第7話 さよなら、久し振りだね
深夜二時、現在の天候は小雨、間もなく大雨。
目の前には、私に覆いかぶさる男が一人。呼吸を荒げてこちらを見ている。
この場所の照度は十分に低いし、監視カメラの位置や角度も計算済みだ。「行為」が誰かに目撃されたり、記録に残ったりする可能性は限りなくゼロに等しい。
「初めてが屋外だなんて、随分海乃ちゃんもエロいんだね」
この男のスマホは「露出」というキーワードで検索したものばかり。ゆえに露出系の映像によくあるシチュエーションが、彼の興奮を高めるためには適切だ。
男の家から徒歩圏で、かつ人目を完全に遮れる場所は、このヴェルニー公園の芝の中しかない。悪天候だけは計算外だったが、概ね私の計算通りに事は進んでいる。
雨で男の身体が冷えてしまう可能性はあるが、彼の吐息の温度から判断するに、寒さを訴えてくるのは早くても五分後だろう。気遣いの言葉はここでは不適切だ。
素直に相手に同調し、イエスで返せるような質問を投げかける。
「えへへ、そういうオンナノコ、好きですよね?」
「まあね」
周りは暗いが、私にとって光度の低さは問題ではない。彼のズボンを見ると、性器がぴくりぴくりと動いているのが観察できた。性的衝動を惹起するのには成功していると思われる。
「じゃあ、脱いでもらおうか」
経験上、私が服を脱いだ時に取られる男の反応は、大別して二つ。
自分の体型に自信のある男は、私の腹筋を見ても何も思わない。
自分の体型に自信のない男は、私の腹筋がコンプレックスを刺激し、性的衝動が減退する。
……この男は、体脂肪率やウエストの値から判断するに明白に後者に該当するが、よほど目が闇に慣れてこない限り、そもそも私の腹筋は見えないはず。彼の命令に素直に従って大丈夫だろう。
「はあい、脱ぎますね。んしょ……どうですか? 見えますか?」
「はっきり見えるよ。やっぱり海乃ちゃん、スタイル抜群だよね」
男の焦点は、正しく私の身体の表面では結ばれていない。つまり「はっきり見えるよ」というのは嘘だ。
なぜ嘘をつくのか? 何度かのデートから察せられる彼の性格から、この嘘の真意は情事を盛り上げることにあると推測される。
好意というものを作り出すためには、シンクロ率の高い行動が肝心である。つまり、私も同じように性交渉を盛り上げるような行動を行うべきだ。視覚情報で性的衝動を刺激できないのなら、触覚を使うのが次善策だろう。
「ありがとうございます~。でも、夏とはいっても、雨の中裸になるのは寒いですね。くっついてもいいですか?」
あえて「裸」というワードを強調して発音する。
「もちろん。さあ、おいで」
男は腕をこちらに向けて広げる。彼は正面からの抱擁を好む傾向が強い。性交渉中でもその傾向は同じだと推測できるから、この行動は容易に予測可能だ。
「わあい!」
男と私の距離をゆっくり縮める。この時、私の乳頭が彼の肌にゆっくり触れるよう速度を調整する。それが私の乳頭だと彼に認識させるためである。
「おお……」
接触した瞬間、反応があった。
確実に仕掛けるとしたら、今が絶好のタイミングだろう。十分に彼の性的衝動は高まっていると思うが、最後の一押しに、彼の性器をズボンごしに手の甲で擦る。
……亀頭のあたりを刺激した瞬間、男の吐息に変化があった。きちんと功を奏していることが分かったため、次の行動に移ろう。
「そ、れ、じゃ……」
……。
……。
はて?
定跡通り、そしてこれまでやってきた通り、私の口を男の唇に近付けようとする。
しかし、見えない力がそれを阻む。
「どうしたの?」
男がこちらを観察してくる。どうやら私の行動を不審がっているようだ。
早急にこのトラブルに対処するため、彼の閲覧履歴にあった性的な映像から、女優の台詞を引用する。
「い、いえ、どこから責めようかなって品定めしているんです」
「ふふふ、焦らしプレイか。嫌いじゃないよ」
声の調子から判断するに、怪しまれてはいないようだ。
落ち着いて「見えない力」の正体を究明しよう。男とうまく接触できない原因はどこにあるのか明確にして、すぐに解消しなくてはいけない。
……だが、考えようにも、手がかりが少なすぎる。多くの人間と「これ」を行ってきたが、いつもはこんなトラブルはなかった。今回に限って異常事態が起きているということは、私ではなく、目の前の男に原因がある可能性が高い。
……じっと男を観察する。しかし、かつて接触してきた他の男と彼との差異は、それほど見出せない。
ただし、今起きている現象と関係があるかどうかは定かではないが、いくつかのおかしな点が発見された。
視覚的に認識しているのは目の前の男なのに、なぜか「彼」の顔が浮かんでくるという点。
「彼」の描いた「私」のイラストが、ここには存在しないはずなのに、脳裏に鮮明に浮かんでくるという点。
そして、涙腺が機能異常をきたし、流涙してしまっている点。
こうした認知異常が起きていることと、私の歯と彼の唇の接触ができないこと。
二つの項の間にどんな論理的接続があるのか、まるで理解が追い付かない。
このままでは脳がうまく情報を処理できなくなる。何か対策を講じなければ……。
☆ ☆ ☆
不可思議なことに、記憶に数分間の空白期間が生じ、記憶機能が復活した頃には、独りでJR横須賀駅の前に来ていた。
終電の時間も過ぎ、営業が終わっているため、当然シャッターによって駅舎は閉ざされていた。ただのシャッターの物理的状況が、さらに私の涙腺機能を歪める。
着用し直した記憶はないが、衣服は原状復帰していた。しかし雨水が浸み込み、防寒機能は一切期待できない。私の身体の耐荷重からすれば何ということのない重量だったが、なぜか「重い」というアラートが執拗に脳内に流れ込んでくる。
理解しがたい、非合理的なことばかりで、脳の情報処理機能がさらに悪化する。
「助けて……」
目的を持たず、計算も経ていない言葉が、自然と発声される。
「助けて、冬葵くん……。ごめんね、冬葵くん……」
言葉はコミュニケーションの道具だ。
誰もいない深夜、音声の伝達を邪魔するほどの音をなす豪雨が降っている中で、こんな音声情報を発する意味が分からない。
「会いたいよ、ねえ、会いたいよ……」
再び「弥生冬葵」の顔と猿島のイラストが、あたかも目の前にあるかのように思い出されてしまう。
……考えてみれば、初めて意図せぬ流涙を起こしてしまったのは、イラストをラウンジで見てしまった時だ。
「寒いよ、冬葵くん……」
つまり、現状私を襲っている精神的・肉体的異常は、あのイラストを見たことで起きていると考えるのが妥当だ。さらに詳細に原因を突き止めるために、あのイラストの特徴を思い出してみよう。
神奈川県横須賀市にある猿島の小さな埠頭をバックに、私を象徴化した、精霊のような少女が一人、スカートをはためかせて立っている。足元には海面が広がっているため、水しぶきが少女の周りに満遍なく、不規則に散りばめられていた。
絵の様子は、概ねこういった感じだ。
だが、それだけではない視覚的な「何か」が、強烈に脳に焼き付いた覚えがある。
言語では捉えられない、脳を経由せず直接涙腺や心臓などの動きに影響を与える因子が、あの絵には確かに存在していた。思考フレームが制限されたり、バイアスがかかった言動しかできなくなったりしたのも、この因子によるものだろう。
「それが感情だよ」
私の口が勝手に動き、突然言葉を発した。
雨水に熱を奪われているからか、唇が震えている。その震えをしっかり認識したのと同時に、唇のコントロール権限が私に戻ってきた。そのまま「彼女」に対して問いを発する。
「感情? そんないいかげんなものに、私は左右されてしまうの?」
「おかしこと言うんだね、『海乃』は」
私の問いかけには答えず、脳内にだけ響く声で「彼女」が私の名前を呼ぶ。
「何がおかしいの? というか、どうして今になって勝手に出てきたの」
「ふふ、一気に二つも質問するのはマナー違反だよ、『海乃』」
「人間の恣意的な『マナー』とやらに従うメリットなんて皆無。とにかく答えて」
「やだよ、自分で考えて。勝手に人のことを意識の奥底に押し込めちゃった海乃には、わたし結構怒ってるんだから」
そう言うと「彼女」は私の腕を動かし、ポケットから防水性の高いスマホを取り出した。
「……まあでも、ほんの少しだけお節介を焼いてあげようかな」
親指でスマホの指紋認証をアンロックすると、彼女はタクシーを呼び出すアプリを起動した。
「ここからだと、海乃の『家』まではちょっと遠いでしょ。無理せずタクシーで帰りなよ」
「……」
「ああ、それから」
タクシーをワンタッチで呼び出すボタンをタップした指は、そのままRINEの画面を開き、弥生冬葵とのチャットにメッセージを打ち込み始めた。RINEのアプリは「彼女」の使っていた時から幾度となくバージョンアップしているからか、やや操作に不慣れなように見える。
「海乃、今度はさ、ちゃんとフユくんと向き合ってみたら?」
もたもたとメッセージを入力しながら、また「彼女」は意図の不明瞭なことを言い始めた。適切な返事を出力できないでいると、「彼女」は私の返事を待たずにいいかげんな言葉を紡ぎ続ける。
「記憶を消したり、計算尽くめの行動を取ったりせずにさ。ね?」
「そんなことしたら、好意を向けてもらえなくなるに決まってる」
「そうかなあ。わたしの知ってるフユくんはそんな人じゃないと思うけどな」
曖昧で不確実な説教をしながら「彼女」はメッセージを作り終え、そのまま私の中のどこかに隠れてしまった。
とにもかくにも、「彼女」が入力した弥生冬葵へのメッセージは、バイアスや思考エラーを解決する手がかりになる可能性がある。やや指が逡巡してしまったが、メッセージの送信ボタンを押した。……まあ、もしバイアスやエラーを克服できたところで、論理的推測通りに「終わり」が来てしまったら、メリットもへったくれもなくなるのだが。
☆ ☆ ☆
八月二十五日、日曜日。
棗が騒がしくドタバタと音を立てたせいで、冬葵は午前六時に無理矢理起こされた。
冬葵の部屋は、隣が棗の部屋になっている。しかも弥生家は木造の中古住宅なので、妹がいつも出している大きすぎる生活音は、基本的に全て兄の耳に入る。
「うるさいな……」
棗の部屋側の壁を向き、目を閉じたまま、冬葵は昨日の夜のことを思い出す。模試の前日だというのに、棗はやたらとリビングで寛いでいる自分に構ってきた。多少鬱陶しく感じたので、有無を言わせず「お姫様抱っこ」で彼女の部屋に運搬し、ベッドに投げ捨てたのだった。
「ああ、今日模試か……」
夏休みの最後にある大規模な全国模試だったが、棗の頭脳であれば難なくA判定を勝ち取ってくるはずだし、恐らく緊張なんてものも彼女には無縁だろう。安堵して寝返りを打ち、うっすらと目を開けると、部屋の中央にあるテーブルがピカピカと緑色に光っているのが見えた。目を凝らしてみると、テーブルの上にあるスマホが『RINEが来ている』ということを知らせるためにランプを光らせているようだった。
無理な早起きのせいで重くなっている身体を引き摺り、どうにかテーブルまで辿り着くと、手探りで電源ボタンを押し、スマホの画面を点灯させる。
『夜分にごめんね。話がしたいです。近々会えないかな?』
RINEの内容を確認すると、UMAアカウントから一通のシンプルなメッセージが送られてきていた。スタンプも絵文字もない文面に、冬葵は若干の違和感を覚えた。
「あいつ、あきらみたいに哲学者スタンプをめっちゃ使うのにな」
画面を上の方にスクロールすると、海乃との過去のやり取りで使われた膨大な数のスタンプが目に入る。「無知の知」と言っている古代ギリシャの老人や「とにかくやらなあカント」と言っているいかつい顔の男性など、バリエーションは実に豊かだ。
そんなスタンプ常用者がこんな殺風景なメッセージを送ってきたということは、真剣な話し合いでも望んでいるのだろうか。
「おう、分かった。俺は基本的に暇だから、いつでも構わんぞ」
冬葵もスタンプを使わずシンプルな文だけを送る。そのままスマホの画面を消灯しようと電源ボタンに手をかけたが、その瞬間「既読」が表示された。
「マジか……早すぎるだろ、まだ朝の六時だぞ……。大学生のくせに早起きすぎるって」
驚きながら欠伸を一つしようとした瞬間、スマホのバイブレーションが冬葵の手を驚かせた。欠伸を中断したせいで一層涙の浮かんだ目尻を擦りながら、RINE通話に応じる。
「もしもし」
『あ、冬葵くん。おはよう。朝早くにごめんね』
「いや、大丈夫。どうしたんだ?」
冬葵の問いかけに、海乃は沈黙で返した。彼女にも何か事情があるのだろうと思っていたので、冬葵は深く追及せず、話を進める。
「……ああ、言いづらいこともあるよな。無理すんな。会いたいんだろ。いつにする?」
『……いいの?』
「何が?」
海乃の質問の意図が読めず、冬葵は問い返した。だが海乃はそれには答えず、話を先に進めようとした。
『あっごめん、何でもない。急でごめんなんだけど、今週の水曜から木曜って空いてる?』
「ああ、どっちも空いてるけどさ。本当に大丈夫か? 全然元気なさそうだぞ」
再び海乃はしばらく沈黙した。いつもとはあまりに違いすぎる彼女の様子に、冬葵の心配は増幅する。
「何かあったんならさ、俺で良ければ相談に乗るぞ」
『……どうして?』
「どうしてって……」
冬葵は「当たり前のことだろ」と続けようとしたが、海乃がすすり泣いているような音が聞こえ、思わず口を噤んだ。
『だって、冬葵くん、私のこと嫌いでしょ? 散々酷いことしたし……』
「酷いこと? まあ、海で告白して以来、一切返事をもらってないけど。でも別に嫌いじゃないし、むしろ好きだからな、海乃のこと」
顔から火が出そうになりながら慰めの言葉を伝えたが、海乃がすすり泣く声は少しも小さくならなかった。
『でも、記憶はともかく感情は消せないはずだから……。私の行動への不快感とか不信感は残ってるはずなのに……』
「消せない? 何の話だ?」
『あ、えっと、気にしないで。こっちの話。……とにかく、私の行動に苛立つこと、あるでしょ?』
そう言われ、冬葵はいつかの哲との会話を思い出す。
確かに、自分が海乃から不当な扱いを受けているんじゃないかと思うことはある。しかし海乃に悪気はないだろうし、そんな些細なことで終息してくれるほど、冬葵の恋心は大人しくない。
「正直に言えば、結構あるよ。けど、それでもお前のこと、好きだから」
『……そうなの?』
「ああ。好きに理由なんてないし、苛立つ要素があるからって、そんな簡単に嫌いにはなれない。個々の要素とか理屈とかを超えて、相手の全部を好きになる。それが恋とか愛なんじゃないか、って思ってるよ。……うっわ、マジで朝から何言ってるんだ俺、恥っず」
くすりと電話の向こうから、笑みのこぼれた音が聞こえた。少しでも海乃の元気に貢献できたのならば、恥ずかしくクサいことを言った意味もあったというものだ。
『冬葵くん、ありがとう。元気になったかも』
「おう、それは良かった」
『……それでね、今度こそ、ちゃんと返事がしたいの。一緒に出掛けたいから、二十八日の午前七時半、竹芝駅に来てくれないかな? 朝早くてごめんなんだけど……』
少々早い時刻な気もするが、いざとなったら棗に起こしてもらおう。彼女は夜更かしな割に早起きが得意で「寝坊」という概念とはほとんど無縁の人生を歩んできているのだから。
「おう、大丈夫だ。というか、いつもと違って、わがままじゃないな」
『あの、それは本当にごめんなさい! えっと、その……』
「うそうそ、冗談だよ。あんまり謝らないでくれ」
『ごめ……えっと、分かった』
「おう。じゃあな、楽しみにしてる」
軽口を真に受けて恐縮してしまう海乃は、本当に別人になってしまったかのようだ。しかし近々きちんと会える約束を結べたこともあり、ひとまず冬葵は楽観視することにした。
「竹芝ってことは、離宮とか東京タワーとか行くのかな……。ん? そういえば海乃ってどこに住んでるんだ? ゆりかもめの沿線とか?」
通話を切った後、冬葵は気持ちが逸り、竹芝近辺のデートスポットの下調べを始めた。だが、それは無駄な努力になる運命にあった。
☆ ☆ ☆
八月二十八日、水曜日。
六時半になると、冬葵の部屋のスマホがやかましく鳴り出した。だが典型的な大学生たる彼にとって「六時半」は「絶対に起き出さない時間」を意味する。そのため、スマホのアラームは一切耳に入って来なかった。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん! 目覚まし鳴ってるよ、起きて!」
ベッド横の壁の向こうから、棗の声が聞こえてくる。この声を聞いて「起きなければ」という意思だけは生まれたが、実際に身体を動かそうとするステップには至らなかった。
「まったくもう……ダメ兄め……」
呆れ声の後、冬葵の耳には、自室のドアが開く音が入ってきた。
「約束通り起こしに来たよ。遅刻できない用事があるんじゃなかったの?」
「うー……んあー……」
睡眠本能に抗いながら、冬葵は言葉にならない返事をする。
棗は「ふわあ」と一つ欠伸をしてから、冬葵にかぶさっている毛布を引き剥がした。夏とはいえ、早朝の空気は寝起きの身に堪える。ぶるりと身震いをして、冬葵は目を擦り、ゆっくり起き上がり始めた。うっすら開けた目に、オーバーサイズのTシャツを着た棗の姿がぼんやり映る。
「私の寝覚めの良さはすごいのに、どうしてお兄ちゃんはこんななんだろうね」
「んー……知らん。ていうかなつめ、そのTシャツ好きだな」
「ああ、これ?」
棗は着ているTシャツの裾をつまみ、嬉しそうにデザインを冬葵に見せつける。
首元から臍のあたりまで伸びている、ピンクのネクタイのイラスト。
全体は白いワイシャツのようなデザインになっているが、胸元と襟のあたりに、謎の深緑色のシミがある。
最近の女子高生の間ではこういう奇妙なシャツが流行っているのだろうか。そんな他愛のないことを、冬葵は靄のかかった寝起きの頭で考えた。だが、歯に衣着せず「変だ」などと言えば確実に棗を不機嫌にしてしまうので、この考えは頭の中だけに留めておくことにした。
「そりゃ、ミドフェスでの限定生産品だもん。嬉しくてついつい着ちゃうよ」
「ああ、応援しているバンドのフェスか。何だっけ、ミッドナイトカフェ?」
「そうそう! ミドカフェ!」
嬉々として棗は話し始める。早朝であっても、好きなものについて語る時は、テンションが上がるものなのだろう。
「このシャツはね、ミドカフェが最近リリースしたシングル『Rebellion of Matcha Tea』をモチーフにしてるんだよ」
「れべり……何?」
「れべりおん・おぶ・抹茶てぃー! 「抹茶の反逆」ってことだよ。営業に行ってるサラリーマンが仕事をサボって喫茶店に行ったら、抹茶アイスをシャツにぶち撒けちゃって、でもそのおかげで営業先の人と話が合って、めでたしめでたし、っていうストーリーの曲」
ご機嫌な棗の長々しい解説に、寝起きの冬葵の脳はキャパオーバーを起こしていた。せっかく振り払えたと思っていた眠気が再び襲来する。
「……面白そうだとは思うけど、シュールというか、世界観が独特だな。……ふああ」
「そうでしょ。ミドカフェは、シュールで意味不明なの。一見すると、ね」
「てことは、本当は意味があるのか?」
「そう! 歌詞を深読みすると、隠されたメッセージが浮かんでくるの。だから、作詞を担当しているドラマーの『ラーメン屋
くるりと背を向けて部屋を飛び出そうとする棗の小さな肩を掴み、冬葵は彼女の動きを制止した。このままでは数時間にわたって、棗のミッドナイトカフェ布教が始まってしまう。話し始めると止まらない棗の性格を、冬葵はよく知っていた。
「ごめんなつめ、俺用事あるから、また今度話聞くね」
「えー。どうせぼっちでどこか行くだけでしょ。……まあ、今回は私の機嫌に免じて解放してあげるけど」
やれやれと棗が首を振ると、肩に置いた冬葵の手に、細い髪がサラサラと触れる。
「ぼっちじゃないんだけど……。まあミドカフェの曲、いくつか探して聴いてみるよ」
「良い心がけだね、よろしいよろしい。……さて、私は物理と地学の模試の復習でもしますかね」
棗は小さな手の平で口をおさえて「ふわあ」と欠伸をし、冬葵の部屋を出て行った。
道端で日向ぼっこをしている猫よりも棗の方が自由奔放なんじゃないかと思いながら、冬葵はデートのための身支度を始めた。
☆ ☆ ☆
七時二十五分。
ゆりかもめの竹芝駅の改札を出た冬葵を、海乃が笑顔で出迎えた。
淡い紫色のシオンがところどころにあしらわれた白いシャツからは日焼けした腕が、デニム生地のショートパンツからは長い脚が伸びている。右肩に提げられた大きなボストンバッグになぜか既視感を覚えたが、いつ見たものかは思い出せないため、特に気にしないことにした。
「おはよう、冬葵くん!」
「おう、おはよう。待ったか?」
「いや、そうでもないよ。……ふふ。それじゃ、行こうか」
若干表情に曇りがあるようにも思われたが、概ねいつも通りの海乃の様子に、冬葵は安心した。というのも、もしこの時点で彼女のテンションが著しく低かったり、逆に異様に高かったりすれば、それは恐らく「振るためにここに呼んだ」ということだろうからだ。
海乃の方から、冬葵の手を握る。緊張と安心感が綯い交ぜになった不思議な感情に、冬葵の心は浸された。
ふわふわ落ち着かない気持ちのまま階段を降り地上に出て、しばらく朝日を浴びながら竹芝のビルの隙間を進んでいくと、やたら大きな「客船ターミナル」と書かれた建物に辿り着く。
自動ドアを抜けると、横に長い空間の奥に受付がある。そのうち三つが現在稼働中で、残りのカウンターにはシャッターが下りている。七時半にもなっていないというのに、カウンターの前には四組ほどの待機列が作られていた。
待機列の方には向かわず、海乃は冬葵を近くの記入用スタンドに誘導した。
「なあ海乃、今日行くのって、もしかして島かどこか?」
「うん、そうだよ? ……あ、そうか、行き先を言ってなかったかな。ごめんね」
「いや、気にするな。その方がかえって海乃っぽいし。まあ、楽しければ問題ないしな」
冬葵のフォローに、海乃は眉をへにゃりと下げ「えへへ」と笑った。
これまでの彼であれば「自分を振り回すな」と怒りや苛立ちを感じているところだろうが、今日は不思議とそんな気分にはなれなかった。冬葵は握っている手に優しく力を入れて、許しの意思表示を行った。冬葵の意図が繋がれた手からも伝わったのか、海乃は穏やかな笑顔を返してくれる。
「それで、船に乗る前に、チケットに住所とか電話番号とかを書くんだよ」
「おう、分かった」
「私はもう済ませちゃったけど、焦らず、間違わないように書いてね」
そう言うと、海乃はごそごそとボストンバッグから二枚のチケットを取り出し、片方を冬葵に手渡した。チケットの氏名欄には、既に「梅……」と書かれていた気がしたが、よく見ると特に何も書かれていなかった。冬葵は素直にチケットを受け取り、スタンドからボールペンを取った。空白の氏名欄に「弥生冬葵」、住所欄に「神奈川県川崎市幸区北幸町四丁目三十九」と書き込むのを、海乃はじっと見ていた。
☆ ☆ ☆
八時五十分。
ターミナルでアナウンスされていた予定時刻通りに、冬葵と海乃を乗せた高速ジェット船は出港し、伊豆諸島に向けて南下を開始した。
冬葵は「船で島に行く」と聞き「デッキに出て風を感じ海を眺めながら、優雅に船旅を楽しむ」といったイメージを抱いていたが、今回乗っている高速ジェット船はかなり趣向が違った。甲板が開放されていないばかりか、お手洗いに行く時と自動販売機を利用する時を除き、そもそも旅客が席を立つことを想定していない。シートベルトに縛り付けられた冬葵には、スマホをいじるか、やや心ここにあらずといった感じの海乃と他愛のない会話に興じるかくらいの選択肢しか与えられていなかった。
生活リズムからすればイレギュラーなほど早起きしていた冬葵は、じきに眠りに就いた。
十二時五分。
ジェット船は無事に伊豆諸島の一つ「式根島」の野伏港に停泊した。予定時刻を五分オーバーしていたが、到着ギリギリまで眠っていた冬葵にとっては何でもなかった。
「おお、ここが式根島ってところか」
「そう! 私がキミと一緒に来たかった、超おすすめスポット!」
船の二階部分から外に出て、金属製の階段をガシャガシャと音を立てながら降り、島内に足を着ける。
雲一つない快晴の下で、実際に水底が見えるほど透明度の高い海が、燦然と太陽光を反射する。「この光景を見ただけでも島に来た価値はある」と冬葵は思った。
「確かに、このキラキラした海は、猿島とちょっと似てるかもな。でも猿島よりもキラキラが強いというか、澄んでいるというか」
「お! 分かってくれますか、冬葵くん!」
冬葵の隣を歩く海乃も、曇りのない表情を取り戻し、これまでのデートで見せてきたどや顔を向けている。
「この辺りは本当に水質が良くてね。反射する太陽光の一つ一つが、本土より研ぎ澄まされている気がするんだ。もちろん、だからって『猿島より式根島の方が優れている』なんて言うつもりは全然ないけどね」
「確かに、めっちゃ透明だよな」
「でしょでしょ! でもね、まだ驚くのは早いよ。島の魅力は、もっとあちこちにあるんだから。ふっふっふ……」
海乃は不敵な笑みを浮かべながら歩き始める。彼女に続いて、時々ざぶんと音を立てて泡立つ海を左手に眺めながら、冬葵も港を離れた。
アップダウンの多めな島内を、車以外何ともすれ違うことのないまま、十五分ほど歩いただろうか。あまり改装はされていない昔ながらの商店をいくつか通り過ぎ、二人は宿に到着した。入り口近くの看板を見る限り「
「こんにちはー!」
何の躊躇いもなく、海乃は宿の引き戸を開けた。蚊取り線香の匂いが漂う玄関前を抜け建物の中に入ると、木造建築特有の心地良い香りが鼻腔に充満する。
「いらっしゃいませ!」
海乃の声を聞きつけてか、事務室らしき一室から、一人の女性が出てきた。満面の笑顔からは、歓迎の意が溢れている。
「えっと、予約していた弥生です。よろしくお願いします!」
「弥生様ですね。お待ちしておりました。お出迎え不要ということでしたので宿におりましたが、迷いませんでしたか?」
「はい、昔この辺りに来たことがあったので」
「そうでしたか! あ、宿泊手続きの書類を持ってまいりますので、ソファにかけてお待ちくださいね」
「分かりました!」
宿の受付担当と思われる女性と海乃の間で、とんとん拍子に話が進む。
冬葵は脳の処理が追い付かずぽかんとしていたが、とりあえず案内された通りにソファに座り、肩かけのバッグを下ろした。弥生家のリビングにある革製のソファよりも圧倒的に柔らかく、少し落ち着かないくらいに身体が沈む。
「……なあ海乃。いろいろ訊きたいことがあるんだけどさ」
「うん! なあに?」
書類を書き始める前に、冬葵は海乃の方を見た。
すっかり元気を取り戻した様子でけろっとしている海乃に、冬葵は九割の安心と、一割の不安を感じた。落胆している海乃を見なくて済むのは助かるが、また彼女に振り回されることになるのだろう。……決して嫌というわけではないのだが。
「まず、今回って泊まりなの? あと、俺の名義で予約したの?」
「そりゃ、式根島を満喫するには、流石に日帰りは厳しいからね。名義は、まあ、その……どっちで予約しても大して変わらないって」
「日帰りが無理なのは分かるけどさ、泊まりだっていうなら、心の準備とか、もっと荷物とか必要だったのに。名義は……まあ、どっちでもいいか」
ソファに置いた冬葵のバッグに入っているのは、せいぜいスマホ、充電器、財布とパスケース、イラスト用のタブレットくらいだ。宿泊に必須なものは皆無と言っていい。
「大丈夫! 式根島を楽しむために必要なものは、全部この島で手に入るから。そんなことより、宿泊者用の名簿、書かないとだよ」
「そりゃお前はボストンバッグまで持ってきて、準備万端だろうしな……。気楽なもんだよ、本当に」
呆れつつも手を動かし、スタッフの女性に渡された紙に氏名、住所、連絡先を記入する。書き終えた頃に海乃がこちらに手を差し出してきたので、書類を手渡した。
満面の笑みを浮かべている海乃の目と、冬葵の目がバチリと合う。冬葵には、こんな表情をしている海乃を責めることはできない。ため息を一つ吐き、これから起こるであろう無茶苦茶なことを全て受け入れようという覚悟を決めた。
「弥生様。記入終わりましたか?」
「はい、終わりました!」
宿の女性が客室の鍵を手に、スタッフ用の部屋から出てきた。「弥生様」と呼ばれて海乃が返事をしているのを見て、冬葵の心臓が一回撥ねる。「まだ付き合ってすらいないのに結婚を意識する」という古典的で手垢塗れなトリックに反応してしまったたことを少しだけ恥じた。
「それでは」
受付の女性は書類に目を通し、問題がないことを確認すると、話を進めた。
「当店では宿泊費を前払いでお支払いいただいています。一室一泊八五〇〇円です」
「だって。冬葵くん、四二五〇円ある?」
「え?」
一瞬、海乃がなぜ宿泊費を半額にして訊いてきたのかが理解できなかった。二人で二部屋使うのだろうから、一人当たり八五〇〇円払うのが妥当ではないのか?
冬葵は数秒考えた後、叫びたくなるほどの事態に気付いてしまった。「男女は当然別室」という常識的な前提こそが間違いだったのだ。経験上、海乃にはおよそ常識というものは通用しない。つまり「冬葵と海乃は同じ部屋に泊まる、ゆえに一室の料金を半額ずつ負担する」ということなのだ。
しかし、もし急に予約内容に異議を申し立てれば、宿の女性に怪しまれたり、最悪キャンセルになったりするかもしれない。今回のデートを台無しにしたくない一心で、喉を通り抜けて舌あたりまで到達していた叫びを噛み殺す。
肩掛けのバッグから財布を取り出し、運良くぴったり存在していたお札と硬貨を海乃に手渡す。
「あー……あった。はい、海乃。ぴったり四二五〇円」
「ありがと、冬葵くん。じゃあ女将さん、これで八五〇〇円です。お願いします!」
☆ ☆ ☆
「それでさ、海乃。まだいくつか訊きたいことがあるんだけど」
「えー、さっき二つも質問したじゃん。早く遊びに行こうよ」
岩水屋の客室はすべて二階にある。二人が宿泊するのは、階段を上がってすぐのところにある、窓から旅館の入り口のトタン屋根が見える部屋だ。残念ながら海が見えることはなさそうだが、それでも本土に比べて圧倒的に広い空を存分に楽しむことはできる。
冬葵は部屋に入るなり、座布団の上に海乃を正座させて問い質し始めた。万が一にも宿の女性に聞かれないよう声量は抑えているが、冬葵の語気はやや荒い。海乃は逆らうことができず、口答えしつつも渋々冬葵の尋問に応じた。
「まず、どうして同じ部屋なんだ? 男女が同じ部屋とか……あー、その、絶対ダメだと思うんだけど、いろいろと」
「でも、ほら、こんな大きな部屋を一人で使うのは、ちょっともったいなくない?」
海乃は腕をぐるぐると回し、部屋の広さをアピールしようとする。軽く十畳はあろうかという和室は、確かに一人で泊まるには広すぎる。
「それも一理あるけど! 同室に泊まるのが許されるのは、夫婦か家族くらいなんだから。いくら何でも、ただの男女大学生が同じ部屋に泊まるなんて、宿の人がどう思ってるか……」
「大丈夫、大丈夫。宿泊者用の書類には、私が冬葵くんの姉ってことにして書いてあるから。『弥生海乃』って」
「え、マジ? それにしては似てなさすぎるだろ。っていや、そういう問題じゃなくて!」
唇を尖らせて不服そうにしている少女は、どうやら宿に嘘をつくというとんでもないことをしでかしたらしい。いよいよ事態の理解が追い付かなくなり、冬葵は軽い眩暈を覚えて畳の上にへたり込んだ。
「まったく……バレたらどうするつもりなんだよ……。下手したら詐欺罪とかに問われるかもしれないじゃん……」
うずくまり頭を抱える冬葵の上に海乃の腕が伸びる。海乃はぽんぽんと優しく冬葵の頭を撫で、弟を慈しむ姉のような声で言った。
「大丈夫だよ、冬葵くん。もうすぐ全部解決して、元通りになるからさ」
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