第8話 事故の前まで元通り
岩水屋では、宿泊者向けにレンタルサイクルを用意している。通常のものと電動アシスト付きのものがあるようだったが、二人は若さと見栄から普通の自転車を借り、意気揚々と宿から東の方に漕ぎ出した。
背の高い木に囲まれた薄暗い一本道を抜けると、一気に視界が開け、海沿いの道にぶつかった。二人は右折し、さらにペダルを漕ぐ。左を向いて目を凝らせばいくつかの小島が見えるが、それ以外にはだだっ広い一面の青が揺らめいているだけだ。シンプルな海景ゆえの迫力を、冬葵はひしひしと感じていた。
「うわあ……すごいな、これ……」
「でしょ? これが離島の魅力だよ。もっとも、その中でも式根島は特に素敵だと思うけどね」
「おう、気に入ったよ」
「……あ、冬葵くん、公園だよ! 公園がある!」
海乃がスピードを落としたのに合わせて冬葵もブレーキをかけ、公園の入り口で自転車を降りた。「小の口公園」と書かれた石製の看板を通り過ぎると、すぐに全長五メートルはあろうかという巨大な鯨のモニュメントに目を引かれる。冬葵は大きな遊具のある公園に、少年時代のノスタルジーを感じた。
鯨のモニュメント以外にも、東屋、ターザンロープ、小さなアスレチックなどが用意されており、それらの全てが冬葵の気分も盛り上げてくる。
「おお、遊具が充実してるんだな」
「ね! さあ、ターザンしよう!」
「いやいや、俺らもう大学三年生なんだから、そんなの似合わないって」
「往生際が悪いぞ冬葵くん! どうせ誰も見てないんだから、楽しまなきゃ損だって!」
冬葵が近くに誰もいないということを確認しようと周りを見回すと、男女四人組が自分たちと同じように自転車でこの公園に入ってくるのが見えた。
「いや、いるから! 恥ずかしいから!」
「一期一会、だっけ? どこかで再会することもないんだから、見られても大丈夫だよ」
「使い方が違う気がするけど、まあ……一理あるか……」
「百理あるでしょ! ほらほら!」
海乃に腕を引かれるままにターザンロープの端にある台にのぼり、ロープにまたがる。「よし」と小さな声で言った瞬間、海乃に背中を押されて遊具が動き始める。
……。
思っていたよりもスピードが出ず、のんびりと逆の端に到着すると、冬葵はそそくさと地上に降り、海乃にロープを手渡した。
冬葵がその場から離れたのを確認するや否や、海乃も満面の笑顔でぴょんとロープに飛び乗る。
「わーい! ひゃっほ……あれ」
二十秒ほど経っただろうか。冷静な表情で冬葵が待っているところに、ロープをわずかに楽しみ終えた海乃が、眉間にしわを寄せ、神妙な顔つきで戻ってきた。
とぼとぼと歩く海乃は、いかにも「不完全燃焼」という様子だ。ターザンロープについて自分と同じ感想を持っているのだろうと思い、冬葵は少し嬉しくなった。
「案外、爽快感! って感じじゃなかった……」
「そうだな……ふふ」
「あ、こら、私のチョイスミスを笑うなー!」
「笑ってない笑ってない、ぶふっ」
「もう怒った! 冬葵くん許せない! ……ふふふ、あはは!」
人目があることを完全に忘れ、二人は腹を抱えて思い切り笑った。
一頻り笑った後、海乃が目尻に浮かべた涙を拭って、自転車を停めている場所に歩き出す。
「はー、面白かった。さ、冬葵くん、次に行こうか」
「おう、そうしよう。……ぶふっ」
「もう、思い出すの禁止! ……んふふふふ」
暫時口から笑いがこぼれっぱなしの状態で、二人は自転車でさらに海沿いの道を進んだ。
公園から先は上り坂が続き、冬葵は電動アシスト付き自転車にしなかったことを少し悔いたが、宿に戻るほどのことでもなかったので、そのまま木漏れ日の中を立ち漕ぎで進み続けた。幸い、八月下旬のまだ暑い時期とはいえ、都会で自転車を漕いだ時ほど汗が滴ることはなかった。
左手に「石白川海水浴場」というビューポイントが見えたあたりから「木々が覆う道」というよりは「のどかな漁村の道」という感じに景色が変わる。島の住民に愛されているであろう年季の入ったレストランを横目に進んでいくと、「足湯はこちら」という看板が置かれている漁港に辿り着いた。きちんと整備の行き届いている小型船舶がずらりと並び、その向こう側にある小さな石のアーチをくぐると、まさに「錆びた鉄」と同じ色をした温泉が目に入った。
やや躊躇いながらも、冬葵はわくわくを抑えられずに、靴と靴下を脱ぎ始める。
「毒でも入ってるんじゃないかって感じの色だけど、温泉好きとしては見逃せないよな」
海乃も続いて靴と靴下を脱ぎ、きちんと並べた白いスニーカーの中に靴下を仕舞い始める。ついでに乱雑に放っておかれた冬葵の靴も、自分の靴の隣に整頓した。
「冬葵くん、温泉好きなんだ。知らなかった」
「あんまり知ってる人は多くないけど、実は熱海とか草津とかあちこち巡ってるんだ。なつめにはよく『おっさんくさい趣味だ』っていじられるけど」
「あはは。それでもなっちゃんのことだから、一緒に温泉巡りしてくれるんじゃない?」
「よく分かったな。……まあ何だかんだ、あいつも温泉が好きなんだろうな」
「それだけじゃないと思うけどなー。……よし、入りますか!」
「おう。いざ、お手並み拝見。いや、手じゃなくて足か」
木の看板によれば、ここは「松が上・雅湯」という名前の足湯らしい。この未知の錆色の沼に、冬葵と海乃は足を浸した。濁り切っているため深さは全然分からなかったが、入ってみて初めて、ふくらはぎのあたりまで水深があるということが分かる。
「おお……これはなかなか……」
すぐそばに際の見えないほど広い海が見えるという点も然ることながら、この足湯に浸かっていると、足元から元気になる感覚を得られる。ふくらはぎに波打つ湯の感触を確かめながら、冬葵は足湯を楽しみながら腰かけられる近くのベンチへとのそのそと歩き「よいしょ」と声に出しながら座った。
「見た目こそ禍々しいけど、身も心もあったまるな」
「そうだね! 私は温泉に詳しいわけじゃないけど、ここが極上の足湯スポットだってことは分かるよ」
「だろ? 海乃もこっち来てみろよ」
誘われるままに、海乃も冬葵の隣に座る。ぴっちり閉じられた唇から「ふう」という声が漏れ、真っ直ぐ伸びた背筋が若干ぐにゃりと曲がり、猫背になる。
「この感覚、懐かしいかも」
ショートパンツから伸びた脚をゆっくり前後に揺すりながら、海乃が呟く。
「そうなのか。……そういえば、海乃の地元ってどのあたりなんだ?」
「えっと、それは、賀茂海乃の出身地ってこと?」
奇妙な問い返しに戸惑いを覚えたが、冬葵はその引っ掛かりを気に留めなかった。
「そりゃそうだろ。お前はお前しかいないだろ」
「……そりゃそうだったね。えへへ、ごめんごめん。実はね、私が生まれたのって」
海乃は、日頃耳にしないような異郷の地の名前を口にする。冬葵はその地がヨーロッパにあることだけは知っていたが、それほど地理や世界史に詳しくないので、どのあたりに彼女の故郷があるのか、あまりピンと来なかった。
「そうなのか。目鼻立ちはくっきりしてるけど、完全に日本人だと思ってた」
「あ、生まれただけだから、外見には影響ないんだ。」
「それなら納得だな」
「冬葵くんはどこの出身なの?」
海乃がこう問う前、彼女が何か言って、自分が驚いたような記憶が脳のすぐそばをかすめた気がした。しかし肝心の内容を思い出すことができず、白昼夢を見た気分を拭い去れないまま、冬葵は答える。
「ああ、実は五歳くらいまで幕張にいたんだ。……ああ」
幕張という地名を自分で口にして、さっき公園で抱いたノスタルジーが再び心に浮かんでくる。
「幕張といえば、その時に仲良かった女の子がいて、よく日が暮れるまで公園で遊びまくってたんだ。正直、顔も名前も覚えてないけど、その子、俺が引っ越す時にすごく泣いてくれたのだけは、今でもしっかり覚えてる」
海乃は、しみじみと回想しているであろう冬葵の肩を人差し指でツンツンとつついた後、自分の顔を指さした。足湯で温まっているからか、頬にはやや紅色が浮かんでいるのが堪らなく愛らしい。
「その女の子ってさ」
海乃がそう言いかけた気がしたが、やはりすぐに記憶からするりと抜け落ちてしまった。疲れでも溜まっているのだろうかと冬葵は自分の体調を案ずる。
「デート中に他の女の子のこと考えるのは、ちょっとしたマナー違反だよ?」
「ああ、ごめん。……って、どうして既に彼女ヅラしてるんだって」
「えへへ」
甘やかな海乃のからかいに表面上は反発しつつも、内心彼女への恋慕が溢れそうになっていた。だからこそ、海乃が錆色の濁った足湯に目を落としているのを、彼は放っておけなかった。いつもの彼女であれば、自分をいじった後、楽しそうに笑顔を見せてくれるはずなのに、今はそうではない。雲一つない青空とは対照的に、湯の温かさによって頬を染めた顔は完全に翳っていた。
「……なあ、海乃。何かつらいことでもあったのか? 俺でよければ話聞くぞ?」
冬葵に追及され、海乃ははっと目を見開き、慌ててフォローした。
「いや! 何でもないよ。ほんの、ほーんの少しだけ、風邪?っぽい感じなだけだから」
だが、相変わらず海乃の眉は下がったままで、口角も下向きに固まっている。曇り空がべったり張り付いた物憂げな表情は、どんなに冬葵が女心に疎かろうと、彼女が嘘をついていることを容易に勘付かせた。
「……もし、俺が原因だったらちゃんと謝るし、解決できるならいくらでも協力するから。きっと、自分だけで抱え込むより、誰かに話した方が楽になると思う。俺じゃ力不足かもしれないけどさ、少しは頼ってほしい」
「う、うん……。冬葵くんにはちゃんと全部話さないとだよね」
彼女は、何かを自分に隠しているのだろう。それを自分も引き受けて、一緒に苦しみたい。願わくば、一緒に乗り越えて、喜び合いたい。
外気も足元も熱いくらいだが、本能的な何かが執拗に冷や汗をかかせる。それでも、冬葵の意思は固かった。
「その『全部』がどれだけ俺にとってキツい内容だったとしても、俺はきちんと聞きたい」
音もなく、海乃の太腿に涙が一滴だけ落ちる。
「……うん。私も、冬葵くんに『全部』知ってほしい。キミが好きだから」
☆ ☆ ☆
足湯から上がり、来た道を戻って自転車に乗る。それまで海乃は固く冬葵の右手を握ったまま離さなかった。
いざ自転車に乗ろうという段階になっても、数秒ほど手を離すのを躊躇ってしまうほど、海乃は冬葵の体温を求めていた。
二人はスマホの地図アプリを頼りに島を北上する。蛇行やアップダウンの豊かな、先が見えない道を「ああでもない」「こうでもない」と悩んでいるうちに、足湯でぱったり途切れてしまった会話も自然と復活していた。
強い太陽に頭を焼かれながら、二人は「神引展望台」の麓に辿り着き、駐輪スペースに自転車を停める。ここまで来るだけでも脚に乳酸が充満している冬葵は、眼前の二百段以上はあろうかという階段を見て、危うく目を回しそうになった。
「うわ、ここを登るのか……。海乃、先行っててくれ……」
「んふふ、もやしだなあ、冬葵くんは。手、引っ張ってあげようか?」
「うるせえ、余計なお世話だ。っていうか絶対疲れるだろ、そんなことしたら」
「それもそっか!」
海乃がスタスタと階段を上っていくのを見ながら、冬葵もゆっくり先に進み始める。
二十分ほどかけて、冬葵は頂上と思しき場所に辿り着いた。周りを見渡してもこの山より背の高いものが存在しないので、きっとここは式根島で最も高い場所なのだろう。もっとも、ぜいぜいと息を切らせている冬葵にとっては、その高さは忌々しいものでしかなかったのだが。
「お、冬葵くんやっと来た。遅いぞー」
「はあ……むしろ海乃は、どうして、そんなに、体力があるんだ、よ……」
頂上の石製ベンチに座って待っていた海乃は、頬を紅潮させてはいるが、息苦しそうな様子は一切見えない。けろっとした表情でスマホを下の方に向け、写真を何枚も撮っている。
息を落ち着けて、冬葵も下を見てみる。島の端は海岸線が入り組んでおり、点在する岩々に当たり青波が砕波する様子が美しい。山頂からではその波の迫力は推して知るしかなくなるが、それでも圧倒的な迫力だと誰もが推測するだろう。
「さあさあ、楽しんだら次に行くよ!」
「スタミナお化けかよ……」
海乃は高く掲げていたスマホを下ろすと、画面に降り注ぐ強い直射日光を手で遮りながら、スマホをいじり続ける。
「えーっと、これと、これと。あ、これも送ろっと」
「写真、誰かに送ってるのか?」
「うん。まあ、誰かっていうか」
そこまで言い終えたタイミングで、ズボンのポケットに入っていた冬葵のスマホが震えた。海乃と同じように、画面の横に手を添えながら通知の内容を確認すると「UMA」からRINEで三枚の写真が送られてきた。写真の中央には広い広い海が、端には被写体になっていることに全く気付いていない冬葵の横顔が写り込んでいる。
「俺宛てかよ。別に自分の写真なんか貰っても嬉しくないんだけどな」
「えへへ。まあ保存しておきたまえ」
「へいへい」
海乃に言われるままに、画面の右上にある「保存する」ボタンをタップした。そのまま仕返しとばかりに、隣で楽しそうに笑っている少女にスマホを向け、シャッターを何度か切る。
最初は驚いたような表情をした海乃だったが、すぐに状況を理解し、満面の笑みとピースサインを冬葵に見せた。
「……うん、やっぱりお前は笑顔が一番だよ。モヤモヤ悩んでいる時の表情より、今みたいな……あれ?」
海乃を画面の真ん中にばっちり捉えた写真をカメラロールで確認しようとした時。冬葵は、写真の中に「神引展望台の名前が刻まれた木の棒」「ただただ果てしなく広がっている青空」の二つしか写っていないことに気が付いた。ヒマワリのように明るい笑顔を見せていた少女の姿は、CGでも使ったのかというくらいに跡形もなく消えていた。
「え? いや、えっ……?」
「どうかしたの? ……ああ、その不安そうな表情を見たら、何が言いたいのか分かっちゃったかも」
海乃は諦めたような苦笑いを浮かべ、冬葵のスマホを覗き込む。彼女の瞳に、彼女が写っていない写真が映る。
「……やっぱり。そろそろ私は写らなくなるだろうな、って思ってたんだ」
「『そろそろ』ってどういうことだよ。前から分かってたのか」
「うん。だって、私がそう『決意』しちゃったからね」
海乃は、冬葵のスマホの電源ボタンを彼の代わりに押し込み、画面を暗転させた。
☆ ☆ ☆
次に二人が向かったのは、神引展望台から自転車で十分弱の場所にある「泊海水浴場」という場所だ。
泊海水浴場まではほとんど一本道だったため、先ほどの怪奇現象で頭がいっぱいになっていた冬葵でも、道に迷うことなく進むことができた。「さっきまで私が道案内していたから」という海乃の言に従って先導役を任されていたが、自分の後ろを走っている彼女がいつの間にか消えてしまうのではないかと気が気でなかった。
海水浴場のすぐそばにある駐車場に自転車を停めた後、二人は狭く急な三十段以上の階段を降り、じゃりじゃりとした砂浜に移動した。
泊海水浴場は式根島随一の観光名所で、頻繁に観光パンフレットや情報誌などで写真が使われている。イラストのネタ探しのため、インターネットで幾度となく見た光景だったが、実際に見てみると、足元は一層透き通っていて、遠くを見ればどこまでも青かった。
山頂に比べて直射日光が少ない場所だったので、冬葵は何枚も、いろいろなアングルから海乃の姿を撮影しては、すぐ写真をスマホの画面で確認した。
靴を脱いで波に足を浸けている海乃。こちらにスマホを向けて、笑顔で写真を撮っている海乃。深いところまで突き進み、波に褐色に焼けた足を掬われそうになっている海乃……。
全ての姿が彼の網膜には焼き付けられているが、スマホは冷酷にもその姿を認識することは、もう一度もなかった。
「ちくしょう……どうすれば……」
人気の観光スポットを楽しむ余裕など一ミリもなく、震える手をもう片方の震える手で押さえながら、諦めずに海乃を撮り続けた。自分の目だけを頼りに、残酷な現実を見せつけてくる画面を見ず、ひたすらシャッターボタンを彼女に向けてタップする。
冬葵の心には焦りが、目頭には涙が浮かんでくる。涙で視界が揺らぐことにすら恐怖して、慌てて手の甲で乱暴に目元を拭う。
透明な海を一頻り楽しんだ海乃が、背の高い岩がなす陰で写真ばかり撮っている冬葵のもとに近付く。……大丈夫。きちんと見えている。何度瞬きしても、彼女の輪郭ははっきりしている。
「……冬葵くん、もう無理なんだよ」
「無理なわけあるか! スマホのカメラが故障してるだけだ!」
「違うよ。私はもうすぐいなくなるの」
憎々しいスマホを乱暴に投げ捨て、海乃の両肩をがっしり掴んでも、空を切る感触などない。そう、彼女は確かにこの世界に存在しているのだ。視覚も、触覚も、嗅覚も、聴覚も、彼女が間違いなくここにいることを証明してくれている。
「いてっ」
海乃が小さく悲鳴を上げる。冬葵が慌てて手を離すと、海乃は掴まれていた自分の肩を撫でていた。冬葵が気付かずに爪を立ててしまっていたのか、彼女の肩からは少量の血が流れている。
「あ、ごめん……」
しかし彼女は不思議と顔を歪めることなく、むしろ慈しみの溢れる表情を見せた。
「……へえ、好きな人から与えられた痛みは、喜びに変換されるんだね。……つくづく人間の感情っていうのは解析不可能なバグばっかりの欠陥品だね。『痛み』なんて、生命存続の危機を表す最たるものだろうに」
死期が近付いている人間にも似た彼女の穏やかな表情が、ひたすら冬葵の不安を掻き立てる。
「……なあ海乃」
「うん? どうしたの?」
海乃は、自分の肩に注いでいた視線を目の前の青年の方に移した。式根島の海も然ることながら、今の彼女の瞳も薄い薄いガラスのように透き通っている。
「……死なない、よな?」
「うーん……死、ではないかな。消滅って表現した方が適切かも」
「消滅? 消えるのか?」
「そう。私がそう望んだから」
冬葵の頭の中に、繋がりようのなさそうな単語が羅列され、無秩序に暴れまわる。海乃が言っていることは、日本語としては理解できても、意味を解釈することはできない。
「大丈夫だよ、冬葵くん。できる限りの説明はするから。私が消えた後にモヤモヤした感情が残っちゃわないように」
説明を聞くのは怖いが、何も知らずに海乃が消えてしまい、永遠に悩み続けるのはもっと怖い。
「……おう、頼む」
冬葵は覚悟を決めた。涙を流しながら聞くことにかもしれないが、どんな現実であっても受け入れる準備ができた。
海乃は薄い碧色のペディキュアが咲く裸足でざくりと砂浜を蹴り、ゆっくりと話し始める。
「じゃあ説明を始めるね。まず、今日の朝、なっちゃんの様子はどうだった?」
「なつめ? いつもと変わらなかったぞ」
「本当にそうかな? 冬葵くんの行動を逐一監視してるわけじゃないけど、でもなっちゃんが『どうせぼっちでどこか行くだけ』って言って冬葵くんを送り出したことは知ってるよ」
言われてみれば、確かに棗はそんな悪口を吐いていた。一字一句合っているかは冬葵自身覚えていないが、そういうニュアンスのことを言っていたことは覚えている。
「……えっと、海乃が人智を超えた能力を持っていて、俺の行動をなぜか把握していることは、この際置いておくとして。その台詞がどうかしたのか?」
「うんうん、物分かりの良い冬葵くん、大好きだよ」
少しだけ、いつも通りの悪戯っぽい笑顔を作り、海乃は話を続けた。
「でも、なっちゃんのその発言、おかしくない? 普段のなっちゃんだったら『海乃さんとデートでもするの? 見せつけてくれちゃってー』とか言わない?」
「ああ、絶対言う」
「でしょ。でも、そうじゃなかった。冬葵くんがぼっちで出掛けると思っていたわけ」
海乃に誘導されて思い出した、棗のおかしな行動。この現象が、冬葵の脳内で瞬時に「写真から海乃が消える」という現象と結び付いた。
「まさか、なつめは、海乃のことを忘れている……?」
「流石冬葵くん、正解です! 筋が良いですねえ。ちなみに、あっちゃんとかコウくんとかも例外なく、私のことは忘れてます。……ということは、冬葵くんも遠からぬうちに」
「待て!」
ふるふると海乃は首を横に振る。
「……時間は待ってくれないよ、冬葵くん。時間を止めるなんて能力、私は持ってない。持ってたら絶対使うもん、キミとずっと過ごすために」
八月だというのに、身体の芯から凍るような寒気がする。岩と岩の間から見える、次第に茜色に染まっていく太陽が憎い。どうして西の空に向かって進んでしまうのか。お願いだから、その場に留まってほしい。いや、できることなら東の空に戻ってほしい。
「……それならさ。そもそも消えない、っていう選択肢はないのか? ずっと海乃が消えないで、全員の記憶の中に残り続ける方法はないのか?」
「前はあったよ。でも、もう手遅れなんだ。……だって」
さっきとは反対に、今度は海乃が冬葵の肩を掴み、逃げられないように固定する。長い睫毛が、吸い込まれるような眼が、筋の通った鼻が、幾度となく夢想した彼女の唇が近付く。
根拠はないが、今ここでキスをしてはいけない気がした。一般的な成人女性のものとは思えない力で身体をホールドされているが、それでもなお冬葵は真横を向いて、唇を受け入れまいとする。
「ま、待て、待てって」
「やだよ。逃げないで?」
「いつも自分勝手なんだよ、全部自分で決めやがって。どれだけ俺がお前に振り回されたと思ってるんだ。もうこりごりだ」
「こりごりなら、ここで終わらせちゃおうよ」
「嫌だ! どうしようもなく自己中心的で、意味の分からない行動ばっかりで……それでも、俺はお前が好きで、ずっと一緒にいたいんだよ」
肩を掴んだ彼女の小さな両手が、冬葵の横顔に添えられる。優しく、しかし有無を言わせない怪力で無理矢理に正面を向かされると、海乃の鼻柱と冬葵の鼻柱がぴたりと接した。どちらの鼻も、いつの間にか涙で濡れそぼっている。
「私だって同じだよ。だから『キミにずっと生きていてほしい』なんて愚かなことを願っちゃった。だから、私は消えるんだよ、予言通りに」
「誰の予言だか知らないけど、そんなの当てにする必要ないだろ!」
「ふふ、残念だけど、予言は絶対なんだ。お姉ちゃんだって、人間と恋をした挙句、消えちゃった。……あーあ、お姉ちゃんのことを馬鹿にしてた私が、同じ運命を辿るなんてね」
海乃が大きな瞬きをすると、一番大粒の涙が鼻を伝って、冬葵の唇へと流れた。強烈に塩辛くて、どうしようもなく苦い。海よりも濃い、後悔の味がした。
海乃の顔がさらに近付く。少しでも唇を尖らせようものなら、簡単にくっついてしまうだろう。
終止符を打たんとする接吻を受け入れまいと、冬葵は必死になって話題を見付け、問いかける。
「そうだ。なあ海乃、お前は人間じゃないんだろ。一体何の生物なんだ?」
ふと両頬を押さえていた海乃の手の力が弱まる。好機を逃さないよう、冬葵は彼女の束縛から逃れ、彼女の哀しくも美しい顔から距離を取った。
海乃は視線を砂浜に落としたまま、弱弱しい声で答えた。
「生物なのかは分からないけど……。私の正体は●●●●●だよ。人間の世界でも結構有名なんだよね?」
●●●●●。冬葵もその名前はよく知っており、イラストのモチーフとして数年前に題材にしたことがある。だが、まさか本物がすぐ目の前に立っていて、自分のことを虜にしているなんて。あまりに現実離れした状況はすぐには受け入れられないが、彼女の性急な行動をストップするには絶好の話題でもあった。
「ああ、聞いたことがあるぞ。……でも、どんなきっかけで●●●●●のお前が陸に来たんだ?」
「……」
今度は冬葵の問いにすぐには答えず、下を向いたまま黙っていた。瞬きするたびに涙が直接砂色の地面を湿らせる。
「どうしても答えたくないなら、言ってくれなくても構わない。けど、できれば教えてほしい」
「……うん……でも」
「……でも?」
海乃はゆっくり顔を上げ、真っ赤になった冬葵の目を真っ直ぐ見た。
「……嫌わない? 私のこと」
「大丈夫だ、絶対嫌わない」
「本当に?」
「本当だ」
海乃は震える自分の両肩をぎゅっと抱きしめながら、ゆっくり答えた。
「……あのね、私たち●●●●●は、■■を▲▲するために陸に来たんだ。それで誰が適役なのか探してた時に冬葵くんを見付けたの。うまく▲▲するためにいろいろ誘導したり機会を窺ったり……。で、でもね! 信じてもらえないかもしれないけど、私は冬葵くんが本当に好きなの!」
徐々に海乃の声が強くなっていく。頭を直接揺さぶられるような音に、冬葵は眩暈を覚え始める。
「そうか、それで『声が良い』っていう理由で俺に近付いてきたのか」
「うん、ご明察。私たちにとって、声はとっても大事な要素だからね。人間にとっての顔の良さと同じくらいに。……でも、私が惚れ込んだのは、冬葵くんの中身なんだよ?」
「中身っていうと、性格とか?」
「それもあるけど、一番は感情の美しさかな」
感情の美しさ。
珍しい惚れられ方だと思ったが、●●●●●の世界では比較的よくある話なのかもしれない。
冬葵は黙ったまま、海乃の話を聞き続けた。
「前々から、冬葵くんが時々見せてくれる、イラストに込めている感情に惹かれていたんだ。でも、私の目的はあくまで冬葵くんを▲▲すること。だから、そんな感情のことはどうでもいいや、って思ってたんだ」
冬葵の脳内に、猿島での出来事が思い起こされた。確かにあの時「やりたいことがある」という冬葵のわがままを、海乃は快諾してくれた。快諾の理由はそこにあったのかと冬葵は納得した。
「でも、冬葵くんのイラストから、美しくキラキラと輝く感情が伝わってきちゃった。本能と論理っていうシンプルすぎるものに浸った私にはちょっと眩しすぎて、受け止められなくなっちゃったんだ。あの時の涙は、それが原因だよ」
「ああ、ラウンジで俺が出版社の人と話し合ってた時のことか」
「そうそう。……それで、そのまま私は『恋』っていうのに陥って、本能も論理も使い物にならず、こうして苦しんでるの。いきなり世界がカラフルになると、何もできなくなっちゃうんだね。知らなかったな」
ふふふと力なく笑うと、海乃は再び冬葵の顔を掴み、抗いがたい力で自分の方を向かせた。冬葵の時間稼ぎも空しく、さっきまでの絶望的な状態に戻されてしまった。
「……ねえ冬葵くん。私ね、もう苦しみたくないんだ。私のことは忘れて新しい恋をして、その人と幸せになってね。お願いだよ?」
「待て! そういう事情なら、そういう目的でも構わないから! 俺のことを▲▲しちゃえよ! だから、もう少しだけでも俺と一緒にいてくれ!」
「……えへへ、ありがとう。でも、そんな苦しくて痛い運命を冬葵くんに背負わせるのは、絶対に嫌なんだ。だからキミの代わりに私が消えるの。それで全部元通りでしょ?」
「そんなわけないだろ! 海乃はどうなるんだよ!」
「私は▲▲に失敗した時点であらゆる記憶や記録から消える運命にあるから、最初からいなかったのと同じになるだけだよ」
「そうじゃない! お前の気持ちはどうなるんだって訊いてるんだ!」
諦めの早すぎる海乃の態度に、冬葵は堪らなく腹が立った。しかし海乃は静かに笑ったまま、涙でぐちゃぐちゃに美しくなった顔を冬葵の方に限界まで近付けた。
「……じゃあね。私も冬葵くんが世界で一番好きだよ」
瞳の輪郭が全く分からないくらいに涙で潤んだ眼が柔らかく閉じられる。それと同時に、唇が触
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