◆嫌いのほうが多いのに
挿絵
嫌いのほうが多いのに
ハイドロは裸のまま、頭から布団をかぶってベッドに丸まっていた。
すでに夜が明けてからだいぶ経っている。部屋のカーテンは開け放たれていて、ふとんをかぶっていても外が明るいのがわかった。窓の外は曇天で、昨夜降った雪がうっすらと積もっていたはずだ。気温は低いが、部屋の中は暖かい。暖炉にはすでに火が燃えている。
彼は目を閉じているだけで、眠ってはいなかった。頭が痛いし、吐き気がする。とは 言え、風邪を引いたわけでも、熱があるわけでもない。
昨晩、飲み過ぎたのだ。
それもこれもぜんぶ、チャコールのせいだ。
ハイドロは昨晩、一ヶ月ぶりにアトレイのキリエール家に戻ってきた。チャコールの両親は自宅にいたが、チャコールは不在だった。聞くと、学期が終わったので同級生の家に泊まりに行っているという。
ハイドロはそれをまったく知らなかった。当たり前だ。アトレイにいなかったのだから。それなのにハイドロは、キリエール家に戻る日を伝えてなかった自分を棚に上げ、チャコールに苛立った。
その晩はチャコールの両親と過ごした。彼らはいつでもハイドロに親切だ。もう何年にも渡る習慣になってしまったとは言え、こんなふうに彼がなんの連絡もなしに屋敷に戻っても、嫌な顔ひとつせず迎えてくれる。
食事を済ませてハイドロは部屋へ戻った。つまり、チャコールの部屋へと。キリエール家に滞在する時、彼の身分は客人だが、専用の客間はない。
最初はもちろん彼のための部屋が用意されていた。けれどハイドロが屋敷にいる時間のほとんどをチャコールの部屋で過ごすので、すぐにその部屋は不要になった。部屋を無くすことになった時、チャコールだけが複雑な顔をしていた。
それが五年前の話で、今もハイドロはチャコールの部屋を使っている。
そして改めてひとり、主のいない部屋の中を見渡すと、ハイドロの胸の奥に再び苛立ちが湧いてきた。
一ヶ月ぶりに見るチャコールの部屋は、当たり前だがなにも変わっていない。
綺麗に掃除された床と絨毯、片づいたテーブルと机の上、整頓されたキャビネットと本棚、続き部屋の奥には整えられたベッド。室内の壁紙や家具は、少しくすんだ青と
絨毯の上にはハイドロが履いてきた靴が片方ずつ違う方向を向いて転がり、長椅子の上にはハイドロの少ない荷物を乱雑に広げてあった。でもこれだって、ハイドロがこの部屋にいる時はいつものことだ。ふだんと違うとは言えない。勝手知ったる、見慣れた室内だった。
チャコールがここにいれば、眉を顰めて泥を落としてから靴を揃えろと言い、服は脱ぎ散らかさずにハンガーにかけてクローゼットにしまえと言うはずだ。ハイドロが言うことを聞くのはその場限りで、今まで何度も、何年にも渡って同じことを繰り返しているのに、チャコールの方も同じように、ハイドロに口やかましく言うのを止めない。
でも今、チャコールはいない。咎める者は誰もいない。
その事実がひどくハイドロを苛立たせた。
せめて前もって、チャコールの不在を予め知っていれば、こんなに苛立つことはなかったのに。ぜんぶチャコールが悪いのだ。自分がいつキリエール家に戻るか、おおまかな時期を知っているくせに、部屋を空けるなんて。
暖炉に赤々と燃える炎を見ながら、ハイドロは怒りで自分の身体が冷えていくような気がした。チャコールに対して苛立つと、自分ではその苛立ちを押さえられないことを、ハイドロは知っていた。だが、なぜこんなにも苛立つのか、その理由を深く考えたことは一度もなかった。
ハイドロは上着と財布を掴んだ。これ以上この部屋にいたくなかった。
アトレイの城下町には雪がちらつき、しんしんと冷えていた。ハイドロは馴染みの店に顔を出し、二軒飲み歩いた。二軒目が閉まるとさらに場所を変え、下町の通りに立つ屋台で飲んだ。明け方まで飲み続け、部屋に戻ってきたのはすっかり夜が明け、人々が朝の活動を始める時間になってからだ。
したたかに酔っていたハイドロは、着ていた服をすべて脱ぎ捨て、チャコールのベッドに入って酔いに任せた眠りについた。だが、酒の入った眠りは浅く、昼前に一度目が覚めた。小便に立ち、再びふとんにもぐり込む。もう少し眠りたかった。頭痛と吐き気がする。こうなるだろうとわかっていて、昨晩、浴びるように酒を飲んだ。
頭痛と吐き気で、忘れられれば良いと思ったからだ。けれど、ハイドロの期待していたようなことは起こらなかった。
部屋の中は充分に暖かいのに、悪寒がする気がした。自分の肩を両手で抱き、もう少し眠りたいと、ハイドロは固く目を閉じる。すると眠気の代わりに、頭の中で声がした。
『ハイドロ』
それは聞き慣れた声だった。最後にそれを聞いたのは、もう十年以上も前のことだというのに。ハイドロはその声を振り払うように、うつぶせになって枕に額を押しつける。
目蓋の奥に、故郷バルメリアを見下ろす丘に建つ、女神の像が浮かんだ。
『ハイドロ、どうして』
あれも雪のちらつく、寒い日だった。女神の視線の先には、赤く燃え、黒煙に包まれるバルメリアの町がある。女神の石像は、血の涙を流しながら、自分の名前を呼んでいる。
寒い季節は苦手だ。あの時のことを思い出すから。
だからこの季節はアトレイからなるべく離れるようにしているのに。ここへ戻ったのは、他ならぬチャコールがそれを望んだからなのに、不在にするなんて、失礼極まりない。
ハイドロは必死で、チャコールに苛立ちを向け、女神の姿を目蓋の奥から遠ざけようとした。ここはバルメリアじゃない。真冬でも暖かく、居心地の良いチャコールの部屋だ。だがいくら自分にそう言い聞かせても、頭の中に響く女神の声が消えない。
額に脂汗が浮かんだ。身体が冷えていく気がする。
再び浅い眠りにつくまで、ハイドロはじっと、自分の名を呼ぶ声に耐えた。
扉を隔てた廊下で足音が聞こえて、ハイドロは目を覚ました。前に目が覚めたときよりも、頭痛と吐き気はいくらか収まっていた。女神の声も聞こえない。けれど、起きあがる気にはならなかった。
扉が静かに開く音がした。誰かが部屋に入ってくる。使用人なら扉を叩くはずだし、足音でそうではないと、ハイドロにはわかっていた。
「あ、靴!」
ハイドロが放った靴を見つけたらしい言葉が聞こえた。続いて、
「また、こんな」
と、不満げな声が聞こえた。長椅子の上を見たのだろう。足音が止まり、別の物音がした。ハイドロはじっと耳を澄ましてそれを聞いていた。
「あれ、ハイドロ、いるのか? うわ」
声とともに、ベッドに足音が近づく。返事の代わりに、ハイドロは布団の中で身じろぎした。
「酒くさいんだけど…」
傍らで不満げな声が聞こえたので、ハイドロは布団から顔だけ出した。予想通り、チャコールが顰め面で自分を見下ろしている。彼に劣らず不機嫌そうな表情と口調で、
「頭に響く」と、ハイドロは言った。
「なに、二日酔い? そんなに飲んだの? 珍しい」
チャコールがそう言って、ハイドロの顔を覗き込んだ。まばらに髭の生えた青白い顔を眺めて、チャコールが笑う。
「ハイドロ、運が良いよ。トライサが送ってくれた薬がある。ただの栄養剤らしいけど」
口ではハイドロに話しかけながら、チャコールは隣の部屋に戻ってしまった。仕方なくハイドロは身を起こす。身体の向きを変えて寝そべり、ベッドの上に肘をついて頭を支えた。隣の部屋への扉は開け放たれているので、この位置からだとチャコールが見える。
彼は机に置いた平たい箱に向かっている。寝る前にはなかったので、チャコールが持って来たのだろう。彼はハイドロの視線に気づいて顔を上げた。目が合うと嬉しそうに笑う。
「服が届いた」
チャコールが言って、包みを開き始める。
自分からは話さないので親しい人にもあまり知られていないが、チャコールは着道楽だ。間近に迫った社交シーズンを前に、何着か注文していたのをハイドロは知っている。それが今日、届いたらしい。
「おまえのもあるよ」
彼はそう言って、別の箱を軽く叩く。注文した覚えはないが、キリエール家の出入りの仕立屋はハイドロの身体のサイズを把握している。チャコールが好きに生地とデザインを選んで、勝手に注文したのに違いなかった。よくあることだ。
招待が多くなるこの季節、新しい服はキリエール家からハイドロへの贈り物だった。もちろん、ただの親切心だけではない。エンシェン族のハイドロがキリエール家の一員と見なされることがどういうことか、チャコールを含めたキリエール家の人間はわかっている。ハイドロは軽く頭を振った。
「どうでも良い」
「シャンパンゴールドの生地で仕立ててみたんだ。ベージュに近いんだけど光沢があって、でも派手すぎない。色も質感もすごく好みなんだけど、おれにはあんまり似合わなかったんだよね。ハイドロなら肌にも髪にも合うと思って。肌触りも良いよ」
ぶっきらぼうなハイドロの返事に、しかし答えたチャコールの声はどことなく弾んでいた。なんだか今日は機嫌が良いな、とハイドロは感じ、同時に、かすかに苛立つ。
「今、起きたの? おれ、着替えに寄ったんだ。夜はイオディンのとこに集まるんだよ。ハイドロも行かない?」
「昨日も泊まりだったんだろ?」
「昨日はレイデルのとこ。急に決まったんだ。ハイドロが帰ってくるって知ってたら、言付けしとけば良かったよ。そしたらハイドロも来られたのに」
名前からして、同級生で集まったのだろうと察しがついた。残念そうに苦笑するチャコールに、ハイドロの苛立ちがさらに募る。
昨晩、チャコールさえいれば。
夕食の時にこれから年末年始をどう過ごすか、彼の両親を交えて予定を立てられたし、夜中に飲みに出ると言えば止められただろうから、二日酔いになるほど酒を飲む必要もなかった。ひとりきりで眠ることもなかったし、酔いに任せた浅い眠りから途中で目覚めて、幼い時の思い出に苦しめられることもなかった。
なにもかもぜんぶ、チャコールのせいだ。
それなのに、自分のいないところで、こんな風に楽しそうにしやがって。
酔いから来る吐き気とはまったく別の気分の悪さが、ハイドロの腹の底から込み上げる。顔を顰めたが、チャコールは気づく様子もない。箱から取り出した新しい服を丁寧に広げて、ハンガーに吊している。
「イオディン、昇任したから部屋移ったじゃん。前から見に行く約束してたんだ。アルセンが窓にレースのカーテン掛けて、イオディンがいない時は女の子とデートするのに使わせろって言ってる。バカだよね」
「気が乗らない」
楽しそうな口ぶりから目をそらし、ハイドロは投げやりにそう言って、ふたたび顔を枕に埋めた。親しくなければ気づかない程度だが、今日のチャコールは饒舌だ。よっぽど機嫌が良いらしい。彼はクローゼットを閉めて、ベッドの脇に近づいて来る。
「なに、そんなに気分悪いの。っていうか、機嫌が悪いのかな」
そう言ってチャコールは窓の外を見た。外は曇天で、冬の寒さに包まれている。チャコールは、寒い季節になるとハイドロが時折昔を思い出すこと、それが彼にとって辛い記憶だと知っている数少ない者のひとりだ。
ハイドロは短く息を吐いてから、仰向けになった。両手を頭の上へ挙げて、チャコールに目を向ける。ベッドの端に腰掛けて、自分の顔を覗き込んでいるチャコールと目が合った。
「それなら余計に、これから行こうよ。その方が気分も変わるし、みんな喜ぶよ」
駄々をこねる子どもをあやすような口調に、ハイドロは鬱陶しげに顔を顰めた。
「そう言うチャコールは、ずいぶん機嫌が良さそうだな」
挑発するつもりで、わざと嫌味ったらしくハイドロは言った。チャコールの上機嫌に、少し水を差してやりたかった。だが、チャコールは少しも気を悪くした様子はない。相変わらずのどこか弾んだ調子で、
「だって、機嫌が悪くなる理由がないだろ? 成績はオールAだったし、論文はおれが最優秀だった。昨日は誰も落第しなかったお祝いができたし、今日はイオディンのために高い酒用意してあるんだ。しかもこのタイミングで服が届いたし、それに」
と言い、それからハイドロにも予想外の笑顔を浮かべて続けた。
「おまえが帰ってきた。早くても来週だと思ってたのに」
ハイドロは一瞬、返す言葉が見つからずに黙った。
意外な言葉に動揺したのを悟られないよう、ハイドロは両手で顔を覆う。それから今度は、長く息を吐いた。
「俺も行った方がいいか」
「そりゃそうだよ。その方が楽しいし、上手く抜け出せたら、アデリルも来るって」
当然のようにチャコールが言った。また新たな名前を聞いて、ハイドロは両手を顔から離し、わざと呆れてみせた。
「王女様をむさ苦しい男どもの部屋に出入りさせるのか」
「まあ、好きでやってるからねえ。男の部屋って言ってもさあ、今さらイオディンの部屋に出入りしたからって、王女の不品行だとか騒ぐ方が笑い者だよ。それにハイドロまでいれば、国中のどこよりも安全だと思うよ」
「それもそうだな」
「気が変わった? だいたいハイドロ、ひとりで部屋にいてなにするのさ」
チャコールと顔を見合わせたハイドロは、もう一度短く息を吐く。それから、
「わかった、付き合う」
と、言って、身体を起こした。チャコールもベッドから立ち上がり、苦笑しながらハイドロを見下ろす。
「まず服着ろ。先に届いた新しいシャツがあるから、それ着なよ。それから顔洗って、髭づらは許さないから。トライサがくれた薬、試してみなよ。せっかくもらったからさ。身体が温まるって」
「風呂に入るよ。シャツは勘弁してくれ、俺の服でいいだろ」
「いいよ。じゃあ、早く起きて。部屋が酒くさいから、ちょっとだけ窓を開けたい」
ハイドロはベッドから起き出し、周りに脱ぎ散らかした服を拾って浴室へ向かった。なにげなく振り返ると、チャコールが言葉どおりに窓を開けている。
彼はふと手を止めて、うっすらと雪に覆われた窓の外を、目を細めて眺めている。
あれほどチャコールに苛立っていたのに、ハイドロはいつの間かそれが、消えていることに気づく。
二日酔いからくる吐き気はまだ残っていたけれど、これも間もなく消えるだろう。どんな代物かは知らないが、トライサがくれたという薬を飲んでやっても良い。
自分の向ける視線に気づいてチャコールが振り向く前に、ハイドロは浴室の扉を開けた。
<了>
◆嫌いのほうが多いのに 挿絵 @fairgroundbee
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