偉大なる逃走

くわばらやすなり

偉大なる逃走

 シフトに入る日は毎回お叱りを受けているが、今回ばかりはどうしようもないと思った。深夜0時に二階に来るように指示され、暗く窮屈な階段を上っていく僕。後ろではベトナム出身の先輩が厨房とホールを一人でせわしなく行き来していた。

あの小太りな岩井店長は全身で不機嫌を表現する人のよくある座り方で待ち構えていた。もうこの時点で心臓に2倍の重力がかかる。かつて焼肉も出していたという二階はもう使われなくなっており、整然とした室内には二人と重苦しい空気があるだけだった。


「今日なんで呼び出されたのか分かってる?まず聞くけどさ」


 慌ただしくて一日中監視されていたら十回ぐらいキレられているはずだ。ミスが多すぎて見当もつかないところで説教されるのはこっちが受ける準備もできないのでたまったもんじゃない。

 とりあえず過去最高級に申し訳なさそうな表情で沈黙して待った。

 店長はテーブルにカタカタと指全体を小刻みに打ち付けながら、へぇ~~~~~っと電子タバコの白煙を吐いた。副流煙が彼自身の攻撃性を含んでいて僕の肺まで痛くなりそうだ。


「社長が今日の接客で苦情のメールを貰ったそうだけど、これ対応したの吉澤、お前だもんな」


 店長は全体LINEに張り付けられた文面をまず見せたあと、それを音読し始めた。

 あの対応は間違いなく僕だった。21時半ごろだったか、中年男性がカウンター席で注文したおつまみの塩キャベツが届けられず、しばらくしてそれを指摘されたが結局時間が間に合わずその客はもういいと言って帰ってしまった。店長が外に出てた時に起こった出来事であった。

 インターネット文化ではクレームは入れるほうに問題があるのが自然、という感覚なので実際に遭遇すると妙に困惑してしまった。まあ僕がミスったとはいえバイト始めたばかりの大学生(つまり僕のことだ)と外国人労働者の2人で繁忙期のラーメン屋を回している異常な日本の労働状況を鑑みるべきだろうとすら思った。


「でさあ、結局注文通らなかった塩キャベツのお代まで取ったってわけ?」


 もちろん座ることは許されず、立たされながら詰められる。


「あっ、いやそれは」


「なに」


「それは会計のときに引いたと思います」


「でもこのメールにはその分まで取られたって書いてあるんだけど、どうなのこれ。まあこれはお金に関することだから後で調べるよ。レジには記録が残ってるからここで嘘ついてもバレるから」


 店長はまた威圧的に座りなおしてタバコを吸った。


「こういうミスするのはまだしょうがないよ、入って一ヶ月もないからそれは仕方ないとしてもよ。大事なのは指摘されたらまず謝ることじゃないの」


「あの、会計の時に、申し訳ございませんって、一回言ったんですけど…」


雰囲気に委縮して以上に小さい声が出た。


「そん時もそんな感じで言ったの。吉澤さあ、それ謝ってないからね」


 店長はなおも座ったまま僕を見上げていた。圧力をかけられている僕のほうが目線が高い違和感がさらに具合を悪くさせる。この演出を狙ってやっているなら相当な手練れではないだろうか。


「店にとって誰が一番大事だと思う?お客さんでしょ。お客さんからして見れば吉澤が新人のバイトだからとか忙しいからってのは関係なくって、客に伝わってない態度のやつは接客とは呼ばないんだよ。まあ今回は苦情入れてきたのが社長の友達だったからこう言ってくれてよかったけど、これが初めてのお客さんだったら何も言われないよ。俺等が知らない間にお客が離れてっちゃうの、吉澤じゃ責任取れないでしょ」


 責任、というなんとなく苦手な単語が出た。責任つったって何すりゃいいんだ。


「いまは大学生でバイトだから全然失敗していいよ。責任は俺等が取るからさ、せめて申し訳ございませんでしたって接客で謝るのはちゃんとやってよ」


 失敗していいだって?じゃあ今の説教はなんなんだ。若者は失敗を恐れるなとかチャレンジしていけとかいう言葉、大嫌いだ。そういう応援もどきの赤紙を放った口で怒鳴るんだろうが。僕が失敗したくないのは、真面目にやってるのは、ひとえにこいつらみたいな大人のせいだ。

〈自分このバイト向いてないので辞めます〉

 今こそ伝えるべきではないか。胸に秘めたこの言葉を。強迫観念のように〝行け、行け〟とこだまが渦巻く。

 だいたい、心では真面目にやろうとしてるのにいつも失敗ばかりしてるのは自分が本格的に飲食業と相性が悪いからに違いない。毎日出勤前にsyrup16gの『土曜日』と『これで終わり』を聴いて精神を安定させる生活など、尋常ではない。心身ともに健康を守るため、ここはきっぱりとストレスの原因である職場や岩井店長を拒絶する意思を表明するべきでは……


「………………………………………………………………」


 最初の声を絞り出そうと踏ん張る。じっと機会をうかがう。一方で今を逃したら一生切り出せなくなるぞ、と自分に発破をかける。


「…………っ」


 急に身体がすすり泣き始める。畜生、ここでもなのか。

 いつもそうだ。自分より立場が上の人間に何か言い返そうとするといつも思うように喋れず、どもってしまう。中学生のとき真面目な教師にヘラヘラと屁理屈をこねて反抗していた弓野くんや長瀬くんのように、5ちゃんねるやツイッターで鮮やかにレスバトルを繰り広げる人達のように、立て板に水のごとく言葉を紡ぎだすことが今まで一度も出来たことがない。

 突然泣いてしまったので流石に岩井店長も困惑したらしく、態度が軟化した。


「まあ吉澤くんが頑張ってるのはわかるよ、だからもっと仕事に自信を持ってほしいってことよ、ほら。自分で何に気を付けるのかはちゃんと分かってるんだからさ、自信持って続ければ吉澤は必ず成長する、それは保証する」


 そうやってなあなあに帰されても家に着いたとき時刻はもう深夜1時過ぎていて、それでも僕はまだ泣いていたと思う。

 感情が高ぶって涙を流すとプロラクチン(脳から分泌されるホルモン)やACTH(副腎皮質刺激ホルモン)、コルチゾール(副腎皮質ホルモン)といったストレス物質が体から排出されリラックス効果があるのだという。昨日あんな出来事があったのに、その日の寝覚めは驚くほど清々しいものだった。


 僕の人生に障壁というか天敵のように立ちふさがる人物の類型に岩井という男はぴたりと嵌まった。今思い返してみれば、様々な手段を使ってそういう類の大人を回避する方法があったはずである。

 例えば中学生の時分、僕は卓球部に所属していてその顧問が黒川先生という人だったのだが、あれは反芻するだにストレスフルな毎日だった。毎日卓球場の扉から小太りのあの男が入ってくるのを見ていつ何時練習態度とか挨拶の声が小さいとかで怒鳴りだすのだろうかというサスペンスに耐え続けなければいけなかった。自分のことでなくても他の部員があいつに怒られている声が聞こえるだけでもぞっとするので対外試合がある日などは出来るだけ自分のチームから離れるように頭を使うばかりであった。

 辞めます、というたった一言を伝えられなかったせいで僕は卓球部に3年間も在籍し、ぐうたらで無責任でのびやかで輝かしいモラトリアムを失ったのであった。あのときNOと言えなかった経験が今の自分を作っていることを考えると腸が煮えくり返ることすらある。

 こういうことを他人に話すと「ああいう所で踏ん張らないと逃げ癖がついて将来大変だよ、逃げなかった吉澤君は立派だ」とか気休めにもならないことを言われるのだが、「逃げることは立派な生存戦略のひとつだろ、何を言ってるんだろう?」と今でも思う。

 その点、ブラックな会社を辞めたとか恐怖政治の理不尽な教師を言い負かしたとか不登校でゲームをやって上達したとか、インターネットの世界にいる人達はなんてたくましいのだろうと思った。僕の人格的成長を促してくれたのは高圧的な学校ではなく5ちゃんねるやツイッターであるのだった。

 僕の悩みに有益な情報をもたらしてくれたのもインターネットであった。世の中にはHSP(ハイリ―・センシティブ・パーソン)という気質の人達がいて、あらゆる刺激に対して敏感な彼等は怒鳴り声や気迫、周囲から向けられる視線などの刺激に特に強く反応してしまい、普通の人より怒られることが苦手であるというのをとあるツイートで知ったのだが、それを見つけた時の喜びといったらもう地獄で仏といったところだろうか。あれはまさしく僕のことだ。共有なんかできないと思っていた僕の心の問題は実はおおやけに研究されていて、理解者がたくさんいるのだ。また、日本以外の国では怒鳴ることも立派な暴力行為であるという認識があり裁判で訴えられることもあるという知識もインターネットから得ることができた。ということは、問題なのは異常に怖がる自分ではなく僕の体質を考慮せずブチギレまくる圧力者のほうにあるのだと考えて、非常に勇気づけられた。




「今日やたら気合い入ってたじゃん。何かあったの?」


 翌日の閉店後、一緒に厨房の清掃をしていた仲野先輩が訪ねてきた。先輩は僕と同じ学部で、3回留年したためもう後がないのだそうだ。


「いや、ちょっと」


「昨日のアレのことだったらマジで気にしなくていいよ。あんなことよくあるもん。それよか全体LINEでメールを晒す社長のクソジジイが悪いよ」


 先輩は軽く笑いかける。

 細長い厨房の床に液体洗剤をかけ、ブラシで全体をこすってからバケツにくんだ水を流す。カッパギ(水切りワイパー)を使って中央にある排水溝に汚水が流れるように集めるのだが、排水溝がつまっていて水の流れが悪かった。グレーチングを外すと、動物園の獣臭いにおいが鼻を突いた。今まで排水溝に落とされた油汚れが固まってゼリー状になっていることがわかった。


「1ヶ月くらいこの中を掃除してなかったからね。昔は岩井さんが週に3回くらいやってたんだよ。マメな人でね」


 このラーメン屋が屋台から店舗に移り変わる初期の段階から、岩井店長は細かいところまで自分で積極的に店の管理をしていて誰よりも遅くまで働いたという話を先輩はしてくれた。

 それを聞いて僕は、ああ、最初から感じていたが、岩井店長は世間一般でいう所の「悪い人」ではないんだ、むしろ「いい人」なんだということをと改めて突き付けられた。

 この店にバイトの面接に来た時に対応してくれたのが岩井店長だったのだが、これが初めてのバイトであるということを告げると彼はこう言った。


「いろいろ厳しいこともあるかもしれないけど、働くってそういうことだから」


 出勤初日から慌ただしく頭と身体を動かし、慣れない身の上で情報量の多過ぎる仕事を捌ききれなくなると、ミスをして店長からよく怒られた。そして物覚えがあまり良いほうではない僕は同じミスを何度かやるわけで、その度に店長は語気を強くして迫った。そして最後には必ずといっていいほどあの言葉を付け加えた。


「働くってそういうことだから」


 僕にはたまらなく重すぎるプレッシャーだった。

 それと同時に非常に納得のいく言葉だとも思った。金銭の発生する労働には責任を負わなければならない。それが社会のルールだ。ネット上ではラーメンハゲとも呼ばれているあの漫画のキャラクターの言葉が僕に重くのしかかる。

 几帳面で、責任感が強くて、「いい人」。

 彼のそういう所が忌々しく、拒絶したかった。




 岩井店長はとても怖い。なんとしてもこの壁を突破して環境を変えなければならない。これからの人生のために、ビビッて一歩踏み出せない自分から成長することが必要だ。

 緊張すると声が出せなくなってしまうなら、こういう作戦はどうだろうか。

 あらかじめイケてる完璧な台本を書き、それを音読してスマホに録音しておく。こっちから辞職の話を切り出すときにそいつを再生、僕は堂々と口パクで演技をする。タイミングを見計らって一度スラスラと喋ってしまえばもう流れはこっちのもんだろう。終始相手を圧倒、論破して悠々と職場を退出する。

 深夜11時、部屋の中で静かに自分の可能性を噛み締めた。これならいける気がする。怖い大人に面と向かわず、自分が落ち着いてる時の状態を強引に作り出せば、僕は岩井店長の圧力に勝てるかもしれない。これまでこんな画期的な手段を思いついた人間は他にいないのではないか?

まず手始めに相手をアッと言わせるカッチョイイ朗読の練習として、最近タイムラインで見た中でも特にお気に入りのツイートを声に出して読んでみた。


「僕がいちばん嫌いなのは〈とにかく怒る人〉だ。怒る人は〈あなたのために怒ってる〉という論理を振りかざすが実際は自分のためである。本当に相手のためであれば〈怒る〉という手段をとらないだろう。怒りは相手の脳をパニックに陥れ理解力を低下させる。怒る人は自分の怒りを伝染させたいだけなのだ。」


 録音を聞いた瞬間削除してスマホをぶん投げた。なんだこのヘラヘラと気持ち悪い声は。僕が岩井店長だったらムカついてそいつの首を絞めてるところだ。津田健次郎さんや中村悠一さんのような声が欲しい、これほど自分の声が恨めしかったことはない。


 突然、落ちたスマホからLINEの呼び出し音が聞こえた。岩井店長からだ。


「お疲れ様です。こんな時間にごめんね。明日のシフトが変更になって吉澤君は幕張店にヘルプに行くことになりました。あそこは初めてだから俺も一緒に…」


「あの、僕今月いっぱいでバイトやめようと思うんです」


反射的に口から出てしまった。店長も、僕ですらも、これには面食らった。


「えっ、どうしたのいきなり」


吐いた唾は吞めない。もう勢いで行くしかなかった。


「僕この仕事向いてないと思うんです、できもしないことをやって迷惑かけて怒られるの、もうやめたいです」


 二人の間で5秒間もの沈黙があった。どんな反応が返ってくるのか気が気でなく、僕のターンはそこで終了だった。


「逃げるのか、お前」


 店長のその言葉は、二人の空気を一気にあの深夜の二階へ引き込んだ。


「明日、俺は幕張店で待ってるけど、本当に自分のためになることをしろよ、吉澤。もし明日来なかったら、お前クビだから」


 僕はいま、人生の岐路に立っている。駅のホームで、どちらへ行く電車に乗るのかに、僕のこれまでの全てがかかっている。

 長い歴史の中で生存本能により命の火を絶やさず保ってきた動物として、自分で考え、環境を作り変えて霊長の第一種族となった人間として、正しいと思う方に足を進めよう。

 

 もう迷いはなかった。僕は幕張行きとは反対の電車に飛び乗った。

 開かれた道。未来の祝福。とある映画でトム・クルーズが繰り返した台詞。


 誰でも逃げる。

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