晶河【メモリア】についての記録   筆/名残/飴 ――メモリア

 観測されないということは、存在し得ないことと同義である。ゆえに、この場所は「存在しない」。

 晶河【メモリア】。

 幾千幾万もの色彩豊かな結晶たち。それらは積み重なっても一つに同化する気配すら感じさせず、ただそこに小さいままで転がるだけ。もし視覚情報を得られるなんらかの生命体がこの場所にたどり着くことができたとしたなら、そのひとつひとつの結晶の中に深い闇の中にきらめく灯火のような微かな輝きとともに幻影が忙しく動いている様を見て取ることができるだろう。そう、つまり。

 ――そこは、記憶の墓場である。



 晶河【メモリア】のすぐ側には、年中霧が立ち込める森がある。千年樹の森【ソーン】。そこは夢の行き着く先。メモリアとの境には、虹色に揺らめく陽炎のごとき壁が存在している。これは夢喰獣たちがメモリアに迷い込み、魂を食われないためのソーンの意思の表れだ。

 メモリア沿いに下っていくと、木陰に動くものがいる。夢喰獣だ。

 柔らかな毛に覆われた、地上で言うなればバクのような生き物だ。彼らの主食はここに来るまでにもいくつか地面に落ちていた、飴玉に似た色彩豊かな小石である。否、夢喰獣たちにとってはまさしく飴であろうが。もちろんただの小石でも飴でもない。メモリアに向かう魂が落としてゆく、夢の数々だ。


 不気味な音と共に風が吹く。それらはすべてメモリアの方へと向かっていた。風の吹いた後では、森の木々に何かがぶつかる軽い音がそこかしこで聞こえる。それが止んでしばらく経つと、多くの夢喰獣が集まってくる。

 この風とはすなわち魂であった。

 死者の魂は肉体から離脱すると彼らにだけわかる道を通り、さながら小川が集まりやがて大河になるように、やがて出会い衝突し、大きな流れとなってソーンを通過したのちにメモリアへ入り込むのだ。


 さて、晶河沿いに下りていくうちに、ソーンの木々がまばらになっていく。それと共に風の吹く頻度も減ってきていた。今し方吹いたこの風が、恐らく最後となるだろう。

 雨音のような音が鳴り、夢の欠片が落ちてくる。その中に一つ、黒く濁ったものがある。悪夢(ナイトメア)だ。落ちてすぐに、その黒い飴の表面に罅が入る。衝撃のためではない。例えば鳥が卵から孵化するように、この悪夢も孵化を迎えようとしている。そう長い時間をかけず、長い鼻先が外の空気に触れる。夢喰獣の誕生だ。

 悪夢というのは、実は夢喰獣にとって甘味のようなもの、つまりは嗜好品であるから、落ちてくればすぐに食べられる。故に夢喰獣の誕生は森の外縁辺りでしか見ることができない珍しい光景である。


 そして、地面が途切れる。崖だ。

 下を覗き込めば、メモリアから溢れた結晶たちが次々に崖下に吸い込まれていき、その途中で靄のようなものを吐き出しながら、ふっと消える。

 ここが、晶河【メモリア】の終着点。一生を生きた魂は、ここでようやく終わりを迎える。現世から、夢想から、記憶の全てから解き放たれた、自由でまっさらな魂は、ここからまたどこかへ飛び立ち、いつかもう一度命へと姿を変える。

 残った靄は、全ての魂の名残である。



 ……いつしか夢中になって目を通していた。時計を見るとあれから二時間ほど経っている。

 元あった場所、机の上にある筆の横に手記を戻して、その表紙に書かれた文字をなぞる。

「いつかここに到達した知的生命体へ。我が一族、そしてメモリアをはじめとした幻想の存在証明を願って、か……」

 書き残した者の名は読めないが、彼はここに残された人間のものとは思えない白骨遺体の主であろう。手記にはメモリアの番人と書かれていた。


 世界の隅々まで至った探検家たちを超えたくてここまでやってきた。自分のやろうとしていることが正しいかどうかわからないまま。それを肯定されたように感じて、年甲斐もなく夢中になってしまった。

 さて。

「行くか」

 晶河【メモリア】。それはこの先の千年樹の森【ソーン】を越えたところにあるらしい。「存在しない」などと言われては、そしてそれらを「証明して」と願われては、この人生の意味を感じずにはいられない。

 夢の欠片を回収し、森の木の葉を頂戴し、夢喰獣を写しとり、ようやく虹色の壁にたどり着いた。手を伸ばすと、ゆっくりと沈み込んでいく。あまり拒否されているような気配は感じなかった。

 手記に「魂を食われる」とあったのを思い出すが、手記の主もなにやら晶河を直接見たような記述があったのでそのまま入ることにした。

「…………おぉ……」

 それはまさに圧巻といったところか。全体で見ると金色に輝いているように見えるが、それを構成するひとつひとつは異なる色を淡く示している。まるでこの世のものではないようだ、という言葉はこの場所のためにあるのかもしれない。否、実際にこの場所はこれまで「この世のものではなかった」のかもしれないが。

 晶河に近づこうとすると、ある地点から存在に干渉されるような気分があった。命は大切に。この旅を決めてからの自戒だ。

 写真を数枚撮って、メモリアを後にする。本当はもっと長居したかったが、森に呼ばれたような気がしたのだ。


 番人の家に戻り、筆を手に取る。インクはないがこのままで書けるような気がした。

 手記の中の空白のページを開く。書くことは一つしかない。


 ――晶河【メモリア】は実在した。

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