エピローグ 助けてくれて、ありがとう
弥生冬葵の離島一人旅は、非常に有意義なものとなった。
足湯で気分をリフレッシュした後、神引展望台や泊海水浴場といった、イラストにお誂え向きのロケーションを写真に収めることができた。果ては小の口公園ですれ違った団体客が同じ民宿に泊まっていたことが判明し、バーベキューに相伴までさせてもらった。式根島の名物だという烏賊は肉厚で食べ応えがあった。
泊まった和室は一人で過ごすには少々大きすぎる気がしたが、部屋が大きい分には別段苦にはならなかった。
その日の疲れが両脚に襲ってきたため、翌日は特に何をするでもなく、宿の近場をふらふら逍遥するに留めた。嬉しいことに、宿から徒歩五分くらいの場所にある「池町商店」という売店が、式根島で獲れた烏賊をふんだんに詰め込んだ焼きそばを取り扱っている。帰りの船は行きとは異なり、大型船で九時間ほどかけて帰る予定だったので、暇潰し兼おやつとして買っておくことにした。
お昼過ぎ、宿の女性が運転するワゴン車に乗って、フェリーが発着する野伏港まで向かう。多少時間がかかるかと思っていたが、五分もせずに港に着いてしまった。
「案外港って近いんですね」
「ええ、式根島はそんなに大きな島じゃないですから。でも高低差はあるので、何だかんだで車が欠かせないんです」
「なるほど……。送迎してくださってありがとうございました。また来ます!」
「ぜひまたお越しくださいね」
車を降りてから二十分ほど経った頃だろうか。棗と一緒に観に行った大ヒット映画に登場した大型客船が野伏港に到着したので、冬葵も周りの旅客に倣って搭乗した。多少海の機嫌が悪く、グラグラ揺れるのが気になるが、船内の装飾は豪華絢爛といった感じがして、少し贅沢をしている感覚に陥った。
野伏港を出港してから、冬葵はほとんどの時間を、指定された席に座って過ごした。スマホに保存されている写真をイラスト用のタブレットに移したり、写真を元に新しいイラストを描いたり、記憶が新鮮なうちにやっておくべきことは案外多い。外のデッキから見える海に興味がないわけではないが、乗り物酔いしやすい冬葵にとって、天候が荒れ気味であるにもかかわらず不要に出歩くことは危険だった。昼食のために船内のレストランに行ったりトイレに行ったりしたことを除いて、彼は席に根を張っているかのごとき様子を貫いていた。
☆ ☆ ☆
「それで、お土産も何もなし、と。どういう了見なの? 愚かなお兄ちゃん」
家に帰った冬葵を待ち受けていたのは、留守番をしていた小さな暴君による叱責だった。自室に入って一息付いたと思ったところにいきなり突入してきた棗は、自分への土産がないことを知るなり、般若のごとき形相で兄に正座させ、その眼前に仁王立ちをしていた。
「ごめんってば」
「謝る人間が『てば』とか言うんじゃない!」
「俺疲れてるんだけど。寝かせてくれ」
「謝罪する気ゼロじゃん! もう怒った! ……って、あれ?」
棗は兄の様子がいつもと違うことを感じ取ると、厳しい表情を緩め、仁王立ちを解いてしゃがんだ。
「お兄ちゃん元気ない?」
「慣れない運動したからかな、脚がパンパンで」
「いや、そうじゃなくて。うまく言えないけど、心の底から疲れてるみたいな。旅先で何かあった?」
「……ああ。もしかして、これのせいかな」
冬葵は、そばに放っていた肩掛けバッグから愛用のタブレットを取り出す。電源ボタンを押すと、イラスト用のアプリが表示される。
「……え?」
棗は自分の目を疑った。そこに映し出されていたのは、煌びやかで心躍らせてくれる、大好きな兄のイラストではなかった。風景に似せようとしてはいるが、何も考えずに線と色を配置しただけの、駄作極まる無機質なデータの集合体が、そこにあった。
力なく正座している冬葵が、床に向かって一言、投げ捨てるように呟いた。
「俺、イラスト描けなくなった」
賀茂うみのは連れ回す 水門 海白 @3710346EM
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