王国最強の魔法使いですが、呪文が長すぎて日常生活に支障をきたしています。

砂糖かえで

まもなく夜が明ける

 偉大なる魔法使いマジナ・ガイデスの朝は早い。


「ふっ、ふっ、ふっ」


 健康維持の体操から始まり、


「……ああ、うまい」


 喉を労る特別製のお茶を飲むことでようやく幕を開ける。


 魔法使いの仕事はある一定の領域を超えると体力勝負になる。知的労働だからと言い訳をして本を読み漁っていいのは学生の時まで。


「今日の依頼は……」


 マジナは机の上の依頼帳を開く。


 今日の依頼は王国内で悪事を働く中位魔族の討伐。大好物の馬糞を上空から撒き散らすという冷酷無比なその所業に近隣住民から多くの苦情が寄せられている。


「なんてやつだ。許せない」


 思わずその手に力が入る。マジナは一刻も早い解決のために書斎の本棚から相手に有効な魔法の検索を始めた。


「汚いやつには……これだな」


 手に取ったのは浄化魔法の本。中にはおびただしい量の呪文が記されている。


 されどここは最高位の魔法使いマジナ。その全てを暗記していた。本の検索はあくまで確認に過ぎない。


 魔法は強さの段階が上がるごとに比例してその呪文量も増えていく。だから魔法の素質以外に求められる三種の技術。記憶力・滑舌・早口。この三つ全てが最高水準のマジナはまさに天才だった。


「よし。決まりだ」


 本を棚に戻してその場で静かに詠唱を始めるマジナ。


「旦那さま。朝ごはんができました」

「はーい! あっ……」


 しかし日常には思ったよりも障害が多い。


「しまった……」


 詠唱が途切れてしまうとまた最初からやり直しとなる。呪文が長くなれば長くなるほどその負担は大きくなり、ひいては日常生活に支障をきたすほどに。


 再び呪文を唱えながら居間へ向かうと、そこには朝食が用意されていた。


「おはようございます。今日も良い天気ですね」


 笑顔で迎えてくれたのはお手伝いさんのアロマ・テラピーさん。ヒト族よりも長生きのエルフ族だ。見た目だけでなく包容力のあるその美しさはいつも変わらずマジナの精神的疲労も癒している。


 ともに席に着いて朝食を食べ始める二人。片方がブツブツと詠唱を続ける異様な朝の光景だがアロマさんはもう慣れっこ。


「そういえば昨日、近所の方に新鮮な野菜をお裾分けしてもらったんですよ。ですから今晩は野菜を中心にした料理を作りますね」


 言葉を返せないマジナは何度もうなずいて応えた。


「はい。たくさん作りますね。あとは、そうですね。もしお暇でしたら一緒にお出かけしませんか? もちろんお仕事のあとに」


 マジナは頭を大きく振って肯定の意を示した。


「良かった。ではこれ以上お邪魔になるといけませんので、私は静かにしていますね」


 微笑むその姿は女神のようでマジナは派遣してくれた大臣に今一度感謝した。


 ###


 食事のあともブツブツと呟きながらマジナは支度を済ませた。


「お気をつけて、いってらっしゃいませ」


 アロマさんの優しさを背に家を出ていざ依頼の敵がいるとされる場所へ。


 偉大なる魔法使いは近隣住民との挨拶も欠かさない。たとえ詠唱中であろうが手を振るだけでみんな優しく応えてくれる。


「お母さん。あの人ずっと一人で喋ってるよ」

「こらっ、見ちゃいけません」


 撤回。中には理解のない人たちもいる。


 閑静とは言えない住宅街から何度も角を曲がった先の丘の上にある大聖堂。その屋根の上にやつはいた。


「人間どもはなぜこのうまさが分からぬのだ!」


 中位魔族のバフンスキーは馬糞を有機肥料として使う人間たちが許せなかった。


 畑の土がふかふかになり保水性に優れていることから土壌改善にも繋がってなおかつ病気に強い作物が育つなどと真っ当な言い分を繰り返すことが心の底から許せなかった。


 彼にとって馬糞は食料でそれをまさしく糞のように扱う人間たちは敵でしかない。だから目を覚まさせるために上空からお裾分け感覚で配っていた。


 石畳の階段をあがっていくと大聖堂が見えた。マジナの詠唱はすでに最終章で引き金となる言詞を唱えればいつでも魔法が発動可能な状態だった。


「む? 人間か?」


 マジナの姿に気づいたバフンスキーが屋根から下りてくる。


「おい、そこの人間。正しき馬糞のあり方を百文字以内で答えろ。さもなくば」

「――浄化の精霊よ、我に力貸したまえ!」

「な、なぬっ!? お前はまさか!」


 もう遅い。日常のありふれたひと時を犠牲にして練り上げられたマジナのその魔法は純白の奔流となってバフンスキーを襲う。


「ぐおあ! か、からだがあ!」


 空間ごと捻じ曲がっていくバフンスキー。いくら強大な魔力を持つ中位魔族といえどもそこから逃れる術はない。


 初見殺しの異名を持つマジナは魔族たちの間で恐れられていた。神出鬼没で一度出会ったら最後だと。「あれ、最近あいつ見ないよね?」ってなったらもうそれである。


 バフンスキーは断末魔の叫びを残して魔力の渦中に消え去った。あとに残ったものを拾い上げるマジナ。


「……鶏糞じゃないか」


 拾ったことを後悔。慌てて手を払った。


 このように本来の意味とは違う文字通りの汚れ仕事を引き受けることもある。偉大なる魔法使いの仕事も楽ではない。


 そのあと依頼の完遂を報告するために大臣の住まう東壁御所へ赴いた。


「おお! これはこれはマジナ殿。お元気そうでなによりです」


 奥から出てきた恰幅の良い男がこの王国の大臣。だいぶ儲かっているみたいで開いた口から覗く歯は全て金色に輝いていた。


「大臣。これが今日の依頼の……」


 マジナは懐から取り出した依頼書を大臣に手渡した。何度も練習を重ねた末に生み出された無駄に複雑な署名入り。


「確認しました。おかげさまでまたこの国の民に平和が戻りました」


 上から下まで流し読みで済ませる大臣。契約書はよく読まずに同意する性格。


「ではこれで」

「マジナ殿。今後もよろしくお願いいたします」


 業務的な挨拶を交わして帰路につくマジナ。


 ###


 家に帰るとアロマさんが身支度を済ませて待っていた。美しい。


「ああ、旦那さま。おかえりなさいませ」

「今からお出かけ?」

「はい。もしよろしければ」

「分かった。で、どこへ行くんだ?」

「ヨクトレル公園へ薬草の調達に。蓄えが少なくなってきましたので」

「それは大事だな。じゃあ行こう」


 薬師の国家資格を持つアロマさんは体調面でもマジナを支えていた。喉を労る特別なお茶や頭痛・腹痛・神経痛に効く薬も自ら調合している。


 中でも腹痛に効く薬は最も重要である。なぜなら腹痛は別名大魔法使い殺しと呼ばれているからだ。


 思い出してみてほしい。不意に訪れた腹痛のことを。その時人間は物事に集中できるだろうか。答えは否。だから長い詠唱に集中できなくなる腹痛は魔法使いの天敵であった。


 その昔、世界を恐怖に陥れた魔王も意図的に便意を催させる大魔法を使っていた。当時の魔法使いたちは便所紙の束を抱えて果敢に応戦していたという。

 それがきっかけとなり魔法使いには薬師の資格を持つ者の助けが付き物となった。


「あ、これは珍しい」


 公園で薬草を摘み取って喜ぶアロマさんの姿を眺めるマジナ。このひと時が何よりも尊いと鶏糞に汚れた手を今さらながら噴水で洗っている。


「旦那さま。こちらへ」


 呼ばれていくとアロマさんが一本の鮮やかな赤の花を見せてくれた。


「この国ではあまり見かけることがないのですが、私の故郷ではこの花がたくさん咲いていました」

「へえ、そうなんだ」


 エルフ族の村は人里離れた森の中に点在していて他の種族の立ち入りを原則禁止としている。数ヶ月前には異世界からやってきたというヒト族の男が不法侵入により捕まった。彼は「俺は最強なんだ。なんだってできるんだ」などと意味不明な言動を繰り返しており、王国側に引き渡されたのち収監された。懲役三年だという。


「持ち帰って家に飾りましょうか」

「そうだね。綺麗だし」


 そのあと寄り道の散歩をしながら家に帰った二人。ご機嫌なアロマさんは持ち帰った花を花瓶に生けて嬉しそうにしている。


 ふとその花の花言葉が気になったマジナは書斎の図鑑で調べてみた。


 花言葉。人嫌い。報われぬ恋。あなたの死を望みます。


 そのどれもがあまりにも不吉。マジナは図鑑をパタンと閉じてこう願った。


 できるだけ早く枯れますように、と。


 ###


 今日の依頼は特殊でこの国の王子・王女への謁見。今度発売される初の写真集についての綿密な打ち合わせがある。


「手直しするには……これだな」


 マジナが手に取ったのは修正魔法の本。この世界に写真機なるものが持ち込まれてから早五年。当時の人々は現実の一場面が切り取れると熱狂していたが、今ではその切り取った一場面にこれでもかというほどの修正を施している。


 人はみな欲張りで醜い現実よりも美しい虚構を選ぶ。おかげで修正魔法の得意な魔法使いは需要がうなぎのぼり。写真産業は急速に発展を遂げた。


 しかしその裏では粗製濫造による表紙詐欺という言葉が生まれて多くの人々を苦しめていた。


 ###


 王族の住まう宮殿に秘密の裏口から入っていくマジナ。宮殿内の執事や侍女はもう慣れているので目が合っても何も言わない。以前は不審者として扱われたが、今では独り言ブツブツお兄さんでまかり通っている。


 約束の部屋を訪れると、中で王子と王女が優雅にお茶を飲みながら待っていた。


「ああ、マジナ様」

「お越しいただきありがとうございます」


 この国の至宝が二つ振り向く。その顔は個性的で非常に味わい深く好きな人は好きと言うであろう。


「申し訳ないのですがさっそく依頼のほうに」

 と言って王女が差し出してきたのは発売前の写真集。すでに撮り終えていてあとは手直しを加えるだけ。


「もちろん。そのために来ましたから」


 マジナはそれを受け取って用意された椅子に腰を下ろした。


「うーん……」

「どうでしょうか……?」


 真剣に頁を繰るマジナを見て王子が問う。


「そうですね。お二方とも本当にお美しい限りで特段手を加えるようなところはないのですが。細かい部分が気になってしまう性格でして。たとえばこの辺り。余計な物が映り込んでいますね。それらを丁寧に直していって完璧な作品に仕上げましょう」


 嘘。本当は全編を通しての徹底的な修正が必要。


「そう言っていただけて安心しました。ではよろしくお願いします」


 王女はぎこちない笑顔を見せてマジナの手をぎゅっと握った。


「お任せください」


 偉大なる魔法使いに不可能はない。たとえそれが空想を現実に変えるほどの大掛かりなものであったとしても。


 現像に使う原板と写真集を見比べながら一人でブツブツと呟いては修正の必要な箇所をなぞっていくマジナ。普通の魔法使いならそのあまりの途方もなさに精神がやられてしまうところだが、神速のごとき手捌きで的確に修正していった。


 ###


「……完璧な仕上がりだ」


 自画自賛したくなるような出来栄えにマジナは思わず息を呑む。目を閉じるとまぶたの裏に写真集が発売された日の光景が浮かんできた。


 書店に平積みの写真集。それを求めて国民が大きな行列を作っている。手に取った国民の喜ぶ顔が見える。そしてその声も聞こえてくるではないか。


「おいおい美化しすぎ」

「全編詐欺じゃん」

「こっちが本当ならなあ」


 そこでマジナはふと我に返った。どうやら抑えきれない本心が想像にまで影響を及ぼしてしまったらしい。


「作業のほうは順調でしょうか?」

「ああ、姫様。丁度良いところへ。どうかこれをお納めください」


 マジナは経過を確認しにきた王女に修正後の原板を手渡した。


「まあ! もうお出来になったのですか?」

「はい。私の力を以ってすればこの程度容易いものです」

「さすがはマジナ様。素晴らしいです」

 そう言って王女は原板を光に透かして見てみた。


 偉大なる魔法使いに抜かりはない。こんなこともあろうかと二人にはすでに認識をずらす洗脳の魔法をかけてある。これでたとえ修正後の写真が原型から程遠いものになっていたとしても不思議には思わない。


 地味に辛い依頼だったとマジナは凝った肩を手で揉みほぐしながら宮殿を出た。そのあとお腹が減ったので何か食べようと商店街へ向かった。すると一番弟子のヤラカスにばったりと出会った。


「師匠!」

「ああ、ヤラカスか」

「お久しぶりです!」


 ヤラカスは褐色肌の元気な青年で将来有望な魔法使いの卵。魔法学院直々の申し入れによりマジナは仕方なく生徒たちを弟子として引き受けていた。

 その中でも一際目立っていたのがヤラカスだった。


「元気そうだな、相変わらず」

「はい! 一意専心魔法の勉学に取り組んでいます」


 太陽のようなその笑顔が眩しい。偉大なる魔法使いは陰気なのでこのような陽属性の人間とは相性が良くない。

 だからあまり関わりたくないとマジナは思っているのだが、それとは裏腹に彼は師として崇めている。


「師匠はこんなところで何をされているんですか?」

「お腹が空いたから店を探してるんだよ」

「ならおすすめのお店があります! ぜひ! そちらへ!」

 ヤラカスはずいと近づいて両腕を上下に振った。


「うまいのか?」

「はい!」

「本当か?」

「はい!」

「安い?」

「はい!」

「早い?」

「はい!」

「まずい?」

「いいえ!」


 ヤラカスはマジナのくだらない悪戯には引っかからなかった。


「よし。じゃあそこへ行こう」

「ではこちらへ。ついてきてください!」


 そう案内されて向かったのは商店街の中でも端のほうにある小さな料理店。


 偉大なる魔法使いは味にもうるさい。金貨百枚と銅貨一枚のお酒を飲み比べて簡単に間違う程度の舌だとしても。


 店にお邪魔すると店主が笑顔で迎えてくれた。老夫婦で長年切り盛りしているらしく店内は年季が入っていた。


 ヤラカスは常連客らしく「いつもので」と言って注文した。初見さんと舐められるのが嫌だったマジナは同じく「いつもので」と返したが、優しそうな店主に分からないと首を横に振られた。


 大恥をかいた。


 しかし料理の腕は抜群でまさしく安い・早い・美味いを体現したものだった。


「……ん?」

「なんでしょうか」


 食事中に店の外から大きな音がした。なにやら騒がしい。


「ちょっと見てきますね」と言ってヤラカスは席を外した。


 気になったのでマジナも皿を持って立ち上がり食べながら店の外に出た。


 するとなんとヤラカスが魔族と対峙しているではないか。


「師匠! ここは俺に任せてください!」


 確かにこの程度の低位魔族なら任せても問題はない。けれどマジナが心配しているのはそこではなかった。


「頼むから控えめで」

「分かってます!」


 ヤラカスが呪文の詠唱を始める。その間にマジナは料理を食べ進めて野次馬は今か今かと待ち続ける。


 当然、敵である魔族が待つはずはない。


「くくく、馬鹿め。貴様が詠唱している間に小魚が三匹も食えるわ!」


 意外と少食だなと思いつつマジナは弟子を見守る。


 襲いかかった魔族を天性の反射神経でかわしていくヤラカス。そうしている間もブツブツと詠唱を続けている。


「――燃えたぎる太陽よ。その片鱗を我に貸し与えたまえ!」


 詠唱を終えたヤラカスは掌を相手に向けた。まばゆい光球が形成されてその大きさを変えていく。それにつれて周囲の温度も上がり野次馬は上着を脱ぐ。


 彼の得意とする陽魔法はお日様の力を借りる強力なもの。だからこそ人間のような小さき器には制御が難しい。


「おい! もう十分だ!」


 マジナは待ったをかけて弟子のもとへ駆け寄る。お皿はちゃんと置いてから。


「いきます!」


 過剰な大きさの光球が放たれて魔族を包み込む。


「なんだあったかいじゃねえか……うっ!」


 光球は内包した魔族ごと急速に収縮して、一気に弾けた。


 マジナは「あっ、もうだめだこれ」と言いたげな顔のまま爆発に飲み込まれた。周囲も同様に巻き込まれて爆風が吹き荒び轟音が鳴り響いた。


 全てが収まって次に見た景色は以前と違っていた。爆心地にぽっかりと大きな穴が開いて周りの建物は見事に崩壊あるいは吹き飛んでいる。


「……あれ、また俺何かやっちゃいました?」と振り返る弟子。

「やったんだよ、馬鹿者が」とマジナはその頭を小突いた。


 だが安心してほしい。死者は一人もいないし大怪我を負った者もいない。

 ヤラカスはこのように魔法でやらかすことが多いが、なぜか毎回決まって重傷者は出ないのだ。それは誠に太陽神の思し召しかもしれない。


 それでも賠償の問題は重くのしかかる。馬鹿だけど可愛い弟子のためにここはマジナが一肌脱ぐしかあるまい。


 マジナはヤラカスとともに歩いてまわり、被害にあった住民一人一人に補償の約束をした。こういう時に偉大なる魔法使いの名は重宝する。


 もちろん補償の請求先は魔法学院。税金で潤っているのだから問題はない。


「……師匠。いつもいつも申し訳ありません。己の腕が未熟なばかりに」

「気にするな。民が痛んでも俺の懐は痛まないからな」


 偉大なる魔法使いはお金をとても大事にしている。それは貧しい家庭で生まれ育ったことによる反動だった。


 ###


 それから数週間後に商店街の復旧工事が始まった。被害の請求先となった魔法学院はひどくお冠でマジナに何度も書状を送りつけた。


 だがしかし当の本人は意に介さない態度で今日も優雅に特製のお茶を飲んでいた。なんたってこちらには本当の冠をつけた人たちがいるし、自分王国最強の魔法使いだし、というようなふうに。


「……うまい。もう一杯」

「はい。どうぞ」


 この日も美しいアロマさんが容器にお茶を注いでくれる。


 視界の端に見えるあの憎たらしい花は枯れるどころかすくすくと元気に育っていた。それは愛のなせる技だが、その愛は時に誰かを殺しうるということをアロマさんにも知ってほしいマジナだった。


 そんな落ち着いた朝のひと時に突如として警鐘が鳴らされた。


「なんだ、なんだ」

「物騒ですね。旦那さまはここにいてください」


 主人の代わりにアロマさんが外の様子を確認しにいった。


 好奇心旺盛なマジナが窓から外へ目をやると、アロマさんと兵士風の知らない男が立ち話をしていた。その表情から察するに有事に備えた訓練などではないことが分かる。本当に何か良くないことがこの国に起きているのだ。


 戻ってきたアロマさんが真剣な眼差しでこう伝える。


「旦那さま。魔族の軍勢がこの国に侵攻を始めたようです」

「魔族の軍勢だと?」


 偏見の塊のような魔族たちは常にぶつかり合っていて群れることを好まない。だからそんな彼らの統率がとれていることにマジナは驚いた。


 軍勢ともなれば、その裏に強大な力を持つ存在がいるか、一致団結もいとわないほどの強烈な動機ができたかの二択しかない。


「彼らの主張は?」

「なんでも先日発売された写真集について不満があるようで」

「ははは。あいつらも写真集買うんだ。しかもそれが侵攻の動機と来た。馬鹿だなあ、あいつら。で、その写真集は誰の?」

「この国の王子様と王女様のです」

「…………」


 マジナは思わず真顔になった。まさか魔族が人間の、それもヒト族の写真集を買っているとは思わなかったのだ。


「……どういう不満があるんだ? あの馬鹿どもは」

「私もそこまでは分かりません。魔族の考えることですから」


 遅れて城のほうから使者が送られてきた。彼が言うには王様直々にこの状況を打破できるのはあの男しかいないとマジナに白羽の矢が立ったとのこと。


「その任、引き受けよう」


 元々自分の撒いた種。尻拭いは自分でする。と思っていそうな顔をしながらその実ただ写真集の制作者として腹を立てているだけだった。


 さっそく書斎に入ったマジナは対軍魔法の本を手に取った。魔族の大群を鎮圧させるとなるとその呪文量は跳ね上がる。


 三日だ。偉大なる魔法使いといえどもそれだけの時間がかかる。その間はもちろん寝食もままならない。


 王宮お抱えの魔法使いによると軍勢がこの王都にたどり着くまでおよそ三日。時間との勝負だ。


 このような大規模な詠唱の際には監視塔の独房で精神統一をしながら過ごすのが偉大なる魔法使いの流儀。


 マジナはアロマさんとともに支度をして家を出る。外には屈強な兵士たちがいた。彼らは詠唱中のマジナを守り通す王国の護衛隊。


「行きましょう」とアロマさんが告げて一行は出発した。


 時間が惜しいのでマジナはすでに魔法の呪文を詠んでいる。ふと空を見上げると翼を持つ魔族の先遣隊がすでに来ていた。まだ数は少ないがこれから増えていくだろう。


「――お前、マジナ・ガイデスだな」


 上から声がした。振り向くとそこには男の夢魔がいた。


「ここは私が。旦那さまはお先に早く」


 アロマさんが前に立ちはだかった。多才ゆえに魔法を使って応戦することもできるが今回は相手が悪い。なぜなら男の夢魔は女に対して強力な誘惑魔法を使えるからだ。


「ご心配には及びません。ヒト族の定義だとこの私は男ですから彼奴の魔法にはかからないはずです」

「えっ!?」


 マジナは思わず声を漏らした。


 数年越しに打ち明けられた真実に開いた口が塞がらない。詠唱も止まってしまったがもはやそれどころではない。


「マジナ様。ここは任せて急ぎましょう」

「えっ!? でもでもっ! いまのあれっ! えっ!? ちょっと!?」


 屈強な護衛の兵士たちに肩を抱かれて無理やり連れていかれるマジナ。


 偉大なる魔法使いは監視塔に到着するまで放心状態だった。独房に入ると再び最初から魔法の詠唱を始めたが、その頭の中は雑念でいっぱいだった。


 あのアロマさんが男。そういえば性別を尋ねたことは……。エルフ族は性別を気にしない種族だったような……。


 本当にそんな雑念でいっぱいだった。


 ###


 過度の精神統一により人は時として悟りの域に達する。三日目の朝、独房から出てきたマジナの顔は別人のように晴々としていた。


 王都を取り囲む高い壁。その壁の上に立った偉大なる魔法使いは迫りくる魔族の軍勢を見渡した。


「大地の女神よ、生きとし生けるものの母よ、我にその子らをあやしつかす権能の一部を分け与えたまえ」


 マジナはそう唱えた。そして次にこう言った。


「平伏せよ!」


 その言葉で魔族の軍勢が一斉に平伏した。空を飛んでいた者たちも地に落ちる。


「主張せよ! 各々の言葉で!」


 開眼した偉大なる魔法使いは心がとても広い。不満について話す機会を魔族たちに与えた。すると彼らは口々に主張を始めた。


「ふむふむ。なるほど」


 全ての声が聞こえてくる。口調や言語は違えども中身は同じ。


 以前からこの国の王子と王女は魔族たちの間で絶大な人気を博していた。初の写真集ということもありその期待は天にも登る勢いだったという。


 しかしながら偉大なる魔法使いの超絶技巧によって変えられたそれは彼らの美の価値基準からすればひどく醜いものだったらしい。そのために今回の大規模な抗議活動ひいては王都侵攻にまで発展したようだ。


 実に馬鹿馬鹿しい理由。だがつい先日、美の価値基準について深く考えさせられたマジナにとっては他人事ではない。


 美的感覚は人によって様々。種族を隔てたならなおさらだ。


 魔法の効力下でマジナはただ彼らに声を届ける。それは命令ではない。


「ものども! お前たちの主張はしかと聞き入れた! 王国最強にして最高の魔法使いマジナ・ガイデスがここに誓おう! 地域限定で無修正版を販売すると!」


 その瞬間、全ての魔族たちが歓喜に溢れた。中には涙を流すものや嬉しさのあまり気絶するものもいた。


「これより我が国は無修正版の量産体制に入る! 延期にさせたくなければ邪魔をするな! とっとと家に帰って待っていろ!」


 その高らかな声明で魔族たちは一斉に撤退を始めた。


 これが後の世に伝わる無血懐柔の変である。


 ###


 またしても王国の窮地を救ってしまったマジナは民草から一銭にもならない称賛の声をこれでもかというほど浴びた。


 代わりに王様から金銀財宝を賜った。王女様からは密会のお誘いが来たが丁重にお断りした。


 無修正版写真集の量産は辺鄙な土地にある印刷工場で秘密裏におこなわれていた。今のところ順調に進んでいて、来月にも魔族が多く暮らす国にて初版が出版される見込みだ。


 大々的にしないのは無修正版の存在をできるだけ隠匿するためだった。あの時マジナがわざわざ地域限定と付け加えていたのも国内で出回らないようにするための保険だったのだ。


「……ああ、うまい」


 今日も朝から特別製のお茶を飲んで喉を労る。台所へ目をやるとアロマさんはどうやらお菓子作りをしている様子。可愛い。


 性別が分かってからもマジナの気持ちは変わっていない。ただ見る目が少し変わっただけだ。


 付いていないはずの美人から付いているかもしれない美人へ。


 アロマさんが生けたあの憎たらしい赤の花は数日前にとうとう枯れた。ざまあみろと喜んでいたマジナだったが、次の日に摘んできたとかで三本に増えた。


 お茶を飲み干したマジナは書斎に向かった。その種類によって装丁が違う魔法の本がずらりと並ぶ。その中から一冊を選んで手に取った。


 偉大なる魔法使いマジナ・ガイデスは今日も依頼のために長ったらしい呪文を唱える。


「旦那さま。焼き菓子はいかがですか?」

「はーい! あっ……」


 やはり日常には思ったよりも障害が多い。



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王国最強の魔法使いですが、呪文が長すぎて日常生活に支障をきたしています。 砂糖かえで @MapleSyrupEX

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