宮前和人 後編

十二月二十三日、決勝当日。


相手の映像は何度も見たが、俺にはその強さを今一理解出来なかった。


「一発ならこっちに分がある。お前のフックは、一撃当たれば十分に試合を終わらせる事が出来る。」


竹内トレーナーの言葉で、考え過ぎていた自分に気付く。


相手がどうこうよりも、ここに至っては自分の力をどうやって発揮するか、それしかないのだから。


どうやらフェザー級の試合が終わった様だ。


ジムの会長ともう一人のトレーナー、そして竹内トレーナー、三人と視線を合わせ控室を出ると、同門の選手達が両脇を固め道を作ってくれていた。


六度目のリング、一番になった事の無い俺が一番になると誓ったリング。


俺の後に入場してきた相手、遠宮統一郎を視界に収めると、その動きから調子が良さが伺えた。


リング中央で向き合い鍛えこんでいる体を確認するが、俺だって負けてはいない。


この日の為に、約二年半死に物狂いでやってきたのだ。





「普通のジャブだと思うな。最初からそう思っていれば不必要な動揺はしなくていい。」


その言葉に頷くと、気合を入れ、第一ラウンドのリングへ歩み出る。


序盤は互いの距離を図るべく、左を軽く伸ばしあう緩やかな展開。


そして左の差し合いになり、回転の差で初撃を奪われる。


(これはっ…!!なるほど…事前情報がなかったら動きを止めてたな。)


重さはまるで感じないが、直接痛覚を刺激して来る厄介なジャブだった。


だが、最初から何かあると覚悟していた俺は構わず踏み込んだ。


踏み込んで左からの、フックと見せかけてボディに伸ばしていく。


入ったが踏み込みが足りなかったか、ダメージは薄い様だ。


このまま押していこうという時、左のグローブを軽く動かしたフェイントに引っ掛かり、まともにジャブをもらってしまった。


「……っ!」


一度覚えた痛みを体は忘れてはくれず、どうしても反応してしまう。


そして、このジャブを起点に流れは向こうに傾きつつあった。


(不味いな。これは不味い。流れを引き寄せるには…あれしかない。)


右ストレートを放ってきた後、少し後ずさる相手に、ここだと踏み込んで自慢の左フックを放っていく。


直撃ではなくガードの上だったが、警戒心を持たせるには充分だろう。


(今…反応しきれてなかったな。次で決めるっ!)


相変わらず左の差し合いでは勝てそうにないが、もはやそんな事はどうでもよかった。


(次だ、次のジャブに合わせて踏み込む。最悪、相打ちでも俺が勝つっ!)


踏み込んだ瞬間、狙っていたのだろう、右ストレートが際どいタイミングで頬を掠める。


だがほぼ同時に放った俺の左フックが、完全ではないが側頭部を捉え相手の足取りは覚束ない。


そこでゴングが鳴ると、余りの悔しさで地団太を踏みたくなった。





「上出来だ。あの相手に一ラウンドポイントを取れた。だが油断するな。ここからだぞ。」


竹内トレーナーの見立てでは、最後の一発で確実にジャッジに印象を付けられたらしい。


(流れはこっちに傾いてるはずだ。開始直後から打って出て、完全に引き寄せてやる。)


第二ラウンド開始直後、踏み込んで左を放ち、フックを警戒している所にボディ。


これが綺麗に決まり、更に流れを引き寄せる事に成功した。


(よし、良い感じだ。今のうちに相手のタイミングも覚えたい所だな。)


左の差し合いは捨て、ガードに専念しながら隙を伺い、丁寧にガードしながら打ち終わりのタイミングで左を伸ばす。


そこから相手の警戒心を利用し、フックをちらつかせコンビネーションで足を止めに掛かった。


そして第二ラウンドも二分に差し掛かろうという頃、踏み込んだこちらの更に下を潜り込み、インファイトに打って出てきた。


それを受け慌てて打ち返すが、さっと身を引かれ捉える事が出来ない。


だがこのまま流れを持っていかれる訳にも行かない為、こちらも追って踏み込んでいく。


(また潜り込んでくるか?なら今度は下から強烈なのを突き上げてやるよっ。)


そう思ったこちらの考えを読んでいるかのように、今度はさっとバックステップ。


(何がしてえんだよお前はっ。まあ良い、引くならもう一回こいつを食らわせてやるだけだっ。)


そう思い、先のラウンドを踏襲するべく踏み込んでいく。


だがその瞬間、今度は思いっきり踏み込んできて、互いの腕がぶつかり合った。


こちらとしてはいきなり思いもがけない距離での打ち合い。


当然対応出来る筈もなく、ガード一辺倒になった所でゴングが鳴ってしまった。





「イライラするな。あの相手にそれでは勝てんぞ。あれはポイントを取り返しに来ただけ、つまり小細工だ。」


そう言われ思い返すと、何度か掲示板に目を向けていた様な気がする。


(まんまと術中に嵌ったって訳か。………基本に立ち返り、少し落ち着こう。)


深呼吸をして落ち着きを取り戻した後、コーナーからゆっくりと歩み出た。


第三ラウンド、勝てないだろうとは思いつつも左の差し合いから入る。


案の定差し負けるが、それに関しては特に動揺する事もない。


俺が狙っていくのは左フック只一つ。


(ここまでで充分に分かったよ。今の俺じゃ、これが当たらなきゃこいつには絶対に勝てない。)


迷いなど一切無く、心中するつもりで腹を括った。


(こいつは何故かいきなり右からは入ってこない。つまり、最初に右を伸ばして来たらそれはフェイントだ。)


この試合、只の一度も右から入ってこない相手に、ある種のギャンブルを思わせる賭けに打って出る事にした。


相手の放つパンチをしっかりとガードしながら、その時を待つ。


そしてその時がやってくる、一発目に放つモーションを見せたのは、お待ちかねの右。


(ここっ!!)


駄目だったら仕方ないというくらいの気持ちで、躊躇いなく踏み込んだ。


「シュッ!!」


そして博打が当たり、相手がガードを戻すよりも先にそれはテンプルを捉えていた。


もう考える必要も無いほど効いたのは一目で分かり、ガードなど考えず叩き続ける。


ロープ際に押し込むと、自分でも驚くほど冷静にガードの隙間を探る事が出来た。


必死にガードを固める相手に対し、ここぞとばかりに上と下を打ち分ける。


(勝負所っ!!)


倒す事だけを考え、只々打って打って打ちまくった。


そしてレフェリーが割って入り喜んだのもつかの間、ゴングが耳に届く。





「良くやった。だが、まだまだ終わってないぞ。ここからまだ一山来るかもしれん。」


竹内トレーナーの見立てでは、相手はまだまだ力を残しているらしい。


再度気を引き締め、第四ラウンドを迎えた。


慎重に事を運ぼうとするこちらを見てか、先に打って出たのは向こう。


そして徹底的に中間距離での戦いを強いてくる。


無理に距離を詰めようとすると、全く変わらないモーションから強烈な左が飛んでくるのだ。


(くそっ、ここまで温存してやがったのか?ここに来て……厳しい事してくれる。)


そのままラウンド終盤まで、殆ど一方的にペースを握られてしまう。


だが、残り十秒の合図が鳴った時、一瞬相手に隙が出来たのを見逃さなかった。


踏み込んで一番得意なコンビネーションを放っていくが、ガードの上。


結局流れを取り戻す事が出来ないまま、ゴングが鳴ってしまった。





「あれは左ストレートか。僅かに前傾になるが、瞬時に判断するのは難しいな。大したものだ。まあ、泣いても笑っても次が最後だ。お前の全てを出してこい。」


この人は相変わらず最後まで冷静な人だ。


少し苦笑いを浮かべた後、俺も覚悟を決める。


(俺の全てを出すと言ったら、あれを出さなきゃ始まらないよな。)


疲労から完全には整わない呼吸をそのままに、最終ラウンドのリングへと進み出ていった。


俺がやるべき事は単純明快。


もう一度、一番自信のあるパンチを叩き込む、只それだけだ。


開始早々、その一瞬を探り合う展開になった。


その緊張感からか、観客からも歓声はあまり聞こえず、息を呑むような時間が続く。


(狙ってるのか…。分かってても…打たなきゃならない。大丈夫だ。こいつには見切れない。)


ピリピリとした緊張感が続く中、すり減っていく精神を無理矢理にでも慰める。


そうでもして縋らなければ、とても耐えられそうになかった。


そして探り合う様に伸ばしてきた左を叩き落した瞬間、勝負に出る。


下に叩いた反動で、返す様に踏み込みながら真っ直ぐ左を伸ばした。


「シュッ!!」


放たれたのは、最も自信のあるパンチ、そしてコンビネーション。


だがその左フックは相手の鼻先を掠めるに留まり、対して、同時に放たれた相手の右ストレートは俺の顎をしっかりと捉えていた。


「………っ!!?」


ぐにゃりと景色が歪み、酩酊しているかの様に世界が揺れる。


連打を浴びている事は分かったが、途切れ途切れの意識が正確に状況を認識させてくれない。


それでも敗北を体が拒否した。


体に刷り込まれているパンチを、朦朧とする意識の中がむしゃらに振り回す。


だが、意志だけでは最早足が支えてはくれなかった。


「………フォーッ!ファイブッ!シックスッ!…………」


カウントエイトで立ち上がると、歪む景色に立つ相手を睨み返す。


「まだ…やれ…る。見れば…分かるでしょ?続行…ですよね……?」


俺の顔を覗き込むレフェリーに、強い意志を示したつもりだ。


「ボックス!」


響く声に口角を吊り上げ歩を進めて行くと、相手はファイティングポーズを取っていなかった。


既に終わっている事に気付き、健闘を称える軽い挨拶を済ませた後コーナーに戻る。


そこには、いつもとは違い労う様な優しい表情を浮かべた竹内トレーナーがいた。


「良い試合だった。ゆっくり休んでいろ。」


判定の結果は聞くまでもなく分かっている。


これで俺が勝っていたらとんでもない贔屓判定だ。


そして当然敗北が告げられた後、インタビューを受ける遠宮選手を背にリングを降りた。





「紙一重の差だったな。だが、お前もまだまだ伸びる。勿論、やる気次第だがな。」


一つの区切りになったと思っていた。


この先ボクシングを続けていくのかどうか、今の俺には分からない。





会場を出ると、応援に来てくれた元チームメイト達が思い思いの表情で迎えてくれた。


「和人っ、お前すげえじゃん。俺感動しちゃったよ。お前のあんな必死な顔、初めて見たかもな。」


「俺もそう思った。凄かったぜ和人。次の試合決まったら教えろよ。絶対見に来るから!」


皆の顔は興奮冷めやらぬと言った感じで、その感動を与えたのが俺という事実に涙が零れそうになった。


野球では殆どブルペンを温めるだけだった俺が、こんなに注目されている。


負けはしたが、努力がこんなに報われたと感じたのは初めての事かもしれない。


「ありがとな。試合決まったら教えるからよ。次は絶対に勝つから応援頼むわ。」


気付けば、先程迄の迷いは消えていた。


人生の中で、初めて誰かに感動を与える事が出来た。


そして、誰かが俺に期待してくれている。


現金なもので、それだけで俺の中には、これでもかという程のやる気が満ち始めていた。

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