移流霧
時雨薫
移流霧
百万人いるのだ。仙台はそりゃあ東北のつまらない地方都市だ。でも田舎じゃない。だから、夏休みに備えて方位磁針を配るなんて伝統はとかく不可解だ。と、青葉区の小学校に通う五年生、相澤理恵は考えた。いま手元にある方位磁針は直径四センチくらいのありふれたもの。仙台市内の全ての小学5年生は、両親も祖父母も、いつからかわからない昔から、夏休みの前に必ずこれを受け取ってきた。
「必ず身につけていてください」
先生が言った。
「これはあなたの身を守るものです」
みんな神妙な顔をして方位磁針を見つめている。理恵だけは、このくだらない伝統の中に身を置かないという態度の表明として、それを弄んでいた。
霧だ! いや、それ自体は珍しいことでもないのだ。海から流れ込んだ霧が朝の街を覆うことなどほんの少しも珍しくない。窓枠越しに潮の匂いがすることだって。八月の始めだ。身体が鈍り始める、深い夏だ。だというのに理恵の胸が弾むのは何故だろうか。理恵自身、確かな説明を与えられるわけではない。けれど一つ一つの細胞がおそろしく期待に震えているという感覚は疑いなく本物だ。
小学校に上がってすぐの頃、こんな霧の日に象を見に行ったことがある。どうやって改札をくぐったのか、そしてゲートをくぐったのか、わかる術などないのだが、理恵は山の上の動物園で象の前のベンチに座っているところを見つけられた。ひどく漠然とした記憶だけがある。霧が晴れた頃になって今は亡い祖母が迎えに来た。なぜ祖母には理恵の場所がわかったのか、誰も知らない。
理恵は普段使いの肩掛けかばんにお菓子と漫画と携帯電話を詰め込んだ。机の上に置かれた方位磁針に気づき、少し逡巡したが、結局それも荷物に入れた。これからするかもしれない悪いことの言い訳になるかもしれないから。こんな小道具で良い子らしさをアピールできるなら、しない手はないのだ。まだ寝ている両親に気づかれないように玄関を出る。エレベーターは使わない。階段を駆け下りる。マンションのエレベーターなんてものは、小学生には不健康すぎるから。霧のせいか、あるいは早朝という時間のせいか、車通りはまばらだ。たまに通る乗用車がヘッドライトの白い筋を踊らせていく。
何をしよう? どんな悪いことを? 勝手に動物園へ遊びに行くだなんて、つまらない。好きに電車に乗ることも許してもらったのだから、そんなことは悪さにならない。いいや、しかし。理恵の心に浮かぶ印象があった。遠い昔の夢に出てきた場所が、今の夢に忽然と現れるような、懐かしさと言っても、意外さ言っても、不十分な気持ち。そうだ。私はこれを追って動物園へ行ったのではなかったか。なぜ忘れていたんだ。忘れるように出来ていたのか?
理恵は走って四方を見回した。見える気がした。聞こえる気がした。赤い光球が南へ落ちるのが見えた。静電気を浴びたみたいに髪が逆立った。声が聞こえた。霧の向こうに顔の無い細い人影が見えた。理恵と同じくらいの歳の少女だ。理恵はそれを追った。理恵は愛宕大橋へ出た。眼下には広瀬川が流れていた。向こう岸は、無かった。
理恵は途方に暮れてしゃがみ込んだ。来た岸も無かった。霧の中に橋と川だけが浮いている。太陽の高さから昼が近いことを知った。霧が晴れないまま気温が上がっていく。呼吸が出来ない蒸し暑さだ。理恵はかばんからお菓子を取り出した。ラムネくらいなら食べる気にもなれた。
「ちょうだい」と鈴のような声がした。
理恵の左に顔のない少女がいた。微笑んだ口の隙間には何もない。口というより、裂け目だ。少女は手を差し出した。理恵はその上にラムネを二、三粒置いた。
「前にも会ったことあるよね?」
理恵が尋ねた。
「一緒に象を見に行った。あなたが象に溶けてしまって、私は途方に暮れてた。霧が晴れてばあばが迎えに来て、私はあなたのことを忘れちゃった」
ふふふふふ、と少女が笑った。
「いいの。だって、あなたはまた来てくれた」
少女が理恵の手をとった。理恵が少女へ顔を寄せる。理恵の膝がかばんを倒した。カシャリと硬い音がした。方位磁針が道に落ちていた。理恵は少女から離れた。方位磁針を手にとった。北が、来た岸の方向が、示されている。
「行かなきゃ」
理恵は立ち上がり北を目指した。踏み出そうとする理恵の左足に白い筋が巻き付いた。それが霧であり少女であると理恵には自ずと知れた。
「嫌だよ。もっと遊ぼ」
「でも行かなきゃ」
「おばあちゃんもこっち側にいるんだよ」
理恵の足から力が抜けた。ここにいていい気がした。でも、それは、私のしたいことではない。理恵はそう思えた。
「動物園のとき、おばあちゃんは迎えに来たよ。こっちに来ちゃいけないから」
理恵は仙台駅の構内にいた。通勤の人々が忙しなく往来し、天井から吊るされた七夕飾りが床すれすれまで垂れている。そのヒラヒラを理恵は弄んだ。これは理恵の学年が学校で作ったものだ。こんな所に飾られていたのか。理恵は外へ出た。西口のペデストリアンデッキだ。霧は晴れていた。托鉢の僧侶がこの時間から念仏を唱えている。理恵はポケットに百円玉が入っているのを見つけた。祖母が昔していたように施しをしてみたくなった。理恵は鉢の中に硬貨をそっと置いてから、僧をまじまじと見た。
「その鐘、」
笠の下から僧の鋭い眼光が覗いた。
「方位磁針をつけてるんですね。学校で配られるやつ」
「よく気づかれましたね」僧が言った。
「気づきますよ」
「お嬢さん、あなたも同じものをお持ちですね。私に預からせてください」
理恵は不審がりつつも僧に方位磁針を渡した。
「二度目ですか?」
「はい」
「これ、本当は持ち帰れないのですよ。市内中の五年生みんなが毎年もらっているのに、古いこれが捨てられていたり何処かで使われていたりするところ見たことがないでしょう? そういうわけなんです」
「みんなあの子に会うんですか?」
「大部分の子はその記憶も置いてくるんですけどね。あなたは今年の子だったんです。あなたはこれからもちゃんとおぼえていなければなりませんよ」
「出来なそう」
ハハハ、と僧が笑った。
移流霧 時雨薫 @akaiyume2
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます