ある夫婦の里帰り 残された温もり/夢から覚める/花明かり ――暁
それは春の夜半のこと。女はふと目を覚ました。なにか、夢を見ていたような気がする――。そう思いながら隣を探るが、数百年を超えて連れ添った伴侶の姿がなくなっていた。
ああだから目が覚めたのか、と彼女は自覚する。ただ藁の中に残る彼の名残が、いなくなってからそう経っていないことを示していた。
もとより睡眠の必要がない彼のことである。寝床に籠るのにも飽きたのだろう。
「やはり人の世は、あの人には合わないのでしょうね……」
言いながら、彼女は寝台から出て足を床に付け、広げた着物を身に纏う。ひたひたと、はだしの足音が縁側まで続いた。
夜桜の里はその名の通り、いたるところに桜が咲いていた。月も沈んだ夜である。真っ暗な中に桜だけが、ぼうっと浮かび上がっている。
「あなた……」
清らかな未明の空気に澄んだ女の声が広がり、とける。
――或る桜の木の下で、鬼はその声をしかと聞き、急ぎ
「どうした、こんな遅くに」
鬼の長い銀髪が、星々の明かりを受けてぼんやりと光っている。女は伴侶を見上げて微笑んだ。
「あなたがいなかったから」
「それで起きたのか?」
ヒトは睡眠が必要だろうに、と不服そうに鬼が呟いた。女は足一つ分だけ空いた隙間をさらに埋めるように彼に寄り添い、その背に手を回した。
「……夢を見ました」
その手に伝わる確かなぬくもり、それは彼女の安心の証であった。それでもなお、どこか不安そうなのは。鬼がそっと目を伏せた。
「あいつの夢、か」
鬼の胸の中で、女はこくりと頷いた。
「案ずるな。きっと、見つかるさ」
あいつ。鬼と女の、最初の子。最後に霧被山を発ったのが、十五年は前のこと。八年前に消息が絶えてから、いまだその行方は
「おかしいですよね。もう大人なのだと分かっているけれど、今この時にも、どこで何をしているのか、無性に心配になってしまうのです」
「おまえがはじめにあれも鬼だと言っただろう」
「それでも、です。……春霞さまは心配ではないのですか?」
「それは違うな」
鬼はそっと空を見上げた。輝く星々が、夫婦を見下ろしている。この空を、彼も見ているのだろうか――。
「だが、帰ってくると信じている」
鬼は目を眇めて遠い地平線の彼方を見る。朝の気配がしてきていた。
「月、寝るか?」
「……いいえ」
女は鬼の背に回した腕に力を込めた。まだ少しだけ、こうしていたい。そういう女の意志を、鬼はしかと受け取り、一つ女の桜色の癖毛を撫でた。
「行くぞ」
言うやいなや、鬼は女の体を抱き上げ、そして縁側に腰を下ろした。鬼の膝の上にすわった女は、ちらりとその顔を見上げる。
「疲れたら眠ればいい。お前の
「……本当に、あなたという方は」
女はわざとらしく嘆息し、その頭を鬼の胸に預けた。
やがて山際は白くなり、次第に朱く色づいていく。
己の胸の中で安心しきったように眠る妻の髪を褐色の手に巻きつけながら、鬼はただ、春の朝の空気を感じていた。
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