝」にしか見えないが、修平には野村さんを疑う気持ちは微塵もなかった。
公園で彼女が振り回していたのはこれだったのだ。蝉の幼虫を集めるために振るっていたものは。
修平は野村さんが頭がおかしいとはまったく思わなかった。ただの妄想グセのある妙齢の、孤独な女だとは思えなかったのだ。修平は自分をリアリストだと思っていた。ファンタジーやご都合主義的な異世界のことなど所詮はただの妄想と逃避、漫画や映画などのエンターテイメントにすぎないと思っていたし、「想像力」というものを否定するつもりはないが、結局は自分が見たものだけを信じる気持ちの方が強かった。そういった意味で修平は自分が目の当たりにした珍場面から野村さんの言葉を、自分が見たものへの裏付けとして受け取っていた。
「触っても?」
「どうぞ」
修平は恐る恐る手を伸べて、指先でそっと杖に触れた。その瞬間、静電気が起きたようにぴりっとしたものが指先で弾けた。修平は咄嗟に野村さんの顔を見やった。
「魔法使い以外が触ると杖が嫌がるの」
「……」
「でも、あなたのことはそんなに嫌じゃないみたい」
「どうしてですか」
「だから言ったでしょう。あなたには魔法を感じる力があるから」
「……これは何でできてるんですか? 木?」
修平はもう触るのが怖くて手をひっこめた。
「杖の素材は色々あってね。樫の木、モミの木、カエデ。樹令百年を越える木だとか。北の方の木が固くていいって話しもあるけど。象牙や鹿の角、ライオンの骨も聞いたことあるわ。それから、大切なのは芯。ユニコーンのたてがみ、イヌワシの尾羽、純金、ダイヤモンド……。竜の鱗、人魚の髪。色んなものを組み合わせて作るの」
野村さんは一息に言うと杖を手に取った。
「職人と呼ばれる人達が魔法の力を束ねて、精製して一つにする。特殊な素材、魔力を多く含むものはそれだけで凄い力を持っているわ」
「……はあ。で、それ、高かったんですか」
「ああ、これね……。うん、高いと思う」
「思う?」
修平が尋ねると野村さんはふふっと笑った。
「私のうちでは、一族の中で一番強い魔法使いがこの家宝である杖を持つことができるの」
「一族って……。でも、どうやって強さを決めるんですか」
「殴り合いで」
「ええっ」
野村さんは「冗談よ」としれっと付け足すとバルコニーの手前に置かれた園芸用の土の袋に向かって杖を振った。すると袋から土がスコップですくい取ったようにこんもりとした質量で空中へ浮かびあがり、そのままふわふわと部屋を横切って野村さんの眼前へやってきた。
野村さんはテーブルの足もとに転がしてあった素焼の鉢を一つ取り上げ、また杖を一振りした。
修平の目の前で土が宙を飛んできたという事実を黙って見守っていた。これが、魔法。
空飛ぶ園芸用土は野村さんの指示に従って鉢植えの中にさらさらと落ち込んでいく。それから野村さんはその中に白い球体に包まれた蝉の幼虫をそっと埋め込んだ。
「蝉、育てるんですか」
「蝉を育てるわけではないの」
野村さんは手を休めることなくテーブルの上の瓶の中に入っている干からびてしわしわになった黒いものを土の上にばらまいた。
「それはなんですか」
「干しシイタケ」
「は?」
「冬虫夏草って知ってる?」
「聞いたことはありますけど、見たことはないです」
「あれは虫の死骸に茸が生えてるのよね」
「……それは漢方薬かなんかじゃありませんでした?」
「東洋医学ではね。あと、そもそも自然界のものね。私はそのようなものを人工的に魔法と融合させて作る実験をしてるの」
「はあ」
「生きたままの虫……。蝉は七年土の中にいるでしょう。その生命力は謎の力。新しい魔法を研究するにはもってこいだわ。未知の力と未知の素材よ」
「具体的には何に使うんですか」
「これだけだと魔力をもった野菜というだけで、ビタミンを多く含む野菜と同じよ。魔法を使うのに必要なエネルギーを摂ることができる。でもそうじゃなくて、他のものや力と組み合わせることで色んな魔法に成り得るの。姿を消すとか変身したり。魔法ってそうやって色んな物質を組み合わせて作りだす力なの」
「なんでそれを蝉と干しシイタケで作る必要が?」
「従来の魔法素材って高いのよ。梟の嘴だのツチハンミョウの精製した毒だの、コバルトヤドクガエルの皮だの……。魔法にコストがかかりすぎる。数十万円……、百万円かかるなんてざらよ」
「だから新しい素材を安く作る方法を研究してるってことですか」
「そう。これ見てごらん」
野村さんはすっかり饒舌になって棚の方へ修平を誘った。
棚にはヒヤシンスの球根栽培に使うようなガラス瓶が並んでいて、緑のひょろひょろとした草が生え、水の中にはひげ根がびっしりと詰まっていた。どこかで見たような草だった。
「よく見て」
「……これ、もしかして……豆苗?」
「正解。豆苗って一度収穫しても伸びてきて、また収穫できるでしょう。その力を活かして、マンドレイクと融合させて水栽培にしてるの」
「マンドレイク……」
「知ってる?」
「漫画とかで見たことあるけど……。堀出すと叫び声をあげる、人面痩みたいなのがついた根っこ……。叫び声聞くと死ぬんですよね?」
「そう。でもこうして水栽培にすると収穫する時も水の中でまず溺死させてから安全に取り出すことができるし、豆苗の光合成のおかげでみずみずしく、柔らかいマンドレイクができるのよ」
「……美味しくなるってこと?」
「いえ、美味しくはないの」
「……」
「けど、ある種の魔法には必要な要素なの」
「はあ……」
瓶の中をじっと覗き込むと、絡み合う根っこに包まれるようにして人参をさらにでこぼこにしたようなものが見えた。確かに顔のようなものがあるのも分かる。
修平はぞっとして棚から一歩後ずさった。窓の外ではますます風が強く吹きすさび、電線がひゅうっと甲高いもがり笛を鳴らす。
「そうやって研究してるのは魔法を使う人が少ないから? 魔法の出番がないから?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
野村さんは豆苗の瓶を棚に戻すと、一人掛けのソファにどっと腰をおろした。そしてさらに杖を一振り。テーブルのカップがふわりと浮かんで野村さんの手へ自らやってきた。
野村さんは紅茶を啜ると溜息をついた。
「結局のところ、科学と魔法では、科学の方が便利なのよ」
「……科学」
「箒で空なんか飛ばなくても飛行機があるじゃない」
「箒だとタダじゃないですか」
「馬鹿言わないでよ。箒も高いんだから。それに飛行機は燃料で飛ぶけど、箒で飛ぶのは自分の力よ。どんだけ体力使うか。それにあなた考えてもみてよ。魔法を使うのを見つかっちゃいけないのよ。見つからないほどの高度って寒いなんてレベルじゃないわよ。酸素も少ないし。高層ビルやスカイツリーより上を飛んだぐらいじゃあね。すぐ目撃されちゃうわ。大草原の、誰もいないところでもない限りは」
「なるほど……」
「あと、インターネット」
野村さんは話すほどに熱がこもっていくようで、ソファに沈めていた体を起こすと前のめりになるように言葉を継いだ。
「あれ、便利よね。買い物だって、次の日に届くじゃない。それも普通に、人間の、当たり前の力で。魔法じゃなくて。梟や鷹が飛んで持ってくるわけでもないでしょ。留守してたって電話一本で、再配達も可能でしょ。そうだ、電話。あれだって、今じゃオンラインよ。世界のどこにいたって顔見ながら話ができる。魔法の力で動物を媒介にして、自分の魂を分離させるとかじゃないのよ」
「動物を媒介って……。もしかしてベランダにタカが来たのは……」
「魔法界の電話みたいなものね。動物に自分の魂の一部を憑依させるようなもの。母親がね、どうしても科学の力を借りたくないって言うから」
「じゃあメールもインターネットも」
「使わない」
「……」
今やすっかり興奮した様子の野村さんは頬を幾分紅潮させ、一般人であるところの修平に力説していた。それはあたかも自身の不満をぶちまけるような勢いだった。溜まっていた不満やストレスを。
修平はさっきから感じていた疑問を尋ねていいものやら迷っていた。科学の方が便利と言いながら、なぜ魔法の研究をしているのか合点がいかなかった。
そんなに言うなら魔法など使わなければいい。でもさっきから野村さんは修平に目撃されたことでもうすっかり開き直ってしまったかのようにおおっぴらに魔法を使っているではないか。さも自分が魔法使いであることを見せつけるかのように。
その一方で魔法と科学を引き比べてみて、もはや魔法というものがこの世界で用無しのものであるかのように語るのも、本心から言っているのだろうと思った。
苦いものを食べたような顔で困惑している修平を見て我に返ったのか、野村さんは冷静さを取り戻そうとするかのように咳ばらいを一つした。
「私のうちね、代々強い魔法使いを出す家でね。そういう家系なのね。とにかく徹底的に魔法の世界で生きてるって感じ。それは別に悪いことだとは思わないわ。そういう世界が存在するのは事実だし、誰に迷惑かけるわけでもなし。私もずっとそれに疑問を感じたことはなかった。……学校で本格的に魔法を学ぶまではね」
「学校でどんなことを勉強するんですか」
「主に魔法を使う訓練ね。魔法の使い方を学ぶとでもいうのかしら。呪文を覚えたり、魔法の薬を作ったり。魔法使いが職業だとしたら、その知識や技術を学ぶのが学校よ」
「もちろんみんな魔法使いなわけですよね……」
「……そうよ」
「その人たちは今は何してるんですか。やっぱり魔法の世界で暮してるんですか? それとも魔法を使わないで、所謂僕らの……その、普通の人の暮らしをしてるんですか? 野村さんみたいに……」
「さっきも言ったでしょう。魔法を使わなくても科学の力を借りて便利に暮らしていくことはできるって」
「けど、そういう考え方って学校や魔法の世界では異端なんじゃないですか」
修平は我ながら辛辣な質問だったなと思ったが、野村さんは一表情を曇らせただけですっと立ち上がった。
「そうね。異端者ね。学生の時は変人だと思われてた」
「……すみません」
修平は素直に詫びた。すると野村さんは微かに笑った。
「いいのよ。でも私は魔法を否定するつもりはないの。だからずっとこうして研究を続けてるのよ。いつか魔法も科学もそのひとつの力だけでは破綻する日がくる。その時に相互に利用しあえたら……」
「……エネルギー不足を補える、とか?」
「まあ、そういうことかしら……」
「そういう考え方を共有できる人はいないんですか?」
「……昔はね、いたけどね。……お茶のお代りはどう?」
「いえ、もう……」
「……」
乱雑だけれど全然嫌な感じはしない野村さんの部屋でこうして向き合っていると、この地球上に存在する時間軸とは違った世界へずるずると引きずりこまれて行くようで、修平はぶるっと身震いをした。
冷気が足もとから忍び寄り、袖口や襟ぐりから入りこむような錯覚。修平はここから出られなくなるのではと不安になり、今さらながら自分が学校帰りであったことを思い出し、半分逃げ腰で廊下の方へ後退しつつ言った。
「僕そろそろ帰らないと……。どうもお邪魔しました……」
が、次の瞬間。野村さんが何か外国の言葉を口にすると共に素早く杖を振り切ったかと思うと、修平の体は完全に硬直し指先一つ動かすことはできなくなってしまった。
どんなに力を入れても睫毛ひとつ動かせない。それは全身が重い空気に圧されるような感覚で、声を出すことも叶わなかった。
野村さんは杖を手にしてゆっくりと部屋を横切り、マネキンのように強張って固まっている修平の正面に立ちはだかった。
「だから、言ったでしょう。魔法の存在を知られてはいけないって」
「……」
「あなたの見たものすべて、その記憶を消さないと帰すわけにはいかないわ」
溺れるような息の苦しさ。まったく体は動かないが意識は鮮明で、むしろ動かせない分だけ五感が研ぎ澄まされるようだった。
修平は部屋の匂いや色彩が際立って感じられ、脳細胞にぐいぐいと染みてくるような気がした。部屋の緑は濃く、紅茶の匂いはいまだに漂い、古びた家具の木の温かみのようなものまで忘れ難いものに思えた。
誰にも言わないなんて誓っても、どうせ野村さんは信じないだろう。恐らくは「魔法の掟」みたいなものに則って記憶を消すのだろう。魔法の力で。
「心配いらない。痛くも痒くもないから。あなたは魔法に関することを忘れる。それだけよ。日常生活になんの支障もないわ」
野村さんはそう言うと修平のこめかみに杖の先端をぴたりと当てた。一瞬ぴりっとした静電気のようなものを感じたが、修平の肉体が動くことはなかった。
「今日見たものを思い浮かべて」
野村さんはなんの感情も伴わない声音で言った。杖の先がじわりと温かいような気がした。今日見たもの。それは……。
「なにこれ」
野村さんが不意に頓狂な声をあげた。
修平は不自由な眼球を凝らしてガラス窓に映る自分たちの姿を凝視した。
テラスの窓は夜を吸い込んで鏡の役割を果たしていて、野村さんの背中と、魔法によって硬直する修平を映していた。いつもの黒ずくめで夜に同化してしまっている野村さんの杖の先端が、修平のこめかみから白い靄のようなものをするすると引き出していた。
「あなた、これは……」
野村さんがびっくりした顔で修平の顔を見た。修平は何か言いたかったがひゅーひゅーと苦しげに息を吸い込むだけで、野村さんの目を見返すこともできなかった。
今日見たもの。今日見たもの。修平の心にいくつも浮かぶ残像。
野村さんが言葉を継ごうとすると、隣りの部屋からがちゃんがちゃんという凄まじい破壊音と動物の咆哮のような喚き声が聞こえてきた。隣り、即ち修平のうちから。
野村さんはますます驚いた顔で修平をじっと見つめ、それから隣りの部屋に面した壁に視線を移した。
喚いているのは母親に違いなかった。他にいるはずもない。修平は泣きたいような気持ちになった。何が起きているのか想像はついていた。とうとうこの日がやってきてしまったのだ。修平は胸が潰れるような痛みを覚えた。
野村さんは修平の様子に一瞬動揺したような表情を見せたが、すぐにまたいつもの無表情に戻り、杖を壁に向けてまた再び外国の言葉を呟いた。たぶん、それは魔法の呪文というやつ。
次の瞬間、壁に突然スクリーンでもかけたかのように大きな映像が映し出された。野村さんは修平に向けてまた杖を振った。
修平にかけられた魔法が解けたのだろう。がちがちに固まっていた体が突然解放され、修平はよろけて転びそうになった。
壁に映っているのはまぎれもなく修平の父親と母親で、彼らの足もとに散乱しているのは何枚もの紙きれと食器もろともめちゃくちゃになった夕食だった。
修平は喘ぐように大きく息を吸い込んだ。
「……こういうの、よくあるの?」
野村さんが低い声で尋ね、そっと顔色を窺うように修平に視線を投げた。もう魔法は解けているはずなのに修平は言葉を失い、身じろぎもできなかった。
いつか壊れるんだろうと思っていた。でもそれが今日だとは夢にも思わなかった。寄り道なんかしなければよかった。まっすぐ家に帰っていればよかった。母親と一緒にいればよかった。でも、だけど、いたとして、一体何ができたというのだろう。何もできはしない。どうせ初めから破綻していたのだ。そうだ。いずれ来る日だった。それが今日だった。ただそれだけのこと。
修平の頭の中に言い訳めいたものがいくつも渦を巻き、涙になって一粒零れ落ちた。
「大丈夫?」
黒ずくめのお団子頭が眉根を寄せて心配そうに修平の顔を覗き込む。そこには修平の記憶を消すといった非情で冷酷な魔法使いの顔はなかった。人の良さそうな、優しげな顔があるだけだった。
「……お母さん、お父さんのこと調べてたみたいね……」
野村さんは壁に映る様子をつぶさに観察し、ぽつりと呟いた。
今日見たもの。野村さんに言われて修平がまっ先に思い浮かべたのは父親の浮気現場だった。野村さんの奇異な行動ではなく、衝激的な魔法の数々でもなく、父親が女といるところだった。
修平は「野村さんが魔法を使う」という事実と共に、その記憶も消してもらいたいと思った。消したところで事実は変わらないのだけれども。
「……帰る? もうちょっといる?」
野村さんが杖を振ると壁のスクリーンは消え去った。野村さんの手が修平の肩に置かれた。修平はどちらともなく曖昧に頷くだけで、その場に立ちつくしていた。
結局修平は野村さんの部屋でもう一杯お茶を飲んで時間を潰してからうちへ帰った。魔法の記憶を携えたままで。
あの後野村さんは紅茶を入れ替え、薄切りにしたトーストとバターと蜂蜜、ハムや卵を調理……と言うのが正しいのだろうか杖を振って調えた。ようするに、魔法で。
修平は台所で冷蔵庫が勝手に扉を開け、ハムがひらひらと出てきて、これまた勝手に食器棚から浮かび上がってきた皿に乗っかるのを黙って見ていた。もう不思議だとか怖いだとかいう感情は起こらなかった。ただこの人は普段からこんな暮らし方をしているのだろうかと疑問に思うだった。
料理ってこんな風にしても料理なのだろうか。自ら労せずして作っても手作りというのか。いや、野村さんは魔法にも労力がいると言っていたので、魔法を使うから楽しているというわけではないのだろうけれども。
空中に浮かんでこんがり自然に色づいて焼き上がるトーストに食欲が萎えるような気がする。そして思いだしていたのは台所に立つ母親の姿だった。
魔法など使うわけのない母親は、自ら包丁を握り、水や火を使って料理する。……その合間に酒を喰らっているわけだが……。それにしたって専業主婦である母親がいつでもきちんと食事の支度をしていることの労力について、今まで思い到ったことがあっただろうか? そりゃあ感謝しないわけではない。が、それをいつ口にしただろう。母親の義務のように、職務のように思ってはいなかったか。
魔法で焼いた薄いトーストは香ばしく、上質なバターも濃厚だった。修平が用意されたものを野村さんと食べていると、玄関の方でぱさぱさと乾いた音がした。
振り向くと白い鳥の形をした紙切れがドアの下から無理やり入ってきて、ぱさぱさと羽ばたきながら廊下を飛んでくるところだった。
「なんですか、これ」
修平はトーストを齧りつつ、飛んでくる白い紙きれを指差した。紙きれは意思を持っているかのようにまっすぐに野村さんめがけて飛んできて、二人のテーブルの上をくるくると旋回するとそのまま野村さんのお団子に舞い降りた。
修平はぷっと吹き出した。
「しつこいわね……」
野村さんは呟くと頭上に向って振り払うようにさっさっと手を振った。紙きれはお団子からまたぱさぱさと飛び立ったが、部屋中をあちこち飛んで、またテーブルへ戻って来ると皿の縁に乗っかり首を傾げる格好で野村さんを見上げた。
「これは生き物ですか?」
「手紙よ」
「は?」
「ポストじゃなくて、相手の手に届く手紙」
「……そういう郵便ありますよね」
「……まったく……」
野村さんは眉間に皺を寄せて、仏頂面でテーブルの上をうろつく紙きれ鳥を追う。が、紙きれはするりするりと上手にその手を逃れ、飛びあがり、舞い降りるのを繰り返す。野村さんがいらいらしているのは明らかだった。
修平は紙きれ鳥にそっと手を伸ばした。すると紙きれ鳥は一瞬迷うような素振りを見せてから、修平の手のひらに乗ってきた。
紙きれ鳥は白い尾羽のあたりによく見ると紋章のようなものがエンボス加工で浮かび上がっていた。西洋風の、貴族を思わせる紋章だった。
「受け取りたくないんですか」
「……そうね」
「拒否ってできないんですか」
「拒否っていうか、魔法で追い返すことはできるけども」
「けども?」
「毎日来るから疲れるし、面倒くさい」
「毎日? え? 誰からそんなに? ラブレター? ストーカー?」
「……なんでそういう発想になるの。借金の督促状かもしれないじゃないのよ」
「借金あるんですか」
「ないわよ」
「……」
修平は指先で鳥の頭を撫でる。鳥は黙ってされるがままになっていた。手紙といってもERというイニシャルらしき装飾文字より他に文字は見当たらない。どこから見ても白い紙の鳥だった。折りたたんでいるわけでもなく、厚みもないぺらぺらの薄い紙。これのどこに手紙が書かれているのだろう。
修平は好奇心を押さえられず、半分身を乗り出すようにして尋ねた。
「これ、どこから読むんですか? どこに書いてあるんですか? 読んだ後はどうなるんですか? 鳥、飛びっぱなし? それとも動かなくなるとか?」
「……動かなくなる」
「へえ~」
妙に感心したような声を出す修平の、その能天気な無邪気さに野村さんは呆れたように肩を落とし大きく溜息を漏らした。
「握りしめたら動かなくなる」
「絞め殺すってこと?」
「殺すもなにも、生き物じゃなくて手紙よ」
「鳥の形してたらそういう風に見えるじゃないですか。だいたいなんで鳥?」
「伝書鳩のつもりなんじゃないの」
野村さんは修平の手に乗っていた紙の鳥に人差し指を差し出した。鳥は修平の顔を見上げ、野村さんを振り向き、実に巧みに、且つ自然に鳥の動きを再現しながらその紙の足先を器用に曲げて野村さんの指を掴んだ。
野村さんは鳥を指にとまらせて目の高さへ持ち上げ、じっと見つめあう格好になった。
「誰からの手紙なんですか」
修平の質問には答えず、野村さんはおもむろにふうっと鳥に息を吹きかけた。
すると見ている目の前で、まさに落鳥するかのようにくたりと野村さんの指から離れて、紙きれ鳥はひらひらとテーブルへ落ちてきた。
突差に修平は「あっ」と声を漏らしたが、テーブルに落ちた鳥は次の瞬間にはただの四角い便せんへと姿を変えていた。
「同級生から」
「魔法学校の?」
「……そう」
「彼氏?」
修平の問いに野村さんはぎょっと目を剥いた。
「なんでそう思うの。なんで分かるの。まさか見えるの? まさか魔法を感じるどころか、そこまで分かっちゃうの?」
驚愕しつつも半ば詰問するような口調だった。修平は何をそんなに? と逆に怪訝な顔で、
「いや、そんな大袈裟な。だって毎日手紙送ってくるなんて男以外に普通考えらんないじゃないですか」
「普通……」
野村さんはまるで聞いたことのない外国語のように修平の言葉を繰り返して呟いた。
「彼氏は魔法使って生活してる人なんですね」
「彼氏じゃない」
「え」
「彼氏じゃない。魔法を使って生活してるのは、それは魔法の世界で生きてるからであって、私の今いる世界とはまた別なところなの。住む世界が違うの」
野村さんはむきになるのを通り越して怒ったように言うと、むすっと唇を尖らせて手紙をつまみあげた。そしてテーブルの上のコンロに火を点けたかと思うといきなり手紙を焼き始めた。
「ちょっと! なにやってんですか!」
修平は驚きのあまり大きな声を出すと、あっという間に燃え上がる白い封筒を野村さんの手から叩き落し、傍にあったカップの冷めた紅茶を勢いよくぶっかけた。
「火事になるでしょう!」
手紙は半分ほど燃えて黒くなり、その灰が粉々になってちらばってますます絨毯を汚していた。
燃え残った半分は紅茶で茶色く染まり見るも無残な様相を呈して、さっきまでのいたずらに飛びまわる白い鳥など見る影もなくなっていた。
部屋には紙の焼け焦げた匂いが充満し、煙が薄く漂っていた。
「窓開けないと、火災報知機が鳴りますよ」
「詳しいのね」
「……俺も煙草の火でノート焦がして火災報知機鳴らしたことあるから」
「……」
野村さんは鼻先で「ふうん」と言うとぱちっと指を鳴らした。
途端、冷たい風が背後から吹きこんできて、振り向くとするするとひとりでにテラスへ出るガラス戸が開くところだった。
「手紙、そんなに読みたくなかったんですか」
「……」
「同級生なんでしょ。ただの」
ただの同級生が毎日手紙なんて送ってくるはずもないだろうけれど。それ以上言うと野村さんがまた驚いて「なぜ分かるのか」と言い募りそうで、修平はそれ以上は黙っていた。
ようするに。修平は胸の中で呟く。ようするに、訳ありなんだな。その、ERってイニシャルの男と。
野村さんは容赦なく部屋に吹き込む風に寒そうに両腕をさすっていた。焼けた手紙を拾う様子はなく、無言で、やっぱりいつもの不機嫌そうな顔で黙りこんでいた。
「帰ります」
修平が言ってももう引きとめはしなかった。記憶を消すことも忘れて、心ここにあらずといった風で「そう」と低く呟くだけだった。
うちに帰ると荒れ狂っていた部屋は片付けられ、父親の姿はなく、母親がソファにぐったりと身を預けているだけだった。
修平は何か言うべきか迷ったが、こんな早業で、あのぶちまけられた皿小鉢が片づけられていることの方に驚いてもいた。こういうのを「魔法」っていうんだ。修平はほろ苦い気持ちで笑うよりなかった。
修平は小声で母親の背中に「ただいま」と声をかけた。母親が何か言葉を発するかとも思ったが、それを聞くより先にそそくさと部屋にすべりこむ。修平は何も聞きたくなかった。できれば彼ら夫婦の問題からは無関係でありたかった。知ったところで、聞いたところで何ができるわけでもないし、聞いてしまえばどうしたってすべてを認めることになってしまうだけなのだ。この家が壊れてしまっていることを。
わずかな試験休みの開放感はとうに失われ、明日からどうやって過ごすか考えるだに気分が重く塞がれた。
修平は煙草を取り出すとベランダへ出た。父親はどこへ行ったのだろう。女の所だろうか。煙草に火をつけ、深く吸いつける。ベランダは北風が吹き荒れ、修平の髪をめちゃくちゃに乱していく。
これからこの家はどうなるのだろう。溜息と共に煙を吐き出すと、修平は自分にも魔法が使えればいいのにと思った。
翌日、修平は昼頃まで寝て、起き出してみると、やっぱりというか、当然というか、父親はおらず、母親だけがソファに座ってぼんやりとテレビを眺めているだけだった。その後姿からは生気が感じられず、修平が恐る恐る「出かけてくる」と告げても返事はなかった。その事に修平は背筋に冷たいものが走るのを感じ、思わず身震いした。
ちらっと台所に視線を走らせると酒の空き瓶が明らかに増えていた。
ああ、もう、終りなんだな。修平は母親にかけるべき言葉が見つからなかった。玄関の扉を閉める時、修平は自分の無力さを呪っていた。
行くあてもなかったが、とにかく家にはいたくなかった。
修平は本屋に行き、漫画喫茶に行き、さらに映画を見て時間を潰した。それも、ファンタジー映画を。
最終回の映画館で紙コップのコーラを飲みながら、修平はスクリーンに映し出されるとりとめもない魔法の数々をぼんやりと眺めていた。
空を飛ぶことができても、人に見られてはいけない。手を使わずに物を動かしたりできても、人に知られてはいけない。姿を変えたりする魔法の薬や道具にはお金がかかる。ペガサスやユニコーンやドラゴンをマンションの一室で飼育することはできない。魔法って不便だ。
魔法の世界というところでは魔法を使うことの方が自然で、仲間もいるはずなのに、そこを離れて生きて行くというのはどういうことなのだろうか。
自分たちからしたら魔法の世界は夢と冒険の世界だが、逆から見たら魔法のない世界もまた「新世界」なのかもしれない。人間の英知が科学やテクノロジーだとすると、魔法使いからしてみればそっちの方がとんだファンタジーなのではないか。
冒険者はいつだって異端者であり、変人だ。そして孤独だ。修平は野村さんがいつもむっつりと不機嫌な顔をしている理由がなんとなく分かったような気がした。
もしも自分に魔法が使えたら。修平はCGで作られた壮大なファンタジー世界を眼前に眺めつつ、考えてみた。
魔法の箒で空を飛んだりしたいだろうか。してみたいかもしれないが、それでどこへ行けばいいのだろう。怖くはないのだろうか。まさか運送業に使うでもないしな。修平は笑う場面でもないのに、ふふと小さく笑う。
魔法を使って試験でいい成績を修めたり、大学に入ったりできるだろうか。……できたとして、それに何の意味があるだろう……。
まあ、家の中で魔法を使って物を動かしたり、掃除したりするのは便利かもしれないな。でも、それだって直接体を使わないというだけでエネルギーは使うのだろうけれど。
母親が父親のことを調べていたと野村さんは言ったけれど、それはやっぱり興信所とかそういうことだろう。まさか魔法ではないよな。だとしたら、なかなか金のかかったことだろう……。修平はまた笑う場面でもないのに、一人笑っていた。なんだ、魔法使いも一般人も、金も労力も使うのは同じじゃないか。
座席のカップホルダーに置いた紙コップを取り上げると、氷がじゃらっと音を立てた。映画館のコーラってなんだか味が薄いように思うのは氷がたっぷり入りすぎるからというだけではなくて、そもそもの味が薄いんだ。静かにストローを咥えて、まるで頭に入ってこない映画の迫力のサラウンドに全身を預ける。こういうの、野村さんが見たらなんと思うんだろう。修平はふと野村さんを誘ってみたいような気がした。
映画が終わって外に出ると町は寒風吹き荒れ、道行く人も身を縮めながら足早に家路を急いでいるようだった。
修平は手近なコーヒーショップに入ると窓際の席に座り、通り過ぎる人々を眺めた。
修平には魔法を感じる力があると野村さんが言っていたが、それはどうやって感じるんだろう。野村さんに対して感じていたのは「変な女だな」ぐらいなもので、でもそれは実際に野村さんが妙な感じがするからであって魔法を感じたかというとそうではない。でも、もしも何か、もっと注意を払っていれば分かることなのかもしれない。分かったところでそれが何になるということもないのだが、今は魔法を感じたかった。
いや、はっきり言えば魔法に頼りたいような気持ちがあった。魔法の力であの壊れた家をどうにかできはしないか、と。
父親は仕事に行っているのだろうが、今日うちへ帰ってくるかどうかは知れない。今頃母親は一人の家で何をしているのか、考えるのも恐ろしい。
コーヒーショップの中は暖房が効いていて、座席もほとんど埋まっていて人々の話声で賑わっていた。厚ぼったいコーヒーカップを掌に包むようにしながら、時折店内に視線を走らせる。が、何も感じはしなかった。少なくとも魔法の存在は。気になる人もいなければ、心惹かれるような人もいない。恐れや不安を感じる人もいなければ、この明るい場所で不機嫌な顔をした人もいない。
こんなにたくさんの人の中で、魔法使いというのはどのぐらい隠れているものなのだろう。いや、それよりも、魔法の存在を知っている人はどのぐらいいる?
修平は急に背筋に悪寒が走った。いるわけないんだ。そうだ、いるはずがない。魔法のことを知っている人なんていない。なぜなら、もし知ったとしても記憶を消されるのだから。修平は大きな秘密を知ってしまったような気がして、息苦しい緊張と不安感に襲われた。
誰も魔法のことは知らない。知られてはいけない。としたら、野村さんは昨日は実行しなかったけれど、絶対に記憶を消しにくる。修平は高鳴る動悸にぎゅっと目を閉じた。
そうして呼吸を整えていると、ごんごんと鈍い音がして、目を開けると窓の外に野村さんが立っていてガラスをノックしているところだった。
「わあっ」
修平は声を上げ、弾かれるように立ち上がった。その拍子に椅子ががたっと大きな音を立てた。
周囲の客たちが驚き、怪訝な目で修平を見ている。野村さんは夜を背景に、いつもの黒ずくめのなりで、お団子頭で、無表情でガラスの前に立ち「おいでおいで」と驚愕と恐怖に顔を引きつらせている修平に手まねきをしていた。
修平はカップに残ったコーヒーに視線を落とすと俄かに思案し、野村さんに向って同じように「おいでおいで」と手まねきをしてみせた。
野村さんは虚をつかれたような顔をしたが、くるっと踵を返し店内へ入ってきた。そして椅子に座り直した修平を見下ろしながら、実に平然とした調子で「こんばんは」と挨拶をした。
「……こんばんは」
「座っても?」
「はあ」
野村さんは向かいの椅子を示しながら鞄をおろすと、飲み物を買いに行った。
背筋を伸ばして大股で歩く野村さんを見送り、椅子に置かれた鞄に目をやる。まさかまたここに蝉の幼虫が入ってるんじゃないだろうな。ああして蝉の幼虫なんか集めたんじゃあ、来年の夏はこの辺りは蝉が少ないだろうな。
コーヒーを片手に野村さんは戻って来ると、椅子に腰掛け、肘をついてガラスの向こうに視線をやった。
「今帰りですか」
「ええ」
「遅いんですね」
「忙しくなってきたから」
「ああ、クリスマス近いですもんね」
「……そうね」
「あの……ええと、魔法……野村さんみたいな人たちもクリスマスってやるんですか」
思わず魔法使いと言いそうになった修平を野村さんがじろっと目線だけ動かして一睨みする。修平は小声で「すみません」と言うと、もう一度、注意深く尋ねた。
「クリスマスパーティーとか、プレゼントとか。外国にずっといたなら、そういう習慣あるんじゃないんですか」
「……ないわ」
野村さんはあっさりと答えるととコーヒーを啜った。
「クリスマスって宗教行事でしょう」
「はあ、まあ、そうですね」
「私、別にクリスチャンじゃないから」
「そうじゃなくてもみんなやってるじゃないですか。イベントですよ、イベント」
「……」
「ケーキ食べたり、チキン食べたり、ローストビーフ食べたり」
「食べることばかりね」
「だから、所詮はご馳走を食べたりプレゼント貰ったりする口実なわけですよ」
「……ああ、なるほど……」
野村さんは得心したように頷いた。
「もしかして、そういうのやったことない……とか?」
「家族がね。そういうの嫌うから。私たちって神様と逆のところにいるわけでしょ。なんていうか、こう、魔的な……。いや、別に悪魔崇拝じゃないんだけど……。でも、やっぱりね。神様の行事とかはちょっとねえ。意味分かるかしら」
「……ああ、なるほど……」
修平は野村さんを真似て深く頷いた。すると野村さんは珍しいことにくすりと小さく笑いを漏らした。
ああ、この人も笑うことがあるんだな。修平は唇の端を持ち上げる野村さんに新鮮な驚きを覚え、笑った顔が思いがけなくかわいいことにも新たな発見を見出すような気持ちになった。
いつもとは言わないまでも、普段からもう少しそうやってにこやかにしていればいいのに。澤沢文具で見かける時も真面目に仕事をしているようではあるが、いつも仏頂面で愛想笑いのひとつもしないことを考えたら、修平はますます野村さんから目が離せないような気がした。
「……お母さんはどうしてた?」
「どうって……」
「昨夜の今日で、どうしてるのかなと思って。……余計なお世話だろうけど」
「いや、そんなことは。……うちにいます。別に行くとこもないだろうし」
「そう。あの様子じゃあちょっとね……。心配よね。……余計なお世話だろうけど」
「いや、そんな。心配してくれてありがとうございます」
「お父さんは……?」
「仕事……と思います。……いや、どうだろう……。女のとこかも……」
「……あなたは知っていたの?」
「知ってたっていうか、昨日見ちゃったから……」
「……ああ」
野村さんは昨日修平のこめかみから引き出して垣間見た薄靄のような「記憶」を思い出したのだろう、二~三度頷いた。
「あなたも大変ね」
野村さんは労るように微笑んだ。
しかし修平にはこの状況の「大変」さをまだ実感できていないような気がしていた。家が壊れたことは確かにそうだが、修平はその「大変」さにまだ何も接触してはいない。今こうしてここにいることがその証拠だ。修平は初めて自分が「大変」さから逃げていることに思い至った。
そのことが急に気まずくなった修平は、
「まあ、俺にはどうにもできないから」
と誤魔化すように、わざと明るくあっけらかんとした調子で言ってのけた。夫婦の問題、男女の問題に自分ごときが何ができるというのか。そんな空気を内包する修平のおどけた笑いはどこか物悲しく、自嘲的でもあった。
が、その言葉を聞いた途端、野村さんはみるみるうちに表情を曇らせ、不愉快そうに眉間に皺を寄せた。
「どうにもできないって、あなた、何かしたの?」
「えっ」
「何もしてないのに、どうしてどうにもできないって分かるの」
「それは……」
修平は野村さんが声苛立ちを滲ませていることに戸惑っていた。
「無力と無気力は違う。自分に力がないのをまるで当然のように言うのは無責任な言い逃れだわ。それを恥ずかしいとは思わないの」
痴話喧嘩とでも思われたのだろうか。気がつくと周囲の客たちが修平たちを注視している。野村さんの憤りの中には哀切のようなものが感じられて、修平は返す言葉がなかった。
野村さんの言う通り、修平は無視や無関心を装って自分を鎧ってきた。愚かさに対する羞恥心も自分を偽り続けるうちに麻痺してしまっていた。でもまさかこんな風に詰め寄ってこられるとは思いもよらなかった。修平は自分の弱さを突き付けられて戸惑い、黙って野村さんの咽喉元を見つめた。
気まずい沈黙がテーブルを流れた。修平はコーヒーを飲み干すと視線を窓の外へ向け呟いた。
「じゃあどうすればよかったんですか」
「……」
「……俺は、魔法使えないから」
ガラスに映る横顔が不貞腐れたように子供じみて見えるのが、修平は我ながら腹立たしかった。野村さんに八当たりするなんてお門違いもいいところだと分かっては、いた。
野村さんはじっと何か考えこむように沈黙し、すっと視線を修平と同じく窓の外に向けた。二人はガラスの中のお互いに見入っていた。
周囲の客たちは沈黙する二人にもう興味をなくし、それぞれのお喋りに没頭している。二人を省みる者は誰もいなかった。
修平は周囲が明るければ明るいほど、賑やかであれはその分だけ世界に取り残されたような気持ちになった。この世界に、二人。仏頂面の魔法使いと。それは心強いようでいて、永遠に交わることのない平行線のようなものだ。ガラスの中の野村さんは瞬きもしないでどこを見るともない目で、夜を見ている。
「魔法は、人の心を操ったりはできない」
「え?」
野村さんがおもむろに口を開いた。
「魔法で親の不倫や浮気をどうにかすることなんてできない。そんな都合のいい力じゃない。魔法は万能ではない。考えてもみて。魔法がどんなことでもできる力だったとして。だからって何でもしていいってこととは違う。私たちにも法がある」
「……」
「人の心を動かすことができるのは、人でしかない」
いやに静かできっぱりとした口調だった。言葉のひとつひとつを噛みしめるようにして、重く吐き出す。
「映画なんかで魔法の薬を使って好きな相手の心をつかむみたいなのあるけど……」
「そうね。あるわね。確かにそういう薬はある。だからって使っていい理由はない。そんな力で手に入れる恋に何の意味があるの」
「野村さんが言ってるのは、できるけどもするべきじゃないってことでしょ」
「……」
「できないんじゃなくて、しないってことでしょ」
「……」
「……すみません。やつあたりでした」
修平は野村さんにちょっと頭を下げると、立ち上がった。
「帰ります」
そう宣言すると、野村さんは一瞬むっとしたような顔をしたが、すぐにいつもの無表情に戻り鞄に手を突っ込むと何か掴みだした。蝉の幼虫かと思い修平は咄嗟に身構えた。が、野村さんが修平に差しだしたのは白バラだった。
短く切られた白バラは花屋で買ったようなものではなく、包装もされていないむき出しの状態で葉っぱはところどころ黄色く変色していた。
「お母さんに差し上げて」
「……これ、どこで採ってきたんですか」
「盗ったなんて失礼ね。うちで咲いたのよ」
「別に盗んだという意味じゃ……」
「……」
「これも蝉とか、カエルとかトカゲと融合させてるんですか」
「そんなわけないでしょ」
「だって冬に咲くなんて」
「バラは冬も咲くわよ。知らないの」
「知りませんよ」
「……あのね、もし何かあったらいつでもうちに来ていいから」
「え?」
「ドアの鍵は開いてる」
「鍵かけないんですか」
修平は驚いた。しかし野村さんは平然と言った。
「選ばれし者のみを通すようにしてある。鍵なんて意味がないから」
「意味ないって、そんな」
「だってあんな鍵は物理的に開けようと思えば開けられるでしょう。それじゃあ鍵の役割を果たさないわ。私が許した相手のみが開けられるようにしてあるの。もしなにか……問題が起こって、行くところがない時とかあれば、うちをシェルターとして使って構わないのよ」
「……」
「……まあ、余計なお世話だけろうけれど」
修平は白バラをコートのポケットに慎重に入れると「それじゃあ」ともう一度会釈をした。
この人は怖い人じゃない。悪い魔女でもない。修平ははっきりとそう思った。ちょっと不器用な、優しい人なのだ。むっつりとした表情で自分の優しさを隠しているだけで、修平の気持ちを案じてくれている。魔法が神様と反対のところに存在するものだったとしても、それが必ずしも悪に通じるものではないのだ。だってこのお団子頭の黒ずくめの魔法使いは、こんなにも心温かいではないか。
修平は去り際に何か言おうと野村さんを見つめたが、上手い言葉が見つからなかった。ただありがとうと言うだけでは到底伝わらないような気がした。
二人、見つめあう形になりわずか数秒。修平は何も言わなかったのに、野村さんはすべて分かっているとでも言うようにこくりと頷いてみせた。
母親に尋ねることが憚られて何も言えずにいたが、父親はうちにはあれ以来帰って来なかった。次の日も、その次の日も。試験休みはまだ続く。次に学校に行くのは終業式の前だ。そうしたら冬休み。このまま母親と二人で家に閉じこもったままになるのだろうか。
野村さんがくれた白バラをコップに挿してリビングのテーブルに置くと、思いがけないほど甘く優しい匂いが部屋に満たされた。
花びらは触れるとすべすべと滑らかで、柔らかい。
家にいるのは確かに気づまりだったけれど、野村さんがいつでも来ていいと言ったことが微かに修平の心の拠り所となっていた。
ここではない場所へいつでも逃げることができるのだという保険のようなものがあるということは、時々窒息しそうなほどの閉塞感を感じる修平に新鮮な空気を送りんでくれた。
父親の不在について母親が何も言わないことから、修平は父親に連絡を取ることが母親への裏切りに思えて手も足も出ない気持ちだった。
電話すれば父親はそれに応えるだろうか。修平はそのことにも自信がなかった。父親がどこへ行ったのか、推測するのは簡単なことだった。女のところだ。
ようするに捨てられたのだ。自分達は。修平は自ら導き出した結論にひどく傷つき、いつの間に事態はここまで悪化していたのかと呆然としていた。
このまま嵐が過ぎるのを待っていても事態は何も変わらない。嵐によってすべてが吹き飛ばされて、何も残らないということだけが分かっている。そうなると修平は自分はどうすればいいのか、まったく分からなかった。
修平は試験休みの間あてもなく出かけては、母親の姿を見ないようにして、彷徨って過ごした。このせつなさと虚しさ。気持ちはすっかり疲弊し、時間というのがこんなにも緩慢にしか経過しないのかと、家に帰るまでは一分が永遠のように長く感じられる地獄でもあった。
友達と遊びに行くとか、なんだかんだ理由をつけて出かけてることに母親は「そう」と一言答えるだけで他にはなにも言わなかった。遅い帰宅に対しても、苦言を呈するようなこともなかった。
何か言ってくれればいいのに。修平は普段ならうっとうしく感じるであろう母親の小言が、今は懐かしいような気がした。遊んでばかりいないで勉強しろとか、外でなにやってるんだとか、誰と毎日出かけてるんだとかいう当たり前の詮索や心配や、面倒な質問をされたかった。そうして母親の中に生気のようなものを見出したかった。今の母親は死んでいるのも同然に思えて修平は恐怖と不安で胸苦しかった。
そうして数日をやりすごした夜のことだった。修平が帰ると夕飯がテーブルの上に並べてあったが、食べたい気持ちにはまるでなれなかった。
皿にはラップがかけてあり、どの料理もいつも通り丁寧に用意されているのは分かったが、皿の数が父親と修平の二人分であることが恐ろしく、そんなことあろうはずもないのに毒でも入っているのではないかと考えずにはおけなかった。
不甲斐無い息子への当てつけなのか。やり場のない怒りがここにあるのか。修平はテーブルの料理を見つめて、立ちつくすより他なかった。
リビングに母親の姿はなく、いつもつけっぱなしになっているテレビも今日は電源が切られており、家中が不気味なほどの静けさに満たされていた。
修平は父親の分の皿をそのまま冷蔵庫にしまうと自分の分の皿のラップをめくり、からあげをつまんで口に入れた。コップに挿した白バラが幾重もの花びらを開いて、味気ない蛍光灯の下にも関わらず生き生きと咲いていた。
台所に足を踏み入れると缶・瓶専用のごみ箱の蓋が持ちあがり、お酒の瓶がはみ出している。ワインやビールだったのが、父親が出て行ってからはウォッカなどの強い酒に様変わりしているのがいたたまれなかった。
修平は冷蔵庫からお茶を出してきて飲むと、指についた油を舐めた。
そしてそのままからあげの皿を手にして自室へ引き上げようとした時だった。
なにか直観めいた嫌な予感がした。理由は、ない。本当にそれは動物的な勘で、部屋の中を淀んだ黒いものが足もとの方に沈殿しているような感覚だった。
修平は皿をテーブルにもどすと廊下に出て、明かりのついている洗面所を覗いた。
水音はしなかったが風呂場の電気はついており、脱衣籠には母親の服が入っていた。
修平はそっと風呂場の扉に近づくと、中に声をかけた。
「ただいま」
返事はなかった。修平は五センチほど扉を開けて、中を覗かないようにしながらもう一度声をかけた。
「ただいま」
嫌な予感は今はもう息もできないほどの重い圧力で圧し掛かってきていた。
修平は、母親の裸なんて見たかねえよと心の中でわざと悪態をつき、不安に侵される自分を振り払おうとした。そして今度は大きな声を出しながら、思いきって扉をばんと音を立てて開ききった。
「ただいま!」
母親が驚き、笑って、おかえりと言いながらも恥ずかしがって「開けないでよ」と言うのを期待していた。そのはずだった。が、修平の目に飛び込んできたのは浴槽にどっぷり浸かっている母親だった。
修平の心臓は凍りついた。息を吸い込んでも酸素が入ってこないのか、修平は喘ぎながら、声も出ず、母親に飛びついて裸の肩を叩いた。
母親は頭を浴槽の縁にもたせて、軽い鼾をかいていた。湯の中で裸の体は手足を伸ばしており、修平が抱え上げようと両腕を差し入れても持ち上げることはできず、いたずらに湯がばしゃばしゃと跳ね返るだけだった。
母親の両脇に腕をいれて浴槽から引きずり出そうとするも、脱力した母親は予想以上の重さで、修平はまさか自分がこんなにも非力だったかと泣きそうになった。
そこまで太っているわけでもない母親一人抱えられないなんて。
修平はこの重さは、母親の怒りと悲しみと怨念の重みだと思った。
もう修平にはどうしていいか分からなかった。母親の頬を叩いても、目覚める気配はなかった。
修平は母親が溺れないよう浴槽の栓を抜くと風呂場を飛び出し、動揺するあまり廊下を二~三度うろうろしてから、弾かれるように玄関を出て隣家のドアを叩いた。
「野村さん!」
修平の目からまるで小さな子供のように涙が零れ落ちた。
「どうしたの」
背後から声をかけられ修平は勢いよく振り向いた。そこには、足音も気配もさせずどうやって現れたのか、まるで降って湧いたかのように野村さんが立っていて、泣き顔の修平を見るや物も言わずに修平のうちへ飛びこんだ。
修平も野村さんに続いてうちの中へ駆け込むと、野村さんは開け放された風呂場で裸の母親の呼吸を確かめていた。
「大丈夫ですか」
野村さんは母親の頬をぴしゃぴしゃと叩きながら呼びかけた。
「お、重くて……」
修平はしゃくりあげそうになるのを必死で堪えて、野村さんに状況を説明しようとしたがそれ以上は言葉にならなかった。
野村さんはいつもの黒いコートの袖からするりと杖を出すと、素早く一振りした。
すると脱衣所からバスタオルがひらりと飛んできて、母親の体に巻きついた。野村さんが立ち上がって杖をかざすと、母親の体が浴槽から浮かび上がった。
野村さんは杖をかざしたまま廊下をあとずさり、寝室のドアを開けた。それに伴って母親の体がふわふわと宙を漂いながら、野村さんにつき従って行く。
「野村さん……」
母親は大丈夫かどうか、どうなっているのか修平は震える声で尋ねようとした。野村さんは母親の体をベッドに着地させると、ほうとため息をついた。
「大丈夫。飲みすぎて寝てるだけ。心臓発作でもないし、脳梗塞でもない」
「じ、自殺……」
「やめなさい、そんなこと考えるのは」
野村さんはぴしゃりと言い放った。
「ちょっと飲みすぎただけ。うっかり寝ちゃっただけ。それだけ」
「……」
本当にそうだろうか。修平はまだ動悸が治まらず、疑わしい目を野村さんに向けた。しかし野村さんはそれ以上何も言わず、また杖を振って母親に服を着せ、タオルを冷たく絞ったものを飛来させて額に乗せた。そして最後に杖ではなく、リモコンを手にして暖房を入れるとようやく修平に向き直った。
「心配ない。発見が早かったし、異常はない。ちょっとのぼせたかもしれないけど。お水飲ませてあげて。咽喉乾くだろうから」
そう言うと寝室を出て、リビングのソファに腰を下ろした。
修平は冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取ってきて、母親の枕もとへ置き、「水、置いてあるよ。水飲んだ方がいいよ」と声をかけた。母親は寝ぼけたように「ふん……」と鼻先で答えた。薄ぼんやりとではあるものの母親が返事をしたことに修平はほっと胸を撫で下ろした。
リビングへ行くと修平は野村さんの隣に腰をおろした。体がソファに沈むとひどい脱力感を覚え、両手で頭を抱えて大きく息を吐いた。
異常だ。こんなこと、あっていいはずがない。母親が無事であることに対して安堵すると、修平の胸に湧きあがってきたのはとてつもない怒りだった。
野村さんは否定したが、修平は母親が自分の生命を放棄しようとしたのだとしか思えなかった。修平は父親に対して腹が立ってしょうがなかったし、今はもう怒りを通り越して憎しみが炎のように燃え上がっていた。
しかし、怒りや憎しみの反面、修平は悲しくて、ただもう耐えがたいほど悲しくて、頭を抱えたまま涙があふれてくるのを止めることができなかった。
なぜこんなことに。どうしてこんなことになったのだ。修平は奥歯を噛みしめ、肩を震わせた。
床に修平の涙がぽたりぽたりと落ちる。野村さんはそれを無言で見守り、おもむろに手を伸ばして修平の頭を撫でた。
「お父さんに連絡したら」
「……」
修平は子供がいやいやするように頭を振った。
「お父さんに帰ってきてもらわないと。このままってわけにはいかないでしょう」
「……」
「お父さん、どこにいるか分かってるんでしょう」
野村さんは言いながら、かたわらにあったティッシュを箱ごと差し出した。修平はティッシュを数枚引き抜くと涙を拭き、洟をかんだ。
「……さっき、どうやって帰ってきたんですか」
丸めたティッシュをゴミ箱に投げ入れると、修平は頭をあげて尋ねた。女の人の前でひどく取り乱したり、泣くなんて今になって恥ずかしかった。
野村さんは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに修平の質問の意味を理解するとふっと小さく笑った。
「魔法的瞬間移動ね。非常事態を察知して」
「……察知?」
「あのバラ」
野村さんは体をひねって、テーブルの上の白バラを指差した。
「あれには魔法がかけてある。火災報知機みたいなもんかしらね。何か危険なことや、異常を感じると私に知らせてくれるの」
「……」
「あ、盗聴とか、監視カメラとかそういうのじゃないから」
慌てて付け加える野村さんに、修平はまた涙が出そうになった。野村さんにはこの家の非常事態に関与する義理はない。なのに、わざわざそうすることの理由があるとしたら。それは「心配してくれている」からに他ならなかった。少なくとも修平はそうだと思い、また、それを信じた。
いや、もっと言えば、修平は野村さんを信頼する気持ちが心のどこかにあって、だから咄嗟に助けを求めたのだ。その理由は野村さんが魔法を使うからに他ならなかった。
「魔」の要素はともすれば恐ろしいものに思われるのも事実だが、野村さんからはそういった暗黒めいたものは感じられない。見た感じは黒ずくめで陰気な顔で、ほとんど笑わないような鉄仮面だが、修平の頭を撫でる手は温かだった。
この家の破滅的な状況を救うことができるとしたら、魔法以外にありえない。誰にどうすることもできない親たちの愛憎だの、不倫だのに太刀打ちできるのは魔法しかない。修平の心は気がつくと野村さんに、即ち、魔法の力にすがるようにほとんど無意識のうちに傾いていた。
修平がまた泣きそうになっているのを察知した野村さんは、わざと明るい調子で続けた。
「だからね、あのバラは水に挿しておかなくても枯れないから。枯れない花。いいでしょ」
「野村さん」
修平は心を決めて真剣な眼差しで野村さんをしっかり見据えると、膝の上で軽く拳を握り、あたかも告白するかのような思いつめた口調で言った。
「親父の不倫をやめさせてくれませんか」
「えっ」
野村さんはあんまり意外な頼みだったせいか、頓狂な声をあげた。が、母親が寝ていることもあり慌てて手のひらで口元を覆った。
「母さんが相手のこと調べてたんなら居場所は分かるはず。野村さんの魔法でなんとかして貰えませんか」
「それはできないって言ったでしょう。人の心は操れないって」
「できないんじゃなくて、しないんでしょう。野村さんは。でも、そこを曲げてなんとか。お礼はします。貯金、お年玉貯めてたのがあるからそれで。お願いします」
修平は深く頭を下げた。このままでは母親が死んでしまう。頭がおかしくなってしまう。きっと。でも野村さんの魔法ならきっと解決できる。父親が若い女に走ったその心変わりを操ってくれたら。または、修平の魔法に関する記憶を消し去ろうとしたように、父親の記憶からも相手の女の存在をまるごと消し去ってもらえたなら。
野村さんは腕を組み難しい顔で黙ったまま、頭を下げ続ける修平のつむじを見つめていた。
魔法の存在を知られてしまったのは自分の責任だが、こんな風に頼られるとは思いもしなかった。もっと早くに記憶を消してしまえばよかった。
野村さんは心底困って溜息を漏らした。
他人の家庭の事情に介入するのは、魔法が使えようと使えまいと関係なく、繊細な問題だと思う。とはいえ不倫の証拠だの何だの……といったものがあるとして、それをまだ齢十七やそこらの思春期男子が背負うには荷が勝ちすぎるとも思う。
ようするに。野村さんは二度目の溜息を吐いた。
ようするに、子供が背負うには酷な問題なのだ。動転して救急車や警察を呼べないぐらいに。……いや、そうではない。この少年が助けを求めてきたのは隣人が魔法を使うからに他ならないのだ。
野村さんにとって心を決めるのは勇気のいることだった。どんな理由があっても、人の心を操るようなことに関わりたくないと思って、自分がいた世界、即ち魔法の世界を捨て、異端者として世捨て人のように流浪の日々を送ってきた。極東の島国にたどり着いたのは恩師の紹介があったからだし、マンションの一室もまた恩師のもので、ここで東洋の自然や医術、文化や宗教を学びながら自分の研究を続けて行くつもりだった。目的はそれだけで、恋人や友人を作るなどといった他人と深く関わる行為は考えていなかった。
そもそも一般人と関わると魔法の存在を隠し続けることそれ自体に疲れてしまうものだ。隠すというのは、どこかしらうしろめたい。そんな風に考えてしまうこと自体が、魔法の世界では少数派だったけれども。
嘘をつくわけではないが、やはり心を開くことができないのは相手に対して薄っぺらな友情しか示すことができないようで、心は乾いていく。適当な付き合いでお茶を濁して生きていくなら、いっそ関わらない方がいいのだ。
だから、一人で生きて行くつもりだった。一人でいることは怖くはないし、寂しくもない。ただひたすら自由だ。なのに、目の前の少年の不安が凄まじい勢いで胸に迫ってくる。抗うことなど到底できないぐらいに。かわいそうだとかいう単純なことでは、ない。自分はこの目を知っている。これは、傷ついた者の目。裏切りによって大きな痛手を負い、絶望的な悲しみに晒される者の目だ。自分も、そうだった。このぐらいの年齢の頃。自分も同じ目をしていた。その記憶が無視することを許さないのだ。
答えは三度目の溜息と共に下された。
「あなたが自分でその女の人と話をつけるというなら、味方してもいいわ」
「……」
修平は野村さんの長い沈黙を見守っていたが、その心中はまるで分らなかった。が、しぶしぶながらも味方するという言葉を「諾」と受取ると、立ちあがってリビングに置かれた棚や引き出しをがたがたと探り始めた。
「なにしてるの」
野村さんが怪訝そうに尋ねる。
修平はそれには答えなかった。あの日、母親が父親と口論し、ぶちまけていた紙束。浮気調査の結果を記載したレポートと、写真と。
修平の手は次第に乱暴に引き出しの中をまさぐり、ぶちまけ、母親が昏倒して寝ているというのにも関わらずがたがたと音を立てた。怒りが修平を駆り立てていた。
修平の視界は涙で滲んでいた。こんなことをしなければいけない自分が悲しく、情けなかった。
眉をひそめて修平を見守っていた野村さんは、見かねた様子で杖を振った。
台所の流しの下の扉がぱかっとひとりでに開くと、茶封筒がすっと飛んで来て、そのまま修平の手にぱさりと落ちた。修平は自分の手が震えているのがはっきりと分かった。
修平は興信所が調査した内容と証拠を収めた写真を幾度も丹年に眺め、相手の女のうちの近辺も下調べをしその日に臨むことにした。決行は終業式の日と決めた。
あの夜から修平は家を空けないようにしていた。母親は酔っ払って風呂で眠りこんだことは覚えていないようだった。それは野村さんが記憶を消したのではなく、単純に、気がつくとベッドで服を着て寝ていたことからそれを夢だったと思っているらしかった。
修平は母親を監視するつもりで毎日家で過ごし、何事もない顔をして母親と一緒に食事をし、父親に代わってリビングでテレビを眺めて過ごした。自分が父親の代わりになれるとは思わないが、不在にして母親になにかあったらと思うとそこを離れる気持ちになれなかった。
別段、特別な会話を交わすわけではない。時々テレビを見ながら一緒に笑ったりするだけだったが、それ自体が実はずいぶんと久し振りなことでもあった。修平は自室にこもって面倒なことから目を逸らしていたことを初めて恥じた。少なくとも修平が家にいる間、母親は酒を飲む様子はなかった。
いつもなら呑気な試験休みのはずが、修平は家にいて誰からの誘いも受けずにじっとしていた。野村さんだけが夜中に頃合いを見計らって青い紙でできた鳥を飛ばせて、ぴたりと閉じたベランダの窓ガラスをかさかさと叩いた。
修平が窓を開けると青い鳥は滑らかな動きで入ってきて、部屋中を飛び回った挙句に手のひらに下り「お茶でも飲まない?」というメッセージを送ってきた。
青い鳥は手の中で瞬時にただの紙切れに変わる。修平は幸せの青い鳥が実は近くにいたのだというような話を思い出し、何やら笑いだしたくなった。今はもうこの家のどこに幸せがあるのか分からなくて。
誘いに応じて家をそっと抜け出し、隣りのうちのドアノブに手をかける。するとノブを回してもいないのに勝手にドアが開く。紅茶の匂い。時々、薬草や薬品を使う匂い。紙や藁を燃やす焦げた匂い。不思議な匂いが流れだして修平を包む。修平は、自分と野村さんが秘密を共有しているという点から野村さんに対して仲間意識のようなものを感じていた。
野村さんは夜な夜な本人が言うところの「魔法と化学の融合」を目指し、「魔法の実用化」を考え、実験や研究を繰り広げていた。
傍で見ていると、二酸化炭素を発生させるような装置を組み立てたりするのが本当にただの化学の実験のようだったが、野村さんが杖を使って本棚から分厚い書籍を浮遊させつつページを捲ったりする姿から、やはりここには確かに魔法が存在するのだと改めて信じられた。
終業式の前夜、即ち、行動を起こすと決めた日の前にも修平は野村さんの部屋で実験の様子を見守りつつ、紅茶を飲んだ。
「明日、終業式終わったら一度帰ってきて着替えるから、スターバックスで待ち合わせでいいですか」
修平が念を押すように言うと、野村さんは試験管を振る手を休めずちらりと修平を見やった。
「本気なのね」
「本気ですよ。だって、言ったでしょう」
「……相手の人、どんな人だって?」
野村さんは観念したかのように溜息を吐いた。試験管からうっすらと色づいた煙が立ち上り始めていた。
「仕事の関係で知り合ったかなんかみたいですね。年は三十過ぎだったかな。写真見た感じだと結構美人。うちの父親が相手の家に通ったりしてるみたいで、証拠写真もありました」
「……ふうん」
「たぶん、今もそこにいると思う」
「……」
若い女の人がなぜ父親みたいなおっさんと。そう考えると修平にはまるで理解できなかった。でも、事実、彼らは男女の関係にあるのだ。それによって修平の家は壊れてしまったのだ。やはり別れてもらうより他にない。修平は固くそう思った。
でも。父親の心が離れてしまっているのもまた事実なのだ。それが女の人と別れたとして、また戻ってくるものだろうか。そもそも壊れたものが元に戻るのだろうか。修平の胸の中は不安要素でいっぱいだった。
「言っておくけども」
「はい」
「魔法で人の心を操ることはできないんだからね」
「……それは聞きました」
「私に期待しないでよ」
「……」
「……まあ、約束したから、あなたの味方はするけれども……」
「明日」
「ふん」
「八時に駅前のスターバックスで」
「……ふん」
鼻先で返事をしながら、野村さんは煙のおさまった試験管の中身をテーブルの上に置いた薬包紙にさらさらとあけた。液体だったはずが、出てきたのは岩塩のような白い粒だった。
「なんですかそれ」
「心の薬。傷ついたり、苦しいことがあって落ち込んだりした時に飲むと心が明るくなる。うつ病の人とかが飲むといいかもしれない。中毒性はないし、体に害はない。一定期間服用すると魔法が体内に蓄えられていって、症状そのものが改善され、いずれが薬なしでも大丈夫になる」
「へえ……。何でできてるんですか」
「オレンジの花の水と蜂蜜、金粉、アゲハ蝶の羽。それから、ちょっとした魔法……」
「まずそう……」
修平が顔をしかめると野村さんはちょっと笑った。
薬包紙に魔法の薬を包みながら、野村さんは「明日、八時ね」と言った。修平は無言で頷いた。野村さんが嫌そうなのも、困っているのも十分承知していた。
翌日、修平は終業式に出て、すんなりとうちへ帰ると母親には「友達と遊びに行く」と言って家を出た。「でも、家で飯食うから、俺の分置いといて」とも言い置いて。
「だって食べてくるんでしょ?」
と母親は言ったが、修平は、
「だって絶対足りないし。カラオケの飯ってまずいし、腹いっぱいにならないじゃん」
と答えた。母親に考え込む時間を与えたくなかった。酒を飲む暇も。
折しも街はクリスマスイブの熱気というか、華やかさに包まれていたが、修平には侘しいばかりだった。少なくとも修平と母親の二人では到底クリスマスを楽しむような気持ちにはなれなかったし、どうせ父親が不倫相手とクリスマスを過ごすのだと思えば気持ちは落ち込むばかりだった。
修平は街に出てあてもなくぶらつきながら、約束まで時間を潰していた。灰色の雲が分厚く垂れこめ、日没は早く、ろくに太陽の光など見ないうちに夜が訪れようとしていた。
日が暮れると寒さは増して、風は身を切るように冷たかった。修平はコートのポケットにねじ込んできた興信所の調査内容が書かれた紙をお守りのように感じ、そっとポケットを撫でた。頭の中ではずっと相手の女の人に言う言葉をシュミレーションしていた。
然して、野村さんは時間どおりにいつものお団子頭と黒いタートルネックのセーターと黒いパンツ、黒いコート姿でスターバックスに現れた。
修平は紙コップを両手のひらで包むようにして、じっと俯き考えていた。自分のしようとしていることは卑怯なことなのだろう、と。
女性に不倫の事実を突き付けて別れるように要求するというのは乱暴だし、無神経で自分勝手だ。本当ならこんなこと父親の方に言うべきだ。とはいえ、父親が話に応じるとは思えなかった。
修平は「逃げ」を打っている父親に腹が立ち、それと同時に情けなかった。逃げて何になるというのだ。何からも逃げることなどできはしないというのに。今となっては修平はそのことを痛烈に感じていた。
野村さんは真剣さの中に悲壮感を漂わせている修平に近づくと、テーブルをこつこつと叩いた。修平ははっとして顔をあげた。
「待った?」
「いえ、そんなでも」
「……どうするの」
野村さんは立ったまま修平を見下ろしていた。
修平は緊張のあまり息苦しさを覚え、立ち上がると「行きましょう」と答えてコートに袖を通した。紙コップのコーヒーは半分ほど残っていて、すっかり冷えていた。
言葉少なにそそくさと動き出す修平に、野村さんは同情の視線を投げていた。先に立ってスターバックスの明るいお喋りの中をすり抜け、出口を目指す修平の姿には涙を誘うものがあった。
「どこ行くの」
野村さんは修平の背中に尋ねた。
「栄町の方に女の人の会社があるらしいんで、待ち伏せします」
「ストーカーみたいね」
「駅で待ち伏せってのも考えたけど、どこの駅使うか分かんないし、駅は人が多すぎるから」
「はあ」
「この報告書によるとほぼ毎日会社を出るのは八時半~九時ってなってるんで」
「そう……」
野村さんは修平の後について靴音を響かせながら歩きつつ、鼻先で返事をした。
「恋愛は当事者の問題だというのは分かってます」
修平はおもむろに、呟いた。
野村さんははっとしたように修平を見上げた。修平の目はまっすぐ前を見据え、北風になぶられる頬は赤く染まっていた。野村さんはこの寒さだと今夜は雪が降るかもしれないなと思った。
「けど、誰かを巻きこんでしまったらもう当事者だけの問題とは言えないと思うんです」
「……」
「この場合の誰かっていうのは、母や、僕のことなんですけども……」
修平はちらりと野村さんの顔色を窺った。
「……言い訳してるの?」
「……」
「自分の行動を正当化しようとする言い訳」
「……」
「いいのよ。何も言わなくても。私はあなたが正しいとか間違ってるとか、そんなこと分からないもの。そもそも答えがあるとも思わないし」
クリスマスの飾りつけが随所に見られる街を歩きながら、修平は自分がクリスマスから一番遠い存在の人といるのだという事実を思い出し、微かに笑った。修平の忍び笑いが白い息となって吐き出されると、野村さんは「なに笑ってんの」と不思議そうな顔をした。
父親の不倫相手の会社というのは建築事務所で、雑居ビルの中にあり、周辺は同じような古びた建物と小さな雑貨屋やカフェがあるだけで至って静かだった。
「あのビルです」
修平はちょうど道の角まで来ると立ち止って指差した。野村さんは無言で修平に並んだ。
傍から見ると不審な二人組だった。野村さんは黒ずくめのおかげで夜に同化してしまっているし、修平は緊張で何度も溜息を白く吐き出す。
待っていたのはそう長い時間ではなかった。が、修平の指先は凍えていたし、野村さんも寒そうに首を縮めていた。
「あ、来た」
修平がぽろっと漏らすと、野村さんは素早く視線の先を確認した。
夜目にも分かる綺麗な人だった。すらりとしていて、長い髪が風に吹かれるのが妙に色っぽくて。母親とはまるで違うタイプだった。
「行こう」
野村さんは修平の背を軽く叩いた。それに押し出されるように、修平は小走りに駆け出した。
「あの、すみません。ちょっといいですか」
修平が声をかけるとその人はぎくりとしたように立ち止り、警戒心いっぱいの顔で振り向いた。が、自分を追ってきた少年の背後に妙齢の女性の姿を認めると、恐怖は消え、代わりにますます不審そうな顔になった。
「なにか」
野村さんは一歩離れて、路上に立ち止まる二人を見守っていた。
もし魔法を使うことがあるとしたら。一体それはどんな魔法で、どのようにしてこんなケースを解決すればいいのだろう。修平が野村さんに期待しているようだったが、正直なところこんな時に使う魔法が一体なにかは思いつかなかった。
記憶を消すといっても彼女の記憶を消したところで、それだけでは意味がない。相手は覚えているだろうし。両方の記憶を消せばいいのかもしれないけれど、恋愛なんて込み入ったものの記憶を完全に除去するのは大変な労力と、特別な薬を要する。恋忘れ薬とか。あれは結構高いものだったはずだ。いや、そもそもあれは失恋の痛みを忘れるものだったか。それでは相手を嫌いになる魔法の薬。あれもなかなか高いものだったと思うけれど。でもこの手のものはいずれ効力を失う。逆に新しい人を好きになるというのはどうだろう? 惚れ薬だ。……新しい相手をどこから調達してくればいいのだろう……。
野村さんは自分の魔法というものはこんな場合は役に立たないなと苦く笑った。こう見えて学生時代も優秀で、学校は首席で卒業したかなりの魔法の使い手だったのだけれど。
野村さんは人を傷つけたり、自分の身勝手な利益の為に魔法を使うことはしたくなかった。魔法を非人道的な、ご都合主義な力にしたくないのだ。
古来、魔法というものは現実的に上手くいかないことを無理な力でどうにかしようとする為に使われることが多かった。人の心を操ったり、不当な利益を得たり、虚栄心や自己顕示欲を満たしり。そういうのは悪しき魔法だ。貧しいものや哀れなものを助ける、所謂「弱きを助け、強きをくじく」ような正義の力を揮ってこその魔法ではないか。
そういう意味では自分がこの少年に加担するのは正義なのか否か……。野村さんは自信が持てず、目の前でこれから起ころうとしている事態に心が乱されていた。
女の人は修平の顔を見ながら、はっと気がついたようだった。
「もしかして、あなた」
修平は強張った表情で言った。
「米澤修平です」
「……」
「父のことでお話があるんですが」
修平の声は震えていた。野村さんはその背後で拳を握り、心の中で呟いていた。がんばれ、と。
女の人は唖然として修平の次の言葉を待っていた。
「単刀直入に言いますが」
「……」
「父と付き合ってるんですよね」
「……」
「それ、やめてもらえませんか」
言った。言えた。修平はさっきからの胸のつかえが少し楽になるような気がした。深く息を吸い込むと空気の冷たさが咽喉や気管の形状を思い知らせるように通り過ぎて行く。
「あなたと父のことはもう知ってるんです。あの、プロが調べたから」
何か言おうとして口を開きかけた女の人を封じるように、修平はポケットの調査報告を取り出して示した。
その一連の動きに女の人はちょっと表情を歪めて、言った。
「まるで逮捕状ね」
「……」
「それは……お母さんが調べさせたの?」
「……」
その質問に修平は答えなかった。修平はもう一度繰り返した。
「父と別れて欲しいんです」
すると女の人はしばし沈黙し、それから修平の目をまっすぐに見つめてはっきりとした口調で答えた。
「別れることはできないわ。少なくとも、私には別れる意思はない。あなたのお父さんが、私と別れておうちに帰るというのなら止めないけれど」
「……僕が父に直接言うべきだというのは分かってます……」
「あなたを責めてるわけじゃないの。あなたに責任はないわ。ごめんなさいね。あなたがこんなことを言いにこなければいけないなんて……。そういう原因を作っているのは申し訳ないと思う」
「……」
「でもね」
修平は思わずごくりと唾を飲み込む。さすが大人の女性だけあって、修平はその気迫のようなものに押されて返す言葉がなかった。
「あなたのお父さんがおうちに帰ったとしても、また元通りってわけにはいかないと思うわ」
「……それは……」
「お母さんは……お父さんといても幸せじゃないのよ、きっと」
「なんで分かるんですか」
修平は咄嗟に相手を非難するような口調になった。背後の野村さんが止めようか、止めまいか迷うように半歩踏み出すのが分かった。
女の人は大きく溜息をついた。
「お母さんはうつ病とアルコール依存の傾向があるようだけど……。それは私のせいではなくて、もっと以前からそういうことがあったらしいじゃない……。別に自分たちを正当化するわけじゃないけど、そういう人と付き合い続けて行くっていうのも大変なことだと思わない?」
「それ、父が僕らを捨てる理由になるんですか」
「捨てるなんて、そんな」
「結果的にはそうなってる」
「……まあ、それは……」
「母が浮気されたり、捨てられたりするのは、母自身のせいだってこと? 親父があなたにそう言ってるんですか?」
「……」
修平は自分の言葉に自分で興奮し、怒り、気がつくと拳を握りしめる格好で女の人に詰め寄っていた。そして、自分でも本当に意外なほど強い言葉で、
「ふざけんなよ……」
と吐き捨てた。
女の人はびくりと肩を揺らした。修平はもう自分を止められなくなっていた。言葉が、憤りが、後から後から溢れてきた。
「言っとくけど、母さんが酒飲むようになったのも、家にひきこもるようになったのも、親父が浮気するようになってからだから。俺がガキだと思って、何も知らないと思ってんだろうけど、本当は全部知ってんだからな。それでも母さんは毎日家事して、飯作って、親父に文句ひとつ言わずにやってきたのによくそんなこと言えるな。母さんが心の病気だから親父が幸せじゃないなら、その言葉そっくりそのまま返すよ。母さんが幸せじゃないのは親父のせいだろ」
激昂する修平と恐怖に顔を引きつらせる女の人を見比べて、野村さんはまるでボクシングのレフェリーのように二人の間に割って入り、修平の両肩に手を置いて軽く押し戻した。
「落ち着きなさい。暴力はダメよ。絶対に」
「分ってますよ」
修平は荒っぽく答えると、肩に置かれた手を払いのけた。
修平が激した分だけ、女の人は怯え、顔からは血の気が引いていたが、口元は歪んでいた。それは反撃しようと試みる醜い微笑で、野村さんはひどく困惑した。一体この話し合いのどこに落とし所があるのかまるで見当がつかなかった。揉めるだけじゃないか。こんなことなら魔法を使って初めからやめさせるべきだった。
修平が尚も何か言い募ろうとするより先に、女の人が口を開いた。
「離婚して、私と一緒になるって約束してるのよ」
「やめてください」
野村さんは思わず口を挟んだ。
が、女の人の勢いは止まらなくなっていて、泣き笑いのような顔で、震える声で、
「息子の養育費は出すつもりだけど、一緒に暮らすことは考えてないって言ってたわ。だって、あなた、お父さんのこと嫌いで口もきかないんでしょう。お父さんもね、あなたのこと嫌いみたいよ」
野村さんは突差に修平を省みた。修平の目が真っ赤になっていた。
なんて残酷なことを言うんだろう。これも恋のせいなのか。だとしたら、なんて愚かな。恋が人を愚かにするものなのは分かってはいたけれども。
野村さんは傍観者だったはずが、女の目を見据えると静かに語りかけた。
「相手は子供ですよ」
「子供扱いすんなよ」
背後で修平が口を挟もうとしたが、野村さんは厳しい目で修平を睨みつけてそれを制すと、今一度静かな調子で言った。
「こんな子供傷つけてまで自分たちの恋愛を、エゴを押しとおしたいんですか」
「……」
「あなたとこの子の父親がどんな関係で、どんな約束をしているのか知りませんけども、そんな風に人を傷つけて、そうして幸せになれるの? その心根を醜いとは思わないの?」
女の人は嗚咽を堪えているようで、唇が小刻みに震えていた。野村さんはその様子を見つめながら、言葉を継いだ。
「自分自身をもう一度振り返ってみて。自分のしていることがいかに醜く、情けないことか、あなたにだって分かっているはずよ」
次の瞬間だった。女の人の右手が大きく振りかぶったかと思うと、冷たい夜の空気を切り裂くような甲高い音が野村さんの頬に炸裂した。
修平が止める隙もなかった。野村さんの頬は寒さとも相まってみるみる赤く染まっていく。しかし野村さんはいつもの無表情で自分の頬を平手打ちした相手を見つめていた。
「なにすんだよ!」
修平が噛みつくように怒鳴るのを野村さんは無言で手を伸ばして制した。
野村さんは空を仰いで大きく息を吐き出した。冬の星座が見える。静かな煌きが美しい。吐きだした白い息はもやもやと空に消えて行った。
野村さんはコートの袖口から杖をするっと取り出すと、素早く口の中で何か唱えて、杖を女の人に向けて振り切った。
修平は野村さんがひどく傷ついていることを瞬時に察知した。叩かれたことの怒りよりも、悲しみが勝っているようで、無表情ではあるけれどもその心の奥底で野村さんが感じているであろう人間の愛憎劇に思いを馳せた。
修平はいたたまれなくなり、女の人の前に膝をつくアスファルトに土下座して懇願した。
「別れてください。お願いします。あなた、そんなに若くてきれいなのに、あんなおっさん相手にしなくてもいいでしょう? 頼むから別れてください。母さんの酒のことなら、俺がちゃんと、ちゃんと治すから。もう飲ませないし、引きこもりもどうにかするから。もともとそんな人じゃないんだから、絶対治るし。そうしたら、俺らまた家族でやってけるから。お願いします。それに……俺は父さんを嫌いだったこといっぺんもない……」
不覚にも、訴えながら修平の目から涙がぽたぽた零れて路上に水玉を作っていた。それを見ている野村さんも修平の姿に涙が出そうになっていた。
野村さんは思った。こんなことさせてはいけない。子供にこんな事をさせてはいけない。見ると相手の女の人も泣いていた。野村さんは手の中の杖をもう一度強く握り直した。なぜこんなにも皆が傷つかなくてはいけないのだろう。
修平は野村さんがどんな魔法を使ったのか皆目見当もつかなかった。さっきの呪文が何を意味するのかも。ただ額を地面に擦りつけるようにして、口の中で同じ言葉を繰り返していた。「別れてください」と。
変化があったのは、その後だった。
野村さんが修平の肩に手を置き、立ちあがるように促した時、女の人は鞄からごそごそとスマートフォンを取り出し、電話をかけ始めた。
修平は何が始まるのか激しい不安を感じたが、それを察した野村さんがそっと修平の手を握った。野村さんの手はひどく冷たかった。
二人が固唾を飲んで見守る中、女の人はもはやすっかり戦意喪失したうつろな表情で、電話の相手が応答するのを待っていた。
幾度かのコール音。相手が出る。そして、女の人は静かな口調で話し始めた。
電話の相手は修平の父親であり、二人の目の前で女の人が語ったのは別れの言葉だった。
彼女の目には何も映っていないかのようだった。修平たちの姿さえも。別れは淡々としており、尚且つ有無をも言わせないものがった。
父親がなんと答えているのかは、分からなかった。ただ、彼女は修平と野村さんのことには一言も触れず、幕切れは一方的なように見えた。
ずっと考えてたの。もううちへ帰って。こんなことはやっぱりするべきじゃない。もう潮時なのよ。別れた方がいい。それがお互いの為だと思う。あなただって本当は分かっているんでしょう。こんなこと許されないって。
野村さんの手が、修平からするりと離れた。
「……魔法?」
「……」
修平の問いに野村さんは答えなかった。
電話をきった女の人は大きなため息をついた。それは虚しいばかりのものではなく、どこか安堵の色を見せており、彼女もまた不倫な恋に疲れていたのかもしれなかった。思えば、修平たちの目に彼女が幸福そうには見えなかったのも事実だった。
「あの」
「……」
「迷惑かけてすみませんでした……」
修平は親たちの代わりのような気持ちで頭を下げた。が、彼女はもう何も言わず、修平たちを省みることなく踵を返すと、二人を残してすたすたと駅へ向かう道を歩き去って行った。
修平は自分の行いを正しいとは決して思っていなかった。これがいかに残酷で卑怯なことだったかはよく分かっていたし、相手を傷つけたことも分かっていた。けれど、他に手段がなかった。あのままでは母親は死ぬだろうことは分かっていた。それを阻止する為。ただそれだけ。修平は自分が呪わしかった。でも、後悔はしていなかった。
彼女の姿がすっかり見えなくなると、野村さんは言った。
「これで終わりね」
「……え?」
野村さんの頬には平手打ちの痕がついており、痛々しかった。修平はそうっと手を伸ばして、野村さんの頬に触れた。
「痛いですか」
「別に平気よ」
「……」
野村さんは鼻先で軽く笑うと、
「記憶、消すわ」
と宣言をした。
修平は返す言葉がなく、野村さんの目を見つめ返すだけだった。
うちへ帰ると修平は母親が用意しておいてくれた夕食を食べ、食べた後の皿を自分で洗った。
それからテレビを眺めている母親の背中に「ごちそうさま。いつもありがとう」と言うと、母親は驚いた顔で振り返ったが、なんだか照れくさくて、そそくさと自室へ引き上げた。
明日から冬休みだ。修平は野村さんの言葉が気になって、まんじりともせずベッドに寝転んだまま天井を眺めていた。
もともと記憶を消すことになっていたのは分かっている。でも、この期に及んで、本当に? 誰にも喋ったりしないし、秘密は絶対に守ると言っても駄目なのだろうか。
修平は悶々としていた。記憶を消されると、野村さんのことも忘れてしまうのだろうか。公園の雑木林に飛びこんで駆け抜けて行く姿とか、澤沢文具で働く無愛想な顔とか、いい匂いの紅茶をいれてくれることとか。そういうものも全部?
思えばあんなにむっつりとした顔で、ぴんと伸びた背筋で、おくれ毛ひとつなくまとめあげたお団子頭で、凛とした佇まいの女の人を修平は他に知らない。それらは魔法とは関係のないものだ。野村さんの奇妙な真面目さと頑なさと、強さ。修平はそれを忘れてしまうことはできないと思った。
でも、もし、魔法の存在がなければ、修平は野村さんと親しくなっただろうか。たぶん、ならなかっただろう。二人を近づけたものが魔法に他ならないのだとしたら。やはりすべてを忘れてしまわなければいけないのだろう。
野村さんが言っていた、修平に備わっているという魔を察知する能力。百年に一人の逸材。ものすごい才能。魔法使いを嗅ぎつける力。だとすれば、だからこそ、野村さんを忘れなければいけないのだ。でないと修平はまた野村さんを見出すだろう。
修平はそこまで考えて、はっとした。野村さんは隣りの部屋から姿を消そうとしている……?
べッドからがばっと身を起こし部屋を飛び出ると、驚いたことにちょうど玄関から父親が入ってくるところだった。
父親は修平の姿を見るとぎょっとして硬直し、鞄を手にしたまま立ちつくしていた。修平は父親が困惑し、また、言葉を探しているのがよく分かった。
修平は不意に胸に突き上げてくる熱い塊で、呼吸が苦しくなった。鼻の奥がつんと痛む。
結局自分はなにもできなかったのだ。野村さんの魔法に助けられて、事態を収束したに過ぎない。なのに野村さんを忘れなくてはいけないなんて。その恩義を忘れなくてはいけないなんて。修平は自分の無力さが情けなく、悲しかった。
父親がいない間の母親の様子をぶちまけて、父親を責め、罵れたらどんなによかっただろう。でも、そんなことになんの意味があるだろうか。それよりも修平は父親にすがりたいようで、泣きたい気持ちだった。馬鹿で、無力な男どもだったのだ。自分たちは。
「……おかえり」
修平はかろうじて父親に向って言葉を絞り出した。
父親は一瞬虚を衝かれたような顔になったが、すぐに「ただいま」と返した。
「……お母さんは?」
「寝てる」
「そうか……」
「……」
「修平」
父親は廊下を進んできて、修平の傍を通りすぎようとして一度立ち止まった。いつの間にか修平の身長は父親を追い越していた。
「お父さんが悪かった」
「……」
「もう一度、チャンスをくれ」
「……」
チャンス。それは誰の上にも平等なものだった。不倫していた父親にも、アル中と化した母親にも、すべてを無視し続けた修平にも。
父親の謝罪は修平にとって意外なものだったが、その、実直に向き合おうとしている姿勢には胸が打たれた。家族に背中を向けていたはずの父親が、今、修平と相対している。
修平は無言で頷いた。やり直せる。自分達は、やり直せる。そのチャンスを持っている。
父親はまっすぐに寝室へ入って行く。修平はその背中を見届けると、玄関を出て隣家のドアノブに手をかけた。
このドアは、いつでも開く。そういう魔法。修平はためらいなくドアノブをまわした。
ドアはなんの抵抗もなくすんなりと開いた。それはまるで修平を待ち受けていたかのように。
「野村さん」
声をかけつつ廊下をリビングへと進むと、野村さんはまた化学の実験のようにアルコールランプを点じてフラスコで何か青い液体をぶくぶくと沸騰させているところだった。
野村さんは修平を見ると「どうしたの」と眉間に皺を寄せた。疎んじているのではなく、心配で、怪訝な顔になるのだということはもう修平には分かっていた。
「……それ、なんですか」
「これは砂糖を煮詰めて青い鳥の羽から作った薬を加えて、猫のひげと白胡椒の粒を入れる……なんていうか、こう、テンションがあがる薬? 落ち込んでる時にも幸せな気持ちになれるような」
「ドラッグってこと?」
「中毒性はない」
野村さんは笑いながらフラスコを火から下した。液体から白い湯気があがっていたが匂いはしなかった。
「親父、帰ってきました」
修平が告げると野村さんは顔をあげた。
「……そう……」
言葉に安堵が滲み、吐きだす息には声にせずとも「よかったわね」というのが感じられ、修平は急に野村さんを抱きしめたいような衝動に駆られた。そんなことできるはずもないのに。
野村さんは薬缶を火にかけ、お茶を入れ始めた。
出て行くつもりなんですか。修平は咽喉元まででかかって、でも、言葉にする勇気がなくて、黙って椅子に腰をおろした。
机の上に積み上げた本も、束ねた紙もいつもと同じように乱雑で、それでいて居心地がよかった。
しばらく黙って野村さんの姿を目で追っていると、ふと足元に積み上げた本のページに挟まれた一枚の紙片が、わずかにはみだしながらぱさぱさと動いているのが目に入った。
これは。修平はその紙片が風もないのに震えるような動きをするのに見覚えがあった。これは、あの、紙きれの鳥だ。いや、鳥の形を借りた手紙。
修平はそっと手を伸ばし紙片の端をつまんで、するりと本の間から抜き出した。
自由を得た紙きれの鳥は修平の指から離れ、ぱさぱさと天井のあたりを旋回し始めた。
鳥の姿に目を止めた野村さんは微かに眉間に皺を寄せた。手紙を受け取りたくないのだ。しかし鳥は本の間に押さえこまれても死ぬことなく、しぶとく飛び回り野村さんの手に落ちようと幾度も急降下を繰り返す。野村さんは右手を振ってそれをはらいのけながらお茶をいれた。
「どうぞ」
ガラスのティーカップにいい匂いのする紅茶が注がれる。
「あの、手紙……。いいんですか」
「……」
「友達からの手紙でしょ」
「……友達、ね……」
野村さんは呟くと、自分のカップに角砂糖を落としこんだ。
「彼は、幼馴染でずっと仲が良かったの。魔法界では名家と呼ばれる家の子で、才能があって、優しかった。人気者だったわ。学校でもすごくモテた。彼の周りにはいつも人がいっぱい。私みたいな変人とは大違い」
「変人だったんですか」
「そうよ。異端者よ。成績は悪くなかったけど、でも、やっぱり変わり者と思われてた。そりゃそうよね。その頃から私は魔法を使うことや、その使い方に疑問を感じてたから」
「……」
修平には野村さんの学生の頃というのがいまいち想像できなかった。そもそもそれがどのぐらい前のことなのかも。考えてみたら野村さんが何歳なのかも知らないし、尋ねることはなんとなく憚られた。
「そういう変人相手でも、彼は優しかったし、私たち仲良かった。それがいけなかったのよ」
「なんで」
「子供って意地悪で残酷なものよ。彼が……私を好きだと言った時もね。分かるでしょう。そんな時まわりがどんな風にするか。からかったり、ひやかしたりね」
「はあ、まあ……」
「……それで、ある時ね、周りの連中が親切のつもりなのか、それとも純粋な意地悪なのか知らないけど……。彼をけしかけたのよ。……告白の魔法を使うようにって」
「告白」
「魔法の力で私の本当の気持ちを喋らせようとしたの」
「そ、それで……」
修平は思わず固唾を飲んだ。野村さんの思い出話しがあまりにも予想外で。野村さんはカップに口をつけ、ほっと一息ついた。
「一体どういうつもりでそんなことしたのか知らないけども。魔法で気持ちを確かめようとするなんてね。そんな魔法にかかる私じゃないわ」
「でしょうね……」
「それ以来、彼とは会ってない」
「えっ」
野村さんは静かな調子で、しかしきっぱりと言い放った。いつも通りの背筋の伸びた野村さんがそこにいた。しかし修平はその一見して頑なな姿勢からでも感じることができた。野村さんがひどく傷ついていることが。
好きだったのだろう。本当は。本当に。野村さんが魔法の研究とかなんとか色んな理由を述べて、自分がいた世界から離れたと話していたが、それが本当の理由ではない。修平の脳裏に、同じことを言っていた時の野村さんの顔がありありと浮かぶ。人の心を操るのは駄目だと言った顔が。
「でも、その人は野村さんを好きだったんでしょう?」
「……」
「今も」
「……さあ、知らないわ」
修平は紙きれの鳥が野村さんのお団子に止まるのを見ながら、好きに決まっているだろうと思った。だからこうして手紙や花を送り続けているのだ。そんなこと、考えなくても分かることだろう。なのに「知らないわ」なんてそっけなく突き放すような言葉。この人は、たぶん、きっと、ものすごく不器用な人なのだ。真面目な分だけ上手く立ち回ったりできないから、だからこんな所で一人で魔法の研究なんてしているんだ。そう、たった一人きりで。
野村さんは頭に止まった鳥を追い払った。修平が飛び立つ紙きれ鳥に手を差し出すと、鳥は修平の手に止まった。
「絶対許さないって思ってるんですか。言い訳も許さないって」
「……」
「永遠に」
「……」
「野村さん、俺ね、父親のこと本当にムカついてんですよ。まあ、母親のことも。あの女の人のことも。……自分にも。けどここからずっと死ぬまで怒りっぱなしっていうのもちょっと」
「……」
「親父が帰ってきて、言ったんです。チャンスくれって。人の心を動かすのは人だけだって野村さん言いましたよね。俺、もう一度やり直してもいいかと思ったんです。そういうチャンスがあってもいいかなって。野村さんはそういう気持ちになったりしないんですか」
修平は手に止まった鳥を野村さんへ差し出した。鳥は、本当に生きているかのように首を傾げ、羽を動かして野村さんに何か訴えているようだった。
野村さんは何か考え込むようにそっと睫毛を伏せると、自分の手に鳥を止まらせて、ふっと息を吹きかけた。鳥は、白い封筒に姿を変えた。
「なんて書いてあるか当てましょうか」
「ええ?」
「ごめん、悪かった。許してくれ。今でも君を好きだ。って書いてないですか」
言ってから修平はにやりと笑った。野村さんは呆気にとられたようだったが、すぐに小さく笑った。
「人を許すってことも、人にしかできないんじゃないですか。それから、やり直すってことも。それは魔法の力じゃない。そういうことでしょ?」
「……」
野村さんは封筒の中から便せんを取り出し、静かに文字を追った。
封筒に浮かぶERのイニシャル同様に便せんにも同じ文字が刷り込まれていた。野村さんの目が潤んでいるように見えた。
手紙を読み終えると野村さんは便せんをテーブルに置き、杖を手にとった。
「私たち、近づきすぎてしまったわね」
「……」
確かに修平は秘密に近づいてしまった。魔法という秘蹟に。でもそれによって救われたのだ。野村さんが言うところの魔法の世界の感覚からすると近づくのはいけないことだったのかもしれないが、修平は野村さんに感謝を越えた好意を感じていた。修平はこの瞬間が訪れることは分かっていたものの、胸が締め付けられるようだった。
どうしても忘れなければいけないのか。野村さんのことは覚えておくことができるのか。これからも話ぐらいはできるのか。尋ねたいことが咽喉元にせりあがってくる。けれど、修平はそのどれひとつとして聞くことができないのを分かっていた。言ったところでどうにもならないのだということが。
「私のこと、魔法のこと、見たもの、聞いたものすべて。忘れることになる」
修平は頷いた。
「心配しなくても痛みも何も感じない。今まで通りの生活を送るだけよ」
「……いっこ聞いてもいいですか」
「なに」
「あの女の人にどんな魔法かけたんですか。あれは、別れさせる魔法? 心変りの魔法? あの魔法は効果が切れるってことはないんですか」
「……暴力をふるわない魔法よ」
「えっ」
「別れさせるとか心変わりなんて魔法でどうこうできないわよ」
「でも……」
修平には野村さんの言葉が俄かには信じられなかった。そんな都合よく相手が別れを切り出すなんて。あんな風に態度を変えるなんて魔法でなければどうして起こりうるというのだろう。
「叩かれたら痛いじゃないの。二発目を許すことはできないわ。暴力を押しとどめる魔法よ」
「でもあの電話。あれは。別れようって話しはなんで。魔法なんでしょ?」
「あれは魔法じゃない」
野村さんは驚きのあまり目を見張る修平に、今まで見たことのないような優しい微笑を向け、囁くように、
「あなたの気持ちが伝わったんでしょう。あなたの言葉。あなたの力。だからあの人も目が覚めたんじゃないの。魔法じゃないわ。言ったはずよ。魔法で人の心を操ることはできないし、できたとしてもしないって。人の心を動かすのは、人だけ」
「……」
「この先、どんな未来が待ってるかそれは分からないけども。でも、どんな未来も、どんな成功も、それを叶えるのは魔法じゃない。自分の力だけよ。自分次第でなんだってできる。自分はなにもできないなんて思わないで。だって、できたじゃない。家族の為に、できたじゃないの。あんな必死に、土下座までして。あれこそ魔法以上の力よ」
話しながらも野村さんの手にした杖が修平のこめかみに当てられ、するすると白い靄を引き出していく。痛みは感じない。ただ杖の先がほんのりと温かく、視界がぼやけていくようだった。
「野村さん」
修平は、優しく訓戒を述べる野村さんを薄れゆく意識の中で懸命に見つめた。野村さんの最後の言葉も忘れてしまうのだと思うと、咄嗟に野村さんに手を差し伸べた。
「あなたは魔法を感じやすい体質だから。もしかしたら魔法が解けてしまう日がくるかもしれない。いつか思い出すかもしれない」
「……」
修平の手が野村さんの黒いセーターの端をつかむ。
「その時は、また、会いましょう」
野村さんの両手が修平の頬を挟みこんだ。手のひらは氷のように冷たかった。
ありがとう。修平はかすれる声で、きれぎれに呟いた。野村さんは頷くと、修平の額にそっと口づけた。
それを最後にカーテンを引くように野村さんが見えなくなった。さよならは言わなかった。修平の記憶はそこで完全に途絶えた。
クリスマスの朝だった。
自分の部屋のぬくぬくとした空気が心地よく、修平は始まったばかりの冬休みの怠惰な気分を早速楽しんでいた。
昼近くになってようやくリビングへ行くと、母親は今から夕飯用のチキンを下拵えしていて、ぐちゃぐちゃに寝グセのついた息子の頭を見て呆れたように「あんた、暇なのねえ」と言った。
母親は、父親が今日はケーキを買ってくる担当になっていると朗らかに言う。修平は今晩は久し振りに家族三人が揃っての食事なんだなと思った。
テーブルには一輪の白いバラが活けられていた。
その年の冬休み、修平はなぜか冬の植物だの野鳥だのといったものが気になり、公園を散策してみたり、植物図鑑を買って眺めるようになっていた。理由は自分でも分からなかった。
母親は昼酒を飲むのはやめ、父親は毎日早く帰宅するようになった。そのすべての事柄に理由があるのか、ないのか。修平には分らなかった。
そもそも自分達家族はこんなにも平和で、穏やかな暮らしをしていただろうか? 以前はもっと荒廃した空気の中にいたような気がするのだけれど。なにがきっかけで父親と母親は変わったのだろう。何度考えてみてもやっぱり修平には分らなかった。
それに、その冬の間ずっと修平が不思議だったのは、テーブルの上の野性的な白バラが、暖房のがんがん効いた室内にあるにも関わらずまるで枯れないことだった。
母親に尋ねても「そう?」と言うだけで、要領を得ず、結局それは「枯れない花なんじゃないの。プリザーブドフワラーかなんかの」という結論に至った。
冬が終わり、春になり、夏がきて、また冬がきても白バラは修平たちを見守るようにテーブルで咲き続けた。
隣家の暗い顔をした妙齢の黒ずくめの女は、ある時旅行鞄を手にしてマンションを出て行く姿を見かけた。修平が会釈をすると、ちょっと驚いた顔で、でも慌てて会釈を返してくれた。むっつりとした不機嫌そうな顔とお団子頭を見たのはそれが最後だった。
了
魔法のコトバ(中編) 三村小稲 @maki-novel
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