第6話 わたしの言葉では伝わらなかったのに

 冬葵の参加している創作サークルの名前は「ムヘウミ」といった。サークルの先輩から聞いたところによると、どこか東欧の言語で「美術館」という意味らしい。しかし、東欧の中の何語なのか訊いてみても、答えを知っているメンバーは一人もいなかった。「きっとマイナーな言語なんだろう」と冬葵はぼんやり思い、謎を解き明かそうとはしなかった。

 ムヘウミの活動は、メンバー一人ひとりの自主性に大きく委ねられている。イラストを描く者、小説を書く者、詩を作る者。各々好きなことをして、好きなモチーフを表現する。ただ一つ全メンバーに共通しているのは、およそ「創作」と呼ばれる活動に打ち込んでいることと、十一月の学園祭で出されるサークルの合同誌『無への海』に自分の作品を寄稿することくらいだ。


 まだ八月半ば。

 猿島でラフを描いたイラストは無事完成したが、合同誌に寄稿するには時期尚早だった。かといって誰にも見せずにタブレットの肥やしにしておくのも性に合わない。冬葵はイラストをツイッターに投稿して、フォロワーの感想を元にブラッシュアップすることにした。


 ツイートしたのは、真っ青な海に囲まれ、黄色い太陽光を浴びている猿島を背に、水の精霊ウンディーネが白い薄衣を纏って踊っているようなイラスト。こういったファンタジックなテイストは冬葵の得意とするところだ。このイラストに関しても「それなりのリツイートやいいねが来るだろう」という、少なからぬ自信があった。

 ところが、この予想は、投稿した翌日に早速裏切られた。



     ☆     ☆     ☆



「なあ冬葵」

「ん? どうしたあきら」


 八月十九日。

 夏休み期間に設定されていた社会心理学の補講が終わり、ノートや教科書をバッグの中に仕舞っていると、近くの席に座っていたらしい哲が歩いてきて、冬葵に話しかけた。

 

「お前、昨日イラストをツイートしてたろ。やばいことになってるぞ」

「やばいこと? 炎上してるとか?」

「いや、そういうんじゃないけど。まあ見てみろよ、お前が世の人々にどう評価されているのかをさ」

 

 哲はスマホを何度かタップした後、画面を冬葵の目の前に近付けた。

 

「ちょっ、まだ反応を見る覚悟ができてない」

「うるせえ、往生際が悪いな」


 冬葵は目を背けて抵抗するが、哲に乱暴に頭を掴まれて、無理矢理に画面の方を向かされる。

 哲のこうした男らしいサバサバした性格は、冬葵としても付き合いやすいので、決して嫌いではない。しかし、女子からのスキンシップに戸惑いも覚えることも事実だ。言動は男まさりで声も女子にしては低めだが、整った顔、長い睫毛、Tシャツの文字を大きく歪めている胸部、身にまとっている甘い香りは、間違いなく女子のそれなのだ。そのため本気で抵抗することが躊躇されてしまい、冬葵の顔は哲のスマホを正視してしまった。


「……え?」


 イラストの下には、彼の予想に反するものが表示されていた。緑色のアイコンの横に「20k」、赤いハートの横に「45k」という数字。二万のリツイートと、四万五千のいいねを受けたことを意味している。


「な? やばいだろ? 冬葵、ちょっとした有名人なんじゃない?」

「マジか……。リツイートもいいねも、通知切ってるから気付かなかった……」


 これまでも、冬葵のイラストが多少バズることはあった。ただ、それでも数十程度であり、今回のようにいきなり数万レベルの反応が来たのは初めてだ。冬葵は狼狽え、冷房の効いた涼しい部屋にいるにもかかわらず、外で直射日光を浴びているのと同じくらいどっと汗をかいていた。


「……というか、リツイートボタンもいいねボタンも色が付いてるってことは、あきらもリツイートといいねしてるじゃん」

「別に、あたしの勝手だろ、嫌いじゃなかったんだから。……それより、冬葵のスマホにも、いくつかリプライ来てるんじゃないか? ほら、リプが二十件来てる」


 哲が見せつけてくる画面の吹き出しマークの横には、20という数字が表示されている。このツイートを見て、冬葵にリプライを送った人々の数である。

 冬葵はポケットに仕舞っていたスマホを取り出し、ツイッターのアプリを開く。哲の言った通り、リプライマークの右上に「20」と書かれている。恐る恐る手汗まみれの指で通知ボタンをタップすると、色とりどりのアイコンを使っているユーザーたちからの反応が届いていた。


「好こ」

「好みの画像だったので保存した」

「最高です!」

「(リツイートといいねのボタンを両腕で叩いているキャラクターの二コマ漫画)」


 ツイッターで日頃からよく見かける構文や画像がいくつも送られていた。冬葵はそれらの投稿を熟読しつつ、いいねを押していく。「自分がこれらの反応を送られる側の立場になった」という実感は、なかなか彼の中に落とし込まれない。現実味を欠いた気分のまま、さらに画面をスクロールする。


「アイコンにさせていただきました!」

「この人のイラストはもっと広まってほしい」

「大変良き」


 冬葵は基本的に「自分の見たもの、見たいものをカタチにしたい」という気持ちでイラストを描いている。いわば自己表現として、あくまで自分のためにイラストを書いているようなものだ。それでも、こうして見た人に喜ばれるのは、アマチュアイラストレーター冥利に尽きると思ってしまうものだ。


 嬉しさを噛み締めながら通知画面を下にスクロールしていくと、冬葵のもとに送られてきたリプライの中に、こんなものが混ざっていた。


「突然のリプライ失礼します。川角シューズ文庫編集部の者です。素晴らしいイラストを拝見しました。ダイレクトメッセージをお送りいたしましたので、お手隙の際にご確認いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。」


 このリプライの意味を一瞬では理解できず、冬葵は送り主の名前をぽつりと呟いた。


「川角シューズ文庫……」

「うん? どうかしたか冬葵?」


 哲の問いに答える代わりに、冬葵はこの長文リプライをタップしてから、スマホごと哲に渡した。哲は黙って画面の上に目線を走らせていたが、数秒後、喜びと驚きが入り混じった表情をうっすら見せ、スマホを冬葵に返した。


「これ、すごいことじゃないか? 川角シューズ文庫って、あたしでも知ってるような有名ラノベレーベルじゃん。早くダイレクトメッセージ見ろよ」

「い、いや、まだ何かが決まったわけじゃないから。ダイレクトメッセージを送るって言ってるだけで、もしかしたら内容は『下手すぎて草』とかかもしれないだろ」


 突然のことに、冬葵の心臓は早鐘を打っていた。現実を受け入れられず、思ってもいないつまらない冗談を吐いてしまう。


「そんなわけあるか。川角のスタッフがそんな暇人みたいなことしないって」

「わ、分かってるし。でもやばいだろ、こんな状況」

「はいはい。見る勇気がないなら、あたしが代わりに見てやろうか?」


 哲が、スマホを寄越せとばかりに、冬葵の方に手の平を差し出す。


「いや、自分で見る」

「そうか、それなら早くしろ。気になるから」

「急かすなよ……」


 冬葵はスマホを握り直し、震えながらダイレクトメッセージのアイコンを押す。確かに、川角シューズ文庫の公式アカウントから、何通かの長文メッセージが送られていた。


「フユキ様 はじめまして。川角シューズ文庫編集部の上田と申します。水の精と島が織りなす素敵なイラストや、これまで投稿されていた作品の数々を拝見いたしました。現実とファンタジーの狭間にいるかのような雰囲気のイラストを、私をはじめとするスタッフ一同、楽しませていただきました。」

「さて、フユキ様にご相談がございます。現在、当編集部では新しいライトノベルの作品を企画しております。テーマは『異世界での冒険』なのですが、そのライトノベルのイラストを、フユキ様に担当していただけないでしょうか。」

「まだ企画段階のため、正式に依頼するのは来年の夏頃になる見込みですが、ぜひご検討いただければと存じます。」

「前向きに考えていただけるのであれば、近いうちに面談させていただければ幸いです。ご返信、お待ちしております。 川角シューズ文庫編集部 上田雪姫(うえだ・ゆき)」



     ☆     ☆     ☆



 「荷が重いかもしれないが、何事もチャレンジが肝心」と考えた冬葵は、川角シューズ文庫からの提案を受け入れることにした。決意の揺るがぬうちにダイレクトメッセージで了承の意思を伝えると、夜九時を過ぎているにもかかわらず、わずか五分で返信が返ってきた。「出版社は労働時間が夜にまでわたる大変な仕事」とは聞いていたが、改めて冬葵はそれを知った気がした。


 八月二十三日、金曜日。

 授業や補講もない大学構内で、上田との面談が設けられることになった。


 いつも講義を受けている建物の一階にある大きめのラウンジで、冬葵はやたらと緊張しながら、窓際の四人席の椅子を並べ直していた。冷たいお茶の入った小さなペットボトルを二本購入して、ラベルが座席の方を向くように丁寧に置く。「上司の長野原ながのはらと一緒に伺います」ということだったので、長野原なる人にも失礼のないように配慮したのだ。

 これで、彼らとの面談の準備は完璧のはずだ。


 ……そのはずだったのだが、招かれざる客が一人、確保しておいた四人席のうちの一つに図々しくも陣取っていた。


「どんな人が来るんだろうね?」

「どうしてお前がいるんだよ……」

 

 海乃はあっけらかんとした表情で、椅子に座って意味の分からない鼻歌を歌っている。理由は定かではないが、この海乃の姿を見ていると、どうにも抑えがたい苛立ちが、心の底から沸沸と生まれ出てくる。


「いやー、ラウンジに入っていく冬葵くんを見付けちゃって。何か面白いことがあるんでしょ? 私も混ぜてよ」

「ダメだ。これは遊びじゃなくて、ビジネスなんだから」

「ビジネス?」


 ほんの少しだけ、海乃の表情が真面目になったような気がした。


「そうだ。うまくいけば、俺のイラストを世の中の人に見てもらえるかもしれないんだ」

「……ふうん?」


 今度は思案しているような表情になる。コロコロ変わる表情も、今の冬葵には面倒で厄介なものにしか感じられない。

 少しだけ考えた後、唇を尖らせたまま海乃は言った。


「……つまり、世の中の承認を得られるわけだね」


 承認。

 その表現は確かに間違いではないのだろう。しかし自分の夢や希望をそんな風にカテゴライズされるのは、全く良い気分ではなかった。自分の気持ちが持っているきらめきを全部削ぎ落とし、乱暴に捨てられたようだ。

 

「とりあえず、海乃はちょっとどっかに行っててくれ」


 冬葵はシッシッと海乃を追い払う仕草をした。海乃は不服そうに立ち上がり、机に置いていたリュックを右肩に掛けた。


「……しょうがないね、冬葵くんが真面目な表情をしているから、今回は我慢するよ。でも後できっちり話を聞かせてもらうからね」

「まあ別に構わないけど……。どうしていつも彼女ヅラなんだよ……」

「そりゃ、近いうちに彼女にしてもらうからね!」


 んふふと海乃は笑みをこぼし、ラウンジから廊下に出て行った。

 入れ違いに、筋骨隆々な偉丈夫が一人、冬葵の方に真っ直ぐ歩いてきていた。



     ☆     ☆     ☆



「はじめまして。フユキ先生ですね?」


 その男は冬葵の姿を認めると、迷いのない足取りで真っ直ぐ近付いてきた。身長は百九〇センチほどだろうか、近付かれるとなおさら、彼が桁外れの巨漢だということが分かる。

 男に害意など一ミリもない。そんなことは冷静に考えれば当たり前なのに、それでも自分に向けられた刺し殺さんばかりの視線と、ドスの効いた低い声に、冬葵は蛇に睨まれた蛙のように足がすくんでしまった。


「……はい。ええと、上田さん、でしょうか」

「いや、上田は自分ではありません。自分は長野原と申します。恐らく上田から名前はお伝えしていると思いますが、今日は上田に同席するために参りました」

 

 そういえば、ダイレクトメッセージの送り主は「上田雪姫」、つまり明らかに女性の名前だった。偏見かもしれないが、このいかつい男が「雪姫」なんていう可愛らしい名前のはずがない。

 初対面で、しかも担当者の上司に対していきなり非礼を働いてしまい、冬葵はさらに萎縮してしまった。


「す、すみません!」

「いえ、とんでもないです」


 長野原は手を横に振り、あっさり笑顔で冬葵のミスを流してくれた。もしかすると、見た目は怖くとも、中身は温和な人物なのかもしれない。


「本物の上田はですね。……オイ上田! 早くこっち来い!」


 長野原は後ろに振り向き、五メートルほど先の柱の陰にいる人物めがけて野太い声を出した。他に人がいたら間違いなくぎょっとして振り返ってしまうような長野原の怒号から、やはり彼が恐ろしい、堅気ではない人物なのだろうと思わされた。

 

 彼の声を受けて、ちらりと一人のスーツ姿の女性がラウンジの向こうから姿を現した。

 棗よりも少し小さいくらいの身長だから、恐らく百五十センチメートル弱だろうか。顔立ちが幼いからか「スーツに着られている中学生」という感想を抱いてしまった。

 やや茶色がかったベリーショートの髪の隙間から、長野原とはまた違った鋭い目が光っていた。長野原の目が銘ある大振りの日本刀だとすれば、この女性の眼力はピアノ線に似ている。迫力があるわけではないが、触れるもの全てをスパっと切ってしまいそうな眼光だった。


「……すみません」


 女性は一言謝った後、真っ直ぐ冬葵のもとに歩いてきた。

 長野原の時とは真逆に、間近で見ると背の小ささがよりはっきりと分かった。

 

「……お時間をいただき、ありがとうございます。私が上田です」

「あっ、よろしくお願いします。フユキ……ええと、弥生冬葵と申します」

「……」

「……」


 互いが一言ずつ挨拶をしたきり、会話が続かなくなってしまった。

 上田はただ冬葵をじっと上目遣いで見つめるだけであり、一向に何かを発言してくれそうな雰囲気にならない。見るに見かねてか、長野原が一つため息を吐き、助け舟を出す。


「あー……フユキ先生、気を悪くされないでください。こいつ、ちょっと変なやつでして」

「はあ」


 自分のもとに届いたダイレクトメッセージの文面がとても礼儀正しかったので、本人もカッチリとした人物なのかと思っていた。だが、異様に切れ味のある眼力を除けば、ただの天然な小動物という印象を受けた。

 きっとあのメッセージは、上田の名義で長野原が作ったとか、長野原が最終的に文を整えたとか、そういう工程を経て送られてきたのだろう。


「ただ、ご安心ください。上田の仕事の腕は確かです。入社三年目ではありますが、担当してきたノベルは全てメガヒットさせているんです」

「えっ、それはすごいことなのでは?」

「はい。身内を褒めることになってしまい恐縮ですが、客観的に考えれば恐ろしい偉業だと思います」


 長野原が冬葵に説得している間も、上田は一言も発することなく、じっと冬葵に視線を注いでいた。何を考えているのか推測だにできないポーカーフェイスに、冬葵はどう反応すべきか分からなくなる。

 冬葵のそんな困惑を特に気に留めることなく、長野原は説明を続けた。


「そんな上田が、この間突然フユキ先生のイラストをどこからか見付け出して『このイラストでラノベを一つ作りたい、作らないともったいない』と言い始めまして。確かに素晴らしい絵だったので、こうして実際にお声をかけたんです。……少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか、フユキ先生」

「あっ、はい、ぜひとも、よろしくお願いします」



     ☆     ☆     ☆



 冬葵の準備した席で、細かい条件などの打ち合わせが行われた。

 巨漢である長野原のすぐ横に座っているせいで、ただでさえ中学生くらいの体格をしている上田が、一層幼く、子供のように見えてしまう。


 長野原はテラテラした革製のビジネスバッグから、クリップで留められた紙の束を取り出し、机に置く。「異世界ファンタジーノベル企画書(担当:上田)」というタイトルが表紙の真ん中に堂々と書かれていた。

 長野原は、棍棒のように太い腕で企画書をめくりながら、要点を説明し始める。


 今回の企画は、冬葵の描いたイラストを中心に組み立てられるということ。

 冬葵にイラストを納品してもらい、そこから作家選びや執筆がスタートするということ。

 冬葵には、イラストレーターが通常受け取る印税のおよそ倍額が支払われるということ。

 担当の上田が別の企画で手いっぱいのため、来年夏まではこの企画は進められない。それまでにイラストを描きためてほしいということ。

 イラストは「異世界での冒険」をテーマにしてほしいが、細かい指定はなく、冬葵がある程度自由に描いて構わないということ。


「……いかがでしょう、フユキ先生。このような条件でよろしければ、ぜひ正式にお考えいただきたいのですが」


 一通り話し終えると、長野原がペットボトルのお茶を一口飲み、企画書を冬葵の方に渡した。「自分でも確認してほしい」という意図なのだろう。


 渡された分厚い企画書をパラパラとめくりながら、冬葵は考えをめぐらせた。

 どうしてそこまで自分が厚遇されるのか? いくら感動してもらえたとしても、所詮はまだ実績も経験もないアマチュアのイラスト描きだ。素人でも分かるくらいのVIP待遇でかくも丁重に接してくれるのは、ちょっとおかしいのではないか?

 一瞬「これは詐欺なのか」とも考えた。しかし「お金を払え」などと言われているわけでもない以上、これが詐欺だという可能性は低い。恐らく企画自体は本物なのだろう。

 いろいろ悩んでも一向に答えらしい答えが見つからず、冬葵は一つ質問をすることにした。


「あの、お尋ねしたいのですが」

「はい、何でしょう」

「私の描いたイラストのどこが気に入って、お声をかけていただけたのでしょうか」

「……ほう」


  長野原は一瞬、ギョロリと瞳を動かした。何か彼の逆鱗に触れてしまうことを言ってしまった気分になり、冬葵は慌てて弁解した。


「いや、別に自分のイラストに自信がないって言いたいわけじゃないんです。でも、どうしてインターネットの海の中からあのイラストを見付けて、そして注目していただけたのか。その理由をはっきり聞かせていただけたら、嬉し……」

「それは違う」


 弁解し終わる前に、挨拶の時以来ずっと黙っていた上田が口を開いた。かなり強く断言する言い方に押されて、冬葵の口は自然とぴったり閉じてしまう。

 上田は鞄からタブレットを出して、冬葵のイラストを表示させてテーブルに置いた。

 くるりとタブレットの向きを変え、イラストを冬葵に見やすいようにした後、冬葵の目の奥を真っ直ぐ見つめ、滔々と話し始める。


「あなたのイラストが私の中に惹起した感情を、あなたはただ信じていなさい。人間の感情は、言葉という離散的なデータでは表せない。つまり1と0でしか物事を捉えられないコンピュータでは扱えない概念。無理矢理感情を言葉にしようとすれば、そこには誤差や矛盾が生まれて、神が宿るはずの細部がごっそり削られたり、壊れたりしてしまう。だから、感情は分析しようとしても、表現しようとしてもダメ。『どうして?』と理由を考えてもダメだし『どうすれば消費者の心を操れるか、人気が出るか?』なんてことを考えてもダメ」


 これまでの無口が嘘のように、上田は饒舌だ。

 何やら言いたそうな長野原に口を挟む間も与えず、上田は話を続ける。


「あなたがやるべきなのは、自分の見た世界や、脳内のイメージ、自分の中の衝動を全部イラストにぶつけることだけ。あなたの要素の集合体ではなく、あなたの全体を、そのままイラストにしてほしい。それが結果的に消費者の心と共鳴して、言語や論理をすり抜けて、直接感情にインパクトを引き起こす。……それだけがあなたの仕事。残りの作業は私たちがやる。消費者の感情はともかく、購買行動くらいの粗いデータならいくらでも分析できるし、操作だって簡単にできる。……分かった? 弥生冬葵くん」


 正直なところ、上田が何を言いたいのか、冬葵は半分も理解できた気がしなかった。だが、彼女に「あなたのイラストが好き」と認められたことと「細かいことは私に任せて」と宣言されたことだけは分かり、冬葵は安堵した。

 その安心感を全て吹き飛ばすほどに恐ろしい声で、長野原が上田を叱責する。


「おい上田! いつも言っているが、年齢に関係なくビジネスパートナーには敬語を使え! あと『フユキ先生』とペンネームでお呼びするのが筋だろう! ……すみませんフユキ先生、こんな担当でも許していただけたら嬉しいです」

「いや、大丈夫です。気にしてませんから」

「恐縮です。ほら、お前も謝罪しろ」


 長野原は上田の後頭部を乱暴に掴み、無理矢理頭を下げさせる。上田の小さな口から「ぐえっ」という声が漏れる。大の大人二人に頭を下げられる経験なんてあるはずもなく、冬葵は困惑した。


「本当に大丈夫ですって。頭上げてください」

「ごほ……失礼しました。『冬葵先生』」


 冬葵には、上田の口ぶりがどこか面従腹背だった気もしたが、長野原は「はあ」と呆れた声を出し、彼女の頭から切り傷のあるいかつい左手をどかした。



     ☆     ☆     ☆



「わあ! これが冬葵くんのイラスト……」


 長野原と冬葵が互いにペコペコし合っているところに、どこに潜んでいたのか、海乃がひょいと顔を覗かせた。声の主が海乃だったと認めると、冬葵は強い落胆と、怒りを覚えた。あれほど「真面目なビジネスの話だから」と言いつけておいたのに、どうしてここに彼女がいるのだろう。


「なあ海乃。別のところに行ってろ、って言わなかったか?」


 冬葵が声を荒げるが、海乃は返事はおろか、イラストから一向に目を離そうとしない。瞬きと同時に長い睫毛が上下する以外、彼女の小さな身体はぴたりと静止していた。

 

「おい、聞いてるのかよ!」


 冬葵が一層怒気を強めても、やはり海乃はじっと動かず、タブレットの画面に釘付けになっている。全く反応のない海乃の代わりに、上田が口を開いた。


「冬葵先生。もしかしてこの方が、水の精霊のモデルなんですか?」

「ええ、まあ、そうです。ご覧の通り真面目な話に呑気に首を突っ込んでくるようなやつで、性格は最悪なんですが、やたらと海とか島とか、そういう大きな背景が似合っちゃうんです。こいつに無理矢理連れて行かれた横須賀でこのイラストを思いついた、っていう経緯があります」

「ほう……」


 上田は興味深そうに相槌を打つと、右手を顎に添えて、再び黙ってしまう。

 さっきの話しぶりや、メガヒットをいくつも出しているという実績から考えるに、上田雪姫という人物は冬葵には想像できないほどに頭が切れるのだろう。凛々しく沈思黙考している姿は非常に頼もしく、どこか底なしに恐ろしい。

 しばらくすると、何かアイデアが生まれたのだろうか、上田が冬葵の方に目線を戻した。


「……冬葵先生」

「な、何でしょうか」


 何を問われるのかとドギマギしたが、上田は何も語らず、すっと海乃を指さした。

 促されるままに海乃に視線を向けると、彼女の目が涙で揺らめいていた。瞬きをするたびに涙の粒が千切れ、タブレットに落ちていく。それでも海乃は、冬葵のイラストから目を離さない。


「……っぐ、ひっく」


 いつしか、海乃がすすり泣き始めてしまった。冬葵はどうすべきか分からず困惑するばかりで、怒りたい気分はどこかに消え去っていた。


「……なあ海乃。どうしたんだよ」


 乱暴に肩を揺すると、ようやく海乃ははっとして、冬葵の方を見た。

 二人の視線がバチリとぶつかるが、すぐに海乃は伏し目がちに右下の方を見てしまう。いつもの海乃であれば嬉々として見つめ返してきそうなものだったが、この時の彼女はそうはしなかった。

 海乃は左腕でぐいっと目元を拭うと、誰でも作り笑顔と分かるような、口角だけ無理に持ち上げた表情で言った。


「……ごめんなさい。何でもないよ」


 冬葵には、彼女の涙の理由がまるで分からない。

 踵を返してラウンジから駆け出してしまう海乃に手を伸ばして、涙の理由を問い詰めることすらもできなかった。

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