身を粉にしたい
柿尊慈
身を粉にしたい
市役所前というバス停でありながら目の前の建物は市民生活センターで、実際の市役所はバス停から10分ほど歩いたところにある。
かつてはきちんと、バス停前の建物が市役所だったのだが、元・市役所は市民生活センターに改築され、少し離れたところに市役所が新しく建設されたのだという。バス停はその頃の名残だが、まれに「全然市役所前じゃないじゃないのよ!」というクレームが来る。
私はここが地元ではないので、市役所前に市役所があった頃のことは知らないのだが、市役所からバス停とは反対方向に少し進むと、宝くじ売り場があることを知っていた。市役所近くのスーパーマーケットに併設されており、買い物帰りの方々が利用していくということだったが、私たち市役所勤めの人たちは、そこのスーパーをあまり利用しないのである。
というのも、市役所に勤める人たちの多くは、バスや自家用車を利用して通勤しているため――つまり、自宅と職場はやや離れているため――職場に近いスーパーよりも自宅近くのスーパーを利用することが大半なのだ。市役所近くのスーパーは、格別何かが安いというわけではないので、わざわざ寄る必要もない。私とて、買い物袋を背負ってバスに乗りたくはなかった。
では、なぜ今私がそのスーパーの方へ歩いているのかというと、「宝くじ売り場」に用があるからである。
30歳を目前にして、収入も安定してきているが、その収入は、何かを為すにはあまりにも少なく、何も為さぬにはあまりにも多すぎるというのが実状だった。数年前に恋人と別れてから、交際費とでもいうべき出費がほぼゼロになってしまい、これといった趣味や友人もつくらずに彼氏との生活を楽しんでいた私は、急にお金を使わなくなってしまった。
生活費は十分に払える。毎月じわじわとお金が貯まっていく。しかし使い道はない。しかし、仕事を辞めて世界1周の旅、なんてことをするには足りない。とにかく、中途半端なのである。株式などで資産運用をしてもいいのだが、1日で資産が倍になるというようなことはありえないだろうし、上り下りを繰り返すグラフと毎日向き合うのはやや息苦しそうだった。
そして、何より私の生活にはスリルがない。業務の中で心臓に悪いハプニングは時折起こるが、楽しさからドキドキするようなことはなかった。かといって、平日の帰宅後は何もする気が起きず、週末も家どころかベッドから出るのも面倒になっている、という具合だ。そうなると、何かを楽しむのは家にいない間――出勤する前か退勤した後――に限られてくる。そこで私が見つけたのが、宝くじだった。正確には、スクラッチである。その場で削って、すぐに結果がわかる上、退勤した後の少しの時間でハラハラできるのだった。そしてもしかすると、「何をするにも中途半端な貯金」の何倍ものお金が手に入るかもしれない。
購入してすぐに削るものの、その場で捨てるのは気が引ける。財布に入れておいて、家で処分するという習慣がついていた。バレて困るものではないが、独身女性の楽しみがスクラッチというのは、競馬やパチンコが趣味なのとそう変わらない気がして、やや周囲の目から隠したかったのだ。私はそんな「隠れスクラッチ」を、かれこれ3年ほど続けている。
しかし、うっかりそれがバレることになった。
「センパイ」
休憩時間。
自販機でコーヒーを買おうと、財布ひとつで歩いている私の背中。そこに、聴き覚えのある男性の声が飛んできた。くるりと振り返る。
「落ちましたよ」
「ああ、ありがと――」
彼の手には、ハズレのスクラッチ。
ハッとして、お礼の言葉を言い切らずに彼の手から奪ってしまった。まずい、こんなところでバレるとは。
「あ、もしかして大当たりのやつでした?」
きょとんとした顔に微笑みを混ぜて、後輩の
「……いいえ、大ハズレよ」
ひったくったスクラッチを財布の側面から差し込む。クシャリと音がして歪んだが、ハズレなので特に問題はない。
問題は、そこではなく……。
「意外ですね。センパイは堅実そうなイメージがありましたが、まさか――」
「悪い?」
やや大袈裟に、不機嫌な声を出す。それを受けて梅川くんは、右の口角を歪ませた。困ったときに彼が見せるクセである。
察しのいい彼は、私がそこそこに機嫌を損ねていることにきちんと気づき、少し真面目な顔をつくった。彼は自分の財布を見せて、自分も外に用があるということをアピールする。後ろをついてくる彼に追い越されないよう、私は前を向いて早足気味に歩いた。
「普段から、スクラッチを?」
歩きながら、梅川くんが話しかけてくる。周囲に聞こえないよう、声をひそめて。気が利くので同性異性問わず人気なのだが、今日はやたらと空気を読まずに関わってくる。
私は右耳を掻いて、できるだけそっけなく答えた。
「いいえ、たまたまよ」
「そうでしたか」
ハズレを毎日処分しておいて正解だった。いや、昨日の分を捨て忘れていたからバレたのだけど……。1週間分貯まっている状態で見つかったなら、「たまたま」という言い訳は難しかっただろう。
「コーヒーでいいですか?」
自販機前で加速した梅川くんは、私よりも先に小銭を投入して、長い指をくるくる動かした。
「こういうときって、私があなたに奢るんじゃないの? 口封じ的な……」
「別に僕は、センパイの趣味を言いふらすつもりはないですから」
「趣味とかじゃなくて、魔が差したってだけで……」
趣味ではないと、しつこいくらいに否定しておく。
ゴトンと音がする。いつも飲んでいる、冷たい缶コーヒー。隣のデスクなだけあって、私の嗜好はある程度知られているようだ。
だがこれ以上、私のことは知られたくない。
「機嫌を損ねてしまったお詫びということで」
「ええ、ありがとう。でも、こんなんじゃ私の機嫌はよくならないわよ」
少し脅してみる。
しかし、困ったときほど笑顔になるのが梅川くんだった。さわやかにコーヒーを渡される。右手がひんやりとしたが、普段よりも冷たく感じて、嫌な予感がした。
地毛らしい彼の茶色い髪がはらりと動く。風が強そうなので、私たちはすぐに戻ることにした。
やはり、その場で捨てておくべきなのかもしれない。
そんなことを考えながら、私は性懲りもなく、今日も10枚のスクラッチを購入する。他のお客が来ても迷惑にならないよう、カウンターの端っこで銀色を削る。宝くじ習慣を始めた頃は、売り場のおばさまに「また来てるわ」という顔をされたものだが、今ではもう気にかけてすらもらえない。
1枚200円のスクラッチ。それを1日10枚買っている。1日2000円かかっているわけだ。仮にひと月に20日の出勤があるとすれば、4万円の出費。
……うん? 4万円?
毎月4万円も使っているのに、これまでに大きな額が当たっていないというのはどういうことだ?
いや、それよりも……。毎月4万円も使っているのに、それでも給与をもてあましているというのはどういうことだ?
それほどまでに私には、運がないというのか。それほどまでに私には、お金をかけたいものがないということか。
今更ではあるが、空しさを感じ始めた。きっと、今日梅川くんにバレかけたことは偶然ではないのだろう。そろそろ、辞めなさいという、神的な何かからのお告げ。梅川くんは、神の使いだったのだ。
バカバカしい。
梅川くんは神の使いではない。スクラッチも、30手前の女の趣味じゃないだろう。私は踏ん切りがついた。
今日で、この趣味を辞めよう。
気づけば、最後の1枚になっていた。これが、私の集大成だ。どんな結果でも、受け入れよう。
右手の10円玉に力を入れる。目を瞑っても結果は変わらないが、最後くらいは当たっていてほしい。
……これが、10万円以上のアタリだったら辞めよう。うん、そうしよう。ハズレだったら、明日もまたここに来て――。
「ああ、残念」
後ろから声がして、びくりとする。驚いて目を開けると、またハズれたことがわかった。
今のは、売り場のおばさまの声ではない。それに、売り場のおばさまは前にいるのだから、後ろから声が聞こえるはずがない。
というか、この声は……。
「あっ。僕もこれと同じやつ、10枚ください」
両手をパーにして、楽しそうにおばさまに話しかける梅川くんが、私のすぐ隣に立っていた。
「センパイは、本心をごまかそうとするときに耳を掻くクセがあります」
自分のスクラッチを削りながら、梅川くんがさらっと指摘してくる。
「えっ、そうなの?」
「正確には、そんな気がしていました。まさか耳を掻いた後に、今の嘘ですよね? っていちいち確認するわけにもいきませんから、確証はなくって。で、さっき耳を掻いてたんで、もしかしたらと思って、来てみたらコレです」
コレとか言うなよ。
「宝くじが、趣味なんですか?」
追い詰められている。だが、まだどうにか誤魔化せた。決して、耳を掻いてはならない。
「いや、その――趣味にしようかなって、最近始めたっていうか」
よく堪えたぞ、私。ああ、耳がかゆい。私は嘘をつくと鼻が伸びるのではなく耳がかゆくなるのか。今日は、自分の未知の体質に気づいた記念日だ。だめだ。今掻いたらバレてしまう。もう少し。もう少し堪えれば……。
「最近も何も、2~3年くらい来てくれてるじゃない」
予想外の方向から、爆撃を受けた。
おばさまだ。おばさまが突然口を挟んできた。個人情報だぞ。コンプラ的にそれは許されるのか。何をするだ。
はははと、小気味よく梅川くんが笑う。
仕方がない。諦めて右の耳を掻く。
「意外と、小さな額は当たるもんですね」
5等の200円を1枚当てた梅川くんは、嬉しそうにそれをおばさまに差し出した。
好きかもしれないと思った相手が、たまたま自分よりも収入が少なかっただけなのだ。
今はもう会わなくなった大学時代の友人が紹介してくれた男性。いわゆるブルーカラー、肉体労働者であったが、汗臭い感じはなく、梅川くんほどではないがさわやかで、一緒にいて心地がよかった。
彼になら、私の時間をもっと捧げてもいい。主婦になってもよかった。むしろ、主婦として彼だけのために働きたい。そう思っていた。
公務員は、社会の潤滑油だ。直接ものをつくりだすことはないが、市民を制度の面から支える仕事。しかし私は、それに楽しみを感じることができなかった。見知らぬ誰かのために、自分を削っていくことに違和を感じていたのだ。収入は安定していても、私は不安定だった。
身を削るなら、見知らぬ誰かのためじゃなく、大好きな誰かのために。それが彼だと思っていた。彼以外のために時間を使いたくないし、彼以外のために働きたくない。彼だけを支えるために、仕事を辞めたいと思った。
しかし、そういうわけにもいかなかったのだ。彼の収入だけで、ふたりが生きていくのは難しかった。
僕も、一緒にいたい。だから、一緒に働こうよ。
自身の収入という壁。申し訳なさそうに彼は私に謝り、そしてお願いした。今思えば、彼も私を求めているということは喜ぶべきだったが、当時はショックの方が大きかったのを覚えている。
どうして、わかってくれないのか。あなた以外のために働きたくない、あなた以外のために動きたくないという気持ちを。
私が間違っていたのだろうか。
人はひとりでは生きていけない。それはわかってる。だけど、人はひとりのために生きてはいけないのか。
人と人の間に生きるから、人間。間ということは、ふたり以上じゃなければならないのか。子どもをつくればいいのかもしれない。いや、そういうことではないのだろう。
じゃあ、何が正解だったのか。
そんな擦れ違いから、私たちは破局した。私は、身を削る相手を失くしたのだ。
入れ替わりで夢中になったスクラッチ。結局「削ってる」じゃないかと今更気づく。だが、私自身が削れているわけじゃない。満足し切れないのは、それが理由だろう。
それに、もしかしたら……。
私はもう、自分を削り切ってしまったんじゃないだろうか。
万が一でも誰かと鉢合わせるようなことがないように、普段から少しだけ残業をして、市役所を出るタイミングをズラしていたのだが、目的地が最初からバレていては何の意味もない。
バレてからというもの、退勤後に梅川くんはほぼ毎日、宝くじ売り場にやって来た。梅川くん自身が残業でもしない限り、私たちは売り場の端でスクラッチを削るという不思議な時間を過ごすようになったのである。
それ以外の時間に会うことはなかった。そもそもデスクが隣なのだ。平日1日8時間、すぐそばにいると言っても過言ではない。食事に誘われたりしても、絶対に乗らないぞと決めていた。それを察してか、そもそもそんな気がないのか、彼の方でも言い寄ってくることはなく、帰りもバス停までしか一緒じゃない。
一緒にスクラッチをするようになってから知ったのだが、そもそも彼と私はバスの乗る方向が逆だった。道路の向かいでニコニコしている梅川くんがバスに遮られ、バスと共にいなくなる。まるで手品だ。寂しくはないが、結構あっさり消えるんだなと、少しもやもやしている。
「どうして、スクラッチを?」
例によって200円のアタリを削り出した梅川くんが、手元を見たまま聞いてきた。売り場のおばさまがこの頃、私たちを温かい目で見てくる。自分の娘が彼氏を連れてきたような目だ。
何様のつもりか。
おばさまだ。
「お金が、欲しいの」
ぽつりと、言葉がこぼれる。本心だ。本心には違いないのだが……。
「何のための、お金ですか? 旅行? ブランド物?」
痛い質問だ。
何のためのお金、か。何だろうな。
「……スクラッチかも」
梅川くんは笑った。
あくまでも、過去形だ。お金が欲しかった。今欲しいというわけではない。もっとお金があれば何かできるかもと思っただけで、その「何か」はいつまで経っても見つからない。
過去形なのだ。今必要なのではなく、彼と付き合っていた頃に必要だった。あのときお金があれば、私は彼のためだけに働き、彼のためだけに生きれたかもしれない。
「彼の収入の一部分で、私の人生を買って欲しかった」
だけど彼には、それだけの収入がなかった。
私が彼を買うことができたかもしれない。しかし、それでは意味がなかった。私は彼を買いたかったのではなく、彼に買って欲しかったからだ。
ショーウィンドウのマネキンのすぐそばに、褒めてくれる人がいても仕方がない。
「マネキンは、ガラスの家から出たかった」
出たかった、のに。
あの頃の私にお金があってもダメだった。そして今、お金があっても意味がない。
私を買ってくれる人がいなければ、お金なんて意味がないのだから。
30手前の女の涙に価値はないと思うから、必死に内側からの熱を押さえ込む。震える手をスクラッチのせいにして、ぽつぽつと言葉を地面に落とす。売り場のおばさまは、聞いていないフリをしてくれている。
隣の梅川くんを見る気分にはなれなかった。
見てはいけない。そう言い聞かせた。ズルい気がしたからだ。趣味についてくる彼を、強く拒まなかった私。小銭がないからと、彼から借りた10円玉で200円を当てた私。私よりも楽しそうに削る彼を見て、ドキドキしつつある私。ズルいじゃないか。
目的もなく宝くじ売り場に来ていた私は、彼が来るのを待つようになっていた。彼が来るまで、削るのを我慢するようになっていた。その我慢は、いつしかトキメキに変わっていた。
「単純計算で、ふたり分のお給料が必要ですからね。僕でも、まだ稼げそうにないや」
梅川くんは、削り続ける。穏やかな言葉を私にくれつつ。
今の私が一番して欲しくて、一番して欲しくないことを、彼はしないでいてくれた。やさしくされても、嬉しくて悲しいだけだ。涙を堪えて熱くなっている体に触れて欲しくなかった。バレるのが嫌だった。これ以上、私のことを知られたくなかったのに。
なのに、ひとりで喋って泣きそうになっている。バカか、私は。
「
彼が私の名前を呼ぶ。声につられて、少しだけ彼を見てみる。泣いてる女を慰めるには、素っ頓狂すぎる笑顔。
削ったばかりのスクラッチを、彼はゆっくりと私の方に押し出した。
今まで揃うことのなかった絵柄。2等のマーク。
「10万円じゃ、足りないですか?」
十分でしょうと、売り場のおばさまが笑った。
身を粉にしたい 柿尊慈 @kaki_sonji
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