第5話 ねえ、感情ってそういうものじゃないよ

『それで、返事は来てないのか?』

「ああ、さっぱり。RINEを送っても要領の得ない返事しか来ないし、大学でも全然見かけないし」

『ったく、もうちょっとまともな感覚を持ってるやつだと思ったんだけどな……』


 由比ヶ浜での告白から一週間経っても、海乃の言っていた「じきに」とやらは到来していなかった。

 告白をしようとする冬葵の背中を押した哲も、罪悪感で気分が沈んでいるらしい。RINE通話の向こう側からでも、彼女の落ち込んだ背中が目に浮かぶようだ。

 

『……ごめんな。あたしがけしかけたばっかりに』

「いや、あきらは悪くないよ。俺に魅力がなかったのか、決定的な欠点があったのか分からないけどさ。多分、それだけだ」


 あははと乾いた笑いを一つ作ってみたものの、自分でも予想していなかったほどに、冬葵のメンタルは凹んでいた。いや「抉れた」と表現した方が適切かもしれない。それほどに彼が負ったダメージは甚大だった。

 気丈に振る舞っているつもりだが、冬葵の身体は彼の心情をよく理解しているようで、スマホを持つ手にはうまく力が入らない。


『……あのさ』


 恐る恐る、哲が口を開く。


「ん?」

『一応、振られたわけではないと思うんだよな。きっぱり拒絶されたわけじゃないんだろ?』

「まあな。希望的観測が許されるなら、だけど」


 完全に振られたわけではないことは、冬葵もよく分かっている。しかし、あの時の海乃の態度はあまりに素っ気なく、とても「前向きに検討します」という雰囲気だったとは思えない。

 哲の慰めの言葉を受けても、気分は晴れなかった。冬葵は一度ネガティブ思考のスパイラルにはまってしまうと、とことん深みに落ちていくタイプだ。


『……だからさ、諦めずに頑張れ、って言ってやりたいんだよ、あたしは。でも……その、さ……』

「あきらにしては珍しく歯切れが悪いな。大丈夫だから何でも言ってくれ」


 哲が自分に過剰に気を遣っているように思えてしまい、冬葵はますます自己嫌悪に陥る。「そんなことはない、哲はいつも通りだ」とブレーキをかける冷静な判断力までもが、ネガティブ思考に囚われて機能停止している。


『ありがとな。……要は、海乃にお前を任せて大丈夫なのかな、って思えちゃってさ。あれだけ自分勝手な海乃とくっついて、冬葵は本当に幸せになれるか、ちょっとクエスチョンマークが浮かぶというか』

「そんなこと……」


 きっぱり「ない」と言い返したかった。だが、哲の言っていることも的を射ている。海乃の自分勝手な行動がいとも簡単に列挙できてしまうからだ。

 由比ヶ浜で告白した時に結論を先回りして告げてきたこと、横須賀で二度も独断で注文を済ませてしまったこと、デートの日程を一方的に告げられ、反論の余地を与えなかったこと。そもそも最初に出会った時からして、こちらの気持ちを察しようとせず、ポンポンと話を進めていたではないか。


『な。あるだろ、たくさん。あたしでさえ何度も思っていたんだから、もっと海乃と一緒に濃密な時間を過ごしていた冬葵が何も感じないわけがない』


 哲の語気から、何となく今どんな表情をしているのかが目に浮かぶ。これまで見たことがないくらいに、目の前の空間を鋭く睨みつけているに違いない。


『それでもさ、許容範囲に収まるわがまま屋だと思ってたんだよ、海乃のこと。でも、冬葵の好意を踏みにじるような目に余る行為を、あたしは見過ごせない』


 冬葵の知っている哲は、哲学の話をしている時を除けば、こんなに饒舌な人物ではない。それでも、これだけ懸命に自分を励ましてくれている。

 スマホの向こう側でプシュ、クピクピという音が鳴る。無表情な炭酸飲料愛好家の存在が、いくらか冬葵の心の傷を癒しつつあった。


「……ありがとな、あきら」

『別に感謝されることはしてない』

「いや、それだけ俺のことを考えてくれて、ありがたいなと思って」

『は?』


 タイミングのせいか若干キレているような言い方で、哲は疑問を呈した。冬葵はまるで哲の怒りが自分に向けられているかのように怯えながら、恐る恐る弁解した。


「だって、俺が傷ついた時に、まるで自分のことのように怒れるのって、『愛』じゃん」


 数秒間の沈黙。

 なぜ哲が一言も発しないのだろうと、冬葵は自分の言い放ったことを内省してみる。

 ……「愛」。

 一秒もかからずに原因に気付き、冬葵はぶわっと冷や汗をかいた。


「いや! そういう意味じゃねえから!」

『……はいはい、分かってるよ』


 くっくっくとからかうような笑い声が聞こえてくる。焦り損だったことが痛感され、冬葵は負けた気分になり、頭を掻いた。強い苛立ちはどこへやら、一頻り愉快そうに笑った後、哲は言った。


『……でもな、冬葵。愛とかいう崇高な感情じゃないんだよ、あたしのは』

 

 人を大切に思う感情に、愛以外のものがあるのだろうか。冬葵は意味を理解しかねた。


「違うとなると、何なんだ? 下心? 計算?」

『……強いて言うなら、八つ当たり、かな』

「ふーん……? 難しいこと考えてるんだな、あきらは」

『別にどうだっていいだろ』


 実際、冬葵は心のあたりがじんわり温まるのを感じていた。目的が八つ当たりだったとしても「愛」をかけてもらえるのは嬉しいのだ。


「とにかく、ありがとな」

『ふん、勝手に感謝してろ。受け取らないけどな』

 

 感謝を押し付けられて迷惑そうな哲は、一言冬葵に釘を刺す。


『とにかく、だ。海乃と付き合っていくなら、しっかり手綱を握っておくべきだ』

「おう、そうするよ。……長々と電話しちゃってごめんな」

『気にするな。それじゃお休み』


 いつもはぶっきらぼうな友人だが、困っている時は自分を助けて、親身になってくれる。この恵まれた環境が、冬葵の心の支えになっていた。

 海乃の不可解な言動に心を奪われるのに任せず、自分をしっかり保たなくてはいけない。冬葵はそう決意しながら、意気込んでタブレットに付属しているスタイラスペンを握る。横須賀での海乃をモチーフにした描きかけのイラストに我を忘れたかのように没頭し、約三時間。睡魔が彼の瞼を無理矢理引き下ろそうとするまで、イラストの世界から戻ってくることはなかった。



     ☆     ☆     ☆



 八月十六日、金曜日。冬葵が海乃に恋焦がれつつじっと待つこと、約半月。

 昼食に冬葵が作ったハンバーグを食べた後、リビングでアイスチョコモナカを食べながら棗とTVゲーム「マサオカート」に興じている最中、唐突に誰かからRINE電話がかかってきた。


「お兄ちゃん、電話来てるよ」

「おう」


 コントローラーの一時停止ボタンを押し、スマホの通話ボタンをタップする。

 発信者のアカウント名は「UMA」。返事を一日千秋の思いで待っている冬葵にとって、海乃に繋がる情報が目に入ることは、限りない劇薬だった。冬葵の心臓はきゅうと縮こまり、同時にたまらなく切なくなる。さんざん待たされた怒りや不安は、一瞬で霧散していた。


「……もしもし」

『はろー!』

「はろーじゃねえよ、まったく。RINE送っても変なスタンプしか返ってこないし、大学では全然見かけないし。心配したんだぞ」


 怒ったような口ぶりをしているが、自然と表情が緩んでしまう。ただの挨拶だけでこんなにも幸せになってしまうなんて、恋というものはあらゆる感覚を鈍らせるものだ。

 後ろで棗が何か自分に話しかけているようだが、そんなものは聞こえやしない。冬葵の聴覚は今、海乃だけに向けられている。


『いやあごめんごめん。準備に手間取っちゃってね』

「準備?」

『そう。ねえ冬葵くん、今日会えないかな?』


 家の壁かけ時計を見ると、時刻は午後三時。目的地にもよるが、あまり長い時間は一緒にいられないだろう。だが、今が何時でも、少ししか会えないとしても、一向に構わない。仮に夜中の一時だろうと、一瞬でも海乃と会えるのなら、喜んで出掛けられる。「海乃が好きだ」と自覚してからというもの、彼女への恋慕はいや増しに増していた。


「まあ大丈夫だけど……」


 冬葵は躊躇っているような風を装いつつも即答した。だが、ここに思わぬ邪魔が入った。


「ダメ!」


 背後で、ぷくりと頬を膨らませた棗が、冬葵のコントローラーをこちらに向け睨んでいる。


「今日は私と遊んでくれる約束でしょ! 出掛けちゃったら遊べないじゃん!」

「そんな約束してない。三十分だけゲームするって話だったろ」

「三十時間に延長したの!」


 棗の暴論は電話越しに海乃にも聞こえたらしく、クスクスという笑い声が耳に届く。


『なっちゃんは今日も元気だね』

「まあな。受験生だってのに、今日もゲームしてるよ」

『受験は大丈夫なの?』

「本人いわく、遊んでても首席で合格できるってさ」


 妹そっちのけで会話を楽しんでいると、棗が四つん這いで寄ってきて、冬葵の腰を引っぱたいた。


「誰と話してるの! ほらゲーム! ゲーム!」

「大人しくしてろって。もうすぐ大学生なんだから」


 棗の頭を押さえ、テレビの前に押し戻そうとする。しかし逆に頭をぐりぐり回し、冬葵の手に擦り付けてくる。抵抗しているのか甘えているのかよく分からないが、とりあえず鬱陶しいことに変わりはない。


「いくつになっても、妹は兄に無制限にわがまま言いましょうって法律で決まってるの! ていうか誰と電話してるのってば!」

「……海乃だよ」


 しつこい追及から逃れるために、小っ恥ずかしさを我慢して答える。モゴモゴした答え方だったにもかかわらず棗はちゃんと聞き取ったようで、目を光らせて冬葵からスマホを奪取した。


「こんにちは! うちの兄がいつもお世話になってます!」


 自分勝手な妹に通話を乗っ取られたが、不思議と不愉快ではなかった。むしろ海乃の声から一旦離れることで、妙に張りつめていた心を緩めることすらできた。十中八九偶然の成果だと思うが、棗の行動に少し感謝する。

 

 強奪したスマホを握ったまま、棗は海乃と会話を楽しんでいる。


「はい。はい。……いやいや! 借りると言わずに、そのまま貰っちゃってください!」


 海乃の声が聞こえないので詳しい内容は分からないが、棗の言葉から察するに、明らかに自分のことを勝手に決められている。危機感を覚え、慌てて棗からスマホを取り返そうとするが、ひらりと躱されてしまう。勉強の出来不出来だけでなく動きの軽やかさについても、この兄妹では棗の方に軍配が上がるのだ。


「はい、分かりました。ではお兄ちゃ……兄に伝えておきます。……えっ? ブラコンじゃないですってば。……はい、じゃあまた!」


 棗は耳元からすっとスマホを離すと、そのまま画面をタップして通話を終えてしまった。


「お兄ちゃん、デートのお誘いだったよ。OKしておいたから、寝癖を直しておめかしして、ちゃっちゃと出掛けなさい。はいスマホ」


 一方的に宣告しスマホを投げて寄越すと、棗はコントローラーを持ち直し、途中だったマサオカートのレースを中断した。しかしゲームそのものを終えるのではなく、対戦相手をCPUの最強レベルに変更し、再びレースを始めてしまった。今の彼女に「相手がいないから仕方なく勉強する」という選択肢はないようだ。


「お前は将来、確実に大物になるよ……。兄が保証する」

「ほんと? やったー」


 冬葵の渾身の皮肉も、棗には通用しない。

 この小さな暴君の扱い方については、十七年以上付き合ってきた今でも、何の手がかりも見つかっていないのだ。



     ☆     ☆     ☆



 十六時四十五分。

 以前海乃と冬葵が訪れた横須賀中央駅よりさらに向こう側、浦賀駅と双璧をなす京急線の終着点、三崎口駅。

 冬葵としてはできる限り早く着いたつもりだったが、既に海乃は待ちくたびれたような表情をして改札の外で待っていた。唇を尖らせ、用途不明なビッグサイズのボストンバッグを提げて、大きな地図の描かれた看板の横に寄りかかっている。

 赤いトップスに黒いサロペットワンピースの海乃が、冬葵の姿を見付けるなり嬉しそうに眼を見開き、早足で背後に回り込む。


「あ! 冬葵くん! 遅いよー」

「無理言うなよ、これでも猛ダッシュしてきたんだからな」


 下車してから全速力で走ったため息切れしている冬葵を気遣うこともせず、海乃は停車しているバスに向かって背中を押し始めた。


「早く早く! あれ終バスだよ!」

「分かったから、押すなって!」


 冬葵は急かされるまま「ソライロの丘」と行き先が書かれたバスに乗り込み、後部の二人掛けの席に座った。


 冬葵の隣に腰を下ろした海乃は、大きなボストンバッグの置き場所に困っていた。バス内は混雑していたわけではないが、前後の席には別の客がいるため、荷物置き場として使うことはできない。

 おろおろとしている姿すら愛おしく感じられるが、バスの発車に響いてはいけないので、彼女に助け船を出すことにした。


「……バッグ、俺にも乗せたら? 二人分の膝の幅があれば問題ないだろ」

「おお、冬葵くん頭良い! じゃあそうするね!」


 嬉々として海乃はボストンバッグの左半分を冬葵の上に乗せる。バッグの重みは、大きな見た目に似合わず不気味なくらいに軽かった。


「なあ海乃、これ何が入ってるんだ? やたら軽いけど」

「んー? まあお土産をたくさん仕舞う予定、的な?」

「的な、って何だよ……」


 久し振りに顔を合わせた海乃は、いつも通り何を考えているか分からなかった。

 言っていることももちろん理解できないが、もっと不可解なのは、その左手が冬葵の右手をしっかり握っているということだ。しかも、ただ握るだけではなく「恋人繋ぎ」をしたうえで、腕と腕の隙間がなくなるくらいに密着してくる。

 甘い匂いが狂おしいほど恋心に刺さり、冬葵は思わず悪態をついてしまう。


「海乃、暑苦しいって」

「にしし。良いではないか、良いではないか」


 恥ずかしい、暑い、といった言い訳がいくつも思い浮かぶが、窓際に座っている冬葵には、いずれにせよ逃げ場はない。せめてもの抵抗として、自由な左手でスマホをいじり、彼女への興味がない風を装っていた。


「ぶー、冬葵くん、スマホばっかりいじってつまんない。私とおしゃべりしようよ」

「長い間まともな連絡を寄越さなかったくせに、今更何言ってんだ」

「ごめんってば。許して。ね?」


 甘えるような声でささやき、握る手にきゅっきゅと力を入れる。

 恋焦がれる心をこじらせて変な声を上げそうになるが、衆目が集まることを恐れて「ひい」という叫びを喉の奥に抑え込む。


「周りに人がいるんだからイチャつくなよ」


 イチャついている当人が言うのは少し変な台詞で、冬葵は辛うじて海乃の攻勢に抵抗する。


「大丈夫、誰も見てないって」


 ふんふふんと楽し気なメロディを鼻歌で奏でながら、海乃は一層強く手を握った。しかもそれだけでは終わらず、小さな頭をこてんと冬葵の右肩に乗せてくる。彼女の頭の柔らかい感触と、さらに強まる鼻腔をくすぐる甘ったるい匂いに、耐えきれず小さく「ひい」と叫んでしまった。


「マジで止めてくれ」


 海乃の頭を肩の上からどかそうとしながら、周りに痛い視線を注がれていないか確認する。幸いにも、海乃の媚態や冬葵の紅潮に目くじらを立てている乗客はいなかった。


「ね、誰も見てないでしょ」


 恍惚とした表情で目を瞑りながら、海乃は周囲を一顧だにせず断言した。その自信がどこから湧いてくるのか、冬葵には見当も付かなかった。



     ☆     ☆     ☆



 三崎口駅から約十五分。

 バスを降り、広い空が頭上に広がる小さな遊園地「ソライロの丘」のゲートを通り抜けた二人を出迎えたのは、夕陽に向かってオレンジ色に照り映えるヒマワリの群れだった。

 ヒマワリたちの正面、西の方角には、太平洋を隔てて静岡県が広がっている。よく晴れていて雲一つかぶっていない茜富士に、冬葵は息を呑んだ。


「神奈川からでも富士山ってはっきり見えるんだな」

「そうだよ、絶景でしょ! あ、あとこのヒマワリ畑、冬から春にかけては菜の花で一面の黄色になるんだって!」

「マジか。その時期にもいつか来たいな」


 高いテンションでヒマワリの近くに駆け寄り、じろじろと花弁を見ている海乃とは異なり、冬葵は富士山の方を向いたままソワソワしていた。


「……どうしたの? 冬葵くん」

「ああ、ちょっと訊きたいんだけどさ、この公園の営業時間って何時だ?」

「十八時だよ」


 海乃の迷いのない返答を受けて、冬葵は左腕のスマートウォッチを見る。現在時刻は十七時九分。


「……あとさ、どうしても行きたいところ、あるか?」

「うん、一か所だけ。……ああ、そういうことか!」


 おずおずと問い続ける冬葵を見て、海乃は彼の言わんとしていることを察した。


「もしかして冬葵くん、この景色をスケッチしたいとか?」

「……よく分かったな」

「へへん、まあね」


 眼前に目いっぱい広がるヒマワリ畑と、夏らしい服装ではしゃいでいる海乃。

 猿島の時のように、大きいものの前に海乃が立っているという構図を、タブレットかどこかに留めておかずにはいられなくなったのだ。

 しかも、この場所には稜線のクッキリした富士山まで存在する。生憎ヒマワリ畑とは逆方向にあるが、そのあたりはイラストレーターとしての想像力で脳内合成すれば、十分イラストの中に組み込めるだろう。


「二十……いや、十五分でOKだからさ。スケッチさせてくれないか?」

「んー」


 海乃は、黒いスカートポケットからスマホを取り出し、時間を確認する。小さく「うん」とつぶやき、スマホを仕舞って冬葵に笑顔を向けた。


「いいよ。その方が冬葵くんの幸せが増えるから」

「サンキュー。ごめんな、わがまま言っちゃって」

「ううん。キミがハッピーになったら、私も嬉しい」


 海乃は満開の笑顔のまま答えた後、彼の背中を押し、ヒマワリ畑の真ん中へと誘った。冬葵は導かれるままに一面の黄金郷を奥へ奥へ歩きながら、背中に伝わってくる海乃の体温を「暑苦しい」ではなく「温かい」と感じ始めていた。きっと「キミがハッピーになったら、私も嬉しい」という言葉で、自分の存在が強く肯定された気持ちになったからだろう。


「こっちの方が、たくさんヒマワリが見えるよ。こことか!」

 

 やがて海乃は、畑の真ん中、前後左右をヒマワリに囲まれた場所を指さし、そのまま座り込んだ。


「あんまり人もいないから、座っちゃおうよ。ほら、冬葵くん、おいで!」


 閉園まで三十分と少ししかないためか、夕暮れのソライロの丘には、もう他の利用客はあまり残っていない。海乃がぺしぺしと叩く地面に、気持ち彼女から距離を取って腰を下ろし、そのままスケッチを始めた。


 数分間、黙々とタブレットの上にペンを走らせていると、いつの間にか寝転がっていた海乃が、不意に空に向かって口を開いた。


「冬葵くんにとってさ、イラストってなあに?」

「突然何だよ」

「いいから答えてよー」


 突然振られた哲学的な問い。冬葵は即答できず、眼前のヒマワリたちとタブレットの中に形作られつつある「もう一つのヒマワリ畑」と見比べた。

 しばらく風景とイラストとを比較していると、イラストの中に「風景とは違うもの」の欠片が浮かび上がってくる。きっとそれが「答え」だろう。


「そうだな、正解っぽいもの、これかもな」

「おおー」

「それはな」


 イラストアプリの保存ボタンをペンで数回タップした後、言葉を吟味しながら話し始める。


「イラストって、風景をいかに完全にトレースできるかってことが重視されがちだけど、そうじゃないんだよ。もちろん写実性も大切だけど、俺が描いているイラストの価値はそれ以外のところにある。……価値がある、って自分で言うのは変だけどな」

「大丈夫、価値あるよ。あっちゃんが言ってた」

「マジか、それは意外だな。……まあそれは置いといて、俺が考えるイラストの価値は『その場の全部を切り取れるかどうか』だと思う」


 寝っ転がっていた海乃が、興味ありげに上半身を起こし、尋ねる。


「『その場の全部』って?」

「うまく説明できないんだけどさ、現実に広がっている風景だけじゃなくて、空想として見えている風景とか、聞こえる音、漂ってくる匂い、振動とか触覚、もちろん俺の感情や衝動も。そういうのを全部ひっくるめて、一つのイラストにする。視覚以外の情報も視覚に変換しなきゃいけないから、そりゃ難しいけどね。……少なくとも俺はイラストをそういうものだと思ってるよ」


 ほほうと驚きの声を上げて、海乃がさらに問う。


「ということは、イラストを通せば、感情を『見る』こともできるんだよね?」

「んー、まあ、原理的にはそうなるんじゃないか」

「おおお……!」


 海乃は目を真ん丸くすると、再びぱたりと寝転がった。


「イラストっていうのは素晴らしいものだねえ!」


 いくらか大袈裟なのではと思うくらいに、海乃は嬉しそうな表情を見せる。自分のイラストが褒められたわけでもないのに、冬葵はこそばゆいような、誇らしい気持ちになった。



     ☆     ☆     ☆



 それからさらに十分弱、冬葵は夕陽を元気に反射するヒマワリ畑のラフスケッチを終え、イラストを保存してからタブレットをバッグに仕舞い込んだ。


「ごめん海乃、お待たせ。……って、あれ」


 隣で横になっていた海乃は、冬葵のスケッチをじっと待っている間に、すやすやと寝息を立てて、無防備な寝顔を晒していた。呼吸に合わせて腹が浮いたり沈んだりしているのを見ると、そのまま気持ち良く寝かせておいてあげたくなる。しかし「行きたいところがある」と海乃が言っていたのを思い出し、起こすために手を彼女の肩に伸ばす。


「海乃、起きないと公園閉まるぞ」


 肩に触れて左右に控えめに揺すると、海乃は「うん?」という声を出しながら目を開けた。自分の肩に乗っている手を一瞥した後、冬葵の目の方に視線をやる。冬葵は恥ずかしいことをしてしまった気分になり、反発する磁石のように腕をどかした。


「……あれ、私寝ちゃってた? ごめんごめん」

「いや、大丈夫。行きたいところがあるんだろ、早く行こうぜ」

「うん、そうだね」

 

 海乃は上体を起こしながら、薄ピンクの紅が引かれた唇にそっと人差し指を当て、いたずらっぽい笑みを浮かべる。

 

「次起こす時は、王子様のキスでよろしく」

「そ、そんなことするわけないだろ」


 いつものことながら海乃の挑発は度が過ぎている。そうやってけしかけた結果、もし本当にキスされたらどうするつもりなのか。……いや、そうなっても嫌じゃないからこそ、安心してからかっているのかもしれない。そう考えてみると、海乃は自分のことが本当に好きだという可能性が高いのではないか。


「ほらほら、冬葵くん、どうしたの。行こうよ、スケッチ終わったんでしょ?」


 海乃の真意についての思案は、すっくと立ちあがった彼女の一声のもとに遮られてしまった。悶々とした悩みは絶えないが「恐らく今日のデートで告白の返事をもらえるはずだから」と考え、冬葵は大人しく考えるのを止めた。


「おう、行こう」


 ヒマワリ畑を抜けて右に曲がり、帰宅する人々の動きに逆流するように、ソライロの丘の奥へと舗装路を進む。しばらくすると、カラフルな観覧車や、子供を乗せずに静止している小さなフリーフォールが目に入った。


「私のお目当ては、もうちょっと先。……あ、あれ!」


 探しているものを見付けたのか、海乃は急に駆け出し、白塗りの大きな建物の入り口に向かってしまった。

 冬葵もやや急ぎ足で追いつくと、玄関のすぐ横にバリエーション豊かなメニューが大きく貼り出されている。どうやら建物の中にはレストランが入っているらしい。


「ここ、プロウィンキアっていうレストランなんだ。ここにもよこすか海軍カレーがあるの。冬葵くんと一緒に行ったウッドベースとはまた違って、子供でも食べやすい、辛さを抑えたカレーになってるんだ」


 メニューの下の方にある、青く毒々しい「富士山カレー」に悪い意味で目を奪われてしまっていたが、冬葵にとっても馴染みのある「よこすか海軍カレー」も、確かにメニューの真ん中に存在していた。

 高いテンションで解説した途端、海乃の腹が「ぐう」と唸った。


「お腹、鳴ってるぞ」

「あはは、そういうこともあるよね」


 少しも恥ずかしがる様子を見せず、大雑把な自己弁護の後、海乃は解説を続けた。


「ここのカレーの特徴は、隠し味なんだよ。何が入ってると思う?」


 得意満面に、冬葵の方を指さした。何かを問う時、海乃はいつもこのポーズをしているような気がする。


「何だろ……果物のジャムとか?」

「おおー、当たらずとも遠からず、って感じだね。正解はね、レーズンペースト!」

「一応正解じゃん」

「えー、そんなガバガバな答え方じゃダメだよー」


 海乃は不服そうに頬を膨らませるが、すぐに元の上機嫌な笑顔に戻った。


「ま、そんなわけなの。じゃ、次に行こうか!」


 そう言うと、くるりと踵を返し、観覧車の方に歩き始めてしまった。てっきりレストランで夕陽を見ながら優雅に食事をするのかと思っていた冬葵は、驚いて海乃を呼び止める。


「おい海乃、ここで夕飯を食べるんじゃなかったのか? お腹空いてるんだろ」

「だって冬葵くん、プロウィンキアの営業時間って十六時までだよ。もう閉店してるって」


 レストランのドアを見ると、はっきりと「CLOSED」のプレートがかかっている。よく考えれば、閉園時間がすぐそこまで迫っているのだから、レストランが営業しているはずもなかった。


「ほらほら、観覧車はまだ営業してるからさ、乗って行こうよ」


 急かすように海乃が声をかける。迷いなく観覧車の券売機に向かう彼女に追いつくため、冬葵は歩みを速めた。



     ☆     ☆     ☆



「さてと」


 二人を乗せた観覧車が動き出し、ゴンドラが七時の方向まで進んだ頃。容赦なく差し込む西日が冬葵の顔の左半分を照らし、じりじりと熱していく。

 海乃は真正面の椅子に座り、緊張で固まった青年の目をじっと見つめる。


「冬葵くん」

「おう、何だ」


 堂々たる態度で返事をしたが、内心は不安で仕方がない。

 観覧車といえば、デートの〆の定番である。受け入れてもらえるか拒絶されるかは分からないが、自分の告白への返事を宣告されるとすれば、確実にこの場所だろう。


「……私のこと、好き?」


 海乃は大きな目を見開き、短く簡潔に問うた。睫毛が大きく上下に揺れ、透き通るような瞳を隠したり現したりする。

 やはり、告白の返事を聞かされるのは、今だ。そう悟った冬葵は、あらゆる見栄や恥ずかしさを捨てて、素直に気持ちを伝えようと決意した。


「……ああ、好きだ」


 目を逸らさず、何からも逃げず、正直な感情を伝える。

 直射日光を受けていないはずの顔の右半分すらも、内側から熱くなっていく。

 ゴンドラの外に広がる緑と黄が彩るソライロの丘の全景も、夕焼けを照り返す太平洋の赤い水平線が遠ざかるさまも、一顧だにする余裕はない。冬葵の全神経は、一メートルほど先にいる一人の少女の動向と瞳孔に向けられていた。


「どんなところが、好き?」


 海乃が追撃する。

 誰かに惹かれるのに理由なんて必要ないと思うが、こういう時はきちんと理由を言語化して伝えないといけない。そんなことを誰かが言っていた。いや、何かの本に書いてあったのか。沸騰した頭を絞り、冬葵はいくつかの答えを出した。


「……笑顔。あと、悪戯っぽくてわがままだけど、何気に優しいところ、とか?」


 彼なりの答えを口に出すと、海乃は黙ってニコニコとしている。時折ゴンドラが立てる機械音を除けば、世界の音は彼の心音だけになってしまったらしい。

 一言も発しないまま、海乃は顔を冬葵の方へと近付けてきた。ヒマワリ畑での会話で出てきた「キス」という単語が脳内を過ぎり、目の前に焼き付く。


 きゅっと結ばれた愛らしい唇との距離が縮まり始める。その後ろから少しだけ見える景色から判断するに、そろそろ冬葵たちの乗っているゴンドラは観覧車の一番上に到達する。まさしくこのデートのクライマックスだ。

 こういうことは男の方から仕掛けるべきものだという意見もあるが、今の冬葵には受け身でいるだけでも精一杯だ。


 その後に待ち受けているものに備えて、冬葵は目をつぶった。

 視覚情報が断たれ、嗅覚や聴覚、触覚が敏感になる。微かに海乃の鼻息が冬葵の唇をくすぐるのが感じられる。

 いよいよ冬葵が期待いっぱいに覚悟を決めた時、予想だにしていなかった音が鋭く耳に刺さる。


「チッ」


 この青春の眩しすぎるくらいの一ページにそぐわない、大仰な舌打ち。

 驚きのあまり反射的に目を開くと、少女の眼球は既に冬葵の方を向いてはいなかった。冬葵から見て右側、つまり東側に完全に逸れている。


「どうしてテメエがこんなところにまで……」


 誰のものか分からないような、骨の芯まで凍らせるほど残忍で、低く悪意に満ちた声が聞こえた。

 ……いや、海乃の口が台詞に合わせて動いていたので、これが海乃の発した言葉であることは明白だ。明白だが、信じたくはなかった。


 狂暴な雰囲気を纏った少女はそのまま身体ごと東を向き、窓際に顔を近付ける。急に動き出し、突き破らんほどの勢いで壁に張り付いたせいで、ゴンドラがガタガタと不気味な音を立てて揺れる。

 日の光は彼女の後頭部を照らすばかり。冬葵から見える海乃の横顔は、褐色を通り越して、どす黒く感じられた。


「お、おい海乃、どうしたんだよ。誰かいたのか」


 異様な空気にいたたまれなくなり、冬葵は海乃を窓際から剥がそうと手を伸ばす。しかし、海乃は冬葵の方を一顧だにせず、恐ろしいほどの力でその手を撥ね除けた。

 冬葵の手に走るビリビリと痺れるほどの痛みと、血走った大きな眼球が、海乃が正気ではないことをはっきり示している。


「邪魔するな!」


 さっきと同じ、低く凄みのある声で、冬葵のあらゆる関与の一切を拒絶する。

 これまで海乃が激昂したり、様子がおかしくなったりしたことは、記憶の限りでは一度もない。あまりに予想外すぎる事態に、冬葵は対処をしあぐねていた。


 彼女が窓の外の何かと睨み合ったまま、十秒ほど経っただろうか。

 海乃は大きな舌打ちを鳴らした後、乱暴に椅子に座り直し、ゴンドラを再び揺らした。ゴンドラの床の方を見ている眼は嗔ったままだが、一旦は正気を取り戻したようだ。そう判断して、冬葵はさっきと同じ質問をし直す。

 

「な、なあ、海乃。誰かいたのか」


 床を見ていた海乃が、眼球だけをギョロリと動かし、冬葵の鼻先を捉える。人間離れした眼力に恐怖を覚えるが、質問が海乃の耳に届いたことだけは分かった。


「……別に。キミが知るべきことじゃない」


 元に戻った声音で海乃が答える。もっとも、戻ったのは声音だけであり、豹変した態度は相変わらずだったが。


「そんなことあるかよ、教えてくれよ」

「しつこいな。私はお腹が空いて気が立ってるんだよ。人間だってそうでしょ?」


 海乃の言葉に、強い違和感を覚える。「人間だって」ということは、彼女は人間じゃないということなのだろうか。

 どこからどう見ても、目の前にいる可憐だった少女は、紛うことなき人間だ。……そのはずなのだが、窓に張り付いて何かを威嚇していた時の海乃の口からは、奇怪で怪物じみた声が出ていた。信じたくはないが、彼女がヒトに似た別の生命体である可能性も捨てられない。


「……そもそもお前は何なんだ? 人間じゃないのか?」


 冬葵は問うたが、答えの代わりに舌打ちが返ってきた。彼女の真意は分からないが、恐らく「私は人間じゃない」と言いたいのだろう。疑念をあっさりと肯定されてしまい、脳が揺れるほどの衝撃を受けた。

 だが、混乱の次に冬葵の脳を支配したのは怒りだった。邪険に扱われ、告白の返事もまともに貰えない理不尽な状況。自然と苛立ちが限界値を超え始めていた。

 強く責める口調で、冬葵が続ける。


「……そうかよ、答えてくれないのか。まあいいよ。だけど腹が減って気が立ってるっていうならさ、何か食べてくれば良かったじゃん。レストランの営業が終わってることも知ってたんだろ?」

「……はあ。『空腹は最大の調味料』って言葉があるでしょ。それに、食べ物なら……ああ、いや、面倒なことになるからどうでもいいや。忘れて」


 ぶっきらぼうに答えた後、海乃は嗔った目をまた床に落とす。

 海乃が何を言っているのか、冬葵には一ミリも理解できなかった。要するに「何かの目的があって、わざわざお腹を空かせたまま来た」ということだろうか。

 ともかく、自分の記憶を自由自在に操作できるわけでもないのに、「忘れて」と言われて簡単に忘れられるはずがない。そう思いながら、自分の心に残った理不尽なモヤモヤに、さらに冬葵はイライラしてしまった。


 何ら進展も結末も生まないうちに、観覧車の旅が終わろうとしていた。外から係員の声が聞こえ、それに従って二人は降車の準備をする。


「……はあ。もう興醒めだ。せっかくここまで誘導したのに」


 降り際に一言、吐いて捨てるように海乃が言った。その言葉には、冬葵のプライドに唾を吐き逆鱗を土足で蹴飛ばすような単語が含まれていた。


 係員に騒がれるわけにはいかないので、冬葵は一旦我慢しながら歩みを進める。舗装路を出口に向かって十秒くらい歩き、係員との距離を確保したところで、煮えたぎった怒りをぶつけた。


「おい、海乃。さっき何て言った? 誘導?」

「ああ、言ったよ。それが何か?」


 手をわなわなと震わせるほどの怒りと真剣さは、海乃には伝わらなかった。全く悪びれる様子もなく、無表情な少女は歩き続ける。


「お、お前な……。誘導ってことは、お前の行動は全部計算だったってことかよ」

「だからさあ、それの何がいけないの?」

「いけないに決まってるだろ、ふざけるな!」


 冬葵は声を荒げてその場に立ち止まるが、海乃はため息を一つ吐いたきり、我関せずといった表情を貫いた。仕方なく冬葵も海乃を追いかけながら、彼女の態度を問い質す。


「大体、人の感情を何だと思ってるんだ。そんなに易々と操ったり踏みにじったりしても構わないのかよ」

「……じゃあ、人間は、別の生命体を操ったり踏みにじったりしないの? するでしょ?」

「今は人間相手の話をしてるんだよ。他の動物のことじゃない」


 海乃は踵を返して、後ろ向きに歩きながら、冬葵と目を合わせる。

 その口元は笑っていたが、嘲っているようにしか見えない。彩り豊かなソライロの丘の中に血塗れの刑場が見えてくるほど、おどろおどろしく歪んだ表情だった。


「キミだけじゃないけど、人間ってちょっと特権階級ぶりすぎじゃない? しかもその中でも『自分が特別だ』って思いたいがために傷付け合ってさ。感情っていうゴミみたいなバグを抱えて、一切隠そうともしないくせに。」

「……どこがゴミなんだよ」

「例えば、恋愛感情。あんなの、性欲、つまり種としての生存本能とほとんど同じでしょ。まあ、社会的承認も恋愛感情の要素かもしれないけど、社会的承認にしたって、他の個体と共存した方が生存に有利だから求めてるだけだろうし」

「……」

「ヤりたいとか認められたいとか、そういう生きるための本能を面倒くさく細分化して『なになに感情』とか呼んじゃってさ。小賢しくて呆れちゃうね」


 海乃は淡々と、冬葵の内側にある感情を細切れにして踏みにじる。抱いていた淡い恋心も、所詮は海乃によって誘導されて作られただけで、何の価値もないのだろうか。……少なくとも、海乃にとっては何の価値もないんだろう。


 ソライロの丘のゲートを抜け、三崎口駅に戻るために「荒崎」というバス停に辿り着くまで、虚しさと怒りのせいで冬葵は一言も発せなかった。

 押し黙った彼の代わりに、海乃は何個も罵倒の言葉を並べ、一方的に冬葵の心を引き裂き続ける。


「私は、自分の生存のために、キミを誘導してここまで連れてきた。この論理的な戦術の方が、ずっと誠実で、裏表がない素晴らしいものじゃない? 邪魔が入っちゃって、結局目的は果たせなかったけどね」


「人間だって、人の感情を利用するよね。心理学の授業にいくつか潜入してみたけど、簡単なきっかけで感情がコロコロ変わっちゃう実験ばっかり。揺るがないのは本能だけなんだよ」

 

「悲しいかな、私にも美しいものに感応する感情はあるんだけどさ。もう、嫌になっちゃうよね。私に向けられる感情の全部が、結局は性欲か承認欲求でさ。美しい感情なんて、一度たりとも見たことがないの。押し付けられるエゴと吐息には吐き気がしてきちゃうし、本当に吐いちゃったこともあるよ」


 途中から彼女の言葉を耳と脳が受け付けなくなるほど、冬葵の心の中にある感情たちは完膚なきまでにぐちゃぐちゃに犯され尽くした。

 海乃の行動が生み出した不快感だけが、抜け殻のようになった冬葵の中に残された。

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