空がこんなに青いとは

三村小稲

空がこんなに青いとは(全編)

 初めてハットリに会った時、私はボロ雑巾のようにだった。頬には痣ができ、手足は擦りむいて血が滲んでいた。しかし、そういった傷よりも青ざめた唇と怯えた目の方が何倍も私を憐れに見せていた。……と、後にハットリは語った。


 私はこの町に思い出を持っていなかった。よく遊んだ公園や馴染みの駄菓子屋、川沿いの桜並木、神社の夏祭り。そういったものを何一つ持っていなかった。海が近くこぢんまりとした町で、坂の上には裕福な人々の住まう瀟洒な住宅街があり、坂の下には小さな港と人口の砂浜。波は穏やかで、海沿いを走る電車の車窓から見る風景だけが一枚の絵のように美しかった。


 私がこの町に来たのは十五歳の時だった。中学三年での引っ越しはキビシイものがあったけれど、仕方なかった。両親の仲があまり良くないというのは子供心にもうすうす感じていたけれど、実際にそれが破綻するとまでは思っていなかった。父は仕事人間で土日もほとんど家にいたためしがなく、平日の帰宅も深夜帯だったので、私は同じ家に住まいながらも父のことはほとんどなにも知らなかった。父のことで印象的なことがあるとしたら、それこそ、離婚を告げた時のことぐらいなものだった。


 父はあの日珍しく早く帰宅したかと思うと、私を呼び、書斎で衝撃的な告白をした。


「ナツ、実はお父さんとお母さんは離婚することになったんだ」


 私はぼんやりと父を見つめながら、この人はなぜこんなことを他人事のように言うのだろうと思った。当事者であるにも関わらず、淡々とした調子で、悪びれもせずに、こちらがなんと思うかを考えもしないで。

私が黙っていると、父は、

「ナツ、お父さんと暮らしたいか?」

 と尋ねた。私は、父が私と暮らしたいなどとは思っていないことを感じ、それでも返答に迷って曖昧に頷いた。


「そうか」


 父は私の微妙な返答を勝手に解釈すると「わかった」と付け加え、私を書斎から追い出した。私は呆然とするばかりだった。自分の身に何が起きたのかまるで把握できなかった。


 その翌日、父が出勤した後の食卓で母はコーヒーをいれてくれながら本当のことを話してくれた。父には女の人がいて、母と離婚してその人と暮らすのだということ。私と母は母の実家の近くに引っ越さなければいけないということ。これまで母は専業主婦だったけれど働かなくてはいけないし、私も勿論転校しなくてはいけないこと。五歳から習っていたピアノもやめなくてはいけないこと。父とは会いたければ会ってもいいけれど、そう頻繁には無理だろうということ。これからは、今までとまるで違った暮らしになるということ。次々と繰り出される母の言葉に私はやはり呆然とするしかなく、それでは父は一体何のために昨晩私に自分と暮らしたいかなどと尋ねたのかますます混乱するだけだった。


 小学校からすでに私立のエスカレータ式の女子高だった私は、それこそ同級生の全員が幼馴染という慣れ親しんだ環境を離れることが淋しくてたまらず、特に親友だったミサとカナと別れる時は抱き合って泣いた。


「絶対メールしてよ?」


 ミサは私の手を握りそう言った。その手には三人で作ったお揃いのビーズのブレスレットが巻きついていた。


「電話もしてよ。ね、いつでも遊びにきてよ」


 カナも口を揃えた。私は何度も頷き、この年でなにもかもを捨てなくてはいけない人生を恨んだ。そうして私はミッション系のお嬢さん学校の制服もピアノも、小学校から一緒だった親友も、お気に入りのクレープ屋さんも、出窓のついた自分の部屋も、父親も捨てて引っ越したのだった。


 両親の離婚で一番変わったのは、出席番号だった。一学期の中頃に転校した私が新しい公立の中学で貰った番号は「相沢」の名字が常にもたらしていた「一番」ではなく、母親の旧姓「渡辺」の「三十八番」だった。奇妙な話しだけれど、私はその番号によって初めて自分の身辺の劇的な変化を実感できた。引っ越しのどたばたと、新生活のどたばたで私と母は感傷に浸る暇もなかった。


 私は新しい制服を、それも一年しか着ないのに新調せざるをえない制服を準備し、教科書を揃え直し、転校の手続きを自ら行った。その一方で母は結婚前にやっていたという医療事務の仕事を見つけ、久しぶりの仕事に備えて予習復習をし、合間に2DKのアパートの片付けをした。


 父と暮らした家が広々とした庭付きの一戸建てだったのに比べて、今度の住まいのみすぼらしさときたら無闇なみじめさを誘い出す。母がほとんどの家具や荷物を処分したのは正解だった。このアパートに巨大なクローゼットや靴箱や本棚が収まるわけがないだろう。といっても、母がそれらを処分したのは新しい家の狭さのせいではなく、父と暮らした事実を根こそぎ払拭する為だったのだと思う。


 私は知っている。母が、私と父が写っているものは別として、母と父とが二人で写っている写真を捨ててしまったことを。アルバムから丹念にはがし、ゴミ箱に投げ入れていた後姿を。泣いているのかと思ったけれど、母の目はうつろで冷たく、青白い炎が体から立ち上っているようだった。私はもう二度とアルバムを開いてはいけないような気にさせられ、母と暮らす手前、父に買って貰った物なども母の目に触れないように引越しのダンボールに入れたまま押し入れに突っ込んだ。クマのプーさんも、外国土産の凝った装飾のオルゴール付き宝石箱も、グローバーオールのダッフルコートも、夏目漱石の箱入りの本も、全部。そうやって始まった新生活は、文字通り「ゼロ」からのスタートだった。



 新しい制服は紺色のブレザーにプリーツスカートで、小さな校章のバッヂを襟につけることが決められていた。私は「共学」というのに幾分緊張と興奮を覚えていた。これまで、あけすけで居心地のいい女だけの学校だったので、そこは未知の世界であると共に好奇心を刺激してやまない場所だった。


 転校初日、私は職員室に行き始業のチャイムがなるまでそこで待機させられた。自己紹介をさせられたら、なんと言えばいいのだろうか。みぞおちのあたりがきゅうっとひきつる。先生の後について入った教室では、すでに転校生の情報が行き渡っていたらしく三十七人の視線がいっせいに私めがけて浴びせられた。私は緊張が絶頂に達していて、どこに目を向けていいのか分からなかった。整然と並べられた机、誰一人知った人のいない顔、顔、顔。黒板に書かれた私の名前。渡辺夏。夏に生まれたから、夏。その名をつけたのは、父だった。


「渡辺です。よろしくお願いします……」


 私は小さな声で、教室の反応を窺うように頭を軽く下げた。私の席は窓際の一番後ろに用意されていて、窓からは校庭が広々と見渡せた。授業の進み具合については担任からおおまかに聞いていたので、不安はなかった。前の学校の方が進んでいたので当面は楽できそうで、私はぼんやりと窓の外を眺めた。


 校庭を囲むように銀杏の木が何本も空に向かって高く伸びており、その緑が空の青によく映えていた。体育の授業で他のクラスの一団がトラックをぐるぐると走らされている風景は取り立てて珍しいものではなかったけれど、そこに男子生徒の姿があるのだけは新鮮だった。


 女子校でも勿論男の子達との交流はあった。通学の電車で顔見知りになる男子校のグループや、おませな女の子達がセッティングする合コン。ミサやカナが連れてくる男の子達はみんな優しくて明るくて、健康で、垢抜けていた。誰もが名の知れた私立校でそれなりに裕福な家の子ばかりだったから、それこそ私の学校の生徒には「適当」な相手だった。……もう、あそこは「私の学校」ではないけれど。


 紹介されて仲良くなった男の子達にも引越しのことはメールや電話で伝えた。誰もが一様に驚き、大袈裟に残念がり、淋しがり、でもまた会おうと言った。私はそれらの言葉が「適当」な、挨拶みたいなものだと知っていたし、それは結局自分がそういう付き合いしかしていなかったからだというのも分かっていた。


 誕生日やクリスマスのデート。プレゼント。冗談みたいなキス。その一つ一つを私は対岸の火事を見るような気持ちで受け止めていた。私のそういったどこか冷めた姿勢は、父のそれと同じだと思う。離婚のことさえも他人事のように切り出した父の冷静な、いや、冷酷なまでの横顔。私は父を責められない。私のそういう態度を時々ミサは「冷たい」と言って責め、カナは「クール」だと褒めた。そのどちらが本当なのかは分からない。


 二人とは昨夜もメールをやりとりした。新しい学校での初日を迎えるにあたってミサは「がんばってね」と寄越し、カナは「ナツがいなくて、超つまんない」と寄越した。携帯電話には三人で撮ったプリクラが貼ってある。


 一時間目が終わると、最初は遠巻きに珍しい動物を、それもなにか危険な動物を見守るようだった女の子達がそろそろとこちらにやってきた。


「ねえ、渡辺さんって、家どこー?」


 髪を二つに束ねた背の高い女の子が果敢にも最初の一言を発した。


「えーと、大橋町の八丁目」

 私はできるだけ明るい声で答える。


「ああ、じゃあ、斎藤医院の近く?」

 斎藤医院……。一瞬町内の様子を頭に思い浮かべる。

「門の両脇に桜のある内科のこと?」

「なんかレトロな建物のさあ」

「あ、うん、わかった。その近くのロイヤルハイツってとこ」

「そーなんだあ」


 今度は別な女の子が、

「渡辺さんって前の学校でクラブとかなにしてた?」

「コーラス部で伴奏してた」

「じゃあ、こっちでもコーラス部入るの?」

「……ううん、クラブには入らないつもりだけど……」


 三年の今頃からクラブに入ったところで大した活動ができるわけもないし、なによりも私はピアノを手放してしまった。アップライトの古いピアノ。黄ばんだ鍵盤。父方の祖母が使っていたというそのピアノの古さを私は愛していた。調律にお金がかかって困ると母はボヤいたけれど、タッチの柔らかさや滑らかさは私の手によく馴染んだし、音色は優しく、弾くほどに心に染みてくるようだった。


「渡辺さんの名前、かわいーよね。あだ名とかないの?」


 背の高い女の子がにこにこしながら言う。随分と朗らかで、人懐っこいんだなと思った。二つに束ねた髪はぱさぱさに傷んでいるけれど、ふっくらした頬は滑らかだった。


「前の学校ではナツって呼ばれてた。あだ名、つきにくいんだよね」

「じゃあ、あたし達もナツって呼んでいい?」

「もちろん」


 私は最大級に感じのいい笑顔を作った。慣れていかなくてはいけない。この暮らしに。このクラスに。ここのやり方に。


 背の高い女の子は玉島さんといって、みんなからはタマと呼ばれていた。猫みたいだ。けれど、彼女は猫みたいというには大柄すぎ、きゃあきゃあとはしゃぐ声も様子も教室で一番目立つ女の子だった。それから、玉島さんの作るグループには吉田さんという太った女の子と、久保さんという勝気な顔をした女の子、東田さんという髪の茶色っぽい細眉の女の子がいた。玉島さんはその後、休み時間の度に私の机のところへやってきて、前の学校のことや好きな音楽や、好みのタイプのことなんかを質問しまくった。私はそれらににこやかに答えた。けれど、彼女が「タマでいいよ」と言うのに対してはどうしてもそう呼ぶことができず、玉島さんと呼んだ。私は人見知りするタイプじゃないけれど、こんなにもいきなり馴れ馴れしいのは本当は苦手だったし、どうも教室でのイニシアチブを握っているらしい彼女のグループに逆らわない方が身のためだと思っていた。なんにしても上手く自分を教室に馴染ませるには他に手段もないので、ただただ愛想よく接した。


 カナに話したら絶対にげらげら笑って「どあつかましい」って言うだろう。ミサも「ちょっと、うざいよね」と言うに違いない。こんなにも力ずくで仲良くなろうなんて、まるで合コンでテンパってるさえない男の子みたいだ。そんな風に考えるなんて我ながら随分意地が悪いと思ったけれど、玉島さんのどこか一方的なお喋りの明るさや無邪気さには妙に戸惑わされる。そもそも、転校生に近付いてきてやたら喋り捲るなんてことが私には信じられない。ここに来た以上、彼女と絶対に友達にならないといけないとでも言うみたいで、まるで無言の圧力をかけられるようだった。


「あー、ナツ、その時計かわいー。見せて?」


 玉島さんは早速私をナツと呼んでいた。私は腕に嵌めていたベビーGのブラックモデルを外して、彼女に手渡した。それは父が誕生日に買ってくれたもので、私のリクエストがピンクやシルバーホワイトじゃないのにちょっといやそうな顔をしたのを覚えている。こんなのもうとっくに時代遅れになったけど、これはベルト部分に蝶の刺繍が入っていてすごく気に入っているし、プレゼントは母との連名でもあったので「お蔵入り」にはせずに今も使っていた。


 玉島さんは私の時計をちょっと嵌めてみてから、すぐに返してくれた。


「ナツって、もしかして、すんごいお洒落?」

「そんなことないよー」

 私は手を振りながら言った。


「だって、ピアスもしてるんでしょー。穴あるの分かるしー。髪も超キレイだよね」


 彼女が久保さん達にも同意を求めるように振り向く。

「ねえ、そう思うよねー」

「そうだよー。てか、ナツ、睫毛長いし、かわいーよね」

「モテそう~」


 口々に誉めそやされるのに私は困惑していた。この人たちはなんだってこんなにも「好意的」なんだろう。私がおしゃれなんてことはないし、睫毛だってミサやカナの方がずっと長かった。髪も別にいじってないし。モテたためしもない。これが転校生への歓迎の意なんだろうか。


「ねー、山田もそう思うでしょ。ナツ、かわいーよね」


 玉島さんが突然くるりと振り返って、私の隣りの席の男の子に声をかけた。この子、山田っていうのか……。私はまだほとんど誰の名前も知らないので、顔と名前を覚えるべく彼をじっと見た。ちょっとたれ目で人のよさそうな顔をしている。眼鏡をかけていて、真面目そうな印象だった。


「んー? うん」

 山田くんは別に興味もなさそうに生返事を返した。


「あー、山田、照れてる」

 玉島さんが妙にはしゃいだ声で、山田くんの肩をぱしっと叩いた。

「別に」

 山田くんはそれを避けるようにしながら、困惑したような笑いを浮かべた。


「玉島さんはクラブとか入ってるの?」

 私は話題を変えるべく、彼女に話し掛けた。子供の社交って、もしかしたら大人のそれよりも気を遣うかもしれない。大人達は距離を置けるけれど、私達は距離の置きようもない。教室は狭く、学校という世界もまた、狭い。物理的な意味じゃなく、本質的な意味で。逃れらないのだ。玉島さんは机によりかかりながら、

「一年の時、バレーやってたけど辞めたの。なんかねー、先輩とかちょー怖かったんだよ。スパルタ。ってか、いじめ? みたいな」

「運動部ってそういうとこあるよね。前の学校でもバスケ部とかすっごい上下関係が厳しくて、よく泣いてる子いたもん」

「やっぱりー? そういうのってマジむかつくよね」


 転校初日。一日中彼女たちが休み時間のたびに私のところでお喋りをし、お弁当をひろげ、校内を案内してくれ、トイレに行くのにも誘いにきた。そのせいか、他の女の子たちはあまり話し掛けてこなかった。友達は選ぶのではなく、選ばれるのだ。少なくともここではそうらしい。とりあえず、この日私は玉島さん達に選ばれたらしかった。集団生活というのは概ねそのような大きな波や流れで、個人の意思は関係ないものなのだ。楽しいことも悲しいことも、流行も、全部幼い私達を巻き込むようにしてうねりとなっているだけなのだ。そこに身をまかせなければ、溺れ死ぬだけだ。私は足のつかないプールで不安に足を動かしているような気がした。



 私がこの町になんの思い出も持たない一方で、母にとってこの町は子供時代を過ごした思い出に満ちていた。中央病院に職を求めて、四十歳という年齢にも関わらず就職できたのは母がこの町に生まれ育ち、友人知人のコネを使うことができたからだった。母はこの町で育っているのだからそれは当然のコネクションかもしれないけれど、私はそれをズルいと思った。私にとってゼロからのスタートが、実は母にとってそうでないということ。それは不公平だ。もしかしたら母は父との生活や思い出を捨ててその上で差し引き「ゼロ」になってしまわない為に、この町に戻ってきたんじゃないだろうか。そもそも実家に戻っていないのに、この町に戻る必要がどこにあったんだろう。


 祖父母は健在で山手の住宅街に住んでいる。祖父母は離婚して出戻ってくる母に一緒に住むように勧めたが、母はそれを頑なに拒否した。そのことは祖母から聞いた。母は離婚して実家に出戻るなんてみじめったらしいことはしたくないと言ったそうだ。自立した生活が精神的にも必要なのだと。私にしてみれば離婚して出戻るのも、娘と2DKに二人暮しもどちらも同じぐらい侘しくみじめったらしく思える。しかしそのことは鎮痛剤でもを飲み下すようにひっそりと嚥下した。小さな塊は喉や食道を通り胸に落ちながら、私を息苦しくさせる。


 自立した生活というのが、どういうものかは分からない。もし、母の暮らしが自立とかいうものならば、私はそのために犠牲にされているとしか言いようがない。だいたい、あのせまい2DKは一人暮らしの為のそれではないだろうか。そう考えた時、私は父の言葉を思い出す。「一緒に暮らしたいか」。あれは父と母が私の存在を押し付けあったのではないだろうか。


 本当は私は祖父母と暮らしたかった。このせまいロイヤルハイツではなくて。作りは古いけれど、洒落たレンガの建物の広々した家に。暗い色をした板張りの応接間。あそこならピアノだって置けただろう。しかし、父も母も私にそんなことを言わせる隙は与えなかった。


 転校してきて、私はいつの間にか玉島さんのグループに入っておりなぜか彼女達からかわいいとかお洒落とかの褒め言葉を受け、異様にちやほやされていた。それは私を面倒な気分にさせたけれど、それでも彼女達のおかげで校内のどこに何があるのかは把握できたし、学校の様子を知ることもできた。


 担任は神経質で、キレると声が一オクターブあがって収集がつかなくなること。同じクラスの上野さんはしょっちゅう問題を起こすヤンキー崩れだから気をつけた方がいいこと。三枝さんは学校一の美人でモテまくっているけれど、実は高校生の彼氏がいること。生徒会長の大原くんと副会長の柳田さんはつきあっていること。どうでもいいようなことばかりだけれど、こういった情報を持っていないと誰とも共通の話しができないのだから仕方がない。思い出を持たないというのは、そういうことだ。この閉鎖的な世界で「知らない」というのは誰からも相手にされないのと同義だ。それは前の学校だって同じだった。


 そんな彼女達のもたらす情報の中で、話題の首位を占めているのが山田くんのことだった。私は転校してきて三日目にはもう玉島さんが山田くんを好きなのだということが分かった。そのぐらい、玉島さんはあけすけで、よく言えば屈託がなく天真爛漫で、悪く言うと思い込みの激しい女の子だった。もしかしたら、玉島さんが一番に私に声をかけたのは私の席が山田くんの隣りだったからかもしれない。


 山田くんは隣りの席なので、授業中にノートを見せてくれたり、過去のプリントを見せてくれたりする。あまりお喋りなタイプではないらしく、いつも口数は少ない。こんな地味でおとなしい男の子が好きだなんて、意外だと思った。玉島さんは典型的な、少女漫画にでも出てきそうなぐらいはっきりしたキャラクターだから、サッカー部やバスケ部のスタメンに選ばれるような子を好きになるのだと思っていた。そして大騒ぎして練習試合を見に行ったり、差し入れをしたり、告白するのだと。それが彼女には似つかわしく思えた。


 玉島さんが山田くんの話しをするのを私はいつも興味深く聞いた。


「山田はねえ、いつもポケットにガムとかキャンディとか持ってるんだよ。で、頼めばいつもくれるの。優しいんだよー」

 とか、

「長距離は早いの。去年のマラソン大会で上位に入ってさあ。かっこよかったあ!」

 とか、

「三組の木村さんも山田のこと好きらしーの。ライバル多いんだよねえ」

 とか。おおはしゃぎで教えてくれる玉島さんを見ながら、このおおっぴらな好意を山田くんが知らないはずもないだろうし、果たしてそれをどのように受け止めているのだろうかと不思議な気持ちになった。


 玉島さんは明るくて子供じみた女の子だけれど、容姿がずばぬけてかわいいとかいうのではない。背は高いけれど、全体的に大柄でどたどたした運動靴に白い靴下がうんと野暮ったい。目は良くいえばつぶらだけれど、言い換えれば小さくて物足りない印象を与える。その目を輝かせて私に甘えるようにからみついて山田くんの話をする時などはとても表現に困る。


「山田の隣りの席なんて、ナツが羨ましい」


 玉島さんはそういって冗談っぽく拗ねてみせたりもして、ますます私は苦笑いで誤魔化すのだった。


 ミサやカナにはしょっちゅうメールをいれている。玉島さんのことも山田くんのことも、母のことも、この町のこともちょいちょいとメールする。その中でミサもカナも夏休みに遊びに来るように言ってくれていた。うちに泊まればいいから、と。私はすでにそれが楽しみで仕方なかった。


 こうやって、例えばオンラインで繋がっていると、私は「ゼロ」じゃないんだと思える。まだ持っているのだと思える。私が捨てたのは、……正確には「失った」のは父とピアノだけで、他にはなにも失っていないと。それは私の心を俄かに温めた。と同時に、完全にゼロになることを恐れた母の気持ちが分かるような気がした。今の私は教室の誰とも繋がっていない。即ち、この世界の誰とも繋がっていないということだ。こんなにも「一人」でいるのは初めてだった。


 そんなある日、山田くんが私に英語の中間テストの過去問を見せるために机を寄せながら言った。


「渡辺さんのお母さんって、もしかして中央病院で働いてる?」

「え? どうして知ってるの?」

「俺の母さんも中央病院で事務やってるから」

「ああ!そうなんだあ」

「同級生だったらしいよ」

「中学の?」

「うん」


 山田くんは折り畳んだ問題用紙を広げて、皺を伸ばしながら頷いた。丹念に皺を伸ばす手が随分と大きく、指が長い。


「そんで、昨日母さんが渡辺さんのこと聞いてきたから、隣りの席だって言ったら喜んじゃってさ」

「どうして?」

「親同士も同級生で、何十年ぶりかで再会して、子供がまた同級生になって、しかも隣りの席なんて、めちゃめちゃドラマチックだろ。運命的だってはしゃいでた」


 そう言うと山田くんは「ははは」と笑った。

「なんだろうなあ、そういうのが好きなんだよなあ」

「山田くんのお母さんって、もしかして昼ドラとか韓流とか、火曜サスペンスとか好きなんじゃない?」

「あ、やっぱ分かる?」


 私達は思わず揃って笑ってしまった。笑ってから、ちょっと先生に睨まれたので慌ててプリントに集中するふりをして教科書や辞書をめくった。


 山田くんの過去問は皺になっていたけれど、赤ペンで書き込みがちゃんとされていて、その真面目さを窺うことができた。過去問の復習をする間、その退屈さにまぎれて山田くんと初めて少し打ち解けたような会話をした。といっても、単なる世間話しに過ぎないのだけれど。それでも隣りの席の「地味で掴みどころのない男の子」という、緊張を強いられる状況を払拭するには充分だった。隣りの席ならいやでも教科書を見せてもらったり、意見交換やらなにやらしなければいけないのだから、仲良くなるにこしたことはない。私はようやく、このクラスで生きていく為の手筈は整ったような気がした。


 勿論、その夜母に山田くんのことを話したら、母は「そうそう、そうなのよ!」と嬉しそうに山田くんのお母さんの話しを始めた。母の仕事は朝から夕方までというのと、夕方から深夜帯までというのと二種類のシフトになっていて、遅番の時は私がごはんの用意をするようにしている。といっても、全面的にというわけではないのだけれど、ご飯を炊いたり簡単なおかずを作ったりする。でなければ、母が作りおいたおかずを温めたりして食卓を整え、洗濯物を畳んだり、お風呂を掃除したりする。


 そういったハウスキーピングは引っ越してきてからするようになった。以前は専業主婦の母が全部やっていたし、私は手伝おうという気にもならなかった。環境の変化というのはすごいものだ。私は母を助けなければなどとは思っていない薄情でわがままな娘だけれど、二人の暮らしになにが必要かは分かっている。心境の変化ではない。あくまでも、環境だ。私は母との暮らしを円滑にするために家事をし、学校に適応している自分を語る。そうしなければいけないように感じている。すべてがオッケーだということ。そのように見せかけること。それが私の義務であり、二人の暮らしに必要な「目隠し」だった。私は懸命だった。家でも、学校でも。


 母は山田くんのお母さんと出勤して三日目で再会したそうだ。山田くんのお母さんは中学時代に仲の良かった三つ編みの女の子の面影を、即座に母の中に見出したそうで、それこそ山田くんの言うように「運命的」だと大喜びしたらしい。


「その喜び方が中学の時と同じで、おおはしゃぎでねえ。びっくりしちゃったわ。時間が逆戻りしたのかと思った」

「山田くんは大人しい感じの子だけどね」

「じゃあ、お父さん似なのよ。きっと。年上の男の人と結婚したっていうのは、知ってたから。落ち着いた人なのね」

「ふうん」


 山田くんは大人しい子だけれど、男の子達の間では割と社交的な方で、みんなから気安く「山田」と呼び捨てにされていた。数学の成績がいいらしいのは、彼が見せてくれたノートですぐにわかった。几帳面な字で丁寧に書かれたノート。それがそのまま山田くんの人間性のようだった。


 母親同士が友達と分かると山田くんは当初よりよく話しをしてくれるようになった。大抵、テレビや音楽の話しだったけれどそれが普通だと思った。野球やサッカーの話し、部活の話し、日々のあれこれ。それは私をまるで感動させない代わりに退屈もさせなかった。言い換えれば単調で平和な生活の象徴のようだった。


 思えば、父もルーティンな生活だった。朝早く、ラッシュにもまれて仕事に行き、残業に次ぐ残業で、時々は酔っ払って帰ってくることもあったけれど、概ね仕事漬けで、日曜だって接待ゴルフに出かけていた。ハードな生活だった。でも、父にとってはそれらすべては予定調和の中にあったように思う。想定内だ。離婚は想定外だったかもしれないけれど。


 父とはほとんど連絡をとっていない。時々、メールをいれたりしたけれど父は短い返事を返してくれるだけだった。「新しい学校はどうだ?」「しっかり勉強しなさい」みたいな感じ。ただ、それだけ。私はそれを、父がもう私達とは無関係だとでも言いたいような、ささやかな抵抗のようだと思った。父もまた、すべてを捨て去ってしまいたいのかもしれない。私は、もっと幼い頃に父の日にあげた似顔絵や肩たたき券や派手なネクタイを、父が全面的に捨ててしまっていても驚かないだろう。父にも母にも、捨てたいほどの過去がある。しかし、私には、ない。子供である私には捨てるほどの積み重ねはないのだ。私達は実は初めから家族でさえなかったのだ。そう思うと、この離婚はあるべきところに返るような自然のことに思えた。


 

 この町の好きなところは海が近いことだった。ちょっと歩けばすぐに海に出ることができ、小さな漁港もあった。浜沿いに小さなカフェがあり、その佇まいが可愛らしい。天気のいい日はウィンドサーフィンをする男の子がちらほらと姿を現し、砂浜には敷物を敷いて気の早い日焼けに勤しむ人もいた。母の話しではこの浜は人口で、昔はもっと小さかったそうだが、今は海開きになると芋洗いの如く込み合う海水浴場となるらしかった。


 小さい頃の私は海を怖がって泣いたそうだけれど、十五歳の私が海を怖がるなんてことはなく、私は日曜になると町を探検がてら海まで散歩するようになっていた。繁華な駅前の商店街。大きな本屋。レンタルビデオ屋。暖簾のかかったお好み焼き屋。玉島さん達が推奨するケーキ屋。国道沿いの古いお寺は同じクラスの男の子の家だとか、なんとか。それから、教会。小さな教会の脇には紫陽花があり、その花びらの濃い紫がいつも鮮やかだった。


 私は慣れていかなくてはいけないのと同時に、この町で上手く自分を馴染ませ、居場所を見つけなくてはいけなかった。なににも馴染みのない風景は心細く、そのくせまるで旅行でもしているように身軽い。坂の上の住宅街の洋館や、広大な庭を持つ邸宅も新鮮だったし、植物園も目新しく格好の寄り道の場所だった。高台から見下ろす町はこぢんまりとしていて、よそ者の私にはなんだかおもちゃの町のように見えた。現実味がないので模型のように無機質で冷たい。でも、それはもしかしたら町の方こそよそ者の私を寄せ付けないようにしているのかもしれない。眺め渡す海は灰色と群青をまぜたような色をしていて光に煌く。素直に美しいと思う。けれど、感動するほどに私は強く「独り」を感じ、誰とも分かち合えないことの虚しさを感じていた。


 高台からゆるゆると坂を降りて、海へ向かう。実際に間近に見ると海はさして美しくはなく、どちらかというとゴミの浮遊する淀んだ色をしていた。それでも波打ち際に寄せる波だけは透明で、細かい砂が波に梳られていた。


 私は途中のコンビニで買ったカルピスの栓を捻り、浜へ降りる石段に腰掛けた。日曜の午後。家族連れやカップルの姿がちらほらと見られ、お弁当を広げたり、昼寝をしたり、それぞれがのどかに過ごしている。


 ミサやカナとのメールは依然として続いていた。カナは学校の様子をいつものように、例えば「数学の渋沢が超キテるピンクのスーツ着てきてさー。あのババア、絶対やばいよ」とかいった具合に、知らせてくれる。ミサも「今度の日曜にヒスグラのセールに行く予定。おネエがTシャツ買ってくれるって」みたいな調子でそれは本当に相変わらずだ。まるでまだ私があの町にいて、同じ教室にいて、同じ制服を着ているみたいに変わらない。でも本当は知っている。私はもうあそこにはいないし、彼女達と毎日お喋りしたり、宿題をやったり、カラオケに行ったりはできないことを。そうできない分だけ、遠ざかっていくことを。母は私が前の学校の友達にばかりメールしたり、電話するのを良くは思っていない。それも私の孤独を加速させる。母は新しい学校で早く友達を見つけるように言う。ミサやカナに代わる親友を。その度に母は私に友達まで捨てさせようとしているのだと思った。誰も、誰かの代わりになどならないというのに。私は適当に母に返事をしながら、心の中で呟く。じゃあ、お母さんもお父さんの代わりを早く見つけたら? と。


 カルピスの甘さが舌に残る。玉島さん達は日曜にみんなで買い物に行こうと言っていたけれど、私は誘われなかった。そのことに疎外感を持つよりも私はまだそこまで許されているわけじゃないんだなと納得していた。誘ってよと言えるほどの気安さも自分にはなかった。一体、私がこの町に慣れ、母の言うところの親友を持てるようになるにはどのぐらいかかるのだろうか。


 もう帰ろうかと思い立ち上がると、折りしも黒いジャージを着て走ってきた男の子が私を見て「あ」と声をあげた。私も思わず「あ」と漏らした。石段の砂をじゃりじゃりいわせて走ってきたのは、山田くんだった。


「なにしてんの?」


 山田くんは私のところまで来ると足を止めて言った。


「散歩。山田くんは?」

「最近、運動不足だから走ってんだ」

「ふうん……」

「……散歩って、一人で?」

「うん」


 山田くんはちょっと不思議そうな顔をしたけれど、すぐに無関心そうな表情で私の手にしていたカルピスを指で示した。


「ちょっとちょーだい」

「いいよ」


 私は快く山田くんにカルピスのペットボトルを渡した。


「全部飲んでいいよ」

「マジで。サンキュ」


 喉をのけぞらせてカルピスを飲む山田くんを見ながら、真面目なのは学校だけじゃないんだな……と感心していた。運動不足だからわざわざ走っているなんて、健康的というより真面目という感じだ。運動部でもないのに。それに、太っているわけでもないのに。


 カルピスを飲み干すと山田くんは、

「日曜も玉島とかと遊んでるのかと思ってた」

 と言った。


「別に、そんなことは……」

「まだ転校してきたばっかりだもんな」

「まあね」

「もう慣れた?」

「慣れたっていうか……。迷子にはならないと思うよ」

「ははは。いや、迷子になんかなりようがないって。こんな小さい町なんだからさあ」

「山田くんちってこの近くなの?」

「うん。こっから歩いてすぐ。十分もかかんない」

「海の近くって、いいね」


 私達はどちらからともなく、浜沿いの道を並んで歩き始めた。途中のゴミ箱に山田くんはペットボトルを捨てた。並んでみると思ったよりも背が高く、私は山田くんの顔を見るためにいちいち首をそちらに傾けなくてはいけなかった。


「風が強いと洗濯物が妙に磯臭くなったりするし、夏は海水浴客でうるさいし、いいことないよ」

「そうなの?」

「そうだよ」


 山田くんは笑った。そうは言っても本気でいやそうではなかった。


 浜を出て国道沿いの道に来ても山田くんはジョギングに戻らなかった。あえて私もそれには触れなかった。退屈しのぎというわけではないけれど、都合よく現れた山田くんのなんてことないお喋りはカルピスなんかよりよほど私を潤した。


 山田くんは小学校の前を通ると、そこが自分の行っていた学校だと教えてくれ、だいたいクラスの半分ぐらいがこの小学校の出身だと言った。玉島さん達も小学校からの同級生だということも。小学校の門扉は赤錆色をしていて、覗き込むと校庭には複雑な形をした遊具があった。そのとりどりに塗った色がいかにも小学校らしい風情を与えていた。山田くんはメタセコイアを指差して、あの木は市内でも記録的な大きさの木なのだと話してくれた。


それから、近くの駄菓子屋に案内してくれ、ガラス戸の中をそっと窺いながら、

「カレー煎餅が一枚十円で、たこせんが三十円だったかな。チョコバットとか美味かったなあ」

「今もあるの?」

「あるよ。ほら、あの瓶の中にいれてあるんだよ」

 なるほど、小さな店内には広口瓶がいくつも並んでいる。小さな駄菓子が何種類もひしめきあっている。山田くんは思いついたようにポケットを探ると「財布持ってこなかったから……。あ、あった」とぶつぶつ言いながら、五百円玉を一枚取り出した。

「アイス、食おうか」

 そう言うと、私の返事も待たず店の前の冷凍庫を開けて物色し始めた。


 冷凍庫を覗くと、霜のついた庫内から懐かしいソーダアイスを見つけた。それは胡散臭い水色で、確かにソーダの味はするものの、でも実際のソーダとはまるでかけ離れているような甘いだけの代物で四角いバータイプだった。このアイスの変わっている点は、四角いアイスに棒が二本刺さっていて真ん中から二つに割れるようになっていることだった。


「これ、懐かしいなあ。昔、よく食べたよ」

「コーラ味とかもあったよな」

「あ、そうそう。あったあった」


 私は急に嬉しくなって思わず声を弾ませた。私の育った町にもあった、あらかじめ「二人用」みたいになっている安いアイス。それがここにもあって、その思い出を共有できる人がここにいる。私はアイスによって突如山田くんと繋がったような気がした。山田くんはガラス戸を開け、中で店番をしていたおばあさんにお金を払うと早速ソーダアイスを半分に割ってくれた。


「うん、これ。この味」

「懐かしいな。俺もよく弟と食ったわ、半分にして」

「上手く割れないと喧嘩になったりしなかった?」

「なった」


 アイスは硬くて、齧る度に歯に凍みるほど冷たかった。舌が痺れるような甘さが私を満たした。


 そうしてゆっくり歩いて私の住むロイヤルハイツまで来ると、山田くんは「じゃあ、また」とさっさと背中を向けた。あっけないほど素早く走り去る姿をぼんやり見ながら、やはり真面目な子だなと思った。喉の奥がまだ甘いような気がしていた。


 問題は翌日、月曜に起こった。いつもの朝、いつもの風景。の、はずだったのに、教室に一歩足を踏み入れた途端、私は先週までと教室の空気が違っていることを即座に察知した。私が教室に入った途端、ほんの一瞬、かすかに静電気が走ったような緊張感と静けさがみんなの体から放出された。それは、ともすれば見過ごしてしまいそうなぐらいの気配だったけれど、私には確かに感じられた。教室のあちこちで固まってお喋りに興じる女の子達の投げかける視線。盗み見るような目と、頭を寄せ合って囁かれる言葉たち。聞き取ることはできなくても、なにかとても不穏なことであるのはひしひしと伝わってきた。


 私は足元から急激に冷えていくような感覚に襲われ、なかば崩れるように席についた。いつもなら、玉島さん達がすぐに声をかけてくるのに、肝心の彼女達はいない。そのことも私にはこれから起きようとしている事柄を暗示していた。私は体を硬くして、黙って座っていた。背中に突き刺さる視線の数と、絶えず囁かれるひそひそ話し。みぞおちのあたりがぎゅっと痛くなった。私は誰とも目が合わずおはようの一言も誰からもかけられなかった。押し寄せるようなささくれた空気だけが私を包む。予鈴が鳴ると玉島さん達の一団が走って教室に入ってきて実に慌しく着席したが、こちらを見もしなかった。私はちらと隣りの席の山田くんを見やった。山田くんは眠そうにあくびをしている。


「山田くん、昨日はありがとうね」

「ん? ああ、いや、別に」

「……」

「俺も久しぶりにアイス食ったよ。やっぱ美味かったな」

「冬は五十円のラーメンとかなかった?」

「ああ、あるある。インスタントのヤツな。ヤキソバは八十円だったなあ」

「どこにでもあるんだね」

「みたいだな」


 ……山田くんの態度は変わらない。では、一体なにが起きているのだろう。私の預かり知らぬところで、この教室でなにが起きているのか。


 担任が教室にやってきてホームルームが始まると、私は窓の外に目を向けた。ひどく心もとない気分だった。悪意や敵意が剥き出しになって私に降り注いでいる。しかし、その原因が何かは分からない。それでも10分間の休み時間のごとに私は「不安」を形として捉え始めた。聞こえないように囁き交わしていた言葉が、次第に大きく、はっきりと聞き取れるようになった時、自分が明らかに中傷されていることを理解した。もう誰一人として私のところにお喋りに来なかったし、熱烈歓迎だった玉島さん達は手のひらを返したように私をなじる声の真ん中に位置していた。


 私は身動き一つとれないで、じっと座っているより他なかった。小石を投げるように浴びせ掛けられる言葉。その一つ一つを丹念に拾う自分。耳を塞いで頭を抱え込んでしまいたい衝動に駆られる。一体私がなにをしたというのだろう。気取っているとか、ブスとか、調子に乗っているとか、男ったらしとか、うざいとか、キモイとか、次から次へと繰り出される声。誰に目を向ければいいのか、誰になにを言えばいいのかさっぱり分からない。理由。理由が分かれば。私は何度も玉島さん達の方へ目を向けた。私の世界は狭く小さい。私には他に行き場もないし居場所もない。だから、ここで受け入れられなければ、どうすることもできない。今すぐあの輪の中に飛び込んで何が起きているのか確かめることができたなら。一人一人を捕まえて問い詰めることができたなら。でも、そうするには私はすでに「集団」というものの恐ろしさを知っていた。


 前の学校でもいじめがなかったわけじゃない。いじめがないところなんてないんじゃないだろうか。前の学校では藤井という女の子が教室のイニシアチブを握り、独裁を揮っていた。あまり品行は良くなく、髪を染めたり、制服を崩して着たりしてしょっちゅう指導室に送り込まれる反抗的な女の子。教師にたてつき、授業を妨害し、それも全部面白半分でなんの思想信条もなく気分の赴くままに教室に波を立てる。全員を巻き込む。そうして暇つぶしのように、教室でひっそりと本ばかり読んでいるような子や、地味な女の子、無口な子を順番にいじめてまわっていた。あくまでその時の気分で、遊び半分のようにして教科書を窓から投げ捨て、ノートを引き裂き、貼り出された絵に靴跡をつけ、冗談のように小突き回して泣かせていた。その一つ一つを、みんなが目撃しているにも関わらず誰も止めなかった。止めるどころか、藤井さんがある日突然「あいつ、最近ムカつくよね」と言い出したが最後、どういう催眠術なのか我も我もと賛同の声が上がる。それが自己保身によるものなのか、はたまた洗脳なのか、もともと本気でそう思っているのか分からない。でも、いじめは個人が行うよりも集団の中で行われるからこそ強大で恐ろしいのだ。かくいう私も暴走する藤井さんを止めたことはなかった。いじめに直接荷担したことはなかったけれど、見ないふりをするなら同じことだ。私は自分が標的にされることを恐れていたので、愚鈍な羊の群れのようになるしかなかった。でも、そんな言い訳をいじめにあっていた女の子達が聞いたら許すだろうか。否。今なら分かる。私だって許しはしないだろう。


 集団の中にあって大多数を占める無関心な、そのくせ煽動されやすい自分を持たない子達こそが一番罪深い。玉島さんが問題じゃないのだ。彼女をとりまく女の子達こそが敵なのだ。しかし、たった一人で彼女達に対抗し、自分の真実を叫んでも、それこそ集団の力で黙殺されるだろう。私は全身の力がぬけて、思わず額に手を当ててがっくりとうなだれた。話しを聞いてもらうことも、謝罪も、涙も意味を持たない。それさえも経験的に知っており、今は実際に我が身に起きている事に対して、ただこの世の終わりを感じるだけだった。


 どのようにして伝令が行き渡ったのか知らないけれど「転校生、無視」というのは見事なまでに浸透し、放課後まで私は完全にシカトされた。一日の身を削るような緊張感で私はぐったりと疲れ、とぼとぼと家路を辿った。鞄が必要以上に重く感じられた。私はこのまままっすぐ帰るには気が滅入りすぎて、ふと思いついて足を海へと向けた。この町で唯一気に入っている場所。きっと今頃の時間は凪だ。静かな波が砂浜に打ち寄せているだろう。てくてくと海沿いの細い道を通り、古い民家を横目に時々立ち止まっては生垣に巻きついたクレマチスを眺めたりした。


 その時、背中で私を呼ぶ声がした。どきりとして振り向くと、向こうから玉島さん達の一団がやって来るところだった。私は貧血のように指先がすうっと冷えていくのを感じた。心臓が握りつぶされるように小さく縮こまり、呼吸は浅くなった。人気のない通りはただ静かで、不安を誘い出す。


 玉島さん達はすぐに追いついてくると、私の前にずらりと雁首を並べた。こうやって正面に立ってみると、玉島さんはずいぶん背が高く、吉田さんはブレザーのボタンが弾けそうに太っていた。最初に口を開いたのはその吉田さんだった。


「ちょっと話しがあるんだけど」

「……」


 それはどこか威嚇的な調子で、私はもう聞く前から「話し」というのが穏便なものではないのを悟った。玉島さんは無言で私を睨みつけている。


「昨日、山田と会ってなかった?」

「えっ」


 私は驚いて思わず頓狂な声をあげた。


「会ったっていっても、約束して会ったわけじゃないけど」

「あんた、どういう神経してんの?」

 今度はそう言ったのは東田さんだった。

「タマが山田のこと好きなの知ってて、なんで日曜に山田と会ったりしてんのよ」

「いや、だから……。偶然会っただけで、別に何も会おうと思って会ったわけじゃないよ」


 私の弁明は焦りにまみれ、切実な反面、彼女達の唐突な怒りに戸惑うあまり奇妙な半笑いが混ざっていた。困惑とお追従笑いの入り混じった顔。それを吉田さんが見逃すわけもなかった。


「なに笑ってんの? バカにしてんの?」

「そんな……」

「なんかさあ、あんた、男にばっかいい顔してない?」

「そんな……」

「そういうのって、マジ、ムカつく」

「……」


 あ、もう止まらないな。私はそう思って黙った。感情を制御できないのだ。こういった場合、女の子は大抵そうだ。タガがはずれたように、感情的な言葉が飛び出してくる。思いつくままに。


 案の定、彼女達は口々に私を罵り始めた。私の弁解を聞く耳があれば、ご苦労なことにわざわざ私の後をつけて人気のないところで初めて捕まえるような姑息な真似はしない。彼女達の心はもう決まっていた。


「かわいこぶっちゃって」

「タマに謝んなさいよ」

「……」

「謝れって言ってるでしょ」


 久保さんが私の肩を突き押した。私は軽くよろめいたけれど、すぐに体勢を立て直した。


「どうして謝らなくちゃいけないの」

「だって、裏切りじゃん」


 ここで素直に謝ればよかったのかもしれない。そうすれば、違う未来があったかもしれない。でも、なぜかその時そうできなかった。よせばいいのに、私は、


「裏切りも、なにも、ない。山田くんとは偶然会っただけだし、それに、玉島さんは山田くんと付き合ってるわけじゃないでしょ」


 言い終わったのと同時に目の前で強烈な静電気火花が散った。玉島さんが私にビンタを喰らわしたかと思うと、そのまま「なによ!」と叫びながら髪をひっつかんで物凄い力で引っ張った。あまりの力に私は振り回されるようにして前のめりに倒れた。それを合図に吉田さんや久保さんまで参戦し、私をめちゃくちゃに蹴りはじめた。そうなるともう抵抗などできたものじゃない。狭い路地。誰も来ない静かな夕刻。アスファルトの上で蹲る私を取り囲み、彼女達はお腹といい背中といい顔といい、蹴って蹴って、蹴りまくった。


 痛いというよりは、その一々の衝撃が骨に響き、気付くと私は鼻血を出していた。暴行がどのぐらいの時間行われていたのかというと、恐らくはものの五分かそこいらじゃないだろうか。しかし私には一時間にも感じられた。東田さんがいつの間にか脱げてしまっていた私の靴を拾うと、笑いながら民家の庭先に投げ込んだ。靴は彼女達のような運動靴ではなく、前の学校で履いていたハルタのローファーだった。身もだえするうちに脱げてしまったのか、引き倒された時に脱げたのかは定かではない。ご丁寧に久保さんが私の鞄を拾い上げると、中身をまるでバケツの水をぶちまけるように盛大にぶちまけた。ノートやペンケースが道いっぱいに広がった。私が完全に動かなくなると、彼女たちはいくぶん息を切らし、興奮でうわずった声で宣言した。


「あんまり調子に乗るんじゃないよ」

「ブス!」

「前の学校に帰れ!」


 彼女達が最後の一蹴りをくれて、去って行くまで私は虫けらのように微動だにしなかった。痛みや屈辱、悲しさを感じるよりもただ呆然とするばかりで、彼女達が行った後にようやくのろのろと起き上がり、手の甲でぬるぬるする鼻や口元を拭った。そしてその鮮血を見たとき、初めて涙がこぼれた。泣きながらハンカチで鼻血を拭き、散らばった鞄の中身を拾った。一つ拾うごとに後から後から涙が零れた。 


 汚れたハンカチで洟をかむ。ぐしゃぐしゃに乱れた髪を潮の匂いのする風がなぶっていく。帰りたい。私は心の底からそう思った。あまりにも馬鹿げている。いくら海が近くて散歩に最適で、こぢんまりしたかわいい町でも私にはまるで地獄だ。でも私にはもう帰るところなどない。それは「場所」のことじゃない。以前住んでいた庭付き一戸建てのことじゃないし、呑気な女子校でもない。私が持っていて、失ったもの。なんの悩みも苦しみもなかった幸福だった頃へ帰りたかった。


 私は途方にくれ、立ち尽くして生垣の山茶花を見つめた。思いの外体はダメージを受けており、全身がずきずきと痛んだ。私はよろよろと生垣を迂回し玄関へまわった。玄関は木枠のガラス戸で、中は暗くしんと静まり返っていた。表札には服部と書かれ、呼び鈴がついていた。このまま帰るわけには行かないので、私はやむなく呼び鈴を押した。が、人の気配はなく二度、三度と押したけれど返事はなかった。


「ごめんください……」


 私は首を伸ばして、庭に通じる狭い通路へ声をかけた。家は古びた木造の平屋で、板塀の感じといい黒ずんだ表札と墨の感じといい時代がかってるなという印象だった。


 もう一度呼び鈴を押すと、ようやく奥から人が出てくる気配があった。家の古さと反応の遅さから考えると、お年寄りだろうか。わけを言えば靴ぐらい拾わせてくれるだろう。まさかボコにされたとは言わないけれど。


 ガラス戸ががたがたと音を立てたかと思うと、がらりと開いた。目の前に現れたのはお年寄りではなく若い、背の高い男の人だった。目つきが鋭く、しっかりした太い眉の下で光っており、私をじろりと睨み降ろすと不審そうな顔をした。


「なに」


 ダンガリーのシャツとジーンズは汚れてはいなかったけれど、体からも、部屋の奥からも絵の具の匂いがしていた。私は小さな声で、

「あのう……く……靴を……」

「靴?」

「お庭に靴が飛び込んでしまって……。拾わせてもらえませんでしょうか……?」

「……庭に靴が勝手に飛び込んだのか?」

「……いえ、あの……」


 私はもごもごと口の中で言い淀んで、黙り込んだ。俯くと、男の人も私の視線を辿った。靴下はすっかり汚れていた。


「……そっちから庭にまわりな」


 男の人は細い通路を指差し、ガラス戸をぴしゃりと閉めた。怒られるのかとびくびくしたけれど、きっと呆れたんだろうな…。私は通路を通って庭へ出た。


 庭は思ったよりも広く、片隅には物置が置いてあった。その物置にはなぜか「いきなり開けるな」と書いた紙が貼ってあり、なんのことだろう……と首を傾げた。靴は庭の真ん中に落ちていた。私がそれを拾って履くと、開け放された縁側からさっきの男の人が姿を現した。


私はぺこりと頭を下げ、

「ありました。ありがとうございました」

 と、すぐにまた通路の方へ踵を返そうとした。けれど、その人は縁側の障子にもたれながら、

「ちょっと待てよ」

 と呼び止めた。


 足を止めて省みると、その人はこっちへ来いと無言で手招きをしている。私はその人が若いということと、粗野な振る舞いと、家の奥の暗さに躊躇して上目遣いに探るように、体は半分玄関口へ逃げるような姿勢をとった。男の人はもう一度「ちょっと待ってろ」と言うとすっと部屋の中に戻り、すぐに木箱を一つ手に下げて戻ってきた。そして縁側に腰を下ろすと、自分のかたわらを叩きながら「こっち来い」とぞんざいな口調で命じた。私が恐る恐る近寄って行くと、男の人は木箱をぱかりと開けた。それを見て、私はその箱が救急箱であることが分かった。


「座れよ」


 男の人はもう消毒薬と思しき液体を脱脂綿に出していた。私がおずおずと縁側に腰かけると、その人はまず私の薄汚れた顔を脱脂綿で拭きだした。アルコールの匂いが鼻をつき、拭かれたところから顔がひんやりとした。


 されるがままに顔を拭かれ、擦りむいた手足を手当てしてもらう間、男の人は終始無言だった。相手が喋らないので、私も黙っていた。大丈夫かとも、どうしたんだとも言われなかったけれど、私の心は不思議と落ち着き始めていた。ちらりと部屋の奥に視線を走らせると、縁側の向こうは居間になっていてケバだった畳に卓袱台が置かれていた。居間の隣り、同じ縁側に面したもう一部屋は洋間で、油引きをした学校の床のように茶色く、使い込まれたような風合いをしていた。絵の具の匂いはそこからするらしかった。


 男の人は丁寧に傷にバンドエイドやガーゼを貼ってくれたけれど、手当てが終わって私が礼を言っても、無言だった。ちょっと私を見ると、軽く頷くように首を動かしただけでさっさと救急箱を片付け部屋の奥へ入って行った。私はもう一度部屋の奥へ声をかけ、また細い通路を通って玄関を出た。髪も無造作で伸び放題だったけれど、無精ひげも生やしていたけれど、優しい人なんだな……。私は改めて表札を見つめた。「服部さん」か……。それが私とハットリの出会いだった。



 母は仕事から帰って私を見ると驚愕し、手にしていたスーパーの袋をどっさりと取り落とした。動転し上ずった声で「どうしたの、その顔!」と叫んだ。私はわざとテレビから目を離さないで、さも何事もなかったかのようにさらりと「階段から落ちたの」と答えた。


「階段ってどこの? 学校の?」

「うん」

「……他に怪我はないの?」

「うん」

「階段から落ちたって……そんな、あんた……」


 母が動揺しながらも買ってきたものを拾い上げ、冷蔵庫にしまう間、私はぼんやりとテレビを眺めていた。


 問題は、母の前ですべてがオッケーだという顔をすることじゃない。明日も明後日も学校に行かなくてはいけないということだ。考えるだけで、胸が暗く塞がれる。私の身に降りかかった災厄を、私は誰に話せばいいのだろう。ミサやカナにメールや電話で言ったところで、彼女達に何ができるだろう。もう彼女たちは私のクラスメイトじゃないのだ。所詮、私達は目の前にいるものとしか繋がれないし、目の前のものだけがすべてなのだ。私は忘れ去られていくだろう。ミサからも、カナからも。父からも。過去とはそうしたものなのだ。きっと。


 その夜、お風呂に入る時傷にお湯がしみて飛び上がりそうになった。腕や肩や胸にも痣が出来ていて、今日の出来事の凄惨さを物語っていた。母は私の言葉を信じたのか、どうなのか。もう何も追及しなかった。風呂上りに顔の痣を冷やすように言い、冷たいタオルを絞ってくれた。


 あの男の人はどんな絵を描いているのだろう。あの家に一人で住んでいるのだろうか。ちょっと見には強面だったけれど、優しい人だったな……。なにも言わなかったけれど、ボコにされたのを悟ったんだろう。それで手当てしてくれたんだろう。一瞬。ほんの一瞬だけ、悲しそうな目をしたのを見逃さなかった。憐れまれるのはみじめだけれど、不思議といやな気持ちにはならなかった。むしろ、この時私は心の隅でまたあの人に会って、日に焼けた縁側に座ってみたいと思っていた。


 翌日、登校すると誰もが私を見て驚いた顔をしたけれど、どうしたの? とか大丈夫? とは一切声をかけられなかった。それどころか、朝っぱらからご苦労なことに私の机はチョークの粉まみれになっていて、机の中からは紙くずやらゴミがごそごそと出てきた。私は自分で雑巾を取ってきて机を拭き、ゴミを捨てた。そして椅子に腰掛けると持参してきた文庫本を開いた。自分が「無視」されているという事実から目をそむける為に本に集中し、誰とも口をきいてもらえないのではなく「きかない」のだという自分への慰めに、中傷や意地悪だけで埋め尽くされた時間をやり過ごす為に、鞄が重くなるのを我慢して小説を携えてきたけれど、本が心の拠り所となるのは初めてだった。本は楽しみの為に読むもので、現実逃避のための手段ではない。なのに、今はひたすら活字を目で追った。いっそ耳栓でもしたいぐらいに集中して。こんな風にして読まれているなんて、小説家だって考えもしないだろう。


 山田くんは登校してきて私を見るなり、ぎょっとした顔をした。私は背中を丸めて小さくなり、俯いて本に熱中しているふりをした。全身から「何も言ってくれるな」という空気を放つ。この一分一秒も、監視されているのだ。傷の上にさらに傷を作りたくない。それが分かったのか、教室中の空気を読み取ったのか、山田くんは鞄を置くと男の子達の群れの方へ行った。私は安堵のため息をつかずにはおけなかった。


 チャイムが鳴り、先生が来ても私は顔を隠すように座り、そむけ、尋ねられれば母に言ったのと同じように「階段から落ちた」と答えた。教室で囁かれる声とか、玉島さん達の勝ち誇ったような笑いだけがすべてを物語り、また、すべてをみんなに知らせていた。昼休みまでにはほとんど全クラスの生徒に「玉島が転校生をボコにした」という情報は知れ渡っていた。それは勿論山田くんの耳にも入ったはずで、だからなのか、山田くんも私に話し掛けてはこなかった。私はそのことに傷ついたりはしなかったけれど、ぜひとも聞いてみたいと思った。「玉島さんは私とあなたが仲良くなるのに嫉妬して、私をボコにしたのよ。あなたはそれをどう思う? そして、そんな玉島さんをどう思う? 彼女、あなたを好きなのよ」と。玉島さん達もどういうつもりなんだろう。一体どこの男の子がライバルをリンチするような女の子を好きになるだろう。私にはまるで理解できなかった。


 一日中することがない私は図らずも真面目な生徒となり、授業は熱心に聞きノートも丹念にとった。そうしていなければ心が沈むばかりでやりきれなかった。授業内容が前の学校と重複しているので、そんなに真剣に聞くこともないのだけれど、なにかに心を傾けていたくて私は教壇の先生の一挙手一投足に注意を払った。その姿勢が「いい子ぶってる」という中傷の種になるとも知らずに。


 放課後、私は後ろを何度も振り返りながら歩くという、一歩間違えたら自意識過剰というか、精神に異常をきたしていると思われそうな不審な態度で学校を出た。昨日海に行き損ねたことと、昨日の男の人のことが頭をよぎった。なにか持っていってお礼を言うべきだろうか。でも、行けば事情を話さなくてはいけないだろうか。いや、それよりもこれ以上関わって本当に大丈夫なんだろうか。知らない男の人のところをわざわざ尋ねるなんて。さまざまなことを考えあぐねているうちに、足は自然と海に続く細い道へ向かっていた。いないかもしれない。平日だし。昨日はたまたまいただけで。だってこんな時間に家にいるなんて、なにしている人か分かったもんじゃないし。行かない理由ばかりが浮かんではシャボン玉のようにぱちんと弾ける。それは好奇心というものでもあり、なにか惹きつけられる目に見えない力のようでもあった。


 私は途中の和菓子屋で大福を買い、いなかったら玄関に置いてこようと思い、意を決して昨日の古い民家を訪ねることにした。折りしも風はやみ、空はみずみずしく澄んでいた。玄関は昨日と同じように暗く静かだった。呼び鈴を三度押しても、人が出てくる気配はなかった。私はまた庭に通じる通路に向かって「すいませーん」と呼びかけてみた。すると、驚いたことに「はーい」と女の人の声が返ってきた。私は安堵するとともに驚きでその場に固まってしまい、それ以上なんと続けていいか分からなくなって馬鹿みたいに突っ立っていた。


 返事の声に続いて室内をぱたぱたと走ってくる気配がし「はいはいはーい」と言いながらガラス戸ががらっと開けられた。現れたのはやはり二十代前半と思われる若い女の人だった。私を見ると「あらっ……」と目をぱちくりさせた。長い睫毛。髪はたっぷりしたスパイラルパーマ。色白で美人だった。


「なにかご用ですか?」


 女の人はにっこりと微笑んだ。その優しい笑顔に私はちょっとほっとして、

「あのう……、昨日こちらの方にお世話になりまして……」

「こちらの方?」

「服部さんに……」


 考えてみればこの人も服部さんかもしれないのに、なぜか私は昨日の男の人だけが服部さんなのだと思い込んでいた。


「それでお礼に伺ったんですけど……」


 私は女の人の顔色を窺いながらおずおずと大福の包みが入った袋を差し出した。すると彼女は、

「ハットリ、今ちょっと散歩に出てるの。どうぞあがって」

 とガラス戸をさらに大きく開け放ち私を「さあ」と誘った。これもよせばいいのに、女の人だという安心も手伝って私は一度は遠慮したけれど「どうぞどうぞ」と言われるままに結局は広い三和土で靴を脱いだ。昨日と同じローファーだった。


 通されてみると案の定家の中は古びていて、しかし愛着を持って使い込まれていた。廊下はみしみしと音を立て、通された居間のガラス障子の木枠も黒ずんでいたけれどいやな感じはしなかった。居間は昨日縁側から見たよりも広く、奥は台所になっていて流しは古風なタイル張りになっていた。女の人はそこでお湯を沸かすとお茶を入れてくれた。私は卓袱台の前に座り、そうっと部屋中に視線を走らせていた。同じく庭に面した隣りの部屋に通じる障子は開け放ってあり、壁にびっしりと並んだ本や床に置かれた彫刻、木屑と埃と丸めた紙くずで雑然としたそこからは絵の具の匂いがしており、芸術家のアトリエ然としていた。


 私の視線に気付いた女の人はお茶を私の前に置き、

「汚い部屋でしょ」

 と笑った。

「いえ、そんな……」

「学校の連中とかも使ってるからね、めちゃくちゃなのよ」

「学校?」

「私達、美大の学生なのよ」

「学生……」

「見えない?」

「いえ、そんな……」

「いいのよ。だって、ハットリ、浪人してるし」

「……」


 目の前の女の人は言われてみるとなるほど学生っぽい若さと明るさを持っているけれど、昨日の男の人は学生というには年をとっているような、明るさや朗らかさよりも苦悩と深刻なものが渦巻いていた。


「同じ大学の仲間が作業場として使ったりしてるから、いつも家の中は荒れ放題よ」

「あの……」

「なあに?」

「あの庭の物置に貼ってある張り紙は一体……?」

 私が庭の物置を指し示すと女の人は「ああ、あれ」とお茶を啜りながら説明してくた。


「あれは暗室。ハットリの友達が写真をやるから、物置を改造して暗室にしたのよ。だからいきなり開けるなって書いてあるでしょ。現像中にいきなり開けられたら感光しちゃうからね」


 彼女はそう言うと私が下げてきた大福の包みを卓袱台の上に置き、

「ハットリ、まだかな。早くこれ食べたいなー」

 と屈託なく、小さい子のように唇を尖らせて頬杖をついた。


 ずいぶん、違うんだな。私はそう思って彼女を見つめていた。前の学校は大学までのエスカレータ式で、特に苦労もせずに持ち上がって行く生徒達は大学に入ると途端に髪を茶色く染め、爪を長く伸ばして細かな細工を施し、雑誌の提唱する「モテ服」に身を包んで読者モデルデビューを果たすのに熱心になる。大学生とはそうしたものだと思っていた。巻き髪とツインニットと、ブランドネーム入りバッグに象徴されるようなものだと。しかし、私にとりとめもないお喋りをする女の人は初対面とは思えないほど和やかで、私を落ち着かせてくれる。カーゴパンツにはペンキが飛び散っていたけれど、それがファッションではないのは明白だった。無駄のない二の腕がTシャツの袖から伸びていて、指は細く長かったけれど骨ばっていて使い込まれていた。働く人の手のようだと思った。


 突然現れた中学生を迎え入れて、旧知の仲のように振舞うこと。それは転校初日の玉島さんと同じ行動でありながら、まるで違っていた。たっぷりしたスパイラルパーマの前髪をぐいっと潔く上げておでこを出している。形のいいおでこ。私はそれにほとんど見惚れていたと言っても過言じゃない。


「ねえ、名前聞いてなかったね。私、リカ。リカちゃん人形のリカだよ」

「あ、渡辺夏です」

「どんな字書くの?」

「季節の、夏です。夏に生まれたから、夏」

「いい名前! 私、一年で夏が一番好きよ」

 彼女がなんだか嬉しそうにはしゃいだ声を出すと、ぬっと庭先から昨日の男の人が戻ってきた。

「ハットリ、遅かったねー」


 その人は私を見ると驚いたような、怪訝なような顔をして、

「……また靴が飛び込んだのか?」

 と言った。

「あの……昨日のお礼に伺ったんです……」

 私がおどおどと小声で言うと、

「大福貰ったよ。ハットリ、早く食べようよー」

 と助け舟を出すように女の人が割り込んだ。


 男の人は縁側に腰を降ろすと「リカ、俺にもお茶くれよ」と言ってポケットを探り、煙草を取り出して火を点けた。浅黒く焼けた顔には無精髭が目立ち、髪は肩まであったけれどブラシなどいれたこともないといった感じのぼさぼさ加減だった。煙草を咥えてぼんやり庭を見ているので、私は怖くなって、

「あのう……」

 と声をかけた。呼びかけると首をこちらに動かし、私の顔をじいっと見つめ「なに?」と目だけで問い返した。


「昨日はありがとうございました……」

「……ああ」

 興味なさそうな、返事。


 女の人がお茶を入れ替えてお盆に乗せて持って来ると、服部さんは私が買ってきた包みをがさがさと破り「ありがとう」も「いただきます」もなく、その柔らかそうな白く粉を拭いたすべすべした餅を一つ掴んでぱくりと噛み付いた。女の人も横から手を伸ばし、しっとりした餅を食べ始めた。食べながら、

「ねー、ハットリ、彼女の名前ねえ、夏っていうんだって。いい名前だよね」

「ふん」

 もぐもぐと口を動かしながら、鼻先で相槌をうつ。やはりまるで興味なさそうに。私はいつ、どのタイミングでこの場を去っていいのか分からなくて、二人が大福を食べるのをじっと見つめていた。


 やはり来るべきではなかった。後悔が雨雲のように黒く頭上を埋め尽くす。たかが中学生が一人で知らない人のところに乗り込んでいくとは、いくらお礼を言おうと思ったからとはいえ、礼儀正しいというより無知蒙昧とでもいうべきだったか。一体自分はなにをしようとしているのだろう。自分で説明もつかないのに、もし問われたらなんと答えればいいのだろう。浅はかだ。あまりにも浅はかで馬鹿げてる。私が無言で二人と大福ばかりを見ているので、女の人は不思議そうな顔をして、


「どうかしたの?」

と尋ねた。私は慌てて手をぱたぱたと振り、

「いいえ、なんでもないんです」

と答え、それをきっかけで立ち上がりかけた。


「それじゃあ、私はこれで……」


 頭を下げながら「失礼します」と言いかけたところ、大福を飲み下した服部さんが、突如、私の名を呼んだ。


「夏」


 私は面食らって、片膝をついた姿勢で固まってしまった。親や親戚以外の大人の男の人に名前を呼ばれるのは初めてだった。しかも「なっちゃん」とかじゃなく「夏」とくっきりした呼び捨てで。まるで季節を指して言うようなぞんざいさで。そのことに驚くと同時に変に胸がどぎまぎした。


 服部さんはお茶を啜り、一呼吸おくと私の目を怖いぐらいまっすぐに見た。強い眼差しだった。真剣で、真摯で、なにか訴えるような目。思いつめたような目。太い眉毛と眉間の微かな皺。私は緊張のあまりごくりと唾を飲み込んだ。


「もし、また靴が庭に飛び込んだら俺を呼べ」

「……」

「でかい声で」

「……」

「俺の名前、わかるな?」

「……服部さん……」

「ハットリでいい。いいか、すぐに呼べよ。玄関にまわってこなくてもいい。その通りの向こうからでもいい。俺を呼べ」

「……」

「わかったな」

「……」

「夏、分かったら返事をしろ」


 この時、私は正直言って戸惑っていた。この人がなにを言わんとしているのか、その真意を図りかねて。というのも、この人は「知っている」はずだから。私がボコにされていたことは想像に難くないだろうし、見れば分かるようなことだったから。それを知って敢えて「自分を呼べ」というのは私に「助けを求めろ」と言っているも同然だった。いや、それは、そういうことなのだろう。でも、一体なぜ?。知りもしない男を信用するほど世の中は安全じゃない。今、こうしてここにいることだって学校や親に知れたら大問題なのだ。ほとんど命がけといっていいほどに。……それでも、私はここに来た。この人に会うために。それでは今更なにを迷うことがあるだろう? 私は座布団に座りなおした。


「はい」

「よし」


 ハットリは頷くと二個目の大福に手を伸ばした。

 この時はそうとは思わなかったけれど、これは私がした初めての「選択」だった。私はハットリを選んだ。それは単純なことだけれど、私にとって人生を変えるほど大きなことだった。


 

 私をボコにしたことですっきりするのかと思ったらそんなことはなく、玉島さんの指揮のもとに陰湿ないやがらせは続いた。私の孤立は今や完全なものになっている。陰口を囁くのではなく、公然のものとして声高に糾弾する。頭のてっぺんから足の先まで、あますところなく非難の対象になる。そのことに驚きを覚えた。


 体育の後ロッカーで着替えをしていた時のことだった。授業が終わって、制服に着替えて教室に戻ると吉田さんをはじめとする女の子数人がにやにや笑いながら私の方へ、やってきた。私はいやな予感がして彼女達から目をそらした。すると、彼女達は奇妙な微笑を浮かべながら私を取り囲んだ。いかにも何事か企んでいるような様子で。次の瞬間、衆人環視の中で彼女達のしたこと。それは、なんと「スカートめくり」だった。私は慌ててスカートを押さえた。女の子達が一斉に笑い出した。


 教室には男の子もいて、一部始終を見ていた。その中で、吉田さん達はいまどき小学生だってやらないようないやがらせを、さもこれが愉快な冗談やちょっとした悪ふざけであるかのように笑いながら、いやがる私のスカートの裾をばさっと掴み上げ始めた。私は必死で「やめてよ!」と懇願したけれど、吉田さん達は笑うばかりで裾を掴む手を緩めることなく、ほとんど私を引き回すようにしてスカートの中身を曝け出そうとした。


 一体、なぜこんなことをするのかまるで理解できなかった。私の下着をみんなに晒すことのなにがそんなに面白いのか。なぜ急にそんないやがらせを思いついたのか。吉田さんから逃れると、今度は後ろの東田さんが後ろから裾をまくりあげ、それから逃れると今度はまた前から。横から。執拗にそれは続いた。教室のほとんど全員に私の下着や太股が晒されたところで、いい加減息が切れたのか、笑いすぎたのか、彼女たちはひーひーとひきつったような呼吸で私を突き飛ばした。私はよろめきながらスカートの裾をしっかり押さえ、ささやかな抵抗で彼女達をきっと睨んだ。すると、彼女達の行為を笑って傍観していた玉島さんが、私ではなく、教室中に説明するように一声高く叫んだ。


「誰かさんは男ったらしだからさあ。見せたくってしょうがないんだよねえ」

 彼女の言葉に私ははっとした。


 どういうわけなのか、この学校の女の子達はみんな制服のスカートの下に体操服のショートパンツを穿いていた。私にはそれが不思議で仕方なかった。冬に防寒の為にアンダーウェアを穿くのとはわけがちがう。運動部の子が着替えの時間を短縮する為にそうしているのでもない。なにか取り決めでもあるのかしらないけれど、女の子達はスカートの下に体操服を着ていた。それが私には不思議なことだったけれど、まさかスカートをめくられない為ではないだろう。


 前の学校では考えられないことだった。ミサもカナも、他の女の子達だってみんな競うようにかわいい下着を身に付けていた。それを隠すようにわざわざ体操服を着たりはしていなかった。それが自然だった。


 私は唖然として教室を見回した。そうなの? そういうことなの? 私がスカートの下にショートパンツを穿いてないから、私は下着を見せたがってるんだってことになるの? だから、私が男ったらしってことなの? 私は吉田さん達をポン引きのように感じ、他ならぬ私自身が淫売扱いされたことに衝撃を感じた。彼女たちが私のスカートをめくって引き回したのは、そこに男の子がいたからだ。でなければ、それはいやがらせにはならない。「辱め」という言葉がぐるぐると頭を巡り始めた。たかがスカートをめくられるぐらいのことで大袈裟かもしれないけれど、私はこの時、人間としての尊厳を叩きのめされたと思った。しかもそれがさも冗談のように、悪ふざけのように笑いに紛れて行われることの悪質さ。悔しさに奥歯をきつく噛みしめ、私はスカートの裾を握りしめる格好で自分の席に座った。


 あちこちでまだ笑いが渦巻いている。吉田さん達が男の子達にからかいの言葉をかける。


「今、超嬉しそうに見てたでしょー」

「やらしー」


 私は屈辱のあまり血の出るほど唇を噛んだ。こんなに人がいて、誰も止めないどころか笑いばかりが細菌感染のように広がることが恐ろしく、おぞましかった。すっかり気持ちが昂ぶって手や足がぶるぶると震え、机の中から小説を取り出すもとても読むことはできなかった。


 耐えられない。そう思った瞬間、チャイムが鳴った。私はみんながそれぞれの席に着席する中、一人立ち上がると、教室を走り出た。廊下や階段を走って教室に戻る生徒。私はその中を逆走し校庭を駆け抜け、校門めがけてまっしぐらに走った。校門には生徒の脱走を監視する為に休み時間の間先生が立っている。私は校舎の陰に身を隠すと、しゃがみこんで息を潜めた。生徒が皆、納まるところへ収まった後の静寂。私は先生が校門から離れるのをじっと待った。時間にしてものの数分のことだと思う。しかし、私には永遠のように長く感じられ、見つかって教室に連れ戻されたらという恐怖と緊張で心臓が破けそうだった。


 先生が校門を離れた。門は今度は外部からの侵入者を完全に拒むようにものものしい空気を放って閉ざされている。が、外部からの侵入者をシャットアウトする為の警備体制は中から出ることは容易だった。私は誰もいなくなった校庭を背に、門を開け、猛烈な勢いで走り出した。


 「逃げる」という言葉がこれほど相応しい瞬間は他にないだろう。私はその時、確かに「逃げて」いた。逃げようとして必死で、何度も振り返り、追っ手のないのを確かめながら懸命に走った。大人の目を避ける為に住宅街を駆け抜け、狭い路地をじぐざぐに迷走し、走って走って、走り続けた。どこに行こうと思って走っていたわけではなかった。とにかく逃げなければという強迫観念に駆られ、一メートルでも学校から遠ざかりたい一心で走り、とうとう私は気付くとあの海沿いの家にやってきていた。


 今頃、教室では午後の授業が始まっているだろう。私がいないことで、先生は不審に思うかもしれない。鞄は残されたままの空っぽの席。私がどこに行ったのか、教室に問うかもしれない。しかし、誰も答えないだろう。きっと。私がいても、いなくても、どうでもいいから。むしろ、いない方がいいと思ってさえいるかもしれない。そして、私の行方を囁きあい、いやがらせが効果的に働いたことを、その戦果を喜び、称えあうだろう。


 まだ激しく波立つ胸と動悸に私は目を閉じて深呼吸をした。そして、ほとんど無意識といっていいほどのふらふらとした足取りでハットリの家の庭へと入って行った。呼び鈴を鳴らそうなどとは思いもしなかった。足が勝手に庭に向かい、吸い寄せられるように開け放された縁側にたどり着いた。私は日の当たる縁側に崩れ落ちるように座ると、体をひねり、その名を呼んだ。


「ハットリ」


 返事はなかった。居間には誰もおらず、しんとした空気が漂っていた。卓袱台には湯呑みや土瓶が置かれ、壁の時計の秒針の音が妙に大きく聞こえた。


 この静けさは学校のものとはまるで違う。校内の静寂は私をひどく怯えさせるけれど、この家から溢れているのは冷たく乾いていて、心地よい眠りを誘発するようなものだ。何者をも受け入れるような、広く豊かな静けさ。私は靴を沓脱ぎ石の上にぽとりと落とし、縁側を中へ中へと這いながらもう一度ハットリを呼んだ。板敷きの部屋を覗き込むと、ハットリはそこにいてちょうどこちらに背を向ける格好でイーゼルに向かい、丸い小さな木製の椅子に座っていた。その背中を認めると、私は立ち上がり、自分でも信じられないような勇気と図々しさで部屋の中へ足を踏み入れた。


 ハットリは無言で手を動かしていた。イーゼルには大きなクロッキー帳が開かれており、木炭を使って、台の上に置いたコップと水差しと、しおれた紫陽花を描いているらしかった。ハットリの背中を見つめながら私は黙って立っていた。けれど、私はちっとも不安ではなかったし怖くもなかった。ハットリはこちらを見向きもしなかったけれど、無視されているとは思わなかった。むしろ、自分が確かにここに受け入れられているように感じていた。根拠は、ない。でも、私はそう信じて疑わなかった。部屋を見回すと、壁際にキャンバスが立てかけて置かれ、本や雑誌が乱雑に積まれていた。その中に私は誇りをかぶったレコードプレイヤーを発見した。近寄って見ると、ターンテーブルにはレコードが乗っており文字はクリス・コナーと読めた。


「ハットリ、レコードかけてもいい?」

「……ふん」


 ハットリは鼻先で返事をすると、くるりと私を振り向いた。私はじいっと見つめられながら、次の言葉を待った。ハットリの目は、凪の日の海のように静かで、そのくせ眉間には苦悶したような皺がある。憮然とした表情が威圧的だけれど、不機嫌とか怒っているのではなく、もともとそういう顔なのだろうと思った。なぜならハットリは私が「どうして」ここにいるのかなど尋ねもしなかったし、それどころか、当たり前のような顔をしていた。


「お前、ジャズ好きなの?」

「これ、ジャズなの?」

「……」


 私がプレーヤーを動かすと、ハットリは呆れたように首を振った。微かに笑いさえした。私も釣られてちょっと笑った。


 ぐっと甘くて低音の渋い女の人の歌声が流れ出すと、私はそれを聴きながら部屋の中をゆっくりと見物しはじめた。乱雑に本が突っ込まれている本棚には漫画も小説もごちゃごちゃになっていて、床に置かれたキャンバスには真っ赤な渦巻きが一面に描かれた意味不明なものや、静物画、裸の女の人などがあった。裸の女の人の髪型がスパイラルなので、モデルはリカさんかなと思った。粘土でできた怪獣、角材から掘りおこしたような彫刻、模型の飛行機。この部屋はおもちゃ箱のようだ。なんでもある。でも、必要なものは何もない。けれど、大事なものばかり。


「これ、全部ハットリが描いたり作ったりしたの?」

「いや、大学のヤツとか、いろいろ」

「ふうん。ハットリ、今日は大学ないの?」

「ないよ」

「ふうん」


 学校のことを言ったのはまずかったかなと思った。自分はどうなのか問われたら困るから。でもハットリはそんなことは聞かず呑気にクリス・コナーに合わせて鼻歌を歌っていた。


「この曲、聴いたことある……。なんだっけ? なんかのCMでかかってたよね」

「バードランドの子守唄」

「……ハットリ、一人暮らしなの?」

「そうだよ」

「一人って、淋しい? 楽しい?」

「……」


 私は床に座り込み、大きくて重たいマチスの画集を開いた。

「一人暮らしだけど、一人とは限らないから」

「……どういう意味?」

「そういう意味」


 ハットリはデッサンをする手を止めず、鼻歌を歌い続けそれ以上は説明してくれなかった。一人で暮らしてるのに、一人じゃないってどういうことだろう。友達がいるってこと? 大学の人たちがアトリエとしてよく使うって言ってたから、そういうことなのだろうか。きっと友達がたくさんいるんだろう。私とちがって。


 しばらくそうして黙って私は画集を眺め、ハットリは手を動かしていると、庭から男の人が入ってきた。


「ハットリ、リカ来てる?」


 そう言いながら現れたのは、がっちりした体格の男の人で、髪をスポーツ刈りにしていて手にはカーボンファイバーの書類ケースを持っていた。床に座っている私を見ると「こんにちは」と自然な挨拶をした。私は慌てて「こんにちは」と返した。


 男の人は自分の家のように部屋に上がってまっすぐに台所に行き、冷蔵庫からジンジャーエールを持って出てくると、


「ねー、ハットリ、リカは?」

「知らねえよ」

「どこ行ったんだろ。まったく」


 そう言いながら太い喉をのけぞらせ、ごくごくとジンジャーエールを飲んだ。見た目に比べて、ずいぶんとなよなよしい喋り方をするんだな……。腕も太いし胸板も厚いのに、言葉尻は優しい。私が見上げているのに気付いたのか、その人はジンジャーエールを差し出すと、

「飲む?」

 と尋ねた。私は手を伸ばしてそれを受けとった。


「もしかして、夏?」

「あ、はい。そうです」

「リカがかわいい子が来たって言ってたからさあ」

「……」


 ジンジャーエールはよく冷えていて、私がいつも飲むような甘ったるいものではなく、舌に確かな生姜の辛味を感じた。


 男の人は縁側に腰掛けると体をガラス障子にもたせかけ、自己紹介をしてくれた。


「斎藤コウゾウです。よろしくね」

「渡辺夏です……」

「リカとは小学校からの同級生でねえ」

「あ、そうなんですか」

「そうなの。その制服、二中でしょ? アタシもリカも二中よ」


 ……アタシ? 目の前にいる人から飛び出すあまりにも似つかわしくない言葉。私はそれを代名詞ではなく、何か食べ物の名前のように感じた。


「私、引っ越してきたばっかりだから…」

「あ、そうなの? へえー。どこに引っ越してきたの?」

「えーと、大橋町の……斎藤医院ってところの近くです」

「あ、じゃあ近所なんだ」

「え?」

「斎藤医院って、うちだよ」


 まだ私は一度もお世話になったことはないけれど、斎藤医院の古風な前庭と入り口の扉は趣きがあって好きだった。一昔前の「診療所」ってイメージ。私がそう言うと、コウゾウくんは笑って、

「でも、もうジジイだからヤブだよ?」

 と言った。聞くと、斎藤医院の「先生」は今も現役を通すコウゾウくんのおじいちゃんだとのことだった。


「医者のくせに、本人が今にも死にそうなんだけどねえ」

「じゃあ、もしかして跡を継いだりするんですか?」

「んー? まあ、一応そうなるかなあ」

「へえ……」


 いつの間にかレコードは終わり、ハットリは大きく伸びをした。肩をぱきぱきと鳴らして、立ち上がった。


「斎藤医院は将来肛門科になるのか」

「やだ、ひっどーい!」


 コウゾウくんが女子高生みたいな声をあげた。笑うところなのか……? 私はちょっと困って「なんのことだか分かりません」という顔でジンジャーエールを一口飲んだ。緑色の細い瓶にはウィルキンソンと書いてある。ハットリはそのまま笑いながら台所に行くと、霜のついたガラスの瓶と氷の入ったグラスを持って戻ってきた。歩いてくる裸足の爪が大きく、私は思わずそれに見入った。


 縁側は日当たりが良く、生垣の山茶花の木漏れ日がやんわりとした光を庭に投げている。海から吹いてくる風は心なしか潮の匂いがするような気がした。ここはもしかしたら天国かもしれない。不意にそんな気がした。そのぐらい、この家と庭は静かで落ち着く。学校や母との暮らしが悪い冗談のように平和だ。ハットリが持ってきた霜だらけの凍った瓶はウォッカで、それをコップに注いで、ちびちびと飲み始めた。コウゾウくんはジーンズの足を投げ出すようにして、たった今気付いたかのように言った。


「夏は、ここで何してんの?」

 私はぎくりとして思わずハットリの顔を見た。

「別になにも……」

「……そうなの? 絵を描くとか写真撮るとかしないの?」

「え?」

「リカもそうだけど、ハットリの大学が美大でしょ? だから、ここに来る子ってみーんな絵とか彫刻とか、工作とかしてんのよね。アタシだけよ、医学部とかって」

「私、不器用だから……そういうの全然だめなんです」


 答えながらハットリの顔色を窺うように上目遣いでちらちらと見ていると、ハットリは煙草を取り出し火をつけた。それも、ライターではなくマッチで。マッチを擦った時の独特の匂いが漂った。


 私にも何かできればいいのに。そうしたら、ちょっとはましな気分になれるのに。何も持たないで、何もできないでいるよりは何かできた方がいいに決まっている。それが何かは分からないけれど。絵も工作も上手くもないし、取り立てて好きだったこともない。そりゃあ、そんな趣味があればいいけれど今からでは遅いような気がした。


 私はまだたったの十五歳なのに、もう人生が終わりに向かってカウントされているような気がしている。世界が終わりに向かって突き進んでいるような、ある種の絶望。何もかもが衰えていき、滅びていくことへの厭世的な気持ち。趣味を持ったところでいずれはそれも失わなければいけないような気がしている。実際、私はピアノだって失ってしまった。あのピアノを父はどうしただろう。黄ばんだ鍵盤と傷のついたピアノ。離婚して父が他の女の人と暮らすことは母から聞かされたけれど、どこで暮らすのかは聞かなかったし、私達が引っ越した後にあの家がどうなるかも知らなかった。勿論、ピアノの行く末など知る由もなかった。


 もし父が今もあの家に他の誰かと住んでいたとしても、ピアノだけは……。あのピアノだけは私の物であってほしい。両親も祖父母も、とってつけたように「例え離れて暮らしても親子であることには変わりないし、お父さんはずっと夏のお父さんだ」なんて言うけれど、そんなのは実に馬鹿げた子供だましだ。父はもう私の「お父さん」ではない。それはそれで仕方ない。でも、私がいなくてもピアノは私のピアノだ。私が信じたいのはそれだけだった。


 私とコウゾウくんのやりとりを聞いていたハットリは終始無言でウォッカを飲んでいる。まだ日の高いうちからお酒なんて……と思ったけれど、芸術家とはそうしたものなのだろう。ハットリはいかにも美味しそうにグラスを傾けている。その手が黒く汚れている。私は立ち上がりもう一度レコードをかけた。今度は縁側で聴くために音量をあげて。


 またハットリが鼻歌を歌い始めると、庭にリカさんが入ってきた。


「あら、みんなお揃いでどうしたの」

「ちょっとリカー、あんたなんで電話に出ないのよ」

「そーれが、ケータイ昨日忘れてきたみたいなの」

「どこに?」

「ハッピィハウスに」


 リカさんは今日もいさぎよくおでこを出し、長い睫毛を力強くカールさせていて破れたジーンズを履いていた。縁側に腰掛けると、ハットリのグラスに手を伸ばし水でも飲むようにぐいと中身を飲み干した。


「夏、学校もう終わったの?」

「……」

「その制服懐かしいなー。私も二中だったんだよ」

「それ、アタシもさっき言ったとこ。でも、夏って最近転校してきたんだって」

「あ、そうなの?」


 いつの間にかコウゾウくんまでハットリからグラスを取り上げてウォッカを飲んでいた。三人は一つのグラスをぐるぐる回して飲んでいるので、手から手へ絶えずグラスが移動する。氷がグラスの中で音を立て、時々光に煌いて光彩を放つ。私はその透明な液体が光を集めて作られているように思った。とても純度の高い、透明な水。


「じゃあ、まだあんまりこの辺のこと知らないんだね」

「うん」

「ま、小さな町だから特になにがあるってわけでもないんだけどね」

「でも、植物園の辺とか散歩しに行くよ。あの辺は静かで好き」

「あはは、夏、年寄りみたい!」


 リカさんが笑う。分厚い唇。真っ赤な口紅でも塗ったらさぞ似合うだろう。コウゾウくんがグラスにウォッカを注ぎ足しながら「そうだ!」と名案が浮かんだかのような弾んだ声で提案した。


「案内してあげるよー。どこでも、連れてってあげる。ねえ?リカ?」

「あ、そうそう。そうだよね。あたし達、ロコだから。なんでも聞いてよ。まずね、浜沿いのカフェあるでしょ?。あそこの冷たいココアは最高に美味しいんだよー。それから、権現さんの縁結びね。あれ、究極に効くの。とかね、お好み焼き屋ね、すーごい美味しいとこあるんだよ。ねえ、ハットリ?」

「スジ入りのネギ焼きな」

「あー、なんか食べたくなってきた!」

 リカさんが足をばたばたさせる。

「とにかく、案内してあげるから!」


 ……子供みたい。って、子供に言われたくないだろうけれど、リカさんのはしゃぐ様子は小さな子みたいに可愛らしかった。こういう朗らかさを、みんなどこに置いてくるんだろう。前の学校の上級生や先輩たちはみんなつんと取り澄ました顔で、にこりともしなかった。それが「大人の女」だと言わんばかりに。でも、目の前で絶えずにこにこしている人は眩しいぐらい感情を自由にさせている。


 コウゾウくんが携帯電話を取り出すと、私に向かって、

「夏、携番教えて。メアドも」

「あ、うん」

 私はコウゾウくんに自分の携帯電話の番号とメールアドレスを口伝えた。すぐにコウゾウくんは自分の携帯電話から私の携帯電話を鳴らし、メールも送ってくれた。私がそれをアドレス帳に登録すると、

「そのプリクラ、友達?」

 と、携帯電話を指差した。

「うん。前の学校の友達」

「ふーん。でも、夏が一番かわいー」

「そんなこと……」

 私が照れて笑うと、突然ハットリが、

「なあ、プリクラ、撮りに行こうぜ」

 と言った。それには私だけではなく、リカさんもコウゾウくんも仰天して一斉に頓狂な声をあげた。

「はあ?!」

 リカさんは目を丸くさせ、

「ハットリ、プリクラなんて撮ったことあんの?」

「ねえよ」

「てか、プリクラとか知ってるんだ?」

「当たり前だろ、馬鹿にすんな」

 コウゾウくんもげらげら笑って、

「ハットリ、どう考えてもプリクラってキャラじゃないじゃん」

「ただの写真だろ。キャラは関係ねえよ」

「でも、変! 絶対、変! みんなが聞いたら爆笑だよ」

 リカさんとコウゾウくんは「ねえ」と顔を見合わせた。


 一体、なぜハットリがそう言ったのかは分からなかった。興味を持ったのだろうか。あんまりリカさん達が笑うので、ハットリは「じゃー、もういいよ」とぶちぶち言いながらまたウォッカを飲みだした。けれど、内心私はハットリとプリクラを撮って、……というか、プリクラじゃなくてもいいんだけど……、ここにいるのが夢じゃない証拠でも残したいような気がした。確かに私がここにいて、確かに彼らが笑っていて、なんの苦しいこともないような瞬間を永遠のように切り取ってしまえたら。そうしたら、私はその中に住みたい。


「ねー、それじゃあさあ、今日さっそく遊びに行かない?」

 リカさんが私に向き直った。

「今日? 今から?」

「そう。今からって言っても、今すぐじゃないけど」


 私は学校に鞄を置きっぱなしできているのを思い出した。鞄を取りに戻らなければ、家に帰ることもできない。鞄には家の鍵が入っているのだ。


「リカ、あんたケータイ取りに行くんでしょ」

 コウゾウくんが口を挟む。

「だからあ、夏も連れてってあげようと思って」

「ハッピイに?」

「だめ?」

「だめじゃないけどぉ……」

「教育上良くないとか言うんじゃないでしょうね?」

「そんなことは言ってないよ。でも、ぶっちゃけ、そうでしょ?」

「大丈夫、大丈夫。夏はしっかりしてそーだもん。それに今日、平日だし」


 二人の遣り取りを聞いていると、どうもそれは子供が行くようなところじゃないらしい。子供って様々な制限があって、大変だ。学校にも行かなくてはいけないし。考えただけでうんざりする。それでもリカさんは、


「あのねー、ハッピィハウスってクラブがあるんだけどね。私、そこにケータイ忘れてきたから、今日取りに行くから、一緒に行かない?」

「……いいけど……」

「じゃあさ、着替えてー、七時にコウゾウんちに集合」


 変なことになったな……。私は頷いたものの事の成り行きにちょっと戸惑っていた。いや、それよりも目下の問題は鞄だ。授業が終わって、みんなが帰ってしまわないことには教室には行けない。時計を見るとそれまではまだゆうに一時間はありそうだった。


 リカさんは部屋にあがるとさっきまでハットリがデッサンしていた場所で絵を描き始めた。


「リカ、頼んでたアレさあ」

「うん?」


 コウゾウくんが書類ケースを開けると中から画用紙と引き伸ばした写真を取り出した。


「これでいいかな」


 そう言いながらリカさんに渡すと、二人はなにか絵の大きさがどうだの、素材がどうだの、角度がどうだのと話し始めた。クリス・コナーはまだ終わらない。ハットリは縁側にごろりと寝転ぶと、肘枕をし顎先で二人の方を示してみせ、

「コウゾウが肖像画をリカに頼んでんだよ」

 と教えてくれた。


「誰の?」

「好きなやつの、肖像」

「ふうん……。なんでハットリに頼まないの?」

「リカの方が上手いからだろ」

「ふうん……」


 私はその言葉に首を伸ばしてリカさんの前のイーゼルを垣間見ようとした。


「夏、いつか俺らのプリクラもケータイに貼れよ」

「……」


 振り向くとハットリは目を閉じて完全に昼寝の体勢になっていた。


 ……そうか。この人は私の友達になってくれようとしているんだ……。友達のいない転校生、新しい学校に馴染めないでボコにされて、脱走してきた私の友達に。私はみじめで情けなく、一瞬ひどくハットリを忌々しく思った。けれど、そう思う反面涙が出そうになった。ハットリの言葉がただのいじめにあっている中学生への憐れみや、胡散臭い正義感ではないことをなんとなく感じていたから、私は腹立たしく、恥ずかしくもあったけれど小さく「うん」と頷いた。ハットリの傍らのウォッカは、半分以上なくなっていた。


 ハットリの家を出る時、ハットリはぐうぐう寝ていたので、私はリカさんにそっと尋ねてみた。コウゾウくんは一足先に帰って行った後だった。


「ね、リカさん」

「さんづけで呼ばれるのって、緊張するなあ」

「え、じゃあなんて呼べばいいの?」

「ん? リカちゃん」

「……リカちゃん」

「なに?」

「コウゾウくんって……ゲイ?」

「そうだよ」


 私は「やっぱり」と、リカちゃんがコウゾウくんに頼まれたという描きかけの裸の男の人の肖像を眺めながら深く納得した。もう一つ、リカちゃんがハットリのカノジョなのかどうかはコウゾウくんに聞くことにして、私はいい加減誰もいなくなっているであろう学校へ夕焼けの中を歩いて戻っていった。



 運良く誰にも見つからずに教室から荷物を持って出ることができた私は、自分の姿を見咎められないようにとそればかり願っていた。結果的に、私は速やかに鞄を持って帰ることができたわけだけれど、自分の存在が誰の関心もひかないのだと思うと少し傷ついたような気持ちになった。


 家に帰ると母は仕事に出かけるところだった。母の仕事は相当忙しいらしく、近頃は週に一度ぐらいしか休みをとらなかった。不思議なことに、母はどんなに忙しくても疲れたとは一言も言わず、言わないどころか、むしろいきいきとしてどんどん元気になるようだった。


 夕方から出勤するなんて、水商売みたいだと当初は言ったものだけれど、今は昼夜関係なく仕事に情熱を注いでいるらしい。母のはりきりぶりは目を見張るものがある。私は母が仕事に熱心になるほど「自立」という言葉を思い出していた。しかし自立といえば聞こえはいいが、私には母が私を捨てて一人になりたがっているようにしか思えなかった。仕事のことを話す母は必要以上に明るい。自分はちゃんと職場でやるべきことのできる能力のある者なのだと、虚勢を張るような、見得のような、そのくせ言い訳のような言葉を聞くと、母は一体なにを欲しているのだろうかと図りかねる時があった。


 私はいそいそと出かけていこうとする母に、作りおきのシチューの鍋を覗き込みながら声をかけた。


「お母さん、今日、私、友達んとこに遊びに行くことになったんだけど」

「誰んとこ?」

「……玉島さん」

「同じクラス?」

「……うん。でさあ、遅くなってもいい?」

「……その子のおうちに行くの?」

「うん」


 シチューに指を突っ込み、安っぽいインスタントのルーの味のするそれを一舐めした。


「その予定だけど、他にも友達来るからカラオケとかかも」

「……ふうん」


 母はもう玄関で靴を履きかけている。


「気をつけてね」

「うん」


 出て行く母を見送りながら、母に嘘をついたことよりもわざわざ玉島さんの名前を使う自分に嫌気が差した。私は玉島さんや、吉田さん達以外の誰の名前も知らない。覚える間もなく迫害は始まってしまった。誰だって自分の身がかわいいのだ。私はもう誰とも仲良くなることはないだろう。


 一人の家でシチューを食べ、テレビを見て、なにを着ていくかちょっと迷ったけれどジーンズにTシャツを着てジャケットをひっかけた。ジャケットは紺色で、白いステッチが入っている。これは母が買ってくれたもので、フレンチカジュアルでとても気に入っている。腕にはベビーG、ブラックモデル。火の元を確認してから鍵をかけ、すでに暗くなった町を斎藤医院目指した。一応、お金は持ってきたけれど、大人の遊びというのはどのぐらいお金がいるものなのか見当もつかなかった。クラブに行くようなことを言っていたけれど、中学生がすんなり入れるんだろうか。斎藤医院までは歩いて5分ほどだけれど、その五分をてれてれ歩くうちに「大人と遊ぶ」ということと「大人の遊び」のイメージが膨らんできて、期待と緊張と高揚で踏み出す足に勢いがつき始めた。


 斎藤医院はまだ診療中らしく、私はどこから入っていいのか分からなくて周囲をぐるりと一周した。ちょうど医院の裏手に「斎藤」の表札がでた普通の民家らしい玄関があったので、私はその扉の前でコウゾウくんの携帯電話を鳴らした。インターホンを押す勇気はなかった。三コールでコウゾウくんが出た。


「夏です。今、コウゾウくんちの前だよ」

「はーい、今行く」


 ブロック塀と門の奥は灰色の敷石で、玄関灯の明かりが薄い光を投げている。斎藤医院の正面玄関から見ると平屋に見えたのに、裏から見た斎藤家は二階建てだった。玄関が開いて、コウゾウくんが顔を出すと、

「いらっしゃい。入って入ってー」

 と手招きをしてくれた。私は門扉をきしませて中に入ると、招かれるままにコウゾウくんの部屋に通された。


 コウゾウくんの部屋は玄関を入ってすぐの階段を上がって、二階にあり広々として明るかった。よく知らない、大人の、男の人の、しかもホモセクシュアルの人の部屋。私は好奇心でうずうずしてくる唇を引き締めるのに必死だった。


「リカももう来るから」

「うん」


 部屋はこげ茶色のフローリングで、同じ色の洒落たライティングビューローとガラスの蓋つきの本棚があった。カーテンも茶系のしぶいタータンチェックで、ベッドにも茶系のカバーがかかっていた。全体的に品がよくいちいち高価そうでコウゾウくんの豊かさを物語っていた。部屋の真ん中に小さな丸テーブルと折り畳みの椅子があり、私はそこにこしかけて部屋を見回していた。その視線に気付いたコウゾウくんは、

「別に変なもんはないよー」

 と笑った。


私は慌てて弁解するように両手を振り、

「そんなんじゃないよ。男の人の部屋に入ったの初めてだから」

「あ、ほんと? んー、でも、この部屋は普通の男の部屋じゃないと思うから比較にならないと思うよ」

「普通って?」

「普通の男の子の部屋ってもっとちらかってるもん」

「コウゾウくんは綺麗好きなの?」

「綺麗好きっていうかね、綺麗なものが好きなの。ほら、これ見てよ」


 そう言いながらコウゾウくんはベッドサイドの小さな猫足のテーブルの上からビクトリア調の装飾のされた写真立てを取り上げた。そこには他にも美しく絵付けされた小皿があり、中には乾いてかさかさになったバラの花びらがたまっていた。


 言われてみると部屋にはちょっとした綺麗な小物があちこちに置かれていた。部屋の隅のキャンドルスタンドも優美な曲線のものだし、本棚の中にもクリムトの絵みたいな金色の小物入れがある。コウゾウくんはそれらを示しながら、


「綺麗なものは心が和むからね。こういうの、大事だよ。ほんと。ちょっとしたものでもいいから、ああ綺麗だなって思えるものをそばに置かないとね、人間はどんどん醜くなる」

「……ふうん……」

「夏もなにか綺麗なものをそばに置きなよ。いやなことがあっても、苦しい時も、それを見たら単純に『ああ、綺麗』って思えるようなものを。そしたらね、卑屈になったり荒んだりしないから」

「……そうだね」

「ほら、これも綺麗でしょ?」


 コウゾウくんはライティングビューローにあった香水の瓶を差し出した。爽やかで優しい匂いと、すべすべしたつや消しのガラス瓶。アラベスクのような花模様が施されている。


「これ、使ってるの?」

「たまーにね。普段はだめ。だって、学校とかじゃまずいでしょ? ほーんと世の中生きにくいことだらけよ。好きでも、好きって言えなかったり、思ったようにできないことばっかりだもんね」


 コウゾウくんは背が高くて肩幅もがっちりしていて、体育会系な感じだけれど、この清潔感も明るさも本当はカムフラージュなんだろう。本当の姿を隠すために好青年を演じている。私はまるで共通点などないコウゾウくんに親近感を感じた。学校や親の前で見せる姿と本当の心のありどころ。生きにくい世の中について、自分は同じことを感じている。


「コウゾウくん」

「ん?」

「リカちゃんって、ハットリのカノジョなの?」

「ちがうよ。あ、夏、ハットリが好きなの?」

「ちがうちがう」


 コウゾウくんはベッドに腰を下ろすと、

「リカとアタシとハットリの弟が同級生だったの。幼馴染ってヤツよ。ハットリは高校中退してしばらくぶらぶらしてたから今の大学でリカと一緒になったけど。リカは今もっと年上の男のつきあってる」

「…そうなんだ。え? じゃあ、コウゾウくんって何歳?」

「二十二」

「ハットリは?」

「二十五」

「二十五?!」

「なんでびっくりすんの?」

「だって大学生なのに?」

「ハットリ、浪人してる上に留年もしてるから」

 コウゾウくんはそう言って笑った。


 その時、コウゾウくんの携帯電話が鳴った。着メロは激しめの男の子が好きそうなロックだった。意外だと思った。でも、それもカムフラージュなのかもしれないと思うとコウゾウくんの苦労が偲ばれた。私みたいな子供に分かるはずないかもしれないけれど、偽ることの痛みなら知っている。私が今ここにいることが真実と偽りを併せ持っているから。母はなにも疑っていない。私がクラスの子達とカラオケに興じていると信じている。私が教室にうまく溶け込んでいると思っている。私がそう思わせたから。罪悪感は、ない。でも何も感じていないわけでもない。自分の中に嘘があるのは、胸の中に毒を忍ばせているのと同じだ。


 電話はリカちゃんからで、私とコウゾウくんは駅でリカちゃんを待って一緒に街へ繰り出すことになった。リカちゃんは長い睫毛にマスカラをつけてさらに長く見せ、ぼってりした唇にはちゃんと口紅を塗っていた。大福を食べていた時のあどけなさは完全に隠されていた。私とコウゾウくんを見ると嬉しそうに、はしゃいだ声で、

「今日は夏のデビューだよ」

 と言った。


 デビュー。いったいどこでなににデビューするのだろう。そんな疑問をよそにリカちゃんとコウゾウくんの賑やかなお喋りが私を夜へとさらっていく。心地よい音楽のように。ビートに体を預けると心が躍るのと同じで、それと同じものを私は感じていた。私はこの時、なにも怖くなくて不安もなかった。けれど、それは私が子供で、彼らが大人だからだった。彼らが私を守ってくれると信じていたし、子供の図々しさで私は色々なことが許されるような甘えた気持ちになっていた。私はそれらを充分承知していて、それでも今はこの状況に甘んじていようと思った。嘘をつくことに疲れていたのかもしれない。


 出かけた先はバーやレストランや雑貨屋のひしめく繁華街から、ちょうど一本通りを隔てた路地裏の店だった。地下へと続く階段は細く、狭く薄暗かった。足元に注意しながらゆっくりと階段を降りるとプールの底に沈んでいくような錯覚を覚えた。


 ハッピィハウスという名のその店は平日はバーで、週末はクラブになるのだとコウゾウくんが教えてくれた。週末のイベントにはドラッグクイーンのショーなんかもあるのだそうだ。テレビや映画で見る、あのケバケバしい人たち。テレビの中だけのものと思っていたので私は実際に見てみたいと思った。扉を押し開けると中は思いのほか広く、ソファやテーブルの向こうには広々としたスペースがとられていた。平日のせいか店内は空いており、カウンターに何人かの客がいるだけだった。


 カウンターの中にいた背の高い、テンガロをかぶった男の子が「いらっしゃい」と声をかけた。


「来ると思ったよ。忘れもんだろ」

「もぉ~、まいったわ。ケータイないのって不便!」


 リカちゃんがそう言いながらカウンターのスツールに腰掛けた。私とコウゾウくんもその隣りに腰掛けた。私は緊張していて、スツールに座る時もカウンターの端をしっかり掴まないと転んでしまいそうに足もとが固くなっていた。


「ケータイがなくても平気だった時代が嘘みたい」


 リカちゃんは自分の手に戻ってきた携帯電話をぷちぷちと操作している。

「この小さい人は―?」

 テンガロがグラスに氷を入れてくるくると柄の長いスプーンでかき回しながら言った。


「ハットリの友達。夏っていうの」

「ハットリの?」

「かわいい子でしょー」


 リカちゃんが私の肩に腕をまわして軽く引き寄せた。私は「未成年おことわり」で追い出されるのかと内心ひやひやしていたけれど、テンガロは「ふうん」と言っただけで「なに飲む?」と私の前に立った。


「えーと…」

 私はどうしていいのかさっぱり分からなくて、棚にずらりと並べられたお酒の瓶に視線を彷徨わせた。

「夏、お酒飲めるの?」

「うん。でもこういうとこで飲んだことない。缶チューハイとか缶のカクテルばっか」

 コウゾウくんの問いに私がそう答えると、カウンターの中のテンガロが、

「じゃあ、なんか作ろうか」

 と言ってくれた。リカちゃんとコウゾウくんの前にはもうグラスが置かれていた。


「それ、なに?」


 私が尋ねるとリカちゃんは「テキーラ」と答え、コウゾウくんは「ジントニック」と答えた。クラブというから鼓膜が破れそうに音が鳴ってるのかと思ったら、そうでもなくて、今は普通の洋楽がかかっているだけだった。空気は淀んでいて重く、煙草の匂いに満ち満ちている。


 私の前に赤い色のついたお酒の入ったグラスが置かれた。


「じゃ、乾杯しよー」


 コウゾウくんがグラスを手にしたので、私もリカちゃんもそれぞれのグラスを持ちあげた。


「夏のクラブデビューを祝して、かんぱーい」

 どうやらこれが私の「デビュー」らしい。グラスの中身は甘酸っぱくて、いくらでも飲めそうな気がした。


 ハットリもこういうところに来るんだろうか。お酒を飲んだり、踊ったりするんだろうか。想像できない。ハットリにあの古い家が似合いすぎていて、馴染みすぎていて他のどこにも行くことなんてないような気がしていた。まるであの家から一歩も出ないような。そんなことあるわけないのだけれど。実際、ハットリは散歩にだって出かけていたじゃないか。


 テンガロは煙草を吸いながら、小さなグラスに注いだビールを時々口に運び「何歳?」とか「ハットリと仲良いの?」とかの質問をした。私はそれらに正直に答えた。横でコウゾウくんが代わりに答えてくれることもあれば、リカちゃんが口を挟む事もあった。


「夏は引っ越してきたばっかりだから、私達で案内してあげることにしたのよねー」

「案内するようなとこ、ねえだろ」

「そんなことないよ。あるよ」

「なんで引っ越してきたの? 転勤とか?」


 テンガロは灰皿に煙草を押し付けた。目の前をまだ紫煙が漂っている。


「親が離婚して。それで」


 私が答えると、リカちゃんは大袈裟なぐらい大きな声を出した。


「ええ! そうなの?!」

「そう。お母さんの実家がこっちだから。それで」

「そうなんだ……。じゃあ、お父さんはどうしてるの?」

「……女の人と暮らしてるって聞いたけど……。どうしてんだろ……分かんない」


 気付くとリカちゃんは物凄く悲しい、傷ついた表情で私を見ていた。私はぎょっとして、慌てて何か言おうとしたけれど、コウゾウくんがそれを止めた。耳元で、「リカの彼氏、奥さんいるの。不倫ってやつ」と囁いた。コウゾウくんはテンガロと話しているリカちゃんを横目に、さらに囁いた。


「ビビってんの。相手の家庭が自分のせいで崩壊したら…って。だったら、今すぐ別れたらいいのにね。それができないってんだから、やっかいよ。馬鹿なんだから」


 そう言ながらもコウゾウくんの目は優しく温かかった。心配していることがよく分かった。


 それにしても意外な事実に私は驚き、リカちゃんの横顔を見つめた。不倫。その言葉がぐるぐると頭をめぐる。私には父がなにを思い他の女を選んだのか分からない。たぶん、生涯理解できないだろう。それから、リカちゃんの怯えたような目。あれはなにを意味するのだろう。罪を恐れる気持ちの表れだろうか。もしかしたら、私はこの人から知ることがあるかもしれない。父の気持ちを。その断片を。そう思うとこちらを見てにっこり微笑み「飲んでみる?」といって自分のグラスを差し出してくれる彼女から目をそらすことはできなかった。グラスの中の透明な液体は独特の匂いがしていて、一口啜ると喉がかっと焼けるように熱くなった。


「お酒って感じだね、これ」

「美味しい?」

「まずいよ」

「あはははは」


 グラスを返す時、リカちゃんの指に嵌った細いリングに気がついた。彼氏からのプレゼントだったりするんだろうか。彼氏とお揃いとか。約束の指輪。そういえば父は母との結婚指輪をどうしたんだろう。


 テンガロは今度はりんごの匂いのする淡い琥珀色の飲物を作って、他の客の相手をしにカウンターの端に向かった。向こうでは男の子が一人で座っている。髪の長い男の子だ。


「ナイショだよ。彼が、好きな人」

「誰が、誰の?」

「あのバーテンが僕の好きな人」

「……コウゾウくんの彼氏?」

「ううん、片思い」


 ひそひそと囁き交わす言葉は教室のお喋りのようだった。


 私の「教室」はこの時からここになった。音楽とお酒と煙草に溢れた空間。教師の代わりに何人もの、様々な大人。友達も、また。二杯目のお酒も甘くみずみずしく、気付けば頭の芯がゆらゆらと揺れるようだった。この不思議な感覚が「酔い」であると気付いた時、私は楽しくて仕方なくて、コウゾウくんとリカちゃんとお喋りしながらリズムにあわせて指でカウンターを叩いた。それは母が私の携帯電話を鳴らして「まだ遊んでるの?」というまで続いた。


 もうちょっと飲んでいくというリカちゃんを置いて、私はコウゾウくんと家に帰った。お酒の匂いがしてはまずいということで、コウゾウくんがクールミントのガムを買ってくれ一度に三枚ぐらい噛まされた。辛くて鼻に抜ける空気がすーすーしすぎて痛いぐらいだった。コウゾウくんはロイヤルハイツの前まで送ってくれた。


 コウゾウくんはロイヤルハイツの入り口の階段のところで、青白い蛍光灯の灯りに照らされながらじっと私の顔を見つめ、微かに笑うと、

「夏、黒目が大きくて、澄んでて綺麗だね」

 と突然改まって言った。


「え? そ、そう? そうかな……」

「うん。ハットリの弟と似てる」

「……そうなの?」

「うん。リカもそう言ってた」

「ふうん? ハットリの弟ってどんな人? ハットリと似てる?」

「似てないよ、全然」

「そうなんだあ」


 コウゾウくんはさらに目を細めて笑った。それから大きな手で私の頭を撫でると、

「夏、仲良くしようね。なんか困ったことがあったら、なんでも相談してよ」

「……ありがとう」

「ほら、アタシもリカも、夏よりはちょっとだけ人生経験があるじゃない?」

「そうだね。よろしくお願いしまーす」


 私は半ばおどけるようにぺこりと頭を下げて見せた。それは私が転校してきた日と同じ挨拶だったけれど、まるで違っていた。コウゾウくんは「いやあねえ」と小さな子供を見るような、懐かしいものを見るような顔をしていた。


 私とハットリの弟が似てるのか。男の人に似てるなんて複雑だけど、これでなんとなく合点がいったな。ハットリが私を助けたのは、弟と似ていたからなのだ。私はハットリを疑ったりはしていなかったけれど、心のどこかで行動の読めないハットリを警戒していたのかもしれない。固く引き締められていた胸の紐がするりと解けるような気がした。


 家に帰ると母がお茶漬けを食べながらニュースを見ていた。怒られるかとびくびくしたけれど、母は私に一瞥をくれると「楽しかった?」と尋ねた。私は鼻先で返事をし、台所でミントのガムを捨てた。


「仲のいい子ができてよかったわね。どんな子なの? ミサちゃんやカナちゃんみたいな子?」


 背後で母がテレビの音に混じって言う。


「どっちにも似てないよ。どっちでもない」


 こともなげに答えつつ、私は少しむっとしていた。私は確かに何もかもを失ってしまった。でも、それはちがう場所で、また同じようなものを拾い集めてなにごともなかったような顔をする為の「ゼロ」じゃない。母はそれを知っているのだろうか。それとも母にとっては、そうなのだろうか。この町でまた父のような人を見つけて結婚し、庭付き一戸建てに住み人生の積み木を積みなおすのだろうか。そして、その中にはやはり私も組み込まれていて、私はまた母について従い、母の選ぶ誰かをお父さんと呼ぶようになるのだろうか。かつて、私がそう呼びかけた人の代わりに。


「最近、ミサちゃん達に電話とかしてないのね」

「……うん……」

「元気にしてるかしらね。二人ともよくうちに遊びに来たじゃない?」

「元気なんじゃない? 夏休みに遊びにおいでって言ってた」

「……あら、そう。そうね、夏休みになったらね」


 部屋の気圧が下がるような錯覚があった。母との時間は気詰まりだ。それはたぶんお互いに自分のことしか見えていないからだろう。私達は互いの胸のうちを探っているようでいて、なんの手応えも感じていない。思惑がそれぞれの間をすり抜けていくだけだ。この不自然さを母はなんと思っているんだろう。夏休みに友達のところに遊びに行くということ。それは父の住む町へ行くということだ。それなのに、その肝心な部分は黙殺しようとしている。母はきっと私があの町へ行くことを良しとは思っていない。私が過去に触れることを良しとは思っていない。それはひどくせつないことだった。



 翌日学校に行くと、先生は私を職員室に呼び、案の定昨日はどこへ行っていたのかを尋ねた。私はわざと暗い声で、力なく、

「気分が悪くなってしまって……、家に帰りました」

 と答えた。


「鞄を置いて?」

「鞄が重くて」

「……」


 具合の悪そうなふりも、みえすいた嘘も子供じみていて私は自分の演技そのものが馬鹿馬鹿しくなった。けれど、問題を大きくしたくなかったので、この猿芝居は押し通さなければと決意を持って、俯いて自分の靴の爪先を見ていた。先生は猜疑心に満ちた目で私を見ながら、微かなため息をついた。


「今度からは勝手に帰らないように」

「すみません」

「で、体調はもういいの?」

「はい、大丈夫です」


 先生が私の嘘に騙されたとは思わない。面倒をさけたいのだろう。保護者を呼んだりクラスで討論をさせたり、いじめっこを改心させたりするよりは転校生一人を黙らせておく方が楽に決まっている。おおかたそんなところだろう。いじめにあった中学生や高校生が自殺して、学校はいじめの存在を認識していなかったなんてコメントをニュースで見かけるけれど、あんなのは全部嘘に決まってる。この狭い世界で、たかが子供の集まりで分からないなんてことありえない。知らないなんてことありえない。いじめにもっと早く気付いていれば……なんて道化た発言。今の私はおかしくって、呆れるのを通り越して笑ってしまう。この人だって、全部知ってて、それでも黙認してるのだ。


 私は一礼して職員室を出ようとした。すると、先生が私をもう一度呼び止めた。


「渡辺さん、前の学校でコーラス部だったんだよね」

「……はい」

「伴奏やってたんだって?」

「……一応……」

「今日のホームルームで、来月の合唱コンクールのこと決めなきゃいけないんだけどね。指揮と伴奏を選ばなくちゃいけないんだけど……」

「……」


 この時、私はいやな予感がした。


「うちのクラスにはピアノ弾ける子がいないんだよ」

「……」

「渡辺さん、やってくれないかな」

「……」

「指揮は推薦か立候補で決めるけど」

「……あの、うちにピアノないんです」

「あ、大丈夫。学校で練習できるようにするから。放課後、音楽室で練習できるようにする。どうかなあ。お願いできないかな。転校してきたばっかりだから、そういう役割をするとクラスに馴染むきっかけにもなると思うよ」


 先生が眼鏡の奥の目で私をぐいぐいと押してくる。それが「お願い」ではなく半ば強制力を持っていることが感じられる。人の良さそうな微笑みの下で、教師の権限を、まあ、もしそんなものがあるとしたらの話し、振りかざしている。しかし、果たしてそれは卑劣な行為だろうか。結局のところ、大人はそのようにして責務をまっとうしていくだけのことなのだ。より効率のよい方法で。私には言い返す術もなかった。


 それに、クラスに馴染むきっかけって一体なんなんだろう。私にはそうは思えない。私達は子供だけれど、馬鹿ではないのだ。そんなことになんの意味もないのはいやというほど知っている。どうして大人はそういうことを忘れてしまうんだろう。子供の純真や純粋の裏にある単純さと、横暴さと、残酷さを。


「曲は『空がこんなに青いとは』知ってる? ……音楽の田中先生はそんなに難しい曲じゃないって言ってたけど」


 空がこんなに青いとは。その曲なら知っている。前の学校で弾いたことがある。私は蘇ってくるメロディに思わず睫毛を伏せた。この学校で、あの教室で、私がピアノを弾いても反発をかうだけだと思った。もしかしたら、あてつけのように誰も歌わないかもしれない。私の伴奏はいやだという声が運動となって沸きあがるかもしれない。


「放課後、練習できるんですよね」

「うん」

 先生は勝利したように深く頷いた。


 右手の中指がぴくぴくと痙攣するように動いた。私の体は平穏を求めている。ピアノ。私のピアノのような音のものはどこにもないだろうけれど、それでもいいと思った。担任は音楽の先生のところへ私を連れて行き、放課後の音楽室の使用についての注意点を聞かされた。そして、伴奏の楽譜を受け取ると「がんばってね」と肩を叩いた。私はかすかに微笑んでみせ、頷いた。


 教室に戻ると楽譜を机の上にのせ、久しぶりの五線紙を眺めた。


「それ、なに」


 不意に声をかけられて顔をあげると、山田くんが隣りの席から私の机の上を指差していた。


「楽譜。合唱コンクールがあるんでしょ?。その伴奏を頼まれたの」

「へえ……」

「前の学校にはコンクールなんてなかったけど」

「コンクールっていっても、校内だけだけどね」

「あ、そうなの? 私、てっきり県とか市の大会でもあるのかと思った」

「まさかぁ」


 山田くんは呑気に笑っている。

「ピアノ、上手いんだ?」

「上手くないよ。久しぶりだからいっぱい練習しなくちゃ」


 正直言ってまたピアノが弾けることが嬉しかった。そりゃあ面倒な事態も想像してしまうけれど、そんなことよりも単純に弾けることが喜ばしくて、私は自分がこんなにもピアノを好きだったんだなと実感した。


 合唱コンクールのこと、コウゾウくんやリカちゃんにも聞いてみよう。彼らも中学時代に参加したはず。放課後が忙しくなるな……。ふとポケットに手をいれると昨夜コウゾウくんが買ってくれたガムの残りを入れてきたのを思い出した。私はガムを一枚取り出すと、気分が良かったことも手伝って山田くんにガムを差し出した。


「あげる」

「お、さんきゅ」


 山田くんはガムの包みを剥いて口に入れた。


「昨日、もしかして脱走してなかった?」

「……」

「やっぱりな。急にいなくなって、どこ行ったのかと思ってた」

「……」


 私は返事に困って、ふふと小さく笑った。山田くんはガムを噛み、ミントの匂いをさせながら、

「今度、脱走する時は俺も誘ってよ」

「……二人はダメよ」

「なんで?」

「二人だとすぐ見つかっちゃう」


 ……本当は二人だと周りがうるさいから、だけど……。一体山田くんはこの状況をどう思っているのだろうか。見当もつかない。ただ人の良さそうな顔で笑っているけれど。


 授業が終わり、ホームルームの時に担任は予告した通り合唱コンクールの話しを切り出した。コンクールは期末試験が終わってから行われ、ぜひとも一位を目指そうと教室に語りかけた。


「曲は『空がこんなに青いとは』で、練習は朝のホームルームと帰りとにすることになる。で、まあ、毎年のことだから分かってると思うけど、指揮者を決めたい」


 教室がざわめき始める。あちこちで誰がいいだの、いやだのと声があがる。


「じゃあ、まずは立候補! 誰かいないか?」

 誰もが教室に視線を彷徨わせる。いない。

「伴奏は、渡辺さんがやってくれるから」


 先生がそう言った途端、教室に水をうったような静けさが走った。あ、やっぱり。私はそう思い、いたたまれない気持ちになった。


 私にはみんなの心象風景が手にとるように分かった。玉島さん達がどうでるか。それを窺っているのだ。それ次第で賛成もすれば反対もするのだろう。妨害もすれば、冷やかしもし、嘲り笑うのだろう。そのすべてが彼女達次第なのだ。これが独裁でなければ一体なんだというのだろう。そして、この教室にはちょっとでも疑問を感じて革命を起こそうなんて子はいないんだろうか。共産主義の国じゃあるまいし。


 そう思って俯いていると、いきなり「はい」という声と共に立候補の手があがった。私はその声の主を見て、ぎょっとした。衝撃は教室中の全員にあった。誰もがこの微妙な状態に戸惑う中、立候補として手をあげたのはなんと山田くんだった。


 先生は「他に誰かいないか」と問うた。教室はますます戸惑い、私と山田くん、玉島さんを順に見つめている。息を詰めて。緊張が教室を満たしている。それは恐怖政治ゆえだろうか。それとも、好奇心がそうさせているのだろうか。成り行きをみんなが見守っている。渦中の私でさえも、この事態がどういう方向に向かっているのか想像もつかなかった。山田くんはみんなの先頭にたって指揮をとるようなタイプじゃない。誰からも好かれるタイプ。でも、ど真ん中にいるような子じゃない。なのに、なぜ指揮を? クラシックが好きだとか、指揮者に憧れるとか? 最近、そんなテレビ番組でもあったのだろうか。なにか影響を受けるような……。私は固唾を飲んで山田くんの横顔を見ていた。山田くんはこちらを見ることはなく、まっすぐ前を向いていた。


「誰もいないなら、山田に決めるぞ」


 先生が言う。誰も答えない。正確には、答えられないのだ。先生の言葉がオークションの競り落としのハンマーのようにすべてを決めてしまうと、山田くんは私の方を向いた。私はすっかり困ってしまって、なんと言っていいか分からなかった。


 教室のはまだ衝撃のあまり麻痺しているといった体で、呆然としたままの状態でホームルームの伝達事項やらなにやらが伝えられた。


「どうして指揮をしたいの?」


 私は帰り仕度をしている山田くんにそっと尋ねた。教室は騒がしく、誰もこちらに注意を払っていなかった。


「ん? そうだなあ……強いて言うなら、渡辺さんが伴奏だから?」

「……」

「て、いうのは、内緒な」


 嘘か本当かは分からないけれど、山田くんは悪戯っぽく笑って「じゃ」と鞄を持って教室を出て行った。いや、嘘か本当かは問題じゃない。彼が指揮者で私が伴奏になったということ。それだけが問題なのだ。絶対に。


 私は鞄を持つと音楽室の鍵を借りに行った。まずピアノを綺麗に拭き、扉をぴったりと閉めて世界を遮断するようにピアノに向かい合う。まずは指を動かすメソッド。退屈な音階や指の運動を繰り返す。それから、懐かしい気持ちで何曲か暗譜している曲を弾く。弾き始めは頭の中で譜面をなぞるけれど、すぐに指が勝手に動き出す。私は文字通り夢中で、「空がこんなに青いとは」の伴奏も練習した。何度も繰り返し、時々小声で自らも歌ってみたりする。


 扉一枚隔てた向こうには恐怖が渦巻いている。正義は死んだ。ただ、子供じみた嫉妬や残酷さだけが横行している。練習しながら、私はもしもひきこもりになるなら、ピアノがあればいいと思った。そうしたら、一人でも幸せに生きていけるような気がする。私のピアノはそんなに上手なわけではない。演奏家を目指したりしていたわけでもない。ちょっとお稽古事にさせられて、たまたまそれが続いたという程度のものだ。それでも弾くことは嫌いじゃないので放っておけばいくらでも弾けた。弾けば弾くほど意識のすべてがピアノに束ねられる。他に何も考えることはない。思う音を、旋律を体で生み出していく。何度もやり直し、繰り返し。そうして時間を過ごす。コウゾウくんの言っていた「綺麗なもの」とは、私にとってはピアノであり、ピアノを弾く時間なのだ。


 二時間も弾いただろうか。その時、突如がらりとドアが開き、吉田さんと東田さんが入ってきた。私は驚いて手を止め、つかつかとこちらへ歩み寄ってくる二人を見つめた。


「ちょっと話しがあるんだけど」


 ……ああ、また……。私は思わずごくりと唾を飲んだ。いや、こうなることは分かっていた。すべての無意識の予感が符号する。私は冷たい水の中に飛び込むような気持ちになった。死を前にするような気持ち。大袈裟なのではなく。死を意味するのだ。十五歳の平和な生活の死。


「ちょっと来て」


 二人は固い声で私を促した。私はのろのろと立ち上がり、まるで連行されるように二人に音楽室から連れ出された。なんの用? とか、どこ行くの? なんて聞ける雰囲気ではなかった。それでもなにが起ころうとしているのかだけははっきりと分かっていた。


 人気のない校舎を歩き、彼女たちが押し開けた扉はなんと女子トイレだった。


「入って」


 私は思わず吉田さんの顔を凝視した。そんな私を吉田さんは押し込むようにトイレにねじこんだ。私は勢いに押され、半ば飛び込むように彼女たちとトイレの中へ入った。中にはお馴染み、玉島さんを筆頭とするメンツがずらりと揃っていた。恐怖政治の中心人物たち。


 トイレはしんと静まり返り、白いタイルや水の気配にひんやりとしていた。小さな小窓は開け放されていたけれど、あまりに小さく空を切り取っているだけで、一瞬、野球部の放った白球が飛んでいくのが見えた。個室が四つ、洗面台が二つ。掃除用具入れの中にはデッキブラシやホースが入っている。放課後の掃除はもう済んだ後で、床のざらざらしたコンクリートの敷石は濡れていた。この狭いトイレで私は身動きも取れないほどがっちりと玉島さん達に包囲された。どこに視線を向けていいか分からなくて、じっと俯いていた。まず切り込んできたのは玉島さんだった。


「チャラチャラしちゃって」


 玉島さんは私の髪をいきなり掴んで引っ張った。


「山田となんかあんの? ねえ」

「ないよ、なにも……」

 かろうじて言い返す。


「じゃあ、なんであんたが伴奏で、山田が指揮とかやりたがるわけ?」

「知らないよ、そんなの」


 玉島さんはひっぱっていた髪を放すと、私の肩を突いた。私は睨み返すだけで精一杯で、そのくせ足が震えていた。


「あんたみたいな女、大っ嫌い。超ムカつく」

「……」

「どうせ男なら誰でもいいんでしょ」

「……」


 鼻息も荒く私を睨む玉島さんを見ていると、なんだかとても滑稽で、次第に私は怖さを忘れていく自分を感じていた。馬鹿げている。あまりにも馬鹿げている。なにもかもが。


 一体、私の中のどこにそんな勇気があったのだろうか。私は沸々と煮えてくる怒りを掬い上げるようにして言い放った。


「玉島さん、そんなに山田くんを好きなら本人に言えば? まあ、でも、山田くんにしたらいい迷惑だろうけどね」

「……どういう意味よ……」

「玉島さんみたいな子に好かれて、山田くんが気の毒だって意味よ」


 そこまで聞くと玉島さんは右手を大きくふりかぶった。私の言葉は決戦の火蓋を切って落とした。私は玉島さんの平手をかわして怒鳴った。私の声は昂ぶって一オクターブは高くなって、トイレの壁に反射した。


「山田、山田ってそればっかり! 頭おかしんじゃないの?! 男狂いはそっちでしょ!」

「あんたに言われる筋合いないよ!」


 それはどう考えても不利な喧嘩だったけれど、私と玉島さんは掴み合いになり、押し合い圧し合いしながら壁やトイレの扉に激突した。私は滅茶苦茶に腕を振り回し、髪を掴んでくる玉島さんに反撃した。そのうちの一発がかなりモロに玉島さんの顔面に当たった。その手ごたえは快いほどだったけれど、叩いた手の平から黒く染まりそうなほど瞬時にいやな気持ちになった。ぞっとした。どんな場合でも私は人を傷つけたりすることを良しとしていない。少なくともそういう教育は受けてこなかった。くだらない中傷も暴力も私は否定することを教えられてきた。なのに、今自分が必死に応戦していること。その矛盾。その醜さ。私は一体なにをしているのだろう。こんなはずではなかったのに。私はなにも望まなかったのに。その結果がこれだなんてあんまりだ。


 私はトイレを脱出しようと出入り口に駆け寄った。が、それを阻止したのは吉田さん達で、私の前に立ちふさがり、扉に飛びつこうとした私を退けるようにいきなり蹴りを入れた。私は勢いよくみぞおちを蹴られ、軽く吹っ飛び転倒し濡れた床に尻もちをついた。


「逃げんじゃねーよ!」


 怒鳴ったのは誰だろう。それを確かめる間もなく、あの時と同じく全員が私を蹴り始めた。それを避けようとした私はトイレの扉に頭をぶつけ、何度も立ち上がろうと試みたけれど、猛烈な勢いで繰り出されるキックの嵐は私にその隙を与えなかった。立ち上がりかけては蹴られ、押さえつけられ、殴られた。玉島さんが私の髪をぐいっとつかんで上を向かせた時、私の顔はまたしても鼻血にまみれていた。


「きったない顔」


 嘲るように、言う。唇の端には笑いさえ浮かべて。


「洗ってあげる」

 玉島さんが一同を見渡すように言うと、吉田さん達がげらげらと笑い出した。私の両腕を吉田さんと東田さんが逃げられないように押さえつけた。私は必死で抵抗しようともがいたけれど、到底力及ばす、とうとう大声で悲鳴まじりの泣き声をあげた。


「やめて!」


 しかし、次の瞬間悲鳴は水音にかき消された。二度、三度。私は玉島さんに顔面を便器につっこまれ、何度も抵抗し、頭や顔をぶつけ、それでも顔を押し込まれては水洗の勢いに泣き声を溺れさせた。


押し流される水を何度も飲み、その度に私はげえげえとえづいた。時代劇の拷問のように、玉島さんはびしょ濡れの私の頭を掴みあげ、

「あんたなんか死ねばいいのよ!」

 だの、

「二度と学校に来るな!」

 と耳元で怒鳴った。


 私は顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。この残酷な仕打ちに打ちひしがれ、嗚咽をほとばしらせ激しく泣いた。この時、私の心は大声でハットリを呼んでいた。魂をこめて、ただ一心にハットリを呼んでいた。


「ごめんなさいぃ、もう許してぇ……」


 泣きじゃくりながら私は懇願した。その様子に玉島さん達はおおいに笑った。可笑しくてたまらないといった様子で。制服は濡れ、顔や体には痣ができ悲惨としか言いようがない。なのに、これを笑える彼女達はもはや私の目には人間には見えなかった。私はひぃひぃと苦しい息を漏らし何度も懇願した。言われるままに、床に頭をこすりつけるようにして土下座までした。伴奏を辞めることを約束させられ、山田くんとは口をきかないことを誓わされた。ハットリ、ハットリ、ハットリ。助けて、助けて、助けて。涙が止まらない。震えが止まらない。


 笑いながら唾を吐きかけ、意気揚揚とトイレを出て行く玉島さん達を私は呪わずにはおけなかった。醜いと知りながら、どうしても呪わずにはおけなかった。許すことなど永遠にできないと思った。気付くとシャツのボタンがちぎれてなくなっていた。


 私は洗面台に掴まって体を支えながら、蛇口からほとばしる水を頭から浴びた。水は冷たく、痛いほどだった。トイレの便器に顔をこすり付けられ、便器の中に顔を押しこまれた感触が生々しく脳裏に焼きつき、離れなかった。吐き気と悪寒が止まらなくて、涙はとめどなく溢れた。


 髪からも顎からも水を滴らせながら、音楽室に置いていた鞄を取りに行き、そのまま学校を後にした。音楽室の鍵を返却するとか、そんなことは頭になかった。感情が昂ぶりすぎて何も考えることはできなかった。そうして半ば無意識のままに向かったのはハットリのところだった。


 もしも言い返さなければ、結果は違っただろうか。初めから従順な態度を見せれば違っただろうか。……とてもそうは思えなかった。彼女たちは求めていたのだ。適当な口実を見つけてストレスをぶちまけるように暴行を働ける標的を。理由なんて本当はどうでもよくて、闇雲に傷つける為だけの相手を欲していたのだろう。私の「転校生」という身分がその的になりやすかっただけで、何をしても結果は同じだっただろう。彼女達の周到なやり方も、手慣れたリンチも、教室内で認知されている権力も、すべてがそれを裏付けている。起きるべくして起きたのだ。玉島さんが山田くんに熱を上げていることも仕組まれたシナリオみたいなものだ。でも私はこんな猿芝居に参加する為にいるんじゃない。しかし学校というのは、そういうところなのだ。意思を持つものは排除される。人間のいる場所じゃない。


 いつものようにハットリの家に庭から入って行くと縁側にはハットリがいて、新聞を広げて足の爪を切っていた。私を見ると、ぎょっとして固まってしまった。そのぐらい私の様子は尋常ではなかったのだろう。私はハットリの姿を見ると張りつめていた糸が切れるように、その場で立ったまま大声で泣き始めた。鞄を投げ出して天を仰ぎ、わんわんと泣いた。庭のハナミズキが風にざわざわと葉ずれの音を響かせる。庭でいつまでも泣き続ける私にハットリは何か信じられないものを見ているような顔をしていた。それでも私はおかまいなしに声をあげて泣いた。


 そこへ折りよくリカちゃんがやってきて、泣いている私と唖然としているハットリを見ると「ど、どうしたの?」と駆け寄って、私の肩を抱いた。抱いてからさらにびっくりして、

「夏、びしょびしょじゃない!。なにがあったの?」

 と叫んだ。


「ハットリ、なんかしたの? どうしたの?」

 ハットリはようやく我に返ったように、爪切りを置いて縁側から飛び降りた。そしてやにわに私を担ぎ上げた。


「リカ、風呂いれろ」

「う、うん」


 リカちゃんは慌てて縁側から部屋にかけあがり、奥へと走りこんだ。


 私は荷物のようにハットリの肩に担われ部屋を突っ切り、リカちゃんの後を追ってお風呂場へ放り込まれた。リカちゃんはもう水色のモザイクみたいな細かいタイルで縁取りした浴槽に勢いよくお湯をため、タオルや新しい石鹸を箱から取り出していた。ぴしゃりと閉められたガラス戸の向こうに映るハットリの巨大なシルエットを見ると、私はまたしても声をあげて泣きそうになり、慌てて口もとを押さえた。


「夏、制服乾かしといてあげるから」

 リカちゃんが心配そうに私の顔を覗き込む。私はこくりと頷いて、濡れた制服を脱いだ。


 裸電球がぽっちりと灯るお風呂に浸かっている間も、リカちゃんは扉の向こうにいて「熱くない?」とか「夏、頭洗ってあげようか?」などと話し掛けてきた。膝を抱えて、揺れるお湯を見ていると私は泣けてきてしょうがなくて、ぐずぐずと一人浴槽の中で涙をこぼした。その間もリカちゃんは絶えず私に話し掛けてきた。


 お風呂から出るとリカちゃんは「私のでよかったら」とTシャツとカーゴパンツを貸してくれた。シャツからはリカちゃんの香水のいい匂いがしていた。


「……ハットリは?」


 部屋を見回しながらリカちゃんに尋ねた。物干しに私の制服がぶらさがっている。もう日は暮れかかり、空は薄墨を流したように紺色に染まりつつあった。


「買い物に行ったよ」


 リカちゃんが答えながら、冷蔵庫のミネラルウォーターを取り出した。ようやく人心地ついた私はペットボトルに口をつけてごくごくと喉を鳴らして水を飲んだ。失った水分を補給するには一・五リットルぐらいじゃあとても足りないだろう。私は自分が流した大量の涙に思いを馳せた。


 リカちゃんは黙ってその様子を見ていた。傍らにはすでに救急箱を用意していた。私がそれのお世話になるのも二度目だった。


「なにがあったのか、聞かないんだね……」

「聞いてもいいの?」

「……」

「なにがあったの?」


 私はリカちゃんの横に腰を下ろした。そして、リカちゃんに手当てをしてもらいながら、今日のこと、その前のことをぽつぽつと話し始めた。山田くんのこと。コンクールのこと。伴奏のこと。時々、思い出し泣きしそうで何度も言葉を詰まらせた。それでもようやく最後まで話すことができた時、リカちゃんはものすごく暗い顔をして俯いていた。それは、暗い、辛そうな表情だった。卓袱台の上に置いた手で拳を作り力をこめていた。


「……ハットリが帰ってきたら、ごはんだから。今日はスキヤキだよ。夏、おうちに電話しなよ。友達んちで食べて帰るって」

「うん……」


 リカちゃんはぱっと立ち上がると台所へ走って行った。その横顔。目に涙がいっぱい浮かんでいるのを見た時、私は自分が憐れでたまらなくなった。


 その夜、ハットリとリカちゃんの三人でスキヤキを食べた。ハットリは私がよほど哀れだったのか、いつも以上に無口で、でも鉄鍋の中で肉がぐつぐつと煮えるそばから私の器の中に放り込み、

「もっと食えよ」

 とか、

「夏、卵は?」

 とか、

「メシ食うか? あ、最後にうどん入れるか」

 と、なにくれとなく世話してくれた。


 スキヤキは美味しかったけれど、ハットリの優しさが私から涙を誘い出した。湯気の向こうでハットリがビールを飲み、私を見ているのが感じられ、それもいたたまれなかった。お腹の中にブラックホールができたように、食べても食べても満たされなくて、そのくせ胸が苦しくて仕方ない。


 時々、リカちゃんが私の顔を見てから、ハットリの様子を横目で窺ったけれどハットリは核心に触れるようなことな何も言わなかった。ただスキヤキの世話をし、私に肉をたくさん食べさせてくれるだけだった。


 帰りはリカちゃんがうちまで送ってくれた。その頃には庭に干しておいた制服もすっかり乾いていたが、私の中に染み渡った汚れた水は絞っても絞っても濯がれないと思った。



 次の日から私は学校に行くふりをして家を出て、まっすぐにハットリの家に向かうようになった。

 ハットリはたいていもう起きて絵を描いたり、大きな木材を磨いたりしていた。が、時々まだ寝ていて、そんな時は起きてくるまで放っておいて勝手にテレビを見たり本を読んだりした。


 起きてきたハットリにお茶をいれる。ハットリは寝ぼけた顔でそれを飲み、新聞を読んだりテレビを見たりする。学校のことはなにも言わない。リカちゃんが全部話しているだろうから私から言うことも何もなかった。


 そんなリカちゃんもほぼ毎日やってきては絵を描いたり、レポートをしたりしていた。ハットリの大学の友達というのは他にも沢山いて、代わる代わるやって来る。しかも庭から。誰も玄関から入ってはこない。ふらりと庭へ現れて縁側から入ってくる。なにをしに来るのかというと、それぞれ色々で、工作をしたり編物をしたり、飲んだり食べたり、つかみどころがないほど自由だった。


 庭の物置を改造したという暗室を実際に使うところも見た。ハットリがその人に「おう、吉田」と声をかけた時は驚きのあまり心臓が止まりそうになったけれど、振り向くとそこにいたのはリュックを背負った普通の男の子だった。念の為、恐る恐る妹はいるか尋ねたが、その人はいないと答えた。不思議そうな顔で「なんで?」と聞かれたけれど、私はへらへらと笑ってみせて「なんとなく」と誤魔化した。もしかしたらこうやってずっと怯えながら生きるのだろうか。そう思うと自分が情けなかった。


 私はやってくる大学生と呑気なお喋りに興じたり、時々マーブリングや簡単な工作を教えて貰ったり、模型を作ったりして遊んだ。ハットリの友達たちも最初は私に向かって「だれー?」と尋ねるけれど、それ以上のことはなにも言わない。私が中学生で、学校に行かないでここにいることについて誰も咎めはしない。この場所は私を受け入れている。ここが私が初めて得た自分の場所だと思った。 


 ハットリは普段はどちらかというと無口だけれど、私が何か言うと淡々とした口調で淀みなく話してくれる。絵や音楽の話。初めて付き合った女の子の話。大学の話。聞けばなんでも話してくれる。しかし、それは私が尋ねなければ自分からは話さないということでもあった。


 私の生活はハットリの存在によって大きく変わり始めていた。本来、大部分を占めるはずの学校生活は消え去り、ハットリの家とリカちゃん達と出かけるクラブやバーが生活のすべてになった。急激に帰宅の遅くなった私を母は訝しそうな顔で見たけれど、私は適当にごまかし、口先だけで調子よく遅くなったことを詫びたりした。私が「万事快調」といった顔で学校や偽の友達の話しをしたので、母はそれ以上追求したり怒ったりすることはなかった。コツは明るく、笑顔で振舞うことだ。逆ギレしたり不貞腐れたりしては、余計相手の神経を逆撫でするだけだ。素直で子供らしいポーズ。明るく、朗らかな様子。それが上手いカムフラージュになる。私はそういった嘘を巧みに操った。


 学校に行かなくなって、その間に制服は夏服に変わったけれど、それを着て実際に登校していないので私はそれをちょっとした私服のように感じていた。そうこうしているうちに時間は過ぎていき、週末に私とリカちゃん、コウゾウくんの三人でこの前行ったテンガロの店員がいるクラブに出かけることになった。コウゾウくんは、

「やっぱり週末とかに行かないとねー」

 と、その盛り上がりっぷりをとうとうと語った。リカちゃんも調子を合わせて、

「お洒落していかなくちゃね! 夏、かわいーからモテまくりだよ」

 とはしゃいだ。


 そういう場合大抵そうであるように、ハットリはぼんやり煙草を吸って私達の話に耳を傾けていた。


「ハットリは行かないの?」


 私が尋ねると、ハットリは「ふん」と鼻先で返事をし、煙を長々と吐き出した。

「なんで? ハットリってクラブとかで遊ばないの?」

「今そういう気分じゃないから」

「……ふうん……」

 ハットリの苦々しい微かな笑いに私は「なにかあるな……」と訳有りな気配を嗅ぎ取った。


 実際ハットリには「ワケあり」そうな空気がいつも漂っていた。はっきり言って謎が多かった。子供の頃からこの町で育っているのに、ハットリはどうして家族と住んでいないのだろうとか。なんで高校を中退したんだろうとか。そういったことを本人に聞くと、


「出席日数足りなくてダブったから」

 と、あっさり答えるけれど、でもそれ以上は何も言わない。そして「お前、ヒマならちょっと豆腐買ってきてくれよ」とおつかいに出されたりする。そのあまりのわざとらしさは「言いたくないんだな」としか思わせなかった。だから私は追及することはしなかった。


 誰にだって言いたくないことはある。知りたくないと言うと嘘になる。しかし私はハットリの気持ちを尊重することにした。私は十五歳の分際で、彼らと対等であろうとしていた。彼らがそうしてくれるように、私もそうでありたかったからだ。少なくとも彼らは学校や家のことを私に尋ねたりはしない、もう口にするのもおぞましいような事柄については。それが優しさでなく、なんだというのだろう。私はそれに倣いたいと思った。


 私は母に友達のうちに泊まりに行くといい、鞄にパジャマを詰めてコウゾウくんのうちへ行った。コウゾウくんの部屋にはもうリカちゃんが来ていて、お化粧をしながら華奢なグラスに入れた金色を帯びた飲物を飲んでいた。私は今夜のアリバイ工作についてコウゾウくんに話すと、

「リカもここによく泊まるし、全然かまわないよ。布団、敷いてから行こう」

 そう言って自分のベッドの横にお客さん用の分厚い布団を二組敷き詰めてくれた。グラスの中の飲物はなにか尋ねると、


「シェリー。飲んでみる?」


 とリカちゃんがグラスを差し出してくれた。繊細なカットの施された細いグラスに鼻先を近づけると、涼やかな匂いがした。口に含むと甘いような香りのあとに辛味がきて、でも滑らかな舌触りでスムーズに喉を流れ落ちていった。


「これ、美味しいね」

「夏、あんた、けっこういける口ね」


 コウゾウくんがグラスにシェリーを注ぎ足した。


 リカちゃんは綺麗に、かつ、丹念に化粧し、私達の目の前で潔く服を脱ぎオールドローズの散ったシフォンのワンピースに着替えた。体の線に沿う柔らかな素材のワンピースはずいぶんフェミニンでロマンチックで、リカちゃんは知らない人みたいに見えた。ぐっと大人の女の人に。


「夏、お化粧してあげる。座って」

 リカちゃんはそう言って私を座らせた。


 テーブルに置かれた鏡に映る私はただの中学生で、もちろんすっぴんだった。化粧が似合うような年齢ではないけれど、リカちゃんがあまりに綺麗なので、私は好奇心と羨望と期待の眼差しで今まさに私の眉を整えてくれるリカちゃんに心躍らせた。リカちゃんは自然に見える程度に眉を整えてくれ、アイブロウを使い、アイライナーをひき、シャドウをいれ、「素顔に近いけれど、まるでちがう」というメイクを施してくれた。鏡の中の私は目鼻のはっきりした顔になり、いかにも意思の強そうな瞳に変わっていた。最後に赤みのついたグロスを筆で塗ってくれながら、

「この町にももう慣れた?」

「……うん」

「住めば都だからね」

「……うん」

「はい、できた」

 時計を見るとすでに九時近くなっていた。私はこれも用意のリカちゃんの踵の高い赤いサンダルを借り、コウゾウくんのアドバイスでジーンズの裾を折って履いた。


「ハットリも来たらいいのにね」


 部屋を出ながら私が言うと、二人は顔を見合わせ少し困ったような表情をした。私はそれを見逃さなかった。


「あいつ、気分屋だからね」


 コウゾウくんがそう言ったけれど、彼らがハットリについて何か秘密を知っているのは確信していた。


 私達が連なって駅へ行くと、駅前のコーヒーショップから山田くんが出てきたところに遭遇した。私はちょっと慌てたけれど、すぐに気を取り直して「こんばんは、一人?」と先に声をかけた。山田くんはものすごく驚いた顔で私を見た。


「渡辺さん……。なにしてんの? つーか、なんで学校休んでんの?」

「……なんでって……」


 知ってるでしょう?という意味を込めて私は山田くんをじっと見詰めた。分かってるでしょう?と。


 山田くんはため息をつくとすべてを諒解したように、

「どこ行くの?」

 と質問を変えた。

「友達と遊びに」

「……友達って……」


 私はすでに先を行くコウゾウくんとリカちゃんを指差した。

「年上だけど、友達なの」

「……あれ、もしかして、斎藤さん?」

「知ってるの?」


 山田くんは目を細めながらコウゾウくんを見ていた。そうか、同じ中学出身だと言っていたし、考えてみたら同じ町内だし、知らないってこともないか……。


「なんで友達になったの?」

「……なんでって……」

「いや、斎藤さんってうちのアニキと同級生でさ。中学ん時。部活も同じで、うちによく遊びにきてたから」

「ああ、そうなんだ。えーとね、コウゾウくんと家が近いから、あと、えーと、たまたま気が合って」

「ふーん……。年上の人と仲良いから、学校のヤツらとは合わないんだな……」

「……そういうんじゃないけど」

「……うん、ごめん。分かってる。ごめん」

「なんで謝るの?」

「……」


 今度は山田くんが分かってるだろう? という目で私を見つめる。私は軽く肩をすくめた。


「じゃあ、また」

「渡辺さんさあ、なんかあったらメールしてよ。アドレス、教えとく」

「あ、うん」


 私は携帯電話を取り出して、山田くんの言うアドレスを登録した。

「じゃあ」

「……うん、じゃあ」


 山田くんはさらりと片手を挙げ、走ってコウゾウくん達を追いかける私の背中を見送ってくれた。一度だけちらりと振り返ると山田くんはまだそこに立っていた。私は突如山田くんのところに駆け戻りたい衝動に駆られた。そして善良で真面目な山田くんに言いたかった。私達はもしかしたらすごく気が合って、仲良くなれるかもしれないけれど学校にいる限りそれは不可能なのよ、と。もしここで山田くんに一緒に行かないかと誘ったら、彼は来るだろうか。


「ごめん、ごめん」


 私はコウゾウくん達に追いつきながら、自分は、自分で思うよりも山田くんを憎からず思っているのだなと気付いた。そして、たぶん山田くんもまた私を嫌いではないということが感じられた。私達は今同じ気持ちなんだと思うと、一層悲しくなった。不幸で、悲しい気持ちに。


 夜の電車はこうこうと明るくて、しらじらしい空気が漂っている。私は夜の中をいく電車に乗っていると、目が覚めるような、それでいて非現実的な世界へさらわれるような気分になる。レールの上を着実に走る電車。行き先は決まっているのに、永遠にたどり着けないような怖さがある。


 前の学校では電車通学で、片道三十分程度だったけれど朝のラッシュが強烈だった。よくもみくちゃにされたし、痴漢にもちょいちょい出くわした。その度にいやな気分になったし泣きそうになったりもしたけれど、あの苦痛は今の学校より百倍ましだ。そういえば、父も通勤は電車だった。片道一時間。父はどんな気持ちで早朝や深夜の電車に乗っていたんだろうか。そして、父が帰りたいと思う場所はいつから私達のところではなくなったのだろう。


 私は体を斜めにして暗闇の車窓を眺めた。

「さっきの子、山田くんっていうんだけど、コウゾウくんのこと知ってたよ」

「……ああ、そう」

「山田くんのお兄さんと同級生だったんだって?」

「……うん。てゆーか、初恋だった」

「えっ」


 私はびっくりしてガラガラに空いた車内に声を響かせてしまった。正面に座ったコウゾウくんに慌てて声をひそめながら、

「山田くんのお兄さんを好きだったの?」

「そうだよ。同じ部活で仲良かったし。アタシ、もうその頃って自分がゲイだって分かってたからさ。悩んだけど、卒業する時にコクったんだよね」

「そ、それで……」

「絶交されちゃった。きもいって」

「……」

「やだ、そんな顔しないでよ! 失恋なんて、よくある話じゃないの!」


 コウゾウくんは下町のおばさんみたいに手をぱたぱたと振りながら笑った。軽い衝撃を受ける私を慰めるように、

「まだ十五だったんだもん。仕方ないよ。今ならちがう反応もあるかもしれないけどさあ。あの頃はそんなこと言われてもびびっちゃうだけじゃない? それなのに、真っ向告白とかするアタシが悪いのよー」

「ごめん」

「昔のことよ」


 コウゾウくんはほんのりと微笑んだ。傷ついたことのある人の笑顔だった。甘悲しいような、一枚の薄絹をかぶせたような微妙な表情。私は黙ってコウゾウくんを見つめていた。そういえばハットリも時々こんな顔をする。泣くのを我慢して笑っちゃうような、不可思議な顔を。ああ、だから彼らは優しいのだ。痛みを知っているから。


「それよりさあ」

「なに?」

 コウゾウくんが突然私に詰め寄るようにして言った。

「さっきの、山田の弟」

「うん」

「夏のこと、好きなんじゃないの?」

「え?」


 私はあまりに唐突な発言に驚いて、思わずきょとんとしてコウゾウくんの顔を見た。コウゾウくんはどういうわけだか目を輝かせて、

「アタシ、こういう事に関しては勘がいいのよね」

 と言った。


 するとリカちゃんが笑いながら口を挟んだ。

「また始まったよ! もー、すーぐこれなんだから! あんたの勘なんて当たったためしないじゃない」

「そんなことないよ! ねー、どうなのよ、そこんとこ」


 ああ、まるで女子高生の会話……。私は苦笑いしながら、興味津々な様子の二人を見返した。見ながら、心の中で玉島さん達の姿が浮かんでは消える。教室での山田くんの微妙な態度も。


 誰が誰を好きだとか、嫌いだとか、そんなの本当はどうだっていい。誰も誰かの心の中など見えはしないのだから。私は肩をすくめて見せ、

「山田くん、モテるみたいよ」

 と言って、さっき登録したばかりの山田くんのメールをもう削除してしまいたいような衝動に駆られた。


 手の中の携帯電話のメモリを見つめながら、私はふと思い立ってコウゾウくんに尋ねた。


「ハットリはケータイ持ってないの?」

「持ってると思う?」

「あ、やっぱり持ってないんだ」

「必要ないからねえ」


 私はあれから携帯電話の待ち受けにハットリの写真を設定していた。ハットリがイーゼルに向かって絵を描いている横顔の写真だ。それを撮った時、シャッターの音を聞いたハットリは私の方を向いて、ちょっとだけ笑った。誰にも内緒だけれど、私はそのハットリの唇に漂うようなあるかなきかの微笑に心の一番柔らかいところをぎゅっと掴まれたような気持ちになった。


 怖いような、懐かしいような気持ち。何度も見たくなるような、目を背けたいような危ういもの。


「男前に撮れよ、ちゃんと」


 ハットリはそう言って再びキャンバスに向き直り、筆を動かし始めた。


「写真は真実を写すっていうから」

「お前、失敬だな」


 私はハットリに彼女がいるのかどうかを、コウゾウくんにもリカちゃんにも聞けなかった。本人に聞けば、ハットリはまた淡々と答えるのだろうけれど、本人の口からは聞きたくないと思った。真実がすべていつでも正しくて、誰も傷つけないとは限らない。


「ハットリも一緒に来ればよかったのにね」

「……そうだね」


 窓の外を眺める私に、コウゾウくんとリカちゃんは顔を見合わせて黙ってしまった。待ち受け画面に設定したハットリの横顔は私にとってお守りみたいなものだった。


 街は週末のせいもあって賑やかだった。通行人の数も多くて大人達はみんなアルコールの匂いを帯びて明るかった。今ではすっかりお馴染みになったクラブ「ハッピィハウス」の前には人がたむろし、お喋りしたり煙草を吸ったりしていた。私達はそれを横目にさっさと階段を降り、顔見知りの店員に挨拶をして中へ入る。手の甲にはエントリーを示すスタンプ。扉を押し開けて入ってまず驚いたのはいつもより店内が薄暗く、そのくせ派手な照明が灯台の光のようにぐるぐるとめぐっていることだった。が、それ以上に驚いたのはラッシュ時の電車みたいな大混雑と大きな音だった。


 煙草の煙で視界がかすむようなフロアには音楽にあわせて踊る人やお酒を飲む人が詰まっていて、思い思いに夜を楽しんでいた。私は軽い衝撃で呆然としていたけれど、カウンターにお酒を買いに行こうと耳元でコウゾウくんに言われ我に返った。頷いてカウンターに向かって歩き出しながら、履き慣れない靴に集中しながらぐっと背筋を伸ばした。心持ち顎先を上に向けて、虚勢を張るような、見栄を張るような姿勢で。私は自分が場違いなただの子供であることを恥じて、懸命に「背伸び」しようとしていた。ここにいることや、その姿が自然で、慣れた様子のコウゾウくんやリカちゃんが羨ましく、眩しかった。いくら彼らが私を同等に扱ってくれても、それは本当は違うのだ。彼らが大人だからこそ、私を思いやってくれているのだ。そのことを忘れないようにしようと思った。自分を見失わないように。


 カウンターの中にはテンガロがいて、忙しそうにお酒を作ったりお客さんと話したりしていたけれど、私の姿を見ると「よぉ」と方手をあげた。


「こんばんは」


 私はテンガロに挨拶をした。


「夏、今日化粧してる?」

「うん。リカちゃんがしてくれたの」

「似合ってる。かわいいよ」


 テンガロはそう言ってグラスに氷を放り込んだ。コウゾウくんにはジントニックを、私にはカンパリソーダを作ってくれた。私はかわいいと言われて妙にどぎまぎしてしまった。でも、すぐにコウゾウくんの横顔を見上げてニヤけてくる口元を引き締めた。


「今日は混んでるね」


 私がそう言うと、コウゾウくんは空いたテーブルを見つけて座り、

「週末はいつも、だよ。でも、今日は特に、かも。今日はドラッグクイーンのショーとかあるし」

「へえ……。初めて見る。楽しみー」


 音楽と喧騒で声がかき消されてしまうので、私達は丸い小さなテーブルに頭を寄せ合うようにして、半ば怒鳴りあうみたいに喋っていた。リカちゃんは椅子の背に背中を預け、ゆうゆうと煙草をふかした。コウゾウくんはジントニックを飲みながら、肩でリズムをとっている。二人の様子はいかにも楽しげで、わくわくした顔をしていて、まるで砂場で遊ぶ子供みたいに真剣で、遊ぶことに全精力を傾けているみたいだった。


 遊ぶって、こういうことなんだ。ファーストフード店でえんえんとお喋りをしたり、カラオケに行くのは楽しい。ゲーセンでプリクラを撮ったりするのも楽しい。でも、それだけ。面白いことや楽しいことを探して、いつも何かしていないと退屈だった生活は、考えてみたらなんて希薄な楽しさだったんだろう。ここにいて、音楽が鳴っていて、周りを沢山の人が取り囲み、それぞれが個人的に振舞って楽しんでいる。自分もその一部であるということ。なにもしなくても、楽しさの予感に満ち溢れ、同時に、ここで楽しくなるもならぬも自分次第ということ。そう、楽しむことができるのは自分の才覚なのだ。自分を遊ばせることの才能。私はこれまでそんなものに出会ったこともない。いつだって「有りもの」でしか遊べなかった。私はそれを恥ずかしく思った。遊んでいたのではなく、遊ばされていたのだ。


 一際大きく切り取られたスペースで人々が押し合うようにして踊り狂っていた。一段高くなったところにやたら背が高くて舞台化粧みたいな派手なメイクをし、アカデミー賞のプレゼンターみたいな格好をした人たちが群集を挑発するように踊り始めると、コウゾウくんが、

「この曲、好き! 夏、知ってる?!」

「これ、SOS?」

「誰のリミックスだろー。ねえ、踊ろうよ!」

 と、勢いよく立ち上がった。


「行っておいでよ」


 リカちゃんが私を促す。私はその時、確かに興奮していた。フロアに歓声があふれ、熱気が波のように押し寄せてくる。それに圧倒されそうで私は喘ぐように深呼吸した。


 コウゾウくんと二人でフロアに飛び込むと、耳をつんざくような大音量と内臓にずんずんと響く重低音に体をまかせ、向かい合って音楽に合わせて歌いながら踊りまくった。体を動かしながら、なぜか笑いが止まらなくなった。そこには音楽しか存在しなかった。両親の離婚も転校も、いじめもコンクールもなにもなかった。どんなに大声で歌っても全部かき消されるような爆音の中、とりどりの照明に照らされながら、音楽にすべてをゆだねればよかった。私とコウゾウくんは息が切れ、足がふらふらになるまで踊り続けた。


 曲は途切れなく、際限なく続く。どのぐらい踊ったか分からないけれど、喉がからからになり、笑いすぎて顔の筋肉が痛いぐらいになったところで私とコウゾウくんはお酒を買いに人の輪をぬけた。


「あー、喉渇いた」

「すごい運動になるね」

「そうよぉ。こんだけ動いたらちょっとしたダイエットよぉ」


 コウゾウくんは汗を拭きながら言った。カウンターのテンガロから今度はビールを貰うと、私達は喉を鳴らしてそれを飲んだ。ビールが美味しいと思ったことはないけれど、この時は汗をかいた後のせいかたまらなく美味しく感じた。ぐいぐいと飲んでみてから、改めて自分に驚いてしまった。


 私は充足したため息をつき、今更のようにリカちゃんのことを思い出し、テーブルに視線を走らせた。リカちゃんは壁際のソファに座っていた。でも、よく見ると一人ではなかった。隣りにぴったりと寄り添うにように男の人が座っていた。それを見て私はすぐにぴんときた。あれがリカちゃんの不倫の彼氏だ。


 二人はお酒を飲みながら楽しそうに、囁きを交わしていた。この喧騒では耳元に口を寄せなければ相手の声など届きはしないのだから仕方ないけれど、それよりも、二人の空気は親密だったし、なによりもくつろいだリカちゃんの柔らかな微笑や濡れたような眼差しが、せつないほどに恋情を溢れさせていた。それは私が彼女に出会ってから一番美しい瞬間だった。私は傍らのコウゾウくんを肘で突付いた。


「コウゾウくん、あれ」

「なに?」


 コウゾウくんが私の示す方を振り向く。テンガロも一緒にそちらに目を向けた。


「なんだ、リカはまだあいつと付き合ってんのか?」


 テンガロが呆れたような声を出した。私がどういう意味かと問うようにテンガロを見上げると、テンガロは肩をすくめてみせた。


「俺が言っても説得力ないかもしんないけどさあ、やっぱり人のもんは盗ったらだめだろ。そりゃあ恋愛は理屈じゃないし、どうしようもないこともあるよ。でも、俺はね、誰かを不幸にしてまで恋愛なんてできないね」

「そうは言っても止められないのが恋愛でしょ。リカも分かってるよ。馬鹿じゃないんだから」

「そう、馬鹿じゃないヤツを馬鹿にしちゃうのが恋愛の怖いところだ」


 コウゾウくんとテンガロはそう言い合って彼方のリカちゃんを見ていた。


「夏は馬鹿になるなよ」


 テンガロがそう言って煙草に火を点けた。


 馬鹿になっちゃったのか……。私はその言葉で父のことを思わずにはおけなかった。


「馬鹿になるのは……仕方ないことなの?」


 私は男二人を見上げた。二人は一瞬面食らったような顔をしたけれど、

「仕方ない時もあるって話だろ。仕方ないから許されるってことじゃない。仕方ないで全部が許されたら、モラルなんていらないだろ」

 テンガロが言う。


「間違いも失敗もあるでしょ。やり直しのきかない人生なんてないのよ。今は特に若いんだから」

 コウゾウくんが言う。


 父と最後に話したのは、母はすでに家を出て実家に戻り、私は学校の手続きや整理を終えてから母を追う形で家を出た時だった。私と母の荷物はすでに引っ越し屋によって運び出されていた。がらんとした部屋に父を残すことがしのびなかった。父は私を玄関で見送りながら「忘れ物ないか」とか「なにかあったら電話しなさい」と言った。私は靴を履きながら鼻先で返事をし「じゃあ、またね」と父を振り向いた。お互いに何を言っていいのか分からなかった。父は一度も「ごめん」とは言わなかった。


 コウゾウくんとテンガロ。二人の言っていることはたぶんどちらも正しい。私は急激に冷えていく心をくっきりと感じていた。


「今日はもうリカは戻ってこないよ」

「……」


 私は黙って頷いた。左腕のベビーGブラックモデルが深夜三時を指していた。


「帰ろうか」

「うん。……私、リカちゃんに言って来るね」


 私はそう言うとすたすたとフロアを横切って、まっすぐにリカちゃんの座っているソファに歩いていった。


 リカちゃんの彼氏は眼鏡をかけていて温厚そうな人だった。左手の薬指には指輪があった。誰との約束の指輪なのだろう。


「リカちゃん、私達先に帰るね」


 私は彼氏に寄りかかって笑っているリカちゃんに大きな声で呼びかけた。リカちゃんはびっくりしたように私を見て、でも、すぐに、

「あ、ほんと? もう帰るの?」

「うん」


 近くで見てもやっぱりリカちゃんは綺麗だった。頬が紅潮し、瞳は輝きに満ちていた。

「リカちゃんはまだ帰らないでしょ?」

「んー。うん。もうちょっと遊ぶー」

「うん、じゃあ」

「待って、夏」


 リカちゃんが私を呼び止めた。私はくるりと振り向く。リカちゃんは私ではなく彼氏に「彼女がさっき話してた子。夏」と私を紹介した。


「……どうも」


 私は小さく会釈をした。彼氏はリカちゃんのサンダルを履いた私にちょっと微笑んで、

「こんばんは」

 と挨拶をした。


 リカちゃんが彼氏に私のことをなんと話したのかは分からないけれど、その目は小さきものを見る目だった。優しい、けれど、はっきりと自分との線引きをした確固たる視線。大人とはそうしたものだ。自分を大人と思えばこそ、子供を見る時の目はいつもと違う。


「引越してきたばっかりなんだって?」

「はい」

「もうこの町には慣れた?」

「はい」

「リカから悪いこと教わってない?」


 彼氏はふざけるような口調で言った。するとリカちゃんが甘い抗議の声をあげてそれを否定した。


「ひどーい。私、なんにも悪いことなんて教えてないよねえ?」

「……うん」

「夏ちゃん、あんまりリカに毒されないようにね。リカはお酒とか煙草とかしか教えないから」

「そんなことないよ、ねえ?」

 ねえ?とは私に向けた言葉だった。


「リカちゃんは色んなこと教えてくれます。音楽とか絵のこととか。お化粧もしてくれたし」

「ほーらね」


 リカちゃんが対抗するように顎先を心持ち上に向ける。彼氏は絶えず笑っている。それ以上なにか言う必要なんてなかったのに、なぜか私は言わずにはおけないような気分になり、最後にもう一つ付け加えた。


「不倫とか、も、教えてくれます」


 リカちゃんは衝撃のあまり大きな目をさらに大きく見開いて、信じられないという顔で私を凝視した。彼氏は柔和な笑顔を瞬時に凍りつかせた。言ってしまってから、私は自分の発言の威力が怖くなり、慌てて精一杯の笑顔を顔に貼り付かせ、

「じゃあ」

 と逃げるようにコウゾウくんのもとへ走り去った。振り返ることはできなかった。


 なんてひどい嫌味を言ったんだろう。私には関係のないことなのに。コウゾウくんを早く早くとせかして、まだ興奮の渦巻くクラブを後にした。私の様子を不審に思ったコウゾウくんが、

「どうしたの?」

 と尋ねた。私は長い列をなすタクシーの行列の脇で立ち止まり、

「変なこと言っちゃった」

 とコウゾウくんに事の顛末を打ち明けた。


コウゾウくんは黙ってそれを聞いてから、しばらく何事か考え込むように沈黙し、歩き出すよう私を促した。

「夏は、お父さんが愛人と暮らしてることが許せないの?」

 車のエンジン音に満ちた通りを二人で渡りながら、私はコウゾウくんの質問を噛みしめた。


 コウゾウくんの質問は、誰も私に問わなかったものだった。そもそも、父も母も私に何も問わなかった。離婚の事実と引越しと転校といったもろもろの決定事項を「知らされた」だけで、私が口をはさむどころか、知らないうちに事は進み、終わっていた。その後も、誰も私に問いはしなかった。私の心のうちなどは。私がなにを思い、なにを考えているのかなど取り沙汰されることはなかった。私は半歩前を行く背の高いコウゾウくんの手を無意識に求めた。


「ん?」

「……許せない。でも、それよりも一体なにが、どうして、こうなったのかさっぱり分かんないの……」


 私の声は消えいりそうにか細かったけれど言葉に込められた心の分だけ強くコウゾウくんの耳に届いた。その証拠にコウゾウくんは、私の手に呼応するように、たくましい腕を伸ばして私の肩を抱き寄せた。私はコウゾウくんに肩を抱かれ、コウゾウくんの脇にぴったりとひっつく形になった。


「仕方ないって分かってても、理由や理屈じゃないの。コウゾウくん達だって言ってたじゃない。誰にも止められないって。仕方ないって。でもね、そりゃあ、やり直しだってきくかもしれないけどね、私達はもうやり直せないんだよ。私達、家族はもう二度とやり直せないの。……私の言ってること、分かる?」

「分かるよ」

「リカちゃんが悪いとかじゃないの……。ただ……」

「いいよ、なんにも言わなくても。分かってるから」


 コウゾウくんは私の肩に置いた手に力をこめた。私はコウゾウくんにしがみつくように腕を腰にまわした。


 私は父を許せないのと同時に、母のことも同じぐらい許せなかった。別れたという事実、そのすべてが許せなかった。そして、何も知らないで呑気に暮らしてきた自分自身も許せなかった。どちらが先に愛を失ったのかは知らない。私が知っていたのは、両親がそんなに仲が良いわけではないということだったけれど、その間を埋めることができない自分は一体なんだったのだろう。私達家族は、一体なんだったんだろう。


 喉もとに吐き気のようなものがこみ上げてきて、私は思わず口を押さえた。吐くかと思ったが、私の口から飛び出したのは嗚咽だった。夜の街をコウゾウくんに肩を抱かれて歩きながら、私は両親の離婚を思って泣いた。やり直しのきかないものへの、悲しさとやるせなさの涙だった。コウゾウくんは黙って私の頭を撫でてくれたり、涙を拭いてくれたりした。


 私は背が高くて肩幅のがっちりした、いかにも男の子らしいコウゾウくんを姉のように感じていた。細やかな優しさは、もし姉妹がいたならこんな感じじゃないだろうかと思った。


 その夜はタクシーでコウゾウくんの部屋に戻り、枕を並べて眠った。


 電気を消した部屋で眠りに着く前に、私は低い声でコウゾウくんに話し掛けた。


「リカちゃん、怒ってるかな」

「大丈夫だよ」

「……明日、リカちゃんに謝るね……」

「一緒に謝ってあげるから、気にしなくていいよ。リカはそんな根性悪くないからさ」


 暗がりの中コウゾウくんが優しく言った。ハットリにしろ、コウゾウくんにしろどうしてこんなにも優しいんだろう。どうしたらそんな風になれるのか。あの嵐の吹き荒れる教室を思えばただ不思議な気持ちになるばかりだった。



 翌日、リカちゃんは午後になってからやって来た。私は自分の言い草を思い出し恥ずかしく、緊張で固くなりながら「昨日はごめんね……」と謝った。リカちゃんは少し黙って、うなだれる私を見つめていた。横からコウゾウくんが加勢するように、

「夏も悪気はないんだから、怒んないであげてよ」

 と言ってくれた。悪気がないということ。それが一番性質が悪いというのを、他ならぬ私が知っていた。だから、リカちゃんが怒っても無理はないと思った。私はこんな形で彼らを失うかもしれない危機に泣き出しそうだった。


 リカちゃんはベッドに腰かけると

「……私、彼と別れると思う」

 と呟いた。リカちゃんは昨夜の完璧だった化粧も美しさも魔法がとけたように失っていた。不自然に固まったマスカラや目の下の隈が遊びつかれた様相を呈し、突如歳をとったような疲れが滲み出していた。


「今すぐじゃないけど。でも、きっと別れると思う」

「……私のせい……?」

「ちがうよ。そんなわけないじゃない。いやあね」

 リカちゃんは微かに微笑んだ。

「あの人も子供いるんだよね。勿論会ったことないけどさ……」

「……」

「私んちって、両親がすっごく仲良くて今だに恥ずかしいぐらいラブラブなのね。家族がすごく仲良しで、私、子供の頃から親の愛情を疑ったことなんてなかった。それが当たり前だったし、みんなもそうだと思ってた。家族ってそういうもので、ずっとそうやって続くんだと思ってた。それなのに、私が人んちの家庭を壊す可能性を持ってるなんて、それは私の家族に対してもひどいことだと思う」


 私とコウゾウくんは黙っているしかなかった。リカちゃんは今にも泣きそうな顔をしていた。

「あの人のことは好きだけど……」


 私の胸はずきずきと疼いた。血が噴き出るような錯覚を覚え、無意識に私は左手で胸のあたりを押さえた。父のことを思わずにはおけなかった。


「私は人のものをとっていいなんて、親から教わってない。誰かを傷つけてまで自分の幸せを追求しろなんて、教わってないもの」

「リカちゃん……」

「どうして、そんな単純な、当たり前のことを忘れてたんだろう……。夏に会わなかったら、私、ずっと思い出せなかったかもしれない。好きだからって、すべてが許されるわけじゃないもんね。恋愛って、流されちゃう部分もあるんだよね……。それも自分の弱さなんだけど」


 父も弱い人だったのだろうか。家庭を顧みなかったことも、壊してしまったことも心弱さ故だったのだろうか。リカちゃんの微笑がひどく痛ましく、私はもうそれ以上見ていることはできなかった。


 いつか大人になった時、私は父に尋ねることができるだろうか。母に確かめることができるだろうか。私達が辿った道について。そして彼らを許す日がくるのだろうか。それならば私は今すぐに大人になりたい。リカちゃんは小さな声で「ごめんね」と呟いた。私は無言で首を振った。何も言えるはずがなかった。


 それから私達は揃ってハットリのところへ出かけた。けれど、ハットリは留守で、にも関わらず開け放された縁側のガラス戸に私は呆れてしまった。


「このうちには戸締りとか防犯ってものがないの?」

「ないだろうねえ。てゆーか、盗るものなんてなんにもないと思うけど」

「そういう問題じゃないと思う」


 勝手知ったる他人の家。私達は縁側からいつものように上がりこみ、リカちゃんのいれてくれたお茶を飲みながらハットリの帰りを待った。ハットリに用があるわけではないのだけれど、なぜか私達はここに自然と集まってしまう。お茶を飲んだり、本を読んだりして過ごす。リカちゃんは絵を描いたり、コウゾウくんはレポートをしたりしている。私はそれを見ている。ここにはいつも穏やかな優しい時間だけが流れている。でも、私は時々だけれどその中に潜む暗く淀んだものを感じることがあった。


 それぞれが自由に過ごし、仲良く、口を開けば冗談ばかりがついてでて明るい。けれどふとした拍子に彼らは黙り込む。物悲しい空気をにじませながら。そして、どういうわけか本を読んだり、ごろごろしている私を見るのだ。静かに、せつなそうに。最初、私は自分が憐れまれているのかと思った。が、どうやら違うらしいことが次第に分かってきた。彼らは私を見ているようで、見ていないのだ。制服の私に他の誰かを重ねている。そのぐらい遠い目なのだ。私を見ている視線にぶつかると、彼らは一様にちょっと困った顔で笑う。「なに?」と私が問うと「なんでもない」と答える。なんでもないことはない。本当は。でも、彼らがそう言うならそうなのだろう。私は知らん顔で子供の手慰みのように本をめくり、悪戯描きに没頭するふりをした。それを彼らが望んでいるように感じていた。


 ハットリはいつまでたっても戻ってこなかった。私はハットリのレコードを聴きながら、今やすっかり覚えてしまったクリス・コナーを歌った。


「ハットリ、遅いね。どこ行ったんだろうね」

 リカちゃんはパステルで手を汚しながら、ちょっと思案するような顔で私を振り向いた。


「ハットリ、病院だと思う」

「え? どこが悪いの?」

「じゃなくて、お見舞い」

「誰の?」

「……お母さんの」


 私はその言葉にぎくりとした。コウゾウくんが咄嗟に「ちょっと」と口を挟もうとしたけれど、リカちゃんはこちらに向き直りながら静かに、しかしきっぱりと強く言った。


「隠してるのも不自然じゃない?」

「それは、そうだけど」

 コウゾウくんの戸惑う視線が部屋を彷徨う。

「ハットリは口止めしたわけじゃないし」

「……」


 どうやらそれはひどく真剣で重要なことらしく、そんな大問題に触れていいのかどうか分からず、

「あのう……、私が聞いてまずいことなら、いいから」

 私は床にぺたりと座ったままで、コウゾウくんは縁側のガラス障子にもたれた姿勢で、リカちゃんの言葉を見守った。リカちゃんは丸いスツールに腰掛けこちらを向き直り、大きく息を吸い込んだ。


「ハットリのお母さんは心の病気で入院してるの」

「……」

「私達誰も夏に隠してるとかじゃないのよ。それは信じて欲しいの。ちょっと言いにくいことだから、言わなかっただけで。だから、私達が夏を好きじゃないとか思わないで欲しいの。いい?」

 私は真剣に頷いて返した。


「……どうしてこの家にハットリが一人で住んでるのかとか、色々疑問はあると思うの」

「……それはハットリが言いたくないみたいだったから……」

「うん。ハットリの口からは言いにくいと思う。だから、私が言うね」


 庭を吹き抜けていく風が初夏の空気を運ぶ。爽やかで、甘い。ハットリが植えたという朝顔のつるがいつの間にかずいぶんと伸びている。私は緊張で固くなり、膝に置いた手のひらを握り締めてリカちゃんを見つめた。リカちゃんは瞬きもしないで私を見つめ返し、ゆっくりと話し始めた。


「この家はね、もともとハットリのおじいちゃんの家なの。ハットリの実家は商店街を抜けて、ずっと南に下りたとこにあるの。私とハットリは同じ町内で、前も言ったけど、私とコウゾウとハットリの弟が同じ年だったの」

「……なんで過去形なの」

「……ハットリの弟は、アキミツっていって、おっとりしてて、優しくて、女の子みたいでね。小さい時から絵とか工作が抜群に上手かった。コンクールとかで何回も賞をとったりしたんだよ。ふふふ。ハットリとは兄弟仲良かったけど、性格は正反対だった。アキミツが大人しいのに対して、ハットリは超悪ガキで、町中から要注意人物って言われてた。ずっと。でも、ハットリが悪いヤツだったわけじゃないんだよ。いわゆるガキ大将だっただけ。そういう子ってどこにでもいるでしょ」

「……」

「アキミツは本当に絵が好きで、中学で美術部に入ったの。夏が今行ってる二中ね。アキミツはその頃になるともう天才なんじゃないかってぐらい上達して、大きなコンクールで入賞するようになってた。ハットリとえらい違いだってみんな言ってたわ」

「ハットリは絵を描かなかったの?」

「うん。ハットリはその頃高校生で、剣道部だった。絵なんて描くタイプじゃなかったの」

「じゃあ、どうして……」

「アキミツは本当に大人しい子で、顔も女の子みたいだった。絵ばっかり描いて、クラスでも目立たないような無口な子だった。だからっていうのも変だけど、だんだんアキミツはいじめられるようになってね」


 いじめ。その言葉に私はどきっとした。心臓がぎゅっと締め付けられ、冷たい汗が滲んだ。リカちゃんはせつなそうに眉をひそめ、先を続けた。


「最初は悪ふざけみたいだったのが、だんだんひどくなって……。本当に、ひどくなって……。中三の時に、アキミツは自殺しちゃったの」


 見開かれていたリカちゃんの目に涙が膨れ上がり、今にも零れ落ちそうだった。コウゾウくんは頭を抱えるようにし、膝の間に顔を埋めていた。たくましい肩が小刻みに震えていた。


「ごめんね。隠してたわけじゃないのよ。ただ、言えなくて」

「……」

「……ハットリのうちでは、いじめのことなんて知らなかったのね。アキミツは優しい子だったから、心配させたくなくて言えなかったんだと思う。ショックでハットリのお母さんは心の病気になってしまって、それからずっと病院を出たり入ったりしてるの」


 リカちゃんは汚れた手で涙を拭った。コウゾウくんの漏らす微かな嗚咽がクリス・コナーのレコードにかぶさる。


「ハットリもすごいショック受けてね……」

「それで高校辞めたの……? 出席日数が足りなくてって言ってたけど」

「……そう。ハットリ、ひきこもりになってダブっちゃって。結局二度と学校には行かずに中退したの」


 私は衝撃のあまり呆然と二人の涙を見ていた。弟がいじめを苦に自殺……? それではハットリは一体私をどんな目で見ているのだろう。ハットリだけじゃない。リカちゃんも、コウゾウくんも私をどんな目で見ているというのか。


「お母さんが入院して、家がめちゃくちゃになって。見かねたおじいちゃんがハットリをここに連れて来たの。ハットリが絵を描くようになったのは、それから。なんでかは分かんない。アキミツの代わりのつもりなのか、なんなのか……。しばらくひきこもって絵ばっかり描いて、一年かけて大検とって、今の大学に入ったの」

「おじいちゃんとかお父さんは…?」

「お父さんは実家にいるよ。おじいちゃんは、去年亡くなったの」


 この古びた家にはその人達の面影はない。故意にそうしているのか、私が気付いていないだけなのか。分からない。少なくとも、ハットリの弟に関するようなものはない。あるとしたら、あの夥しい数の絵。あの中にあるのだろうか。ハットリはその思い出をなぞるように、絵を描き、彫刻をし、工作をしているのだろうか。弟を救えなかった罪悪感にまみれて。それでは私はなんなのだろう。彼らにとって、私を庇護することは懺悔のようなものなのだろうか。


 コウゾウくんが涙を拭き、真っ赤な目をして言った。


「夏がここに来たのも、なにかの運命かもしれないよ。言ったでしょ? アキミツと夏、似てるって」


 無理に微笑もうとする姿が痛々しかった。二人の気持ちが分からないわけではなかった。罪悪感も、痛みも、後悔も。それは私がかつて誰も助けなかったのと同じだ。私が今受けているいじめがその報いであるかのように思うのと同じこと。にも関わらず、私は言わずにおけなかった。


「これが運命ならひどすぎるよ……」

「夏……」

「離婚さえしなかったら、転校せずにすんだし、そしたらこんな目にあうこともなかった。友達とも別れなくてよかったし、ピアノもやめなくてよかったのに。運命なんて、そんなの勝手だよ。運命じゃない。だって、全部、人の手によるものじゃない。それでもこれが運命だっていうんなら、私はこんな運命いらない」


 突如、玉島さん達に受けた屈辱的な暴行の数々が思い出され吐きそうになった。離婚さえしなければ、転校さえしなければ、こんな目にあうことはなかった。それはまぎれもない事実だ。


「じゃあ、そう言えよ」


 泣き出す寸前のところで背中で声がして振り返ると、庭にいつの間にかハットリが立っていた。


「そう思うなら、母親にそう言えばいい。親父にもそう言えばいい」


 ハットリは険しい表情でまっすぐに私を見ていた。私はハットリが怒っているのかとたちまち怖くなって拳を硬く握り締めた。ハットリは私達の話をどこから聞いていたんだろうか。リカちゃんもコウゾウくんも泣き濡れた目を慌ててこすった。


 日が傾き始め、西日が庭をオレンジに染め上げている。ハットリの影が長く伸び、物干しの影と交錯する。風が凪いでいる。ハットリは固い声で、

「嘘つかないで、思ったことを言えばいいんだよ。離婚が許せなかったことも、転校したくなかったことも、ピアノのことも。今の学校のことも。全部」

「……だって、そんなの言えるわけないじゃない」

「なんで言えないんだよ。言わないと分かんないだろ」

「じゃあ、言えばなんとかなるの?」

「……なんとか、って、なんだよ」


 私はだんだん感情的になり、まるでハットリに歯向かうように身を乗り出した。


「言えば離婚しなかったの? 言えば転校しないですんだの? 言えばいじめにあわなくて、言えば助けてくれるの?!」

「言わなきゃ助けられねえだろうが!」


 ハットリがいきなり大きな声で怒鳴った。私はびくっと体をすくめた。コウゾウくんが私達の間を牽制するように割って入り、

「ハットリ、怒鳴らなくてもいいでしょ」

 となだめようとした。リカちゃんも私のそばで、

「落ち着いてよ、二人とも」

 と肩を抱いた。


 私とハットリが喧嘩する理由なんてないのに、この時なぜか私達は激しい火花を散らしあっていた。まるで互いの心にある痛みや苦しみをぶつけあうように、心と心を擦り合わせるように睨みあった。しかし腹立たしさや憎しみはなかった。むしろ、私達は互いのことが分かりすぎるほど分かって、こんな形で心を重ね合わせようとしていた。


 リカちゃん達はおろおろしながら私達の睨み合いを止めようとした。私はハットリに飛び掛っていきたいと思い、同時にハットリになら叩かれてもいいと思った。力ではなく、心で。ハットリは大股に庭を突っ切り、靴を脱ぎ捨てて部屋に上がるとずかずかと居間の奥へ消えてしまった。


「ハットリ! ちょっと!」


 コウゾウくんが後を追って中へ入って行く。リカちゃんは、

「気にしなくていいよ。夏は悪くないから。ハットリが子供なんだよ。まったく。なに考えてるんだろうね」

 と忌々しげに言ってのけた。レコードは終わり、すっかり静かになった庭に夕闇がせまっている。影は一層濃さを増し、ハットリが乱暴に脱いでいったスニーカーをぽつんと浮かび上がらせていた。あの時、私のローファーもこんな風に転がっていた。彼女達が靴をこの庭に投げ込まなければ、出会うこともなかった。


「……リカちゃん。運命って、なに?」

「……」

「私が引っ越してきて、いじめに合うのも運命なの?」

「夏……」

「それで、リカちゃんやコウゾウくんや、ハットリに出会ったのも、同じ運命なの?」

「……」

「それじゃあ、ハットリの弟が自殺したことも、運命だっていうの?」


 ハットリは奥でコウゾウくんと言い合っている様子だった。が、私は何も言うことはなく、立ち上がると、

「帰る」

 と呟き、引き止めようとするリカちゃんをよそに庭から出て行った。リカちゃんが通りに飛び出し、振り向きもしないですたすたと歩いていく私の背に一生懸命、

「夏、待ってるから。また明日ね! 絶対来てよ?!」

 と叫んでいた。


 彼らの優しさと悲しさのピースが全部ぱちりと埋まって一枚のパズルを完成させたような気がしていた。そのピースの一かけに自分も含まれているのだ。今、すべてが符号した。私が彼らを求めたのと同じく、彼らもまた私を求めていたのだ。私のような存在を。即ち、死んでしまった人の代わりを。そう思うと、ぽろりと一滴の涙が頬を伝った。母の待つロイヤルハイツに着く頃には、空はすっかり群青に染まっていた。



「もしもし、山田くん?」

「渡辺さん? どうしたの、なんかあった?」


 私はその夜山田くんの携帯電話に電話をかけた。襖を締め切り、ひそひそと小さな声で、

「あの、ちょっと、聞きたいことがあるんだけど……」

「うん?」


 電話で話す山田くんは教室の声よりも、低く落ち着いている。


「山田くんのお兄さんとコウゾウくんが同級生って言ったよね」

「うん」

「その、同級生の中で、中三の時に自殺した人がいたって……本当?」

「それ、斎藤さんから聞いたの?」

「…や、うん、まあ…」


 私はちょっと言いよどんだ。山田くんは少し黙ってから、静かな調子で、

「いたよ」

 と答えた。ああ……と私は額に手を当てうなだれた。リカちゃんが嘘を言ったとは思ってないけれど、私はなぜか確かめたいと思い、尋ねてから、激しく後悔した。聞くべきではなかった。事実に事実を重ねて、重みを増やすことなどする必要はなかった。ずしりと圧し掛かる言葉に押し潰されそうだった。


 山田くんは淡々と教えてくれた。

「当時、ニュースになったから。俺もよく覚えてる。いじめが原因だったらしいね。飛び降り。俺は会ったことないけど……」

「……そう」

「なんでそんなこと聞くの?」

「……別に深い意味はないんだけど……」

「渡辺さん、もう学校来ないつもりだったりする?」


 私はなんと答えていいか分からなかった。行きたくない。二度と行きたくない。でも、山田くんにそれを言うのが悪いような気がした。なぜなら、山田くんも独裁の犠牲者だと思ったから。

「伴奏はどうすんの」

「私がやらなかったら、音楽の先生が弾いてくれるよ」

「それでいいの?」

「いいのよ」

「……俺、渡辺さんが伴奏してくれるといいと思ってたよ」

「ごめん」

「いや、そうじゃなくて……。楽譜見てたとき、渡辺さん嬉しそうだったから」

「……」

 私は図星をさされたようにぎくりとした。


「あのさ、俺になんかできることない?」

「……」

「本当にずっと学校に来ないつもり?」

 私が黙っていると、山田くんは小さなため息をついた。

「あのさ、ちょっとだけ、今から会えない?」

「……今から?」

「渡辺さんちの下まで行くよ」


 山田くんは私が返事をするより早く、電話をいきなり切ってしまった。あの、おとなしそうな山田くんとは思えない行動だった。


 学校に来ないつもりかと山田くんは尋ねたけれど、「来ない」のではなく「行けない」のだ。そんなことは山田くんが一番分かっているはずなのに。


 私はそっと玄関を出てロイヤルハイツの階段を下り、申し訳程度の前庭に置かれたベンチに腰掛けた。街灯に蛾が群れているのを見上げ、温い空気で肌が湿り気を帯びるのを感じた。


 私はハットリのことを考えていた。私がハットリになにも言わなかったこととハットリが何も言えなかったことは同じ成分でできている。私はハットリの弟など知るわけはないのだけれど、その気持ちがよく分かると思った。恐らくは、他の誰よりも。そして、そのことをハットリは知っているのだろう。ハットリが私から聞きたいのは「私の言葉」ではなく「弟の言葉」の代弁なのかもしれない。


 十分ほど座っていただろうか、通りの向こうから自転車に乗って山田くんがやってきたのが見えた。私は立ち上がると、なんとなく気まずくて、心もとなくてジーンズの尻ポケットに片手を差し入れる格好で山田くんを待った。こうして二人で会っているのをまた誰かに見られでもしたら、その時こそ私は死ななくてはいけないかもしれない。スリルではなく、純粋な恐怖と絶望で眩暈がする。


「急にごめん」


 山田くんは私の目の前で自転車を下りると、まずそう言って詫びた。私はなんと答えていいか分からなくて、曖昧に頷いた。思えば、山田くんだって被害者なのだ。彼にも教室での自由は許されていない。


「一応、授業のプリントとノート、コピってきた」

「ありがとう……」

「渡辺さん、さあ」

「なに?」


 私は山田くんの丁寧な字で書かれたノートのコピーをぱらぱらとめくりながら、聞き返した。


「俺のせいで、ごめんな」

「えっ」


 私は驚いて顔をあげた。すると、山田くんの真剣な目にぶつかり、逸らせなくなってしまった。山田くんは思いつめた顔で、さらに続けた。


「玉島たちのこと」

「……」

「渡辺さん、学校来なよ」

「……行けると思う?」

「来なきゃ負けだよ」

「負けって、なに? ううん、そもそも勝ちがなんなのか分かんないわ。私は勝ちも負けも望んでなかった。初めから、なにも望んでなかったわ。それなのに、学校は弱者と強者を分けてしまう。勝手に勝ち負けを決めてしまう。もう、うんざりよ」

「ピアノは?」

「だから、私じゃなくてもいいんだってば」


 いっそ笑ってしまおうかと思った。こんな議論も深刻な空気も、洒落にしてしまいたかった。勘弁してくれと、もう放っておいてくれと、言えたらどんなに楽だろう。でも、山田くんはそんな弱さを許してはくれなかった。


 眼鏡の奥の目を強く光らせながら、私を見下ろす視線できっぱりと言い放った。


「渡辺さんに弾いてほしいんだよ」

「どうしてそこまでこだわるの」

「好きだから」

「えっ」


 私の頓狂な声と、山田くんの体が素早く動くのはまったく同時だった。


 それは本当に一瞬の出来事で、私にはなにが起きたのか咄嗟には判断できなかった。山田くんは大きな体をさっとかがめて、それと同時に右手で私の肩を捉えて実に的確な動作で、とても本当とは思えないほどの早技で私の唇にキスをした。


 唇が触れたかと思った次の瞬間には、山田くんは飛び退るように一歩後退し、肩に置かれた手もまるで錯覚のように彼の体の横にだらりとぶら下がっていた。戸惑うよりもなにが起きたのか把握できなくて、私は呆然と立ち尽くしていた。


「俺が守るから。だから、来なよ」

「……山田くん……」

「……ごめん」

「なんで、ごめん?」

「いや……」

「……」

「とにかく、もし、来る気になったら電話して。迎えに来るから」

「本気なの?」

「冗談だと思ってんの?」

「……そうじゃないけど……」


 けど。けど。けど。それ以上は、言わずにおいた。


 守るって一体どうやって守るんだろう。もし、彼になにかできるなら、どうして未然に防いではくれなかったんだろう。いや、彼のせいではない。でも、そう思わずにはおけない。聞くんじゃなかった……。不意に苦い気持ちが波のように押し寄せてきて、山田くんが触れた唇が途端に震えるような錯覚を覚えた。


 自転車で再び走り去る山田くんを見つめながら、私は、自分も含めて山田くんもなんて力ない子供なんだろうかと悲しくてたまらなくなった。それでも彼の気持ちだけは、その心意気だけは、自分とくらべたら、ずっと大人かもしれない。もしかしたら、コウゾウくんやリカちゃん、それにハットリよりも、ずっと。あのまっすぐさがうつればいいのに。病いのように、私にもうつればいい。



 翌日、私は例によってハットリの家へ行くと寝ていたハットリを揺り起こした。ハットリは不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、

「なんだよ……」

 とぼやいたけれど、私はおかまいなしに布団をひっぱがした。無精ひげとぼさぼさ頭のハットリは体をかきむしりながらのっそり起き上がると、煙草に火をつけた。まだ寝ぼけていて、私の姿も見えているんだかいないんだか定かではなかった。けれど、私はそれも無視してハットリの布団の前に座り、

「ハットリ、車かバイクある?」

「……ふん」

「行きたいところがあるの」

「……どこ」

「いいから、つきあってよ」

「……」


 ハットリは煙草の灰を灰皿に落としながら、眩しそうに庭に目をやった。今日もいい天気。空がひたすら美しい。


「起きて顔洗ってきてよ」

「……」


 ハットリは黙って煙草を消すと大きなあくびを一つした。


 私は制服を持参してきた私服に着替え、ハットリが仕度をするのを縁側で座って待っていた。その間にハットリのスケッチブックから白い部分を破りとり、リカちゃんとコウゾウくんにあてて置手紙を書いた。手紙には昨日のことを詫び、ハットリと出かけてくる旨を簡単に記した。


「で、どこ行くって?」


 振り向くとハットリがジーンズに着替えて立っていた。私はハットリに謝るべきか一瞬迷った。けれど、なんと言っていいのか分からず、代わりといってはなんだけれどにっこりと微笑んでみせた。ハットリは怪訝そうな顔をしたけれど、すぐに大きく伸びをして、

「いい天気だな」

 と言った。


 車かバイクと言ったのは私だけれど、ハットリがそんなものを本当に持っているとは思っていなかった。実際は電車でよかったし、ハットリがいてくれればそれでよかったのだ。が、ハットリが私を連れて行ったのは、駅前の商店街を通り抜けずっと南におりたところ。狭い路地に長屋作りの民家が並ぶ通りだった。


「車でいいんだろ」

 ハットリは歩きながら言った。


「ハットリ、車あるの?」

「なんだよ、お前、知ってるから車って言ったんじゃないの?」

「知ってるって、なにを?」

「親父んとこに車あるから」


 言われてみて、あ、そうかと思った。リカちゃんがハットリの実家のことを話していたのを思い出した。ハットリは下町の狭い路地をすたすたと歩き、途中で一度立ち止ると、通りの向こうを指差した。

「あっち行くとリカんち」

「……」

「で、こっちが俺んち」

「ハットリのお父さんってなにしてる人?」

「大工」

「……」


 ハットリはまた歩き始めた。私は黙ってその後をついて行った。


 小さなお好み焼き屋さんの前まで来ると、ハットリはちょっと待ってろと言い残し、その隣りの家の扉をがらがらと音を立てて開けた。私は思わず表札を見上げた。服部。そこがハットリの実家だった。戸締りをしないのが服部家の風習らしい。ハットリは吸い込まれるように家の奥へと消えた。私はお好み焼き屋の暖簾を眺め、きっとハットリやリカちゃんはここでお好み焼きを食べていたのだろうと思った。ハットリの弟も。


 五分ほどでハットリは家から出てきた。


「行こう。……って、どこに行くんだっけ?」

 ちゃりちゃりと車のキーを指にぶらさげて、今更のようにハットリは私を見下ろした。見上げるハットリの後頭部に太陽があって、眩しくて、私は思わず目を閉じた。もう夏なのだ。


「K市」

「……」


 それは私が以前住んでいた街だった。ハットリは黙って私を連れて近くの駐車場に行き、横っ腹に擦り傷のついた白い軽自動車のロックをはずした。私はすんなりと助手席に乗り込みつつも、ほんの一瞬ハットリの家を振り返らずにはおけなかった。


 ハットリはエンジンをかけ案外慣れた手つきでハンドルを操作しK市に向かう国道に出た。ラジオからヒットチャートが流れている。考えてみれば私とハットリがあの家から連れ立って出かけるのは初めてだったし、私服を着て車でなんてまるでデートのようだと思った。私はなにを話していいのか分からなくて、黙って車窓から流れる景色を見ていた。三十分も車を走らせるとハットリは、

「なんか話せよ」

 と言った。


「……車、トラックかと思った。大工って言うから」

「あほか!」


 ハットリはげらげらと声をあげて笑い出した。さも、おかしそうに。……本当にそう思ったんだけど……。冗談じゃなくて。でも、ハットリがあんまり笑うので、私も一緒に笑っておいた。


「それに、ハットリが車の運転できるとは思わなかった」

「じゃあ、なんで車とか言ったんだよ」

「……なんとなく」

「お前さあ、俺がなんにもできないと思ってるだろ」

「うん」

「馬鹿にすんなよ。俺は大抵のことはなんでもできるんだからな」

「例えば?」

「……料理も洗濯も一通りできるし、成績も悪くなかったぞ。剣道も初段だし」

「ふーん。他には? 他になにができるの?」

「……なにして欲しいんだよ」


 ハットリはまっすぐに前を向いていたけれど、一瞬だけちらりとこちらを見た。私がハットリにして欲しいこと。それは一体なんだろうか。ハットリが私をかくまってくれ、ここにいさせてくれる。それ以上になにもないような気がしている。そう言うべきだろうか迷ってから、ぷいと窓の外を向いた。言えばまるで告白のようで気恥ずかしく、また、本当の気持ちを伝えるのは困難で、言葉を駆使するほど遠ざかってしまいそうで言えなかった。


 K市へは三時間ほどで到着した。市内に入るともう懐かしくて、私はハットリに、

「ここらへんによく買い物とか来たんだよ」

 とか、

「あ、あそこね、大きな公園になってて中にバラ園があるの」

 と俄かにはしゃいだ気持ちで指差して言った。ハットリはそれらにいちいち相槌をうち、言われるままにハンドルを切った。どこに行こうとしているのかは問わなかった。しかし、以前通った学校のそばを通る時はちょっとせつない気持ちになった。


「ここね、前の学校。女子校だったの。私、今の学校で男の子がクラスに半分もいるのってすごいいいなーって思ったけど、でも、本当はそうでもないよね」

「……まあ確かに男と女がいるから問題も起きるけどな、その逆もあるんだよ」

「逆って?」

「誰かを好きになったりするだろ。世の中には男と女しかいないんだから」

「でもコウゾウくんは……」

「そういう特殊な例を持ち出すなよ」

「だって……」

「スタンダードな話をしてるんだよ」


 トラブルを引き起こしたり、憎みあったりするその逆もそりゃああるだろうけれど、それだって永遠じゃないんだよ。私はそう言いたかった。男と女しかいないけれど、その全部のケースがスタンダードじゃないんだから。子供だましなこと言いやがって。ハットリは私をみくびっているのだろうか。そうでなければ、私を気遣ってくれているのだろうか。どちらも対等じゃないような気がして私はなんとはなしに悔しい気持ちになった。


 向き合いたいのだ。一度でいいから。向き合ってみたいのだ。それは父や母にも言える。ハットリの指摘は当たっている。私は子供だからという理由で重要事項の過程から遠ざけられ、結果だけを押し付けられるのにうんざりしている。子供だからという理由で無視されるのにもげんなりしている。子供であることには間違いないけれど、それが私をないがしろにする理由になるなんて、大人は勝手だ。子供だから。子供のくせに。そうやって使い分けているなんて卑怯だ。なぜ大人は自分達もかつて子供だったということを忘れてしまうんだろう。


 陽射しに明るい色を映えさせるレンガ塀の向こうの様子は今も鮮明に思い出せる。校庭の砂の感触も、中庭の橘の木も、食堂の自販機も確かな手ごたえで蘇らせることができる。けれど、今は遠い。果てしなく。


「制服ね、紺色のワンピースでパッチポケットがついててお嬢さんっぽかったのね。最近みんなスカート短いでしょ? でもワンピでミニにしちゃうとすごい変だからここではスカート短くなんてしてなかったよ」

「そういえば、リカも短いスカートだったな……」

「へえ?」

「あいつ、高校の時なんてどこの風俗嬢だよってぐらいケバい化粧でパンツが見えてしょうがないぐらいの短いスカートだった。まあ、所謂、ギャルってやつだな」

「意外~」

「あの頃のリカは史上最悪にブスだった」

「ひどい……」

「だって、おまえ、あんな下品な女見たら誰だってそう思うぞ。今度写真見せて貰えよ」

「じゃあ、ハットリはどんな高校生だったのよ」


 言ってから、しまったと思った。慌ててハットリの顔を見たけれど、ハットリは信号を見つめていて静かな様子だった。悪いことを言った。私は後悔し、話題を変えようと通りに面したパン屋を指差し、

「あのパン屋さんね、ドラえもんパンってあってね、ドラえもんの顔になってるのね。でも、中身はクリームなんだよ。ドラえもんっていったらドラ焼きだから、あんこだと思うじゃない? ふつー。でも、クリームなの。邪道だよね!」

 とわざと大きな明るい声を出した。信号が青に変わった。


「どこにでもいると思うけど、クラスに一人はよく喋るお調子者のうるさいヤツいるだろ。笑いとるのに毎日必死みたいなヤツ。それが俺だった」

「……ハットリが?」

「そう。意外?」

「……」


 ガキ大将だったハットリ。お調子者だったハットリ。それは今目の前にいるハットリからは確かに想像もできない。私が知っているハットリは無口で、眉間に皺を刻んだ小難しい顔の男の人だから。けれど、リカちゃんやコウゾウくんやあの家に通ってくる人々のことを思えばそれはすぐに合点がいった。ハットリは好かれている。それは初めから感じていた。きっと人気者だったのだろう。私とちがって。


「だから、弟とよく比べられた」

「……」

「弟は頭よくて、絵が上手くて、色白で睫毛が長くて、小さい時はよく女の子と間違われた」

「……うん、リカちゃんもそう言ってた」


 私はハットリのなにげないような語り口にひどく緊張し、なにか衝撃的な事実を聞かされるのではと身構えた。ハットリが初めて自分のことを話している。それは私への信頼に思えた。神妙な面持ちで膝の上の手のひらをしっかり握り、次の言葉に耳を傾けた。


 ハットリが少しだけ窓を開けた。初夏の軽やかな風が舞い込んできた。甘やかな匂いのしそうな風。対向斜線を行く車のエンジン音と街のざわめきが細く開けた窓から流れ込んでくる。停滞する心の、煮詰まっていくいやな気持ちを溶かしだすように私達を包む。私はその喧騒をなぜか静かだと思った。明らかに街は賑わい、音に溢れているにも関わらず私は車中が急激に静まり返ったような気がした。ラジオからはヒットチャートが流れ続けているのに、それも耳に入らないぐらい二人の心は静かだった。


「母親はまだアキミツが生きてると思ってる」

「……」

「今も信じられないんだな」

「……」

「何度言っても理解できない。でも、あんまり言うと泣いたり暴れたり、自閉したりするから、今はもう言わないけど」

「じゃあ、お母さんの中では生きてるんだね」

「そういうことだな」

「……ハットリの中でも」

「俺?」

「……」


 ハットリの中の、死んだ弟。ハットリが憑かれたように絵や彫刻に向かう姿。あれがハットリの弟ではないだろうか。私はそうであって欲しいと思った。失うということ。私はそれを知っている。二度と取り戻せないものを。でも、もし、大人達が言ったことが本当ならば、父は今でも私の父だし、私達が家族だった事実は変えられない。それは欺瞞かもしれないけれど、私がそう思っているなら真実になる。取り戻せる。今なら、素直に、そして真剣に願える。あんなに否定したかったことが、今の私には微かな光を放つ美しい希望のように思えた。死んでしまっても、永遠に失われないものがある。そこにいたということ。なにかを残したということ。私はハットリに手を伸ばした。ハットリの左手は大きく、固かった。


「上手く言えないけど、ハットリの中で弟さんは生きてて、ハットリと一緒に絵を描いたりしてると思うの。だって、ハットリは生きてるから」

 ハットリは私の手を握り返しながら、

「……そうだな」

 と頷いた。

「そうだよな」

 と、何度も。


 ハットリが真剣な顔で、唇を一文字に固く結んでいるので、私はハットリが泣くのではないかと妙にどぎまぎしてしまった。けれどハットリは泣くことはなく、うんと小さな声で「ありがとう」と呟いた。


 車は丘の上にある住宅街に差し掛かり、緩い坂道を登り始めた。懐かしい坂道だった。思い出に満ちた私の街。私は絶えずハットリに道順を指示した。そして、丘の中腹あたりにくると、白壁の少女趣味な一軒屋を示し、

「あそこで止めて」

 と頼んだ。白壁に赤茶色の屋根。アイアンレースの門扉。その奥に続く庭。丹精したつるバラが二階の窓に届いている。今が盛りと白い花が咲き誇り、その眺めの美しさにハットリさえも嘆声をあげた。ハットリは道路わきに車を止めた。


 私は車を降りると、その家を見上げた。ハットリも車を降り、煙草を取り出して火をつけた。静かな住宅街の真昼。道行く人もなく、私達はしばし無言で車にもたれて立っていた。


 私はこの街に思い出を持っている。それはまだほんの十数年のものだけれど、それが今の私の持てるすべてだった。本当に、文字通りすべてだった。なのに、それをゼロにして私はどうやって生きたらいいのか分からなかった。


「ここね、私が前住んでた家」

 そう言うとハットリは驚いて私を見た。


「私、名前変わって出席番号が一番最後になったけど、今まで常に一番だったんだよ」

「…相沢?」

 ハットリが表札を読み上げた。

「そう。相沢夏。渡辺って名字にはまだ慣れてないから、名字で呼ばれてもとっさに返事できないんだよね。なんとなく違和感感じるっていうかさ」


 ハットリは煙草を丹念に消してから、車の中の灰皿に捨てた。私はバラの花を見上げながら続けた。


「おばあちゃんのピアノがあってね。すごい古いピアノで鍵盤も黄ばんでたけど、すごくいい音が出るの。柔らかい独特の音なの。今はもうないかもしれないけど」

「ないって?」

「お父さんが捨てたかもしれないでしょ?」

「聞いてみたのか?」

「ううん。だって、お父さん、学校のこととか受験のことしか言わないんだもん。新しい学校はどうだとか、勉強してるかとか。そればっか。それも、たまーに、だしね」

「ふうん……」

「一回聴かせてあげたかったなあ。ハットリにも。あのピアノでクリス・コナーとか弾いたら絶対かっこいいのに」

「……」


 私達はまたしばらく黙って家を見上げた。ここが私の家だった。でも、今はもうちがう。ここにはかつて私の父だった人と、新しい女の人が住んでいる。もしかしたら、やがて家族が増えるかもしれない。その子が私の代わりにこの家で暮らすだろう。私の家は完全に失われるだろう。それでも、私がここに暮らしたことに変わりはない。そして私は生きていくのだろう。この先の人生を。見知らぬ街で。新しい記憶を塗り重ねながら。


 ふと見上げたハットリとはたと目があった。

「行こうか」

「もういいのか」

「うん。帰ろう」


 私が帰る場所。そこにハットリがいてほしい。私は心からそう思った。さようなら。最後にもう一度だけ振り返り、生まれ育った家を目に焼きつけた。


 ハットリの家に戻ると、リカちゃんが掃除機をかけていて、私達を見ると、

「おかえり」

 と笑った。

「ただいま」


 私は狂おしいほどの愛しさを噛みしめながら、縁側に座った。

「ケーキあるよー」

 リカちゃんが掃除機を片付けながら言った。私はお茶をいれるべく台所へいき、薬缶を火にかけた。

「どこ行ってたの?」

「ちょっと」

 ハットリが答える。

「な?」

「うん、ちょっとね」

 二人で目配せしあうと、リカちゃんは拗ねたように身をよじって、

「なによー、秘密なのー?」

 と訴えた。

「秘密だよ」

 私は唇の端で少し笑った。


 秘密が嬉しかった。ハットリと何かを共感しあったことが、胸にほんのりと灯りをともすようで泣きたくなるほどだった。確かなものなど何もないのだと思っていたけれど、私は今確かにハットリと分かり合っている。それは当然目に見えないし、触れることもできないけれどものすごい存在感を持って二人の間に、またはそれぞれの心にどかんと置かれているようだった。


 それから三人でケーキを食べ、夕方までの時間を過ごした。私はまたレコードを聴きながら頭の中でピアノを弾いた。頭の中で鳴るピアノは、いつでも私のピアノの音だった。


 

 家へ帰ると、母がテーブルに座ってお茶を飲んでいた。


「あれっ? お母さん、今日は夜勤って言わなかった?」

「……夏、ちょっと座りなさい」


 母は固い声で言うと、テレビのリモコンをとりあげぷっつりと電源を切った。瞬時に私はすべてを悟った。黙って母の正面に座ったけれど、母の顔を見ることはできなかった。母の押し殺したような声は、感情をねじ伏せようとするあまり微かに震えていた。強烈な緊張感がせまい2DKを埋め尽くしていた。私は自分が制服を着ていることが我ながら滑稽だと思った。とんだ茶番だと。


「今日、先生から電話があったの」

「……」

「夏、あんた、学校に行ってないってどういうことなの」

「……」

「学校行かないで、毎日どこに行ってるの」

「……」

「黙ってないで、ちゃんと言いなさい」


 私は俯いてテーブルの一点をじっと見つめた。母の顔を見るのが怖かった。母が怒るのは当然だし、こうなることだって予測できた。でも、いざそうなってみると震えがくるほど怖くなった。叱られることが怖かったのではない。断じて、そうではないのだ。


 そっとしておいて欲しい。私のことは放っておいてほしい。そんなことは言えないけれど。それでもこの追求からどうやって逃れたらいいのか、頭の中がフル回転し始める。玉島さん達のことも、ハットリやリカちゃんやコウゾウくんのことも話すことはできない。誰にも理解できないだろうから。それに、本当のことを知ったら母はどうするだろう。なんと思うのだろう。離婚について、後悔するだろうか。罪悪感を感じるだろうか。そして、その後にどういう行動をとるのだろう。想像もつかない。学校や玉島さん達の親に苦情を申し入れにいくだろうか。それとも、私を再び転校させるだろうか。もう学校に行かなくてもいいとか言うだろうか。……父に、相談したりするだろうか……。あれこれと逡巡していると、いきなり母がテーブルをばしっ!と叩いた。


「なんとか言いなさい!」

 私はびくっと首をすくめた。

「学校サボって、どこでなにをしてるの!」

「……なにもしてない……」


 私はぼそっと呟いた。すると、途端に涙が溢れだし私は母の前でぐずぐずと泣き始めてしまった。胸がいっぱいで苦しくて、息ができなくて、嗚咽を漏らしながら泣いた。


 教室の出来事が強烈すぎて、とても言葉にできず、問い詰められることも恐ろしく、口にすればみじめで、母に到底理解できることとも思えなくて、怒りのあまり鼻息の荒い母と二人の2DKにいながら私は宇宙にたった一人で放り出されたような気持ちだった。だいたい何から言えばいいのだろう。なにを説明すればいいのだろう。学校で起きることというのは密室での殺人事件みたいなもので、秘密は完璧に守られ、アリバイは精巧で、証人は一人もいないのだ。私は無実の罪に手厳しい尋問を受けているようだった。


「泣いてないで、ちゃんと言いなさい」


 それでも母は追及の手を緩めなかった。私は母がなにか言う度に大きく嗚咽した。こうやって問題が大きくなって、それでも、誰も本当のことなど分かるはずもなく、責められるのが自分一人だと思うとなにもかもがいやで泣けて仕方なかった。


「先生はあんたが学校に馴染めてないようだって言ってたけど、そうなの?」

「……」

「友達、できたんでしょう?」

「……」

「いったいどんな子達なの? 一緒にサボってるの? そういう子達なの?」

「…」

「夏」


 私は母の言葉にいちいち首を振った。小さな子供がいやいやするように、しゃくりあげながら。母がイラだってきているのが分かった。


 私は手を伸ばしてティッシュを一枚引き抜くと洟をかんだ。


「学校、行きたくない……」

「どうして」

「合わないから……」

「合わないって、なにが合わないの」

「だって、全然ちがうんだもん」

「そりゃあ最初は馴染めないかもしれないけど、だからこそ行かないと友達もできないし、慣れないでしょう。受験もあるのにどういうつもりなの。合わないから行きたくないなんて……」

「お母さんには分かんないよ!」


 私は母の言いように思わず怒鳴った。


「合わないからそう言ってるんじゃない!」

「いい加減にしなさい!」

 母も負けじと怒鳴り返した。

「学校も行かないで遊び歩いて、なにを偉そうに!。合わないから行きたくないなんて、ただのわがままでしょ!。絶対行きなさい。明日から絶対に」

「いや! 絶対行かないからね!」


 私はそう叫ぶと勢いよく立ち上がり、隣室に駆け込んでばしっと音を立てて襖を閉めた。母のため息が突き刺さるようだった。


 私は暗い部屋で蹲って、いつまでもぐずぐずと泣き続けた。母にも、先生にも、誰にも本当のことなど分かりはしない。私のことなど分かりはしない。分かるのは、ハットリだけだ。私は真底そう思い、疑わなかった。ハットリが私を迎え入れた時から。ずっと。そのことが私を支えていた。たった一つの拠り所なのだ。


 私は部屋の電気をつけると、泣きながら引き出しをごそごそと探り始めた。お年玉を貯めた貯金通帳が一冊。お小遣いをいれてある貯金箱が一個。中身を取り出して財布に押し込む。大嫌いな制服を脱ぐと思い切り壁に叩きつけた。ジーンズに穿き替え、黒いリュックを取り出すと中に着替えを詰めた。ベビーGを嵌める。そうしてみて気付いたけれど、私はもうお気に入りのTシャツやこまこまとした雑貨や漫画やCDにまるで執着していない。父がくれた物たちもとうに押し入れに封印してしまって、私はもうなにも惜しいとも欲しいとも思わなくなっていた。以前なら手放すことなど到底できないと思っていた小さなアンモナイトも、ミサ達がくれたカップや写真立ても、思い出に満ちたものさえ何もいらないと思った。全部、捨ててもいい。この全部と引き換えにしても、大事なものがある。


 食事に呼ばれても私は答えず、部屋でじっと黙って座って過ごし、深夜近くなって母がお風呂に入った隙に私はそうっと家を抜け出した。目指すところはただ一つ。私は夜の町を走った。夜の海はひたすら黒く、波の音がやけに大きく聞こえる。遠くに見える光の粒が幻のようで不安になる。そのぐらい暗く、足をとられそうな怖さがあった。路地を駆け抜けながら、昼間よりも潮の匂いが濃いような気がしていた。私は真っ暗な庭に入り、ガラス戸の閉じた縁側にそろそろと近寄った。室内に電気は点いており、手をかけるとするするとガラス戸は開いた。


「……ハットリー……」


 私はハットリを呼びながら縁側に手をついて身を乗り出し、中の様子を窺った。が、返事はなく、部屋は静かで卓袱台にハットリが飲んだと思われるお酒の瓶が置きっ放しにされていた。


 部屋にあがり、風呂場や台所、寝室も覗いたけれどハットリはいなかった。勿論、リカちゃんもコウゾウくんも。私は携帯電話を持って出なかったことを一瞬後悔した。けれど、すぐに打ち消し、リュックを茶の間に置くとレコードをかけた。そして、すっかりお馴染みになったクリス・コナーを聴きながらハットリの飲み残したお酒を飲んだ。


 一体どこに行ったのだろう。私はぼんやりと卓袱台に頬杖をつきちびちびとお酒を飲んだ。今頃、家では母が私の不在に気付き探しているだろう。探しているかもしれない、なんてことは思わない。探しているに決まっている。でも、一体どこを探すのだろう。祖父母のところに電話をかけたりしているかもしれない。一度口走ったから名簿を探って玉島さんに電話をするかもしれない。もしかしたら、ミサやカナに電話をかけるかもしれない。でも、そのどこにも私はいない。いい気味だとは思わない。そのかわり、母に悪いとも思わない。ただ、今は胸が痛くて鉛を飲んだように重い。どこにも持っていけない、誰にも言えない。この気持ちは産業廃棄物のようだ。本当のことを言えば簡単に解決するのかもしれない。私がいじめにあっていて、リンチされたことを言えば母も絶対学校に行けとは言わないだろう。しかし、そんなことできるはずもない。そりゃあ学校には行きたくないけれど、母には知られたくない。理由はない。言いたくないと思うことに理由などないのだ。それを分かってもらうには私はそれこそ子供で、ボキャブラリーが足りない。いや、ちがう、大人になってもこの気持ちを表す言葉などないだろう。口にする端から涙に変わるような言葉を。


 一時間もハットリを待っていただろうか。だんだん頭がぼんやりし始め、そのくせ足元がふわふわと浮いたように軽くなってきた。私は立ち上がり、財布をポケットにねじこむとクリス・コナーを歌いながら庭へ出た。私は酔っていた。表通りへ出ると、いきなりタクシーを捕まえ勢いよく乗り込み、若い運転手に行き先を告げた。バックミラー越しに運転手がこちらを見たけれど、なにも言わずに扉を閉め深夜の街めがけてアクセルを踏んだ。行き先はハッピィハウスだった。平日の夜はバー営業なので、入り口で時々行われる年齢のチェックなどはなくすんなり入れることはとっくに知っていたし、入ってしまえばとりあえずテンガロがいるのも分かっていたので行けばなんとでもなると思った。我ながら大胆だと思ったけれど、お酒のせいで気分が高揚し、妙に気が大きくなっていてなにも気にならなかった。タクシーを降りると、私は颯爽と階段を降り店内へさも当然のような顔で入って行った。


 思ったよりも店内はお客さんが入っており、テーブルやカウンターもそこそこ埋まっていた。煙草の匂いとお酒の匂いが充満しているフロアを背筋を伸ばして横切ると、私はカウンターに腰掛けた。


「あれ? 夏、一人?」

「うん」

 テンガロが驚いて言った。


「待ち合わせ?」

「ううん」

「ふーん、一人で来るとは思わなかったな」

「ふふふ」


 不敵な笑みを浮かべる私をテンガロは胡散臭そうに見たけれど、すぐに職業的に気を取り直し、ウォッカをグレープフルーツジュースで割ってくれた。


 私はカウンターに肘をつき、すでに充分酔った頭をもたげながらグラスを傾けた。音楽はコウゾウくんの好きなABBAだった。私は軽くリズムをとりながら、甘苦いカクテルを飲み、周囲の人々を観察した。ここにはくだらないいじめはない。リンチもない。だって、傷害事件になるから。どうして校内だと事件にならないんだろう。誰か死なないと、誰も騒いでくれないなんてそれじゃあ遅いのに。学校とはそういう場所なのだ。少数派は黙殺される、偽せの民主主義。体裁だけでできたハリボテみたいなものだ。本当のことなんて意味を成さない。私は父のようにこれまでの暮らしをリセットしてしまいたいと思い、母のように見たくないものに蓋をしてなかったことにしてしまいたいと思った。


「夏、もしかして酔ってる?」

「え、なんで?」

「……目がぶっとんでる」

「さっきまでハットリんとこで飲んでたからなあ。眠くなってきちゃった……」


 テンガロがいつの間にかカウンターに半分崩れ落ちそうな私に心配そうな目を向け、グラスを拭いていた。私はがっくりと脱力しそうな首や頭を必死に支え、かろうじて瞼を持ち上げて意識を保った。本当は頭がぼんやりし、眠くて仕方なかった。


「帰った方がいいんじゃねえの?」

「んー……帰るとこないから……」

「はあ? コウゾウ、呼んでやろうか」

「いいの、コウゾウくんに悪いもん」

「夏、そこで寝てもいいけど、吐くなよ」

「大丈夫」


 私の体は椅子から転落しそうに、揺れていた。気分は悪くはなかった。テンガロが氷水をグラスにたっぷり入れて目の前に置いたけれど、それを飲んでもまるで目が覚めず次第に音楽も周囲のざわめきも潮騒のように遠くに聞こえ始めた。そして、気付いた時にはカウンターに突っ伏して眠っており、肩を揺すられて俄かに覚醒した。


「夏、大丈夫か」


 半ば夢うつつで目を開けると、横に立っていたのはなんとハットリだった。


「あれ……、ハットリ? なにしてんの」


 私は寝ぼけたような、あやしいろれつでハットリに口を開いた。


「お前、俺んちでも飲んでただろ」

「ハットリ、どこ行ってたのー」

「どこって……、実家」

「なんでー?」

「……飲みすぎだろ。帰るぞ」


 ハットリが私の肩と腕を支えながらカウンターの椅子から引っ張り降ろした。私の足はくにゃくにゃとして力が入らず、ハットリが手を離した途端に崩れ落ちそうだった。頭がのぼせたように熱く、頬が火照っているのが分かった。


「今、何時―」


 カウンターから出てきて、ハットリの隣りに立っているテンガロに尋ねると「三時」と答えた。では、私が意識をなくしていたのは一時間ほどだったのか。眠りがあまりに深くて泥のように重いものだったので何時間も寝てしまったような気分だった。体もどこかしら気だるかった。


 ハットリは私を支えながらハッピィハウスを出ようとした。が、私は眠りながらも時々意識にのぼっていた生理現象を思い出し、仕方なく訴えた。


「ハットリ……」

「ん?」

「トイレ行きたい……」

「なんだ、ゲロか?」

「ううん、ちがう……」

「ションベン? 行ってこいよ」

「……だめ、行けない……」


 私は尿意にもじもじしながらも、羞恥でまともにハットリを見れなかった。けれど、ハットリはそんなこと知るよしもなく、

「トイレ、あっちだから行って来いよ」

 と私をトイレへ行く細い通路へ押し出そうとした。壁に手をつき体を支えながら、私は一歩進んでは立ち止まり、二歩進んでは待っているハットリを振り返った。


「なにしてんの。早く行けよ」


 ここのトイレは男女別で、女子トイレの方にはパウダールームとして使える鏡前の簡単なスペースもあり、女の子達がよく鏡に張り付くようにしてマスカラを重ね塗りしたり、口紅を塗ったりしているのを見かけた。このトイレに入ることを、私の魂が拒んでいた。というのも、私は学校の女子トイレで玉島さん達にリンチされたことをきっかけに、「女子トイレ」と聞いただけで吐き気を催し、いても立ってもいられなくなるほど心拍数が上がって手足が震え出すようになっていた。リカちゃんやその友達の女の人なんかがいればいいけれど、一人で女子トイレに入ることは私から恐怖を引き出した。


 あの扉の向こう。あの密室。誰の声も届かないところ。そこには女しかいない。計略にまみれた女しか。勿論、こんなところのトイレに知った顔などあるわけもないのに、怖くて仕方なかった。私は玉島さん達によって、女の子が複数人いるということに著しい恐怖を覚えるようになっていた。しかし、そんなこととは関係なく、尿意は切実で、膀胱が膨れ上がるのが自分でも分かった。私は壁にひっついて地団駄を踏むように足をじたばたさせ、うわ言のように繰り返した。


「外のトイレー……。コンビニでいいからー……」

「なに言ってんの? 行って来いよ」


 ハットリはきょとんとしながら、背後の女性用トイレのマークのついた扉を指差した。


「早く行けって」

「やだ……だめ……」

「なにがヤなんだよ」

「だって……女の人、怖いもん……」


 消え入りそうな声で呟いた。酔った頭でも怖いことには変わりはなく、私は泣き出しそうだった。そんな自分がいやで、その上尿意は限界だった。


 我慢できず膝をくの字に軽く折ると、一瞬押し黙っていたハットリが私の腕をがっちりと掴んでぐいと引き上げた。私はそれに引っ張られ、引きずるようにハットリに女子トイレに連れて行かれた。その乱暴な動作がまたしても私の恐怖を呼び起こし、叫び出しそうになるのをこらえながら、かろうじて抵抗した。


「やだ、なに、やめてよ……」


 壁にとりすがろうとする。でも、ハットリの力は強く、ぐいぐいと私を引っ張って行き、先に立っていきなり女子トイレのドアを開けた。


 トイレには女の人が数人いて、ハットリを見ると驚きと非難の声をあげた。


「なに、ちょっと……」

「ええ~、うそ~」

「女性用だよ」


 しかしハットリはそんな声がまるで耳に入らないかのように、私の腕を掴んだままトイレにずかずか踏み込んだ。化粧していた人、手を洗っていた人、煙草を吸っていた人、用を足して出てきたばかりの人、誰もが一様に驚きのあまりぽっかり口をあけていた。ハットリは私を振り回すように乱暴に個室の方へ押し出すと、

「待ってるから」

 と言い放った。半ば投げ込まれるように個室に入った私は扉を閉め、鍵をかけ慌ててジッパーをおろし便器に座った。座った途端、我慢していたのが一気に放出された。恥ずかしかったけれど、私はほっとため息をついた。個室の扉一枚向こうでは、女の人たちがハットリを非難するように喋っているのが聞こえた。


「外で待てばいいじゃない」

「そうよ、なんでわざわざ……」

「なに考えてんのー」


 ハットリが言い返す気配はなかった。それどころか、私の入った隣りの個室に入り、じょぼじょぼと景気のいい水音を立て始めた。


「ちょっと! ドアぐらい閉めなさいよ!」


 半分は笑いの混じった声が非難した。ハットリはどうやら、トイレのドアを開けたまま立っておしっこしているらしかった。それも、私のために。


 私は水を流すとよろめきながら個室から出て、洗面台で手を洗った。鏡の中に女の人達の胡散臭い視線を一心に集めているハットリが映っていた。私は手を洗うついでに、酔った頭を冷やしたくてざばりと顔も洗った。ハンカチやシャツの肩で顔を拭くと、ハットリは壁にもたれて腕組みをし鏡越しに私を見つめていた。ハットリにもあるんだろうか。ひどいトラウマの残る場所が。もし、あるなら、誰がハットリをそこへ連れて行くんだろう。


「あんまりトイレを我慢すると、病気になるぞ」

「……うん……」

「行こう」


 ハットリはそんなことを言って、私を連れてトイレを、ハッピィハウスを出た。


 夜の街はすっかり静まり返り、週末あれほど店の前にたむろしていた人たちが今は一人もいなかった。


 ハットリは私の片腕を軽く支えるようにしながら、

「一人でなにやってんだよ」

 と少し叱るような調子で言った。


「……ハットリ、どこ行ってたの?」

 私は同じ質問を、今度は幾分酔いの醒めた頭で尋ねた。

「だから、実家だってば。親父とメシ食ってたんだよ」

「なに食べたの」

「お好み焼き」

「家の隣りのお好み焼き屋さん?」

「……よく覚えてるな」


 私はふふふと笑って、ハットリの体に自分の体をどしんとぶつけた。ハットリは勢いに軽く押されたけれど、まっすぐに歩きながら私を捕まえる手を強めた。


 夜が果てしなく長いような気がした。幾分トーンダウンした街灯り。小さく光る星。今こうしてハットリと二人で歩いていることが私を安心させた。こうしていればなにもかも忘れられる。


「あのねえ、ハットリ」

「なに」

「私ねえ、ハットリんとこに住みたい」

「なんで?」

「なんでって……」


 随分素朴な言葉で問うんだな…と私は拍子抜けした。

「住みたいから。だめ?」

「……それは、なにか? 俺のことが好きで、一緒に暮らしたいってことか?」

「ちがーう!」

「速攻かよ……」

「ちがうの! って……いや、ちがわないかも」

「どっちだよ」


 ハットリが笑った。笑うとハットリはその瞬間だけぐんと若返って見える。ひきこもっていたといういかにも暗い生活の頃に本来持っていたはずの若さを、その時だけハットリは取り戻すようだった。私はハットリの笑った顔が好きだった。それは確かだった。


 私が言いかけるより早く、ハットリが静かに言葉を継いだ。


「俺を好きで、一緒に暮らしたいなら考えるけどな。それは男と女の暮らしで、同棲ってことだぞ。意味分かってるか」

「……」

「そうじゃなくて、もし、お前が俺のところへ逃げるために来るなら条件がある」

「条件……?」


 私は恐る恐るハットリを見上げた。酔いはまた少し醒めようとしていた。


「お前が俺のところに来たいなら、来ればいい。止めないし、拒まない。どんな理由でもな。でも、本気で来るなら身辺は整理してこい」

「……」

「親も学校も、きっちりケリつけてからでないと、お前は一生なにもかもから逃げなきゃいけなくなる。犯罪者みたいにな。誰ともまっすぐ向き合えないし、誰ともまともにつきあえない。そんな人間になるな」

「……」

「俺が言うんだから間違いない。経験者の俺が言ってるんだから」

「……」


 ハットリはちょっと立ち止まってポケットから煙草を取り出した。マッチを擦ると、その火を少し眺めてから煙草に点火した。私は黙ってそれを見ていた。ハットリの吐き出す紫煙がゆらゆらとたなびいて、流れていく。決していい匂いじゃないのに私はこの匂いを好きだと思った。マッチの匂い、煙草の煙、一連の動作。それらはただ私の胸を痛ませる。ハットリが煙草を吸う仕草は、父に似ている。


「リカはお前にアキミツのことを話しただろ」

「うん」

「でも、肝心なところは言ってない」

「……なにを?」

「アキミツを殺したのは、本当は俺だ」


 その言葉に私は心臓が口から飛び出そうになった。ハットリの口元が微かに歪んだ。微笑とも苦痛ともとれるような微かさで、判別することはできなかった。


「言っただろ、俺はお調子者で馬鹿ばっかりやってたって。馬鹿だから、面白がって、俺は高校の時クラスの大人しいやつをからかって遊んでた。……いや、有体にいうと、いじめてた」


 ハットリの手から私の腕がほどけた。私は信じられないような気持ちでハットリを見つめていた。


「冗談のつもりだった。でも、相手にしてみれば洒落にもならなかったんだろうな。だんだん学校来なくなってさ……」

「それと弟となんの関係があるの……? その時、弟さんは中学生だったんでしょう……?」

「そうだよ。俺はあいつがいじめにあってるなんて知らなかった。それこそ、からかわれてるんだろうぐらいのもんで、そんなに深刻だとは思わなかった。だから死ぬなんて思わなかったし、びっくりした」

「……いじめが原因で自殺したんでしょう……?」

「俺がいじめてたヤツにも弟がいたんだ」

「……」

「アキミツと同じクラスだった」


 私はその時なぜか反射的に自分の耳を両手でがばっと押さえた。聞きたくないと言わんばかりに。けれど、それを察知したハットリは両手で私の手首をつかみ耳を塞いでいた手をひきはがした。


「分かるか? 俺がいじめたヤツの弟が、俺の弟に復讐してたんだよ。それも、兄貴の指示で。じゃあ、アキミツが死ぬ原因を作ったのは、もとは全部俺なんだ。俺が、アキミツを殺したんだ」

「やめて!」


 私は喘ぐように叫んだ。しかし、ハットリは静かな目で私を見つめはっきりと、

「気が狂うかと思ったよ。俺はアキミツを自殺に追い込んだヤツら一人残らず殺そうとも思った。でも、そいつらだって、俺に対してそう思ってんだよ。俺を殺したいほど憎んでて……結局、俺がしたことは、そういうことなんだ。そうやって憎しみだけがぐるぐるまわってると思うと、なにもかもがいやになって、誰とも関わりたくなくなって……。ひきこもって誰にも会わないで、口もきかないで、その間に母親はおかしくなって……。なんであんなことしちまったんだろう。なんで俺は人を傷つけて笑ったりできたんだろう。おかしいんだよ……俺は人間としてどっかおかしいんだ。アキミツを殺しただけじゃなく、家中をめちゃめちゃにしちまって。そのくせ何もか投げ出して逃げて」

「……」

「俺は自分のしたことや、アキミツが死んだことからも逃げるべきじゃなかったんだ。とりかえしのつかないことってあるんだよ」


 とりかえしのつかないこと。それは私がコウゾウくんに言ったのと同じことだった。私達家族はもう二度とやりなおせない。それぞれがてんでに逃げてしまったから。私はハットリがなぜ私にかまってくれるのか、その理由をはっきりと掴んだような気がした。


 ハットリが私の中に死んだ弟を重ねているのかと思ったけれど、本当はかつての自分を見出しているのだ。理由は違えど、逃げ場を求めて彷徨う姿の中に、ひきこもって罪の意識からも、自分の気持ちからも、周囲の悲しみからも逃げてしまった自分と私は同質であると。


「俺みたいになるなよ、夏。思うように生きればいい。でも、逃げることが正解じゃないんだよ」

「ハットリは私に逃げ場を作ってくれてるんだと思ってた」

「誰だってつらい時や苦しい時に行き場は欲しいだろうよ。それがお前にとって俺のとこだってんなら、そうなんだろ。でも、それじゃあ行き止まりだ。俺んちからはどこへも行けないからな。お前まだ若いし、っつーか、子供だし、俺んちが行き止まりなんてもったいないだろ。俺んちは、通過点なんだよ。来てもいいけど、勿論、いてもいいけど、そこだけに留まるなよ」

「……ハットリはどうなのよ?」


 私はハットリがこんなにも真摯に話してくれているのに、子供じみた気持ちになり、まるで体よく追い払われているような気分で上目遣いにハットリを睨んだ。口を尖らせて、できるだけ皮肉に響けばいいと意地悪い口調で言った。


「ハットリだって、あの家に逃げてきたんでしょう。だから、あそこにずっといるんでしょう」

「……初めはな。でも、今はちがうから」

「……」


 嘘。ずっと家にいて、今だってひきこもりみたいな暮らししてるくせに。私は目に涙がいっぱい溜まってきた。ハットリはそれを察知して、私の頭をぐしゃぐしゃにかき回した。


「家まで送ってやるよ」

「やだ……」

「一緒に謝ってやるから」

「謝ることなんてないもん」

「俺は誰も助けられなかったけど、お前ぐらいはなんとかしてやるから。とにかく帰ろう」


 めそめそとぐずりだした私をハットリはちょっと笑って、小さな子供にするように腰をかがめて大きな手で私の涙を拭ってくれた。


 その時だった。突然道路に車が止まったかと思うと、勢いよく男の人の影が私達のそばにせまった。見ると路肩に止まったのは一台のパトカーで、降りてきたのは警察官だった。


「あー、君達、こんな時間になにしてるんだ」

「……帰るとこです」


 ハットリが訝しげに答えた。警察官は涙を拭う私をじろじろと見ながら、

「もしかして、君、渡辺夏ちゃん?」

「えっ……?」

 私は驚いて目の前の背の高い警察官を見上げた。その反応に確信を得た警察官はさっとパトカーを振り返り、合図を送った。すると、パトカーの運転席からもう一人警察官が降りてきた。


 一体なにが起こったのかさっぱり分からず、涙は完全にひっこんでしまい、ハットリも呆然としていた。そんな私達に警察官は実に事務的な口調ですらすらと、

「お母さんから捜査願いが出てる。みんな心配して探してるよ」

 と言った。そう言われても咄嗟にはなんのことだか飲み込めなかった。


「君は……?」


 警察官がハットリの顔を窺うように尋ねた。背後ではパトカーの無線で「渡辺夏、本人確保しました」と連絡する声が聞こえてきた。


「友達です」


 ハットリはきっぱりと言った。私はその手をしっかり握った。友達です。私はハットリの言葉に泣きそうになった。そうだ、友達なんだ。私達は。性別も年齢も、互いの環境も身分も越えて私達は出会い、確かに心を許しあった。私とハットリの関係を言葉にするなんてできないと思ったけれど、そうだ、単純なことなんだ。私達は、友達なのだ。


 私とハットリはパトカーの後部座席に乗せられ、警察署まで連行された。私はその間ずっとハットリの手を握っていた。ハットリは終始無言で、警察官の質問にいくつか答えるだけでそれ以外はじっと暗闇を行くフロントガラス越しに前を見据えていた。警察署に着くと、入り口を入ってすぐの待合室のようなところに母と担任と、驚くべきことに父がいて、私を見ると一斉にベンチから立ち上がった。私は口もきけないほどびっくりして、足は硬直し、その場に固まってしまった。


 最初に口を開いたのは母だった。母は憔悴しきった様子で、私を見るなり強張っていた顔をぐしゃりとゆがめ、声をあげ、顔を覆って泣き出してしまった。


 久しぶりに見る父はスーツ姿で、いつもきっちりと結ばれていたネクタイを緩め、警察や担任にお礼を言いながら頭を下げた。一体なにがどうなっているのか、さっぱり分からなかった。まるで対岸の火事を見るように彼らを見ていた私の背を、ハットリが軽く押した。


「夏、どこ行ってたのっ……。心配したじゃないのっ……」

 母が嗚咽まじりに私をなじった。


 私はなんと言っていいのか分からず、泣きじゃくる母を見ているより他なかった。父は母にハンカチを差し出してから、やはり同じことを尋ねた。


「みんながお前を探してたんだぞ。どこに行っていたのか言いなさい」

「……」


 私の横にはまだハットリが立っていて、父も母も、担任もハットリを胡散臭そうに見ているのがありありと分かった。ハットリはそれらを少し困惑したような顔で受け止めていたけれど、決してこの場を去ろうとしなかった。逃げるように、そそくさと立ち去ることは。決して。母が涙にまみれヒステリックに叫んだ。


「あなた、一体なんなの? こんな時間まで中学生を連れまわして。どういうつもりなの!」

「君は一体夏とどういう関係なんだ」


 父までがハットリに詰め寄った時、私は彼らとハットリの間に踊り出て、

「友達だよ」

 と言い放った。


 私の言葉に全員が鸚鵡返しのように「友達?」と眉をひそめた。ハットリがどんな顔をしているのか、振り向くのが怖かった。こんなことにハットリを巻き込んでいる自分がいやで仕方なく、一刻も早くハットリを帰さなければと思った。


「ハットリは関係ないの。ハットリは迎えに来てくれただけだから」

「夏、この人誰なの? どこで知り合ったの?」

「どこって……」


 母の激昂はなみなみならず、収まる気配はまるでなかった。こちらが恐れおののいてしまうほど感情的に母は怒鳴った。


「どこの馬の骨とも分からない男に付いていくなんて、どういうつもりなの! 夏、なに考えてるの? なにかあったらどうするのよ」

「なにかってなによ……」


 私は母を睨んだ。父が母を制するように両肩に手を置いて、

「落ち着きなさい」

 と言った。


 すると、それまで馬鹿みたいに突っ立っていた担任が急に口を開いた。


「渡辺さん、お父さんもお母さんも心配してたんだから、謝りなさい」

「……」


 その言葉に私は担任のことも思い切り睨みつけた。もう我慢ならなかった。


「先生には関係ないでしょ」

「夏!」


 母が怒鳴った。私達のおかげで静かだった警察署内が俄かに騒然としていた。私はそんなことはおかまいなしに、眼鏡の奥の目を見開いている担任に食ってかかった。


「あんたなんかに教わることはなんにもないよ。私に学校は必要ない。少なくとも、あの教室に用はない。なによ、今さら! 知らないなんて言わせないわよ! 教室でなにが起きてるか、知らないはずないでしょう?! それとも誰かが死ぬまで無視するつもりなの?」

「夏、やめなさい」


 父が私を制した。私は父にも我慢ならなくて喚いた。


「なんでお父さんがここにいるのよ。新しい女と暮らしてるんでしょう? もう私達は他人なのに。何事もなかったような顔しないでよ!」


 興奮のあまり手足が震え、声は上ずっていた。私の叫ぶ声は、母のヒステリックな声は似ている。もう止められない。唖然とする大人達に囲まれ、暴れ出さないように半ば押さえられながら喉の奥から声を振り絞った。


「学校なんか行きたくないし、家にもいたくない。お父さんともお母さんとも暮らしたくない。みんなが勝手なことするなら、私だって好きに生きるよ。私にかまわないで!」


 そこまで言うと、父の横でわなわなと震えていた母がいきなり私の頬を平手で打った。


「やめなさいっ。落ち着きなさい」


 父が母を押さえ込んだ。私はじんと痛む頬を押さえながら母を鋭く睨んだ。すぐに涙が視界を霞ませ、なにも見えなくしてしまったけど、母を怒りに燃える目で睨みつづけた。


「それであんたはこんな見ず知らずの男と暮らそうっていうの? 冗談じゃないわよ! なにされるか分かってるの? あんたは世間を知らないのよ。騙されてるのよ」

「お母さんになにが分かるのよ、なんにも知らないくせに!」

「絶対に許しませんからね。来なさい、帰るわよ!」


 母は泣き喚きながら私の腕をぐいと引っ張った。けれど、私はがっちりと踏ん張ってその手を振り解こうともがき、また母に怒鳴った。


「やだ! 帰らない。帰るぐらいならっ…学校行くぐらいなら、死んだほうがまし!!」


 私がそう叫んだ次の瞬間だった。私達親子の攻防を見ていたハットリが、弾かれたようにがばっと私を背後から抱きしめた。まるで私を加勢するように、私を守るように。母は驚きのあまり口をぽかんと開け私を引っ張る手を解いた。が、すぐに我を忘れ激昂し、ハットリをびしびしと殴りつけた。


「離れなさい! うちの子に触らないで!」


 その母をみんなが止めようとし、母はそれを払いのけ泣きながらハットリに向かっていき、私はハットリの腕の中で泣き叫んだ。


「もう、やだ。もう、いやなのよ。どうして分かんないの? 戻りたくないの!」

「馬鹿なこと言わないで!」

「戻るぐらいなら、死ぬ!」


 私は再びその言葉を叫んだ。本気でそう思ったのだ。もう、元には戻れない。何事もなかったかのように暮らすには、私はもう色んなことを知ってしまった。


 すると無言で母に拳を振るわれていたハットリが、

「死ぬなんて言うな!」

 と怒鳴った。私をとらえていた両腕に力がこめられ、痛いぐらいだった。見るとハットリは泣いていた。


「そんなこと、簡単に言うな! 絶対に言うな! 死ぬなんて……死ぬなんて……」


 しまった。私は自分がとんでもないことを言ってしまったことに気付いた。私の言葉はただ感情的で、脅しのようでさえあったけれど、言ってはいけないものだった。少なくとも、ハットリにとっては最大の禁句だった。


「お前はなんにも分かってない。死ぬってことがどういうことか、分かってない。死ねばすべてが解決するとでも思ってんのか?」


 ハットリは大きな体に似つかわしくない、大粒の涙を後から後から零し、耐えられないといった風に時々しゃくりあげた。大人達はその様子を呆然と見ていた。


 母は拍子抜けしたように立ちすくみ、振り上げた拳を力なく降ろした。ハットリは涙をシャツの袖で拭くと、落ち着きを取り戻そうとするように何度も深く息を吸い込んだ。そして私からそっと離れると、


「こいつがなにを思ってるのか、なにを考えてるのか、聞いてやってください。本当のことを聞いて、本当のことを教えてやってください」

「……」

「怒るのはそれからでいいでしょう。だって、死ぬよりマシでしょう」

「ハットリ……」

「死なせたくないでしょう」


 私はひどい裏切りを目の前にしているような、とてつもない献身を味わっているような、なんとも複雑な気持ちでハットリを見つめた。


「君は本当に、一体、夏とどういう関係なんだ……?」


 父が依然として怪訝な顔で尋ねた。


「友達です」


 ハットリが、また、そう言った。そしてゆっくりと、深く頭を下げた。


「ご心配おかけして、申しわけありませんでした」


 ハットリの謝罪を見た私は、父と母に激しくすがった。


「ハットリは悪くないから! ハットリが助けてくれたの」

「夏……」

「ハットリを怒らないで。お願い。私にはもうハットリしかいないの。私、もう他になんにも持ってない。これ以上、なにもなくしたくない……!」


 父の手が私の肩に置かれ、私を引き寄せた。それが、この夜の決着だった。私の身柄は両親に引き渡された。


 私は父と母に連れられ、家に、あのロイヤルハイツに帰り、ハットリは無罪放免で帰された。父の車に乗せられる時、私は玄関に立っているハットリを振り返った。ハットリは真剣な目をしていた。私はハットリに深く頷いてみせた。私は死なないから、と。強い気持ちをこめて。それが伝わったかどうかは、分からない。ハットリは片手をあげ、そのままの姿勢で走り去る車を見送っていた。


 私はこれから両親と話さなければならないプレッシャーよりも、ハットリを傷つけたことばかりが気になって、今すぐにでも飛んでいってハットリに詫びたかった。ハットリを失いたくない。それが今の私のたった一つの願いだった。



 うちに帰ると食卓に父と母が並んで座った。私はこの光景を見るのが実はずいぶんと久しぶりなことに気付いた。離婚する前も、二人が揃って並ぶことは滅多になかった。それが、今、二人とも陰鬱とした面持ちで座ってコーヒーを啜っている。正面に私を置いて。


 夜明けの淡い光が窓から差し込んでいる。父は疲れたような顔をし、母は怒ったような顔をしていた。窓の外は美しい空の色。明けてゆき、透明で、濃い闇色からみずみずしい群青へと変わりつつあった。ハットリもこの空を見ているだろうか。それとも、疲れてもう寝てるだろうか。


 私も草臥れていたけれど、興奮していたせいか頭の芯が冴えすぎてまるで眠気を感じなかった。ただ、手足がだるく体が重かった。きっと部屋の空気が重いからだ。沈黙が足元へ落ちては溜まっていくのを感じる。俯いてカップをいじっていた母がため息まじりに、

「夏、ちゃんと説明してちょうだい……」

「……」

「なにがあったのか、教えてちょうだい」

 と、懇願するような調子で言った。


「夏、お父さんもお母さんも夏の味方なんだから。正直に話しなさい」

 と、父までが口を揃えた。


 ケリをつける。私はハットリの言葉を思い出し、大きく息を吸い込んだ。


「……私が本当のことを言ったら、お父さん達も私の質問に答えてくれる?」

 二人はちょっと当惑したように顔を見合わせたけれど、やがて頷いた。


「私、嫌われてるの。学校で」

「そんな、どうして……」


 母が口を挟みかけたのを父が制した。私は先を続けることにした。それがどんな結果を招くとも、やらなければいけないと信じて。


「理由は分からない。理由が本当にあるのかどうかも分からない。でも、そんなこと問題じゃないの。誰も口をきいてくれないし、教科書はびりびりにされるし、椅子がなくなったり、机の中をぶちまけられたり、トイレでリンチされるし、とてもまともな神経じゃいられない。学校はそれを黙殺してるわ。他の生徒もみんな、どんなことがあっても無視してる。これ以上、学校にいるのに耐えられないの。ハットリとは……学校サボってる時に偶然出会ったの。ハットリは美大生で、その友達とかとも仲良くなって、絵を描いたり音楽聴いたり、本読んだりしてた。ハットリたちは学校の子達より少なくとも大人だから、故意に私を傷つけたりしない。だから、私はあの人達といたいの……。ハットリ達は私になにも言わない。ただ、私を受け入れて、そこにいさせてくれる。私が私でいいんだってことを、教えてくれるの」


 母は信じられないといった顔で私を見ていた。母の化粧がはげて、ぐっと老けて見える。目の下の隈が浮き上がり、私は「ああ、お母さんこんなに年とっちゃって」と思わずにはおけなかった。


「でもね、夏、相手は大学生でしょ。よく知らない人のところに入り浸るなんて……」

「最初はみんな知らない人だよ。学校の子達だって、そうじゃない。学校が安全で、同い年だからみんなが仲良くなれるなんて思わないで。そんなことはありえないんだから」

「勉強はどうするの。高校受験もあるのよ」

「お母さんは私がボコにされても、それでも学校へ行けっていうの?」

「先生に相談したの?」

「先生がなんかしてくれると本気で思ってるの? だったら、お母さんがしてみればいいわ。私は先生にチクったってまたいじめられるだけだから。それに、学校が知らないとでも思ってるの? 学校は知ってて全部無視してるのよ。どうしてだと思う? 面倒だからよ。学校が民主的な、平等なところだって思ってるの? そんなわけないって、誰だって知ってるわ」


 あんまり単刀直入すぎるだろうか。母は今はもう怒りよりもうろたえているようだった。


「でも、それが本当なら学校に言う必要があるだろう。その上で転校を考えたらどうだ」

「お父さん、それ本気で言ってるの?」

「お前に暴力をふるう子達の親にもはっきり言おう。声を大きくすれば、きっと学校だって無視し続けることはできないはずだ」

「……そうね……。それも、いいかもね。でも、お父さん、そもそもなんでこんなことになったと思う?」


 思えば父が私のことでなにかしようとか、こんなにも私のことを話すのは初めてのような気がした。いつだって不在だった父が今になってここにいて、家族の話し合いに参加している。それは今更のようで滑稽で物悲しい。あまりにもうわっ滑りしていて、情けなく、せつなかった。


「お父さん達が離婚しなければ、私は転校しなくてもすんだし、こんな目にもあわなかった」


 言いながら私はまたしても泣けてきて、視界が涙で歪んだ。涙で父の顔も母の顔も見えなかった。けれど、かえってそれは好都合で、私は洟水を啜りながら淡々と述べた。


「お父さん、いつから他に女の人がいたの。お母さんはいつからそれを知ってたの。私達、幸せだった時もあったのにあれは一体なんだったの? どうしてダメになる前に私に言ってくれなかったの? 私が子供だから? でも、私に関係のない話じゃないんだよ」

「夏……」

「お母さん、どうして写真とか全部捨てちゃったの。お父さんのこと、そんなに嫌いで忘れたいの?。お父さん、どうして私を引き取らなかったの。どうやってそれを決めたの、二人で。どうして私の意見を聞いてくれなかったの?。やっぱり私が子供だから?」

「……」

「私達、一体なんだったの? 私は、お父さんとお母さんにとって、なんなの?」


 涙がいよいよ溢れて、頬を濡らした。しかし、泣きながらも心は静かに澄み渡り、私は二人の方をまっすぐに向いていた。太陽がすでに黄色い光を投げ、スズメがさえずり交わすのが間抜けなほど平和な音楽となって私達に降り注いでいた。父も母も無言で私を見つめていた。


「私が子供だから、分からないこともあるのは、分かってる。お父さん達にしか分からないこともあるのも、分かる。離婚しか道がなかったんなら、そうなんでしょ。お父さん達が自分で決めたことなら、仕方ないと思う。でも、だったら、私にも決めさせてよ。私のことは、私に決めさせてよ。それがわがままとか、屁理屈だって言うなら、私に返して」

「……返すってなにを」

「私の生活を返して。そうしたら、私は学校にもちゃんと行って勉強して、問題なんて起こさない」


 そんなことができるはずないのは分かっている。私は無理難題を、それこそ子供が駄々をこねているのと変わらないようなことを言っているだけだ。それでも父も母も何も言えないであろうことは分かっていた。言えるぐらいなら、こんなところまではこなかったのだから。私達はずいぶん遠くまで来てしまった。もう帰ることなどできないほど、遠くへ。それが身に染みて悲しくてたまらなかった。


「もし仮に私がいじめられることが私のせいだとしても、だからってそれを甘んじて受けることなんてできないよ。私にだって、生きる権利がある」


 私は立ち上がり、隣室へ入ってするりと障子を閉めた。部屋は昨夜出て行った時のままだった。たった一晩のことだったのだ……。そう思うと、私はなんだかおかしくなってきて服を脱ぎながら一人で苦く笑った。


 カーテンをひき、布団に潜り込んで目を閉じたけれどとてもすぐには眠れなかった。父と母のことが気になった。しばらくの間、二人は黙っていたけれど、次第に低い声で言葉を交わすようになり、その頃には私は瞼が重くなり父と母がぼそぼそとやりとりするのをBGMに、泥のように重い眠りにからめとられていった。



 目が覚めた時には父はもういなくなっていた。母は台所で夕飯の仕度をしており、野菜を煮炊きする匂いが部屋中に満ちていた。優しい、平和な匂い。幸福な家庭の象徴的な匂い。私はあれだけ言いたい放題言ったくせに、父はどうしたのかを尋ねることができなかった。冷蔵庫から麦茶を出して飲むと、母が背中を向けたままで、

「今日はちらし寿司よ」

 と言った。母の作るちらし寿司は私の好物だった。私は包丁を持っている母にそっと、

「お母さん」

 と呼びかけた。


「ごめんね」


 一瞬、母の手が止まった。が、すぐにまた動き出した。


「……夏、自分の好きなように生きることだけが大人になることじゃないし、一人になることが大人になることでもないのよ」

「……」

「お母さんは夏のことを心配してるの」

「うん……」

「そのことは、覚えておいてちょうだい」

「……うん」


 母が泣いているのかと怖くなった。でも、そう言って振り向いた母は泣いてはおらず、かといって怒ってもいなかった。あんまり何も宿さない瞳なので、私はその静けさに母を別人のようだと思った。というよりは、私の母親であるというタイトルを外した一人の女の人だと思った。母が生まれて初めて、私に向き合っている。私という人間を尊重している。そう思うと嬉しいような悲しいような複雑な気分だった。まるで母に見放されたような、そのくせ母から認められたような気持ちだった。


「明日から、学校に行きなさい」

「……」

「とにかく、一度は行って先生と話しなさい」

「……」

「あった事を全部話してきなさい」

「……」

「それから、考えましょう。みんなで」


 母の物言いは優しかったけれど、ああ、結局はやっぱり行かなくちゃいけないんだなと思った。まあ、まさかすんなりひきこもらせてくれるとも思っていなかったけれど。


 一人になることが大人になることではないと言いながら、誰もが一人で生きていかなくてはいけない。だからこそ、誰かにいて欲しいと思う。例え、実際に目の前にいなくても、いると思うことが心を強くしてくれる。私は限りなく一人だ。でも、私の世界に人は溢れている。そう思い続けられたなら、私は一人ではなくなるだろう。


 翌日の朝はさすがに気分が重く、胃が痛んで朝ご飯はとても喉を通らなかった。母は何度も、

「サボらないで必ず行くのよ。教室に行けないなら、まっすぐに職員室に行けばいいわ。先生には電話してあるんだから」

 と念を押した。私が鼻先でふんふんと頷くだけなので、終い目には、

「学校まで送ろうか?」

 と言い出すほどだった。さすがにそれは格好悪いので私は「やめてよ」と言い、とにかく今日はちゃんと学校に行くと約束した。


 制服を着て、鏡に映る自分は見慣れない顔をしている。私は鏡を覗きながら、自分はいつからこんな顔になったのだろうと不思議に思った。私は自分の顔の中に苦悶の後を見出していた。勿論、誰にも分かるはずはないのだけれど、まるでナメクジの這った後のように、その痕跡が私の顔にある。誰かに似ていると思ったら、ハットリだった。


 そういえば、ハットリに連絡をとる間がなかった。といっても、ハットリの電話番号など知らないのだけれど。リカちゃんとコウゾウくんにはメールを入れて、事情を説明したけれど、二人ともハットリのことはなにも言わなかった。そうだ、今日、帰りにハットリのところに寄ろう。リュックも置きっぱなしになっていることだし。ハットリが怒っていなければいいけれど……。


 学校は私一人が欠けたところでどうということはなく、登校してくる大勢の生徒が門の中に飲み込まれていく。規則正しく並ぶ窓と、賑やかな話し声。グラウンドに照り返す太陽。それらがあまりにも変わらないので私はハットリと出会ってから今日までが夢だったような気がした。


 私は職員室ではなく、教室に向かった。校舎の階段を登り、三年の教室の階まで来ると廊下にいた生徒がみんな私を見てひそひそと耳打ちをしあった。

 背筋を伸ばし、心持ち顎先を上に向けるようにしてまっすぐに前を向いて廊下を通り教室へ入った。ここでも、誰もが私の姿を認めて驚き、囁きを交わした。玉島さん達はまだ来ていないようだった。


「おはよ」


 私は隣りの席の山田くんに声をかけた。ひどく懐かしいような気がしていた。山田くんは一瞬面食らったけれど、すぐに気を取り直して、

「おはよう」

 と返してくれた。


 私の机には彫刻刀で死ねだのブスだのと刻まれていたし、机の中には紙くずやゴミが詰めてあったけれど、不思議なことにそれらはもう私を傷つけなかった。あれほど苦痛だった教室が今は遠い。そこかしこに聞かれる囁きも、掲示板に張り出してあるテストの日程も、落書きも、黒板も、全部が自分には無関係のような気がする。私の心はひたすら静かで、なにも感じない。少なくとも痛みはしない。そのことに幾分ほっとしつつ、自分の中でなにが起きているのだろうかと我ながら不思議な気持ちになった。


 机の中のゴミをがさがさと引き出し、ゴミ箱に捨てると山田くんが私を見つめながら実に感じ入ったように言った。


「渡辺さん、急に大人っぽくなったみたい」

「そう?」

「なんか、落ち着いてるよね」

「そんなことないよ」

「そうそう、コンクールの練習、今日もあるけど大丈夫?」

「あ、あれ、やっぱり私がやるんだ?」

「代わりなんていないよ」


 期末試験も近付いてきている。試験が終わったらコンクールだったっけ。そんなことはすっかり忘れていた。ピアノの伴奏なんて誰がやっても同じだし、代わりなんていくらでもいる。けれど、山田くんがそんなことを言っているのではないのは分かっていた。私の代わりはいないのだ。それは私が世界に一人だからだ。それはどれだけ貴重で大切なことだろう。そのことをこの教室で他に誰が知っているだろうか。


 机に刻まれた文字を指でなぞる。ざらざらした感触。


「死ねって言われても、そう簡単には死ねないわ……」

「……渡辺さん、俺を卑怯者だと思ってる?」

「……どうして?」

「いや……」

「山田くんは全然卑怯じゃないよ」


 私は呟いた。私はもう知っていた。私一人、死んだところで世界はなにも変わらないということを。それが証拠にハットリの弟が自殺しても、やっぱりいじめはなくならないではないか。


 もし、私が死んだら。誰が私を覚えているだろう。誰が反省するだろう。否。私の死はその時は取り沙汰されても、すぐに忘れ去られるだろう。わざとらしい悲しみが漂った後に、また他の誰かが標的にされるだけだ。死は私を今の苦痛からは解放するかもしれないけれど、後にはなにも残さない。玉島さん達にしても、反省も後悔もなく大人になるだけだ。それどころか、自分達のしていることがいかに卑劣な行動かを認識することすらないかもしれない。笑いながら人を傷つけるのだから。罪の意識も植え付けられないで、私が死んでなんになるというのか。


 かといって、私は彼女達を許すことなどできはしない。今だって、胸の中でじりじりと復讐の気持ちが焼け焦げている。でも、それは彼女達を貶める類いの復讐ではない。私が生きて、幸せになることだけが彼女達への復讐なのだ。誰よりも幸福になることだけが、勝つことになる。


 山田くんがなにか言いかけて、やめた。視線を辿ると玉島さん達が登校してきたところだった。私は彼女達を見ると、またしても不思議なほど冷静になり、あれっ、この子達ってこんなに子供っぽい顔してたっけ? と思わずまじまじと見つめてしまった。玉島さんは自分の席に鞄を置くと、吉田さんや東田さんと耳打ちしあった。


「なんかさ~、くさいよね~」

「誰かさんが来ると教室が匂うよね~」


 彼女達は号令のようにみんなに向けて大きな声を出した。


 またしても教室中が独裁の行方を見守っている。私が受け入れられるのも、拒絶されるのも彼女達次第なのだ。でも、それももはや私にはどうでもいい。私は席についたまま、彼女達を見ていた。すると、吉田さん達の後ろで腕組みをしていた玉島さんが、

「なにしに来たの? ねえ?」

 威圧するように言葉を投げてきた。


 ……なにしに来たかというと、私はケリをつけに来たのだ。この馬鹿みたいな教室に。どんな言葉で返してやろうか。私は束の間思案した。


「あんたがいると教室が臭いんだよ。迷惑だから帰ってよ」

「……あんたが帰れば?」


 一瞬、教室に動揺が走った。


「集団で一人の人間を攻撃してなにが面白いわけ? あんた達のやってること、最低だわ。あんた達は人間のクズよ」


 玉島さんがあっけにとられたように私を見詰めていた。信じられないといった様子で。あまりのはっきりとした言いように誰もどう反応していいのか分からないようだった。教室中が固唾を飲んで成り行きを見守っていた。


 そう、それは革命だった。独裁を振るってきた玉島さん達への反逆。私はさらに続けた。教室中に実は密かに存在する同志へ語りかけるように。いや、むしろ、なんの意思も持たない生徒の良心への訴えだったかもしれない。


「あんた達みたいな最低の人間、初めて見たわ。人を傷つけることがそんなに楽しいの? それって恥ずかしくないの?」


 緊張の中で、最初に口火を切ったのは吉田さんだった。まるで悪い冗談を聞いたとでもいうように半笑いで、

「あんた、そんなこと言ってどうなるか分かってんの?」

 と、小馬鹿にするように言った。


「吉田さん。あなたも、いい加減やめたらどうなの? どうせ、一人じゃなんにもできないんでしょ。それとも、一生そうやって玉島さんの後をくっついていくの?」


 吉田さんは私の視線にあっけにとられているようだった。


「あんた達のこと好きな子って、本当にこのクラスにいるの? 自分達にそんなに自信があるの? この先もずっと? いつかきっと後悔すると思うよ。何年かして、あんた達はみんなからきっと卑劣で最低の人間として記憶されると思うわ。そして、あんた達は世界で最も最低の大人になると思う。かわいそうよね。同情するわ」


 開け放した窓から風が吹いている。新しい風だ。

「私に死んでほしい? 私がいなくなればいいと思ってる?」

「……」

「私もあんた達が死ねばいいと思ったわ。でも、長生きしてよ。ずっと。それがあんた達にとってどれだけ苦痛になるか、私には想像できるから」


 その言葉を聞くと、呆然としていた玉島さんは右手を振り上げ、そのまま私の頬へと振り下ろした。ばちんという派手な音がして、教室が凍りついた。目から火花が飛びそうな衝撃だったけれど、私はひるまなかった。それどころか、痛む頬を押えもせず、まっすぐに彼女の目を見据えた。あまつさえ、唇には微笑を浮かべて。


 私は負けない。負けるわけにはいかないのだ。


「もういいの? 一発でいいの? それとも、またトイレでボコにする?」


 ボコにされたって、いい。私にはハットリがいる。私には、友達がいる。ゼロじゃないのだ。


 傾城は明らかに彼女達に不利だった。教室の雰囲気も、風向きと共に変わっていくのを誰もが感じていた。


「タマ、行こ」


 吉田さんがひっこみのつかない玉島さんの腕をひいた。無言で私を睨みながら、身を翻して教室を出て行くのと同時に始業のチャイムが鳴った。それが玉島さんの栄華の終焉を告げる音だと、その場の誰もが思っていた。


 玉島さん達の一団が教室を走り出ると、俄かに教室は安堵のため息が一塊となって漏れた。まるで申し合わせたように、一斉にため息をついたのでみんなちょっと笑った。私の敵は教室中の全員だと思っていたけれど、違ったのだな。なんの主張も持たない愚鈍な羊の群れであることには変わりはないかもしれないけれど、羊は力ない生き物なだけで罪はない。そういうことなのだろう。教室に先生が来て、私の姿を認めると微かに目を潤ませた。


 結局、私は職員室で先生にこれまでのあらましを話し、玉島さん達のことも洗いざらい細かく話すはめになった。玉島さん達は教室には戻ってこなかった。そして、特筆すべきは教室の誰も玉島さんに同情的ではないということだった。


 先生は私の口から聞かされる陰惨な出来事にただ驚くばかりで、とても信じられないといった様子だった。先生にとっては玉島さんのような子供じみたわがままの方が理解しやすかったのかもしれない。単純なものは理解するに容易い。私は最後にこう付け加えた。


「昔、この学校でいじめを苦に自殺した生徒がいたって聞きました。その人はいじめのことを誰にも相談できなかったそうです。当時のことは知らないけど、たぶん、みんな、どうして言ってくれなかったのかとか、どうして気付かなかったのかとか、悔やんだと思います。でも、言えるわけないんです。学校ってそういうところなんです。それに、言えるわけがないわ。私達は子供だけど、子供には子供の世界があって、ルールがある。それに、自尊心もあるし、たぶん大人が思う以上に周りに対する配慮がある。自分の言葉が世界を壊すことを知ってる……」

「……」

「壊れたものが二度と戻らないことも、知ってるんです」

「……」

「だから、私は大丈夫です。死なない」

「渡辺さんにとって、学校も教師も、もう信用できないものなんだね」

「……そう思いますか?」

「……」

「信頼とか信用って、初めからあるものじゃなくて、作っていくものだと思います」

「これから作ることは、できる?」

「もしも先生が信頼されたいと思ってくれたら」

「……それは君の友達が教えてくれたこと?」

「……」


 私はちょっとだけ笑って見せただけで、それ以上は黙った。私達はなんて狭い世界に生きているんだろう。教師が完璧でもなければ、学校そのものが完成された世界でもないのだと、なぜ誰も疑わなかったのか。疑いのないところに、反省も向上もありえない。


 先生は玉島さん達にも事実関係を確認し、今後のことをよく話し合おうと言った。私は適当に相槌を打ち、キリのいいところで話をやめて学校を後にした。いくら話し合ったところで、今ではもう遅い。私はもう変わってしまった。


 海沿いの道に海の家が姿を現し始めていた。浜に沿ってずらずらと海の家が組み立てられ始めている。風が温く、陽射しは強い。日照時間は長く、なかなか日の暮れる様子はない。私は立ち止まって空を見上げた。


 ハットリの家に行くと、軒先に風鈴がぶら下げてあった。私は縁側から部屋にあがりながら、つと背伸びして風鈴につけられた短冊を読んだ。短冊には流麗な毛筆で「風立ちぬ。いざ、生きめやも」と書かれていた。堀辰雄の「風立ちぬ」だった。一体誰が書いたのだろう。まさかハットリじゃないだろうな。文字は女の人の手積のように見えた。そっと揺らすと透き通った美しい音が庭に響いた。麦茶を飲んで、ハットリの帰りを待っているとリカちゃんとコウゾウくんがやって来た。


「あれ? 夏、もう学校終わったの?」

「うん」

「なんだあ。もっと遅くなるかと思った」

「なんで?」

「だって、色々ややこしいかと思ってさ」


 リカちゃんは汗を拭きながら扇風機の風を「強」にして、大きく息をつきながら座り込んだ。


「ハットリは?」

「んー? どこ行ったんだろうねえ。今朝、実家に戻ってたみたいだけど」

「ハットリ、忙しいのよ」


 コウゾウくんが氷のたくさん入ったグラスにジンジャーエールを注ぎながら、リカちゃん同様に扇風機の前に座った。


「忙しいって? 学校が?」

「んー」

「…なに? なにかあるの?」


 私は風に髪をなびかせる二人ににじりよった。


「まだ何か隠してるの?」

「……隠してたとかじゃないよ」

「ねえ?」


 二人は気まずい顔で頷きあった。


「教えてよ。秘密にする意味ないよ。いずれ知ることなんだから」

「……」


 そう言うと、コウゾウくんが渋りながらも教えてくれた。


「ハットリ、大学は春から休学してるんだよね」

「休学って……。じゃあ、行ってないの?」

「うん」


 リカちゃんもこちらに向かって座りなおした。


「ハットリね、休学して旅に出るつもりなのよ」

「旅?」

「実は去年から準備しててね。世界を回って絵を描いて歩きたいって言ってて……」

「そんなお金あるの?」

「去年、おじいちゃんが亡くなったって言ったでしょう」

「……まさか、遺産……?」

「っていうほどのものでもないんだけど……」


 実に言いにくそうなリカちゃんの後をまたコウゾウくんが引き取った。


「去年、ハットリは結構頑張ってバイトとかしててね。お金、貯めてたんだよ」

「なんなの、旅って? どうして旅に出て絵を描きたいの? なにを描こうとしてるの?」

「いろんなものって本人は言ってるけど……」


 そこまで話したところで、珍しく玄関が開く音がした。私達は互いの顔を見合わせ、何事かと部屋をいざって横切り廊下に顔を突き出して玄関を窺った。どうやらハットリが戻ったらしく、玄関先でなにかごそごそやっていた。


「めずらしー。なんで玄関から戻ってきたんだろ」

 コウゾウくんが立ち上がった。そして「ハットリー」と呼びかけながら自分も玄関へ出て行った。


 世界を回って……。ハットリが……。廊下を覗いたままの姿勢で動かない私に、リカちゃんがそっと声をかけた。


「旅って言っても、帰ってこないわけじゃないから」

「……うん」


 ハットリの生活や性格を全部表していたようなこの家。これがハットリの世界だと思っていた。閉じられた世界だと。勝手な想像だけれど、精神に深手を負ったハットリはこの居心地の良い空間から出ることなどないと思っていたのだ。私はハットリの言っていたことが初めて理解できた。


 玄関ではまだ男数人がわいわいやっている。なにか荷物を「せーの」と持ち上げる時の掛け声。どしんという重たい音。リカちゃんも怪訝そうな顔をした。次いで、板張りの廊下をごろごろとキャスターの滑る音がしたかと思うと、ハットリと大学の男の子三人とコウゾウくんがピアノを押して入ってきた。


「えええ? ハットリ、これどうしたの?」


 リカちゃんが頓狂な声をあげた。上げながらも笑って、ピアノの通り道を荷物や卓袱台を除けた。ピアノは廊下を抜け、居間の畳を滑り、縁側にまたぐ形で置かれたところで止まった。私は驚きのあまり声も出なかった。


「ハットリ、これ誰のピアノ?」


 リカちゃんがさっそくピアノの蓋を開けながら尋ねた。男の子達は汗を拭き拭き、大きく息をついて座り込んだ。ハットリもガラス障子にもたれるようにして、腰を下ろした。


「夏の、ピアノ」

「え?!」


 蓋を開けて鍵盤に触ろうとしていたリカちゃんが今度は面食らって私を振り返った。コウゾウくんが冷たい麦茶をいれ、男の子に配った。ハットリもコップを受け取りながら、もう一度繰り返した。


「夏のピアノだよ」


 それは確かに紛れもなく、私のピアノだった。一目見て分かった。古いアップライトピアノ。塗装の禿げたペダル。脚に傷がつけてあり、そこにはイニシャルが二つ並べて彫ってある。私は無言でピアノの傍へ行き、イニシャルを確かめた。それは父と母のイニシャルだった。二人が幸福だった頃の証。私達がかつて幸福だったことを、このピアノだけが知っている。


 ハットリはポケットから煙草を取り出した。


「手紙、預かってるから」


 そう言うと、ポケットから一通の封筒を取り出し、私へ無造作に手渡した。昨夜のことが思い出され、ハットリの顔を見るのが恥ずかしかった。白い素っ気無い封筒で、表書きには「夏へ」と記されており、ハットリのポケットに入っていただけあって生ぬるく、汗で湿っているような気さえした。


 私は封筒を開いてみた。父からの手紙だった。父が手紙なんて書くということに驚き、震える指で丁寧に畳まれた便箋を広げた。懐かしくさえある父の文字。これはきっといつも愛用していた万年筆で書いたのだろう。父はいつもスーツの内ポケットに洒落た万年筆を持っていた。手紙の内容は以下の通りだった。


「夏へ。

 引っ越してからあまりメールも電話もできなくて悪かったと思っています。仕事が忙しかったというのもあるけれど、それ以上にお父さんは夏になにを言っていいのか分からなくて、そのせいで辛い思いをさせてしまいました。お父さん達の勝手な理由で夏を傷つけてしまい、本当に悪かった。お父さん達は離婚のことを夏に説明するのが怖くて、上手く言えなかった。争うところも見せたくなかったし、言葉にすれば互いの悪口になってしまうので本当のことを言うことができなかったのです。でも、それは夏を騙したのではなく、ただ傷つけたくなかったからです。そのことは分かってほしい。けれどお父さん達は間違っていました。夏を傷つけたくないからこそ、いつも本当のことを言うべきだったのです。なぜなら、お父さんのことも、お母さんのことも、夏のことも、それぞれにしか分からないからです。夏、これからお父さんと友達になろう。お父さんと夏はもう一緒に暮らすことはできないけれど、絶交したわけじゃない。話したいことが沢山ある。今は後悔の気持ちでいっぱいです。夏も、本当のことを話してほしい。人間は言葉でしかコミュニケーションがとれない生き物です。言わなければ分からない。お父さんは今も夏を大事に思っているし、理解したいと思っているよ。お母さんも同じ気持ちです。お母さんとも沢山話しをしてください。

 学校のこと、服部くんに聞きました。お父さんは、もし、夏がどうしても学校に行けないならそれでいいと思っています。高校受験なんて、塾や家庭教師をつければいいことで、夏の幸せが一番大事だと思う。お母さんは反対のようですが、この事についてはまたみんなで話し合おう。

 夏のピアノを服部くんのところに預けます。お父さんはこのピアノを夏がお嫁に行く時にでも持たせてあげるつもりでした。それまで預かっておくつもりだった。でも、服部くんのところに置かせてくれるそうなので、そこで弾かせてもらって下さい。お父さんも夏のピアノが好きだったよ。

 もうすぐ誕生日だね。また欲しいものを知らせて下さい。お父さんは死ぬまでずっと夏の誕生日を祝うと決めています。どんな仕事よりも、それがお父さんにとって一番大事な仕事だと思っています。連絡を待っています。

 父より」


 読み終わると私は運ばれてきたピアノの前に立った。ぽんと鍵盤を人差し指で叩いてみる。


「ハットリ、お父さんになんて言ったの」

「……その手紙、なんて書いてあった?」

「……」


 私は鍵盤から目を離さずに、再びぽんぽんと鍵盤を押さえた。


「……夏にはピアノが必要だって。今の家に置けないなら、うちに置くから渡して欲しいって言ったんだよ」

「……」


 みんなが心配そうに、俯く私を見守っているのが分かった。私は無言で鞄から楽譜を取り出し、ハットリに投げてよこした。そしてピアノと一緒に運ばれてきた小型の長椅子に腰掛けた。ピアノは縁側と居間の敷居をまたいで斜めに置かれ、座ってみるとまるで庭に半分せり出しているような気がした。朝顔がもう私の身長を超えてツルを伸ばしている。健やかに、空に向かって伸びている。その姿を私は心から美しいと思った。


 リカちゃん達がハットリの手にした楽譜を覗き込むと、

「ああ~、懐かしい~」

「これって、あれだ? 合唱コンクール?」

 と口々に言った。


「え? 夏、伴奏やるの?」

「……そう。はい、みんな、歌って」


 私はそう言うと「空がこんなに青いとは」の伴奏を弾き始めた。涙が零れないように、固く唇を結んで。


 ハットリが立ち上がると、リカちゃんもコウゾウくんも、ハットリの大学の友達もみんな私の背後にずらずらと並んだ。


 知らなかったよ。空がこんなに青いとは。

 手を繋いで歩いて行って、みんなであおいだ空。

 ほんとに青い空。

 空は教えてくれた。

 大きい心を持つように。友達の手を離さぬように。


 私のピアノの調べにのって、彼らの歌声は高く、大きく夏空へ吸い込まれていく。弾き終わるとみんなが自画自賛で拍手をした。リカちゃんが嬉しそうに、

「いい音ねえ! 夏、上手だわあ」

 といつまでも手を叩いた。コウゾウくんも、

「他にもなんか弾いてよ」

 とせがんだ。


「私ん時はねー、『気球に乗ってどこまでも』だったよ」

「ああ、そんなんもあったなあ」

「パッヘルベルのカノンとかもあったよね」

「あれ、難しいんだよね」

「コウゾウのクラスって何歌ったんだっけ?」

「……怪獣のバラード……」

「ぎゃはははは!!」

「なによ! アタシが選んだわけじゃないんだから!」

「ハマりすぎだよ、それ~~」


 リカちゃんやハットリの大学の友達の爆笑が炸裂した。私もちょっと笑ってしまった。


 するとコウゾウくんは笑っているハットリに、

「ハットリの時ってなに歌った? 合唱コンクール。覚えてる?」

 と尋ねた。


「翼をください」

「あら、定番~」


 ……翼をください……。私はハットリを振り向いた。


「ハットリ、旅に出るんだって?」


 私は自分の声が固くなっているのを感じた。それはひどく思いつめたような、切実な響きだったと思う。笑いさざめいていたリカちゃんやコウゾウくん達がしんと黙った。


「……うん」

「いつから?」

「来月」

「どこ行くの?」

「まずはヨーロッパの予定だけど……」

「なんで? なにしに行くの?」

「……絵を描きに行くんだよ」

「わざわざ海外に? どうして? それがハットリの夢なの?」


 だめだ。どうしたって冷静ではいられない。声が震えて、鼻の奥が痛い。ピアノを取り戻したと思ったら、ハットリを失わなければいけないなんてそんなことには耐えられない。それなら私はピアノなんてなくたっていい。ハットリがいれば、他にはなにもいらない。空がどんなに青いかも知ったことではないし、翼だって欲しくない。気球に乗ってどこまでも行かなくていいし、怪獣なんて滅んでしまえばいい。涙のカノンの複雑なアンサンブルもくそくらえだ。ショパンもモーツァルトも、シューベルトもバッハもいらない。


 ピアノは父のところへ返そう。私はいっそそう言ってしまおうかと思った。どうしたら引き止められるのかを頭をフル回転させて考えていた。しかし、ハットリは静かに言った。


「最初はアキミツの夢だったけど、今は俺の夢。あいつが行きたがった気持ち、分かる。行って、目にするものや出会った人を絵にしてみたいんだ」

「そんなの逃げじゃないの」

 私はハットリを強く睨んだ。でもハットリはその不貞腐れた視線を優しく見返して、

「初めはそうでも、今は違うよ。世界が本当はもっと優しくて希望に満ちてると信じたかったあいつの気持ちが、今は分かるんだよ」

「……」

「お前に会って、余計に、はっきり分かった。世の中、そう捨てたもんでもないって」

 私はまたハットリに背を向けた。


「ハットリ、空は世界中どこに行っても青いから、世界を回って見る必要はないって詩、知ってる?」

「……知ってるよ。ゲーテだろ。お前、シブい詩読んでんのな」

「世界中どこに行っても空は青いんだよ」

「だろうな」

「じゃあ、別に行かなくてもいいじゃん」

「夏」

「……」


 ハットリが私の隣りに腰掛けた。といっても、椅子の端にかろうじて尻をちょっとのせるぐらいの幅しかないのだけれど。私達はぴったり並んで鍵盤に向かう形になった。私はハットリの顔を見ることができなくて、黄ばんだ白鍵と黒鍵を見つめていた。


「世界中どこに行っても同じ空なら、俺とお前は同じ空を見てるってことだろ」

「……」

「どこにいても、つながってるんだよ」

「……」

「俺達、友達だろ」


 私は世界を旅してまわるというハットリが羨ましかった。そうやって世界に出て行けるハットリが。それに比べて自分はどうだろう。まだここから動くことはできない。まるで呪縛。問題が片付いたわけではない。これから、もっとややこしいことがあるだろう。子供であるがゆえに。私は思わずため息をついた。


「それに、お前言っただろ。俺の中にアキミツは生きてるって。だから、俺はあいつの分まで生きて、あいつの分まで絵を描く」

「……コンクールまではいる? 見にきてくれる……?」

「空がこんなに青いとは、か。いいよ。行くよ」


 空はどこに行っても青い。でも、青だって一種類しかないわけじゃない。たくさんの青を、ハットリは見たいのだろう。私は思わず、ぽろりと言葉を漏らした。


「……もし、行かないでって言ったら、行かない?」

「お前、やっぱ俺にホレてんだろ」

「ちがうよ!」

「また速攻かよ!」


 ハットリは笑いながら私の肩に腕をまわした。そして、一度だけぎゅうと力をいれて引き寄せ、すぐに腕をほどいた。もう、なにも言うことはなかった。


 私は、私のピアノでみんながリクエストするトルコ行進曲やエリーゼのためにを弾き、最後にハットリの為に「翼をください」を弾いた。優しい音が満ちて、日は暮れようとしていた。ハットリは無言でそれに聴き入っていた。


 旅に出るというハットリにも、ここにいる私にも翼はない。あるとしたら、互いの存在だけだ。しかし、私はそれが翼の役割を果たすことを信じてやまなかった。



 結局、あれからそんなにもめることなく学校に行けるようになった。教室の勢力図は変わりつつあるようで、玉島さん達のグループの代わりに今度は別な女の子達がはばをきかせるようになってきた。が、彼女達は私に興味はないようで、攻撃を受けることはなかった。


 しかし、仲のいい友達はできなかった。強いて言うなら、山田くんだけが唯一私に「友達」として接してくれる。勢力図が変わったといっても、なにもかもが急変するわけではないのだなと思った。私と山田くんが付き合っているという噂だけは絶えず流れたけれど、実際には私達の関係に進展はなかった。


 今度は誰がいじめの的になるのか、教室には時々妙な緊張が流れる時がある。それから目を逸らすように、教室は賑やかになり、平和になり、またぎこちなくなる。先生はいじめの嵐が過ぎさったことに胸を撫で下ろしているだろう。でも、生徒達はみんな知っている。それが束の間の休息であることを。


 期末試験が終わると合唱コンクールが行われた。私は予定通り伴奏をし、山田くんは指揮をした。ハットリは約束を守り、父兄にまじってコンクールを見に来た。リカちゃん達も一緒だった。それは異様な光景で、コンクールの後、誰もが「あれは誰の知り合いなんだ」と噂にした。そのぐらい、彼らは浮いていた。山田くんはちょっと私を見たけれど、苦笑いしただけで何も言わなかった。


 母は今もハットリを良くは思っていない。たまに、露骨にいやな顔をする。私はそれに反論するつもりはなく、仕方ないと思っていた。


 ハットリは旅に出る前夜、私に家の鍵をくれた。この家に鍵なんてものがあるのをすっかり忘れていたので、最初はなにがなんだか分からなかった。てっきりハットリは家の鍵をいつものように開け放して行くのだと思っていた。そのぐらい、ハットリは身軽な様子で、いつ帰るとも言わず、「ちょっと、そこまで」と言う雰囲気だったから。しかし、ハットリは大切そうに小箱から二つの鍵を取り出し、一つを私に握らせて言った。


「この家な、俺のじいさんの家だったんだけどな、じいさんは死んだら親父じゃなくて、俺とアキミツに家をくれるってずっと言ってたんだよ。だから、この鍵は一個は俺の」

「……じゃあ、これは弟の分?」

「お前にやるよ」

「……」

「あれ? お前、前に俺と暮らしたいって言わなかったっけ?」

「……」


 ハットリは笑いながら、

「ここも、お前んちだ。お前の場所だよ」

「……ハットリ、私は弟の身代わりじゃないよ」

「当たり前だ。夏は、夏だ。いいか、誰も誰かの代わりになんてなれないんだよ。世界にお前は一人だけなんだからな。だから……死ぬなよ?」

「ハットリもね」


 私は手の中の鍵をぎゅっと握り締めた。泣いてはいけない。泣けば、ハットリの心に影ができる。私は必死で涙をこらえて微笑んだ。


「ハットリ、ありがとう」

「……礼を言うのは、こっちだ」

「私、なんにもしてないよ」

「いや、お前は知らないだろうけど、いろんなものくれたよ」

「……」

「少なくとも、空が青いこととか、思い出した」

「それは……」


 それは私が思ったことだった。ハットリが私の空そのものなのだ。いよいよ涙が溢れそうで、私は唇を噛んだ。


 私も一緒に行きたい。行けたなら。そう言いたかった。でも、私にはまだここでするべきことがある。学校はくだらないけれど、私は何からももう逃げたりはしないと決めたのだから。例えどんなに辛いことがあっても、ハットリもどこかで同じ空を見ているのなら、そう信じられたなら、今はここで、例え一人きりになったとしても強い気持ちで生きていける。そして、その気持ちが私の翼になって自由な空を飛ばせてくれるだろう。青く澄み渡る空を。遠く、高く。どこまでも。

                      

 あとがき


 当時、私は30歳。本作品で小説すばる新人賞最終候補作品に選ばれた。以後も他社の公募で他作品が候補に残りはしたものの、どれも未だ受賞には至っていない。惜しい。

 公募にはルールがあり、一度発表したものは投稿してはいけないことになっている。その時々で出来る限りの努力をしたものが日の目を見ないのは、自分の未熟さ故と承知しているが、なまじ千人近い応募者の中から最後の三人まで残るだけに惜しい気持ちは捨てきれるものでもない。要は諦めが悪いのだ。

 評価は真摯に受け止めている。足りないものがまだまだあるのだ。

 けれど。「受賞には至らなかったが、まるっきりダメというわけでもない」というただ一点のみにおいて、どこかにチャンスを探している。チャンスというのは「誰かに届く」かもしれないチャンスだ。

 そこで製本が比較的安価で容易になった今、その機会を設けてみることにした。

 読んでくださった方に、心から感謝します。あなたの心に何か届けられたなら、幸いです。「足らずを補い」「書き続ける」ことを命題に今後も努力を続けていく所存です。いずれどこかでデビュー作品をお目にかけられたらと思います。


追記

主人公「夏」のその後…遠い未来の人生を描いた長編「さよならのかわりに」は小説現代長編新人賞の一次選考に通過しました。

                                     


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空がこんなに青いとは 三村小稲 @maki-novel

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