コーヒーと一緒に
増田朋美
コーヒーと一緒に
コーヒーと一緒に
今日も、朝からよく晴れて、気持ちの良い日だった。みんな、外出禁止令のせいで、家の中にいるはずだけど、静岡県では、あまり効果は出ず、みんな、買い物には行くし、何か用事があれば出かけているから、道路は普通に車が走っているし、スーパーマーケットは混雑していた。今日も、蘭たちが、スーパーマーケットに買い物に行ったところ、レジには、長蛇の列ができており、店員さんは、ガラスの箱のようなものに入って、手だけ小さな窓から出して、お金のやり取りをしている。そして、そのガラスの箱には、レジ前では押さない、走らない、しゃべらないという張り紙がしてあって、お客さんたちは、その通りに黙りこくったまま、レジ係にお金を渡して、そそくさとかえっていくのであった。
蘭たちは、とりあえず夕飯の材料を買って、そのままレジに並んだ。しかし何かおかしい。お客さんたちは、インスタント食品とか、日用品を山のように籠の中に入れて、まるで自分たちだけが、得をすればいい、という顔をしているのだ。つまるところ、杉三や蘭に、ここに来るな、と言っているのである。
「みんな一緒だよ。僕たちが、買い物して何が悪いんだ?」
と、杉三が、周りにいた客に向けていった。すると、杉三の前に並んでいた客が、杉三の顔をバシッと殴りつけた。杉ちゃんは、殴られると、それ以上何も言わなかったが、とにかくスーパーマーケットは、楽しく買い物をするというよりも、武器の調達をするための、戦場のような風景に変わってしまっていた。
とりあえず、杉ちゃんたちは、商品を手早く買い物かごに入れて、スーパーマーケットを後にした。
しばらくは、二人とも息が上がってしまって、何も言うことはできなかった。しばらく車いすで道路を移動し、人の誰もいないバラ公園の中を移動して、やっと気持ちが落ち着いた。
「いやあ、すごい人だったな。」
と、蘭は言った。
「ほんと、ちょっと怖いくらいだったな。」
と、杉ちゃんがいう。この時ばかりは、蘭も杉ちゃんに同情した。ああして殴られれば、誰だって怖いという気持ちになるはずだ。そういう風にして、このスーパーマーケットにできるだけ他人を来させないようにしたいのだろう。本当に、経済的には豊かであるけれども、誰もが生きるために必死で、理性をなくしているようなところがあった。誰もが、自分さえ食事にありつければ、自分さえ日用品が買えれば、自分さえ生きることができればそれでいい。そういう考えに変わっていた。
杉ちゃんと蘭は、そのままバラ公園を横切って、自宅に戻って来た。でも、二人それぞれの持ち場へ帰るという気にはなれなかった。杉ちゃんが、うちでカレー食べていくか、というと、蘭は、そうだなと言って、杉ちゃんの家に入った。
家に入ると、二人は、急いで食料を冷蔵庫にしまって、杉ちゃんは何も言わないで、カレーを作った。今日は、作り方の比較的簡単な、ひき肉のキーマカレーであった。
「ほんじゃあ、食べようか。」
杉ちゃんが言うと、蘭は、目の前にあるカレーに向かって、いただきますと丁重にあいさつした。なんだか、あのスーパーマーケットの雰囲気から考えると、蘭も杉ちゃんも貴重な食料をいただいたような気がして、あいさつを丁寧にしなければならないなと思うのだった。
と、その時。
「おーい、蘭。いるかあ。カレーのにおいがするってことは、いるんだろ。ちょっと入らせてくれ。」
と、玄関先からでかい声がする。
「また華岡か。こういう非常時なのに、なんでなれなれしく入ってくるかなあ。」
と、蘭がいやそうな顔をして、そういうことを言った。杉ちゃんは何も言わないでカレーを食べていた。
「おーい、今日はこのご時世なので風呂はいいけど、おいしいカレーは食べさせてもらえないだろうか。いつも、カップラーメンばっかりで、もうこのままじゃ栄養不足になっちゃうのよ。」
「まったく、そんなこと言って。」
蘭は、あきれた顔をしていたが、華岡はなりふり構わず、
「入るぞ!」
と言って、杉ちゃん立ちのいる食堂へ入ってきた。
「おう、やっぱり食べているじゃないか。俺にもカレーを食べさせてくれ。」
華岡がそういうと、はいよはいよと言って、杉ちゃんは、茶箪笥から皿を出して、ご飯を盛り付けて、カレーをかけ、華岡の目の前にカレーを置いた。
「いただきまあす!」
華岡は、杉ちゃんからおさじを受け取って、カレーを口にした。そして、
「うまあい!やっぱり手作りのカレーは違うよ。レトルトのカレーなんてまずくてしょうがないもの。第一に、手料理なんて、今ほとんどしないだろ。みんなできあいを大量に買って、買いためちゃうもんな。こういうときって、なんで手料理しようと思わないで、出来合いを買ってしまうという気持ちになるのかな。」
といった。
「まあ、しょうがないな、きょうなんて、お客さんからひっぱたかれてね。もう、僕たちは、あの店に来るなってことが、見え見えだったよ。まったくよ、みんな自分のことで精いっぱいで、こういう風来坊が来店すると、いやな気持になるのかな。」
杉ちゃんがそういうと、華岡は、カレーのおさじを、口にがぶっと入れて、それを引っ張り出して、
「おう、そういうわけで、変な事件も、非常におおくなってきているのよ。」
といった。
「変な事件?」
蘭が聞くと、
「ああ、こういう非常時であろうとなかろうと、事件というものが起こるのは当たり前なんだな。昨日は、スーパーマーケット近くのマンションで、心中事件が起きてしまった。」
と、華岡は言った。
「心中?不倫でもしてたの?」
杉ちゃんが聞くと、
「それに当てはまるのかはまだ捜査中だが、パソコンの画面に遺書があってな。このような世の中ではもう生きていけないと書いてあった。」
と、華岡は答えた。つまるところ、男女の遺体が見つかったということか。それが夫婦か、愛人関係かはまだ不明であるということだろう。
「そうか、まあ確かにそうなってしまいたくなってしまう、気持ちもわからないわけではないな。こんな風に、物騒な風景ばかりが続いていると、なんだかそうなってしまいたくなるよ。」
蘭が、そういうことを言うと、
「バーカ。そういうことは、はっきりといけないと言わなくちゃ。どんな大変な世の中であっても、生まれたからには生きてやる、くらいの気合は持たないと。」
と、杉ちゃんが言った。
「そうだよなあ、みんなそういう気持ちがあればいいけれど、皆そういう人ばかりでは、ないってこともあるんだよなあ。まったく、こういうのを逆手にとって、心中とは、人間もずいぶん弱くなったなと思うわけよ。」
と、華岡は、大きなため息をついた。
「まあそうだよなあ。僕たちは、いらないという意見も蔓延ってしまわないか、それが心配だよ。僕は。」
と、蘭はそういうことを言う。
「このご時世に、利益を生み出せないやつは消えてしまえという風潮が、いろんなところで起きているような気がするんだ。」
確かに、蘭の不安も一理あった。あの、スーパーマーケットでのお客さんの表情を見れば、決して蘭たちは、歓迎されるべき客ではないことが、わかるからである。
「まあしょうがない。僕たちは、一生懸命生きていかなきゃいけないのさ。どんな時でもそういうことを放棄したら、お釈迦様にも叱られるよ。」
こればかりは、ある意味で宗教的なことだった。人間ができないことを説明するとき、宗教というものは、非常に使える場合がある。いろんなものがあるけれど、生きることを放棄するためにあるのではなく、生きるためにあるのだということを、忘れてはいけない。
「まあ、いずれ、報道のやつらがこの事件を報道するだろうな。そうすると、ウェルテル効果というのかな。それで連鎖しちまわないかどうか。俺はそれを心配している。俺たち警察の仕事が、また増えることになるので。」
と、華岡は、カレーを食べながら、そういうことを言う。
「確かに、報道の自由はあるけれど、そればかり固執していたら、いけないよね。」
と、蘭は、小さなため息をついた。
翌日。どの会社の新聞のトップ記事にも、「もうこの世の中生きていけない」という見出しが現れて、静岡県富士市の若い男女が、心中を図ったという記事が大げさに掲載された。テレビでも、この事件のことばかり、ほかの報道をする気はないのか、と思われるほど、このニュースばかり報道している。死亡した男女は、片方が医療関係者だったとか、発疹熱患者と濃厚接触し、親や家族を殺してはいけないという理由から心中をしただとか、そういう噂話が流れるようになった。もし、誰かほかの国の人が見たら、日本人というのは、なんでこんなに噂話に弱いんだろうとあきれるほど、この事件の話ばかり、新聞もテレビも雑誌も、この事件を報道していた。
この事件のせいで、影浦医院にも、患者が倍増した。本当に、精神が崩壊している患者は非常に少ない。ただ、不安を聞いて欲しくて、影浦医院にやってくるのである。普通のことなら投薬もいらないかもしれないけれど、投薬してほしいという患者さんばかりで、医師の影浦千代吉は、仕方なく処方箋を書いていた。
その日も、殺到するようにやってくる患者さんたちの処方箋を書いて、影浦医院を閉じたのは、夜の九時近くであった。受付の人も自宅に帰して、影浦千代吉は、ほっと溜息をついて、病院の玄関の掃除をしていた。
その時。
「よう、影浦先生。」
と、車いすの音がして、杉ちゃんが姿を現した。
「こんな遅い時間まで、患者さんの診察とは大変だな。」
と杉ちゃんはそういうことを言った。
「まあ、仕方ありません。こうなってしまうのは、ある意味仕方ないことですよ。」
影浦は、にこやかに笑って、影浦医院の玄関のカギを閉め、外へ出た。
「そうか、そういうことを言えるんだから、先生も、大丈夫だな。僕も、こんな時世になってもバカのまんまだよ。」
と、杉ちゃんは言った。二人は、真っ暗な夜の道路を、のんびりと歩き始めた。
「変な心中事件まであって、その報道ばかりで、こっちはいい迷惑です。ほかの報道をするという気はないんですかね。」
影浦は、はあとため息をついた。道路のわきに小さな自動販売機がある。影浦は、一度止まって、自動販売機にお金を入れて、コーヒーを二缶買った。一つは自分が飲んで、もう一つは、杉ちゃんに手渡した。
「あ、どうもありがとな。」
と、杉ちゃんは缶コーヒーを受け取って、それを開け、がぶっと飲み干した。
「杉ちゃんも、その顔から見ると、何か悩んでいるようですね。」
と、影浦が言った。
「そうですな。」
と、杉ちゃんも言う。
「よく悩みを知らないなんて、杉ちゃんだけだろうなと言われるけれど、僕だって悩みがあるわけよ。」
「そうですか。では、いつごろから、何について悩んでいるのですか?」
と、影浦が聞いた。
「いや、僕のことじゃなくて、蘭のことなんだけどね。あの、心中事件以来、若い奴が死にたいと言って、蘭のもとに来るので、僕も蘭も困っているのよ。」
と、杉ちゃんは、あーあとため息をついた。
「そうですか。杉ちゃんは、自分のことではなく、他人のことで悩むことが多いんですね。確かにそういうことを言うんじゃ、蘭さんも困るでしょうね。」
「まあ、僕は、そういうことを言うと、お釈迦様に叱られるよと言えばいいと思うんだが、蘭は、何を言ったらいいのかわからないと言って、困っていたよ。」
「想像できますよ。蘭さんは確かに、悩みやすい人ですから。」
影浦は、杉ちゃんの話に、同調した。
「でも、蘭さんの仕事は、僕たちみたいな医者に比べたら、よっぽどすごいと思いますよ。薬なんかより、体に神仏を彫り込んで、それに守ってもらうという発想は、なかなか実行できませんからね。本当は、それさえ在れば、平気で生きていける人って、多いだろうなと思います。欧米では、そういう発想は、当たり前のように行われていますけど、日本では、偏見が強いのかな。」
「本当だ。蘭はそういうことができるっていうことを、しっかり知ってもらわなければな、ははは。」
杉三はカラカラと笑った。
二人が、道路を歩いていると、コンビニが見えてきた。ちょっと、何か買っていきますか、と、影浦は、コンビニの中に入った。
「なんだか今日は、あったかいや。もう春なんだね。アイスでも食べたいよ。」
と、杉ちゃんが言うと、影浦はわかりましたと言って、バニラアイスを二つ買った。本当は、イートインスペースで食べていきたいなと思ったが、イートインスペースは使用禁止と張り紙がしてある。仕方なく、二人は、バラ公園に行って、そこのベンチに座った。誰も、公園にはいなかった。本当は、家にいなければならない時間帯なのに、家に帰ろうという気は起らなかった。
「いただきます。」
影浦と杉ちゃんは、バニラアイスを食した。二人は、黙ったまま、その味を味わった。おいしいとも何とも感じさせなかった。
「まあ、こういうものがおいしいなんて、平和でない限りできはしませんよ。」
と、影浦はそういうことを言う。
「なんか、もうちょっと、食べ応えのあるやつが良かったなあ。」
と、杉ちゃんは言った。
「そうですねえ。」
と、影浦もそういうことを言った。
「なんだか、生きているのが罪深いと言っていた患者さんがいました。いっそ、先に死んだほうが、いいんだって。」
「まあ、生まれたからには生きてやるが、一番必要なことだろうなと思うんだけどな。」
と、杉ちゃんは、言ったが、それも有力な力にはならなかった。それよりも、強力な、生きるように持っていってくれるような、そういうモノや何かがあればいいのだが、そういうことは、何もなかったのである。
「僕も、蘭も、今は、邪魔な奴となっちゃって、生きていくこともないよ。」
と、杉ちゃんはあーあ、と自棄になったような気持ちで、がぶっとコーヒーを飲んだ。
「まあ、今は、それに立ち向かうこともできず、淡々と生きていくしかないですよね。」
と、影浦もそういうことを言った。二人は、溶けそうになっていたバニラアイスを急いで食べて、
「じゃあ、またな。」
「またお会いしましょうね。今日は、ありがとうございました。」
と言いあい、二人のそれぞれのコースをたどって、家に帰っていった。
杉ちゃんが、蘭の家のドアをがちゃんと開けると、蘭が、机に座って、また下絵を描いていた。
「おう、蘭。また客が来たのかい?」
と、杉ちゃんが聞くと、
「ああ、またあの心中事件に動かされた若い女の子が電話して来たよ。誰も、自分のことを守ってくれる人が、いなくなってしまうから、背中に龍でも入れてくれと。まあ、いわゆる、守ってほしいという気持ちからだね。」
と、蘭は答えた。
「そうか。それで龍の下絵を描いていたのか。」
確かに、蘭が今持っている藁半紙には、見事な龍の絵が描かれていた。
「もう、いつ家族がいつ、発心熱で倒れるかわからないので、いつ一人ぼっちになってしまうかわからない。すぐに彫ってくれというもんでさ。明日、彼女に会って、筋彫りだ。大体の人は、二時間突いたらおしまいだけど、彼女は時間のかぎり、彫ってくれというもんだから、明日、一日時間を取られそうだ。悪いけど、買い物はなしにしてくれ。」
と、蘭は、そういって、下絵をファイルの中にしまった。
「えらいなあ。蘭はちゃんと、やれることやっているじゃないか。僕はただの風来坊だよ。」
と、杉ちゃんは言った。
「僕ができることは、着物のことしかない。僕は、それでやるしかないからなあ。」
杉ちゃんが、そういうことを言うのは、珍しかった。
「杉ちゃんは、杉ちゃんでできることがあるじゃないか。着物縫ったり、羽織縫ったり、そういうことをやって、ちゃんと社会の役に立つんだよ。僕は、絵を描くだけで、何も役に立ちはしない。」
蘭はそういうことを言った。
「まあ、僕も、さっき、影浦先生に、コーヒーとアイスクリームをおごってもらったんだけど、影浦先生、蘭のことをほめてたよ。影浦先生は、蘭をほめてた。だから、蘭は、自信もっていいさ。」
と、杉ちゃんは、にこやかにそういうことを言う。蘭は、その通りだという気にはなれなかった。そういうことを考える前に、自分はどこにも役に立たないという気持ちを聞いてもらいたかった。
「そうか。僕は、何一つ、役には立たないな。」
と、蘭は思わずつぶやいた。
「いや、そんなことはないさ。みんなどこかでつながっているじゃないかよ。蘭は、自信のない子たちの体に、いろんな縁起のいいものを彫って、励ましてやることはできるだろ。だから、もうちょっと、やっているっていう自信持てよ。」
「杉ちゃんは、杉ちゃんで、いろんな人の着物を仕立てたり、サイズを直したり、作り帯を作ったりできるんじゃないかよ。」
二人は、そういうことを言いあったが、この問題、いつまでたっても、問題は解決されないことに気が付いた。杉ちゃんも蘭もお互い顔を見合わせて、
「それでは、お互いに頑張って淡々と生きてやるさ。」
と、蘭は、そうつぶやいた。杉ちゃんもふっとにこやかな顔をして、
「そうだねえ、生まれたからには生きてやるという気持ちを持たなきゃな。」
と、言った。
「それでは、もう一枚下絵を描くか。僕たちは、生きていかなくちゃならんのだからな。やることをちゃんとやらないと、誰かに叱られちゃうわなあ。」
蘭は、もう一枚、引き出しから藁半紙を取り出して、鉛筆を取った。
「僕は、縫いかけの着物を一枚縫ってしまうか。よし、また明日、こうして報告しあえるように頑張ろうぜ。な、蘭。」
と、杉ちゃんはそういって、蘭の家を出ていった。その日は夜空の星が一層きれいに見えている、美しい夜だった。やがて、それ以上に美しい夜明けが待っていると信じるしかない人間たちを、星々はどう見ているのだろうか。
コーヒーと一緒に 増田朋美 @masubuchi4996
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