クルミパン

増田朋美

クルミパン

クルミパン

その日はひどい雨で、まるで田んぼが海になってしまっているような雨であったが、かえってそのほうがいい、みんなが家にいるきっかけにもなってくれるだろう、なんて政府関係者は口にしていた。それほど、発疹熱が蔓延してしまって、医療機関はパニック状態、葬儀関係者もパニック状態に陥っていた。皆、どこに行くにもマスクをして、手袋をして、必ずアルコールの消毒液を持って、

「武装」して外を出歩いていた。スーパーマーケットのレジには、電話ボックスのような小さなガラスの箱が置かれ、店員はその小さな窓から手を出して、接客することを強いられていた。さらに、野菜とか、コメとかそういうものを大量に買い占めてしまう客まで出たもんだから、食品売り場の売り棚は、ほとんど空っぽになってしまって、本当に欲しい客には手に入らないという現象まで起きるようになった。

そんな中でも、製鉄所は、相変わらず営業を続けていた。なぜか、こういう時世になって、娘や息子を預かってくれと申し込んでくる客が増えた。つまるところ、精神障害者というのは、ただ、怖いとか、苦しいとか表現をするだけで、それ以外に何か変えることができるという人たちではないので、家族は、これほどの邪魔はいられても困ると思ってしまうのだろう。そういうわけで、製鉄所では、いつもと同じように、利用したい人がやってきて、思い思いに勉強したり、わずかながらに与えられている仕事をやったりする、といういつもと変わらない風景が、繰り広げられていた。

変わったことと言えば、精神障害などあるはずのない花村さんが、製鉄所に泊まり込みでやってきている、というだけだった。

その日ブッチャーは、利用者さんが注文した着物を納品するため、製鉄所を訪れた。いつ物流が止まるかわからないから、最近は近場であれば、ブッチャーが自ら着物を納品するようになっていた。その日は、やたら雨がひどかったので、ブッチャーは着物が濡れてしまわないようビニール袋を何重にもかぶせて、それを風呂敷で包んで持って行った。

「いやあ、こんにちは。えーと、佐藤美恵子さんはいらっしゃいますかね。」

ブッチャーは注文者の名前を言った。利用者がタオルを持ってきてくれて、ブッチャーに中へ入るように言った。次の納品はないので、ブッチャーはそうすることにした。利用者の後をついて、食堂に行くと、何人かの利用者が、そこで勉強したり、読書したりしていた。いわゆる、三密を避けるようにと政府は言っていたが、ここでは隣同士で勉強を教えあったり、だれかとしゃべったりすることが普通に行われていた。そういうことはいけないことだと指摘する人もいるのかもしれないが、ここにきている利用者たちは、みんな家族から出ていけとか、いなく成れと言われてきている人たちであるということを忘れてはいけない。そういう人たちだからこそ、親和動機が働いて、たとえこんな状況であっても、勉強を教えあったりすることをやめないのである。

「えーと、佐藤美恵子さんはいますか?」

と、ブッチャーが言うと、食堂のちょうど真ん中に座っていた若い女性が、私ですが、と言った。ブッチャーが、注文した着物を持ってきましたというと、佐藤さんは近くに置いてあった財布から、三千円を取り出してブッチャーに渡した。そして、ブッチャーから着物の入っているビニール包みを受け取って、

「開けてもいいですか?」

とにこやかに言う。ブッチャーがどうぞというと、彼女は、はさみを筆箱から出して、ビニール包みを開けた。化繊の着物であるが、明るい赤色で、十分かわいらしい。菊に桜の花がちりばめられた小紋だった。ほかの利用者たちが、ちょっと着てみてよ、と話しかけて、彼女は洋服の上からそれを試着したりしていた。誰も、佐藤美恵子さんのそういう行為を責めたり怒ったりするものはいなかった。みんな、ここを利用している人たちは、一度家族からはっきりと、いらないやつだといわれている人たちだからだ。そうなると、どうしても美しいものや、かわいいものを身に着けて、自分を慰めようという、心理が働いてしまうことを、この製鉄所にいる人たちは知っている。だから、周りの誰かをねたむとか、うらやましいと思ったりはしない。佐藤美恵子さんの場合、着物を買うことで、自分を慰めているのだろう。

製鉄所の利用者たちが、かわいいねとか、いい着物を選んだねとか、そういうことを言い合っている間に、誰かがせき込む声がした。それをした人物だってすぐわかる。大丈夫かな、とブッチャーは思って、すぐに四畳半に行ってみた。

四畳半のふすまを開けると、水穂さんが、花村さんに体を支えてもらって、布団に座っていた。水穂さんは、ひどくせき込んでいた。花村さんがほら、と言って、水穂さんの口元に、タオルをあてがってやると、タオルは赤く染まってしまった。しばらくそれが続くので、花村さんが背中をさすって吐き出しやすくしてやっている。そのあと、花村さんは吸い飲みをとって、水穂さんの口に中身を流し込んだ。いわゆる、鎮血の薬だ。水穂さんはせき込んでいたが、これを飲んでしまうと咳も静かになっていき、すやすやと眠ってしまうのであった。

「今日も、相変わらず、発作ですか。」

ブッチャーは、あーあ、とため息をついた。花村さんも、水穂さんを布団に寝かせて、かけ布団をかけてやりながら、ふっとため息をつく。

「水穂さん、もうダメかもしれませんよ。」

花村さんはそういうことを言った。

「ダメって、何がダメなんですか?」

ブッチャーはそう聞いたが、内容はすぐに分かった。

「ああ、また食べる気がしないと言って、何も食べないんですか。」

そういうと、花村さんは黙ってうなづいた。

「ええ、そういうことです。今まで何回かこういうことはあって、そのたびに何か食べさせてクリアしてきましたが、もうおかゆも何も食べようとしてくれません。確かに、病状が悪化していることもあるんでしょうが、何よりも、このご時世で、本人の気力がないんでしょうね。そうなると、人間はもうおしまいになってしまう。医療者ではありませんけど、書物に書いてあったのでそうなんだと思います。」

ブッチャーはそれを聞いて、大変残念に思ってしまった。そして、それを由紀子さんや、俺の姉ちゃんが聞いたら、湯気を立てて怒るか、涙をこぼして泣き出すか、のいずれかだと思った。

「しかし、最後の最後まであきらめないほうが、いいんじゃありませんか。ほら、俺がよく読んでいた漫画に、あきらめたらそこで試合終了だという言葉がありました。」

「ええ、でも、それはあくまでもバスケットボールで勝つための言葉です。今の場面で使うべきものではありません。」

花村さんは、きっぱりとそういうことを言った。

「でも、俺はあきらめたくありません。俺は、いくら重い病気であっても、あきらめずに最後までやり抜くことが一番だと思うんです。ほら、あの水泳の選手だってそうだったじゃありませんか。彼女だって、最後までやり抜いたでしょ。それと同じだと思うんですよ。」

「須藤さんは、まだお若いから、そういうことを言うんですよ。その競泳選手だって同じことです。でも、ある程度の年齢を超すと、そういう理論は通用しなくなる。むしろ逆のほうが良い立場の人もいるでしょう。」

ブッチャーがそういうと、花村さんは訂正した。確かにその訂正のほうが、優っているのかもしれなかった。確かに、このご時世で、ここにきている利用者たちをはじめとして、いらないと言われてしまう人は数多くいた。何年か前には、障碍者施設で、大量殺人事件が発生したこともあるが、その犯人の主張だって、似たような主張を説く人は、数多くいる。

「でも、花村さん。俺、水穂さんのこと、ほったらかしにして、死なせてしまうのはちょっとかわいそうです。それだけはどうしても避けたいと思ってしまうんですがね。」

ブッチャーは自分の思っていることをはっきりといった。

「ええ、だからこそ私も、ここへ来させてもらっているんです。医療従事者は、今は別のことに専念しなければならないでしょうし、水穂さんが他人の世話を借りないと生きていけないのも、また事実ですからね。それは仕方ないことだから、こういうご時世、暇人な私が、手伝っても何も不自然ではないでしょうから。」

どうやら、花村さんもそこだけは同じ気持ちだったんだなと思って、ブッチャーはほっとした。それだけは、よかったとブッチャーは思う。

「そうですよ。発作だけは、いつでもどこでも起こすんですから。」

花村さんは、静かに眠っている水穂さんの顔を見た。

「だけど、ご飯を食べてくれないことは、俺は心配というか、残念でなりません。何とかして食べてもらえるようにしていかなくてはならないと思います。あきらめてしまうのではなくて。俺はそう思うのですが、、、。」

ブッチャーは、まだあきらめきれないと、花村さんに言った。

「でも、もうおかゆを何日も口にしてくれないので。」

と、花村さんがそういうが、

「おかゆ以外に、なんか食べるものはあるんではないかと思うんですがね。何か、ほかの食べ物はないのかな。俺、ちょっと探してみます。例えば、今はやりのゼリーみたいな健康食品だっていいわけでしょう。」

と、ブッチャーは、若い人らしいことを言い始めた。確かに、健康食品はいろんなところに売られていた。今は、食事よりも、そのほうがいいという人もたくさんいる。それに、栄養面だって優れている。ただ、何か一つ、かけているなと思われることはあるのだが。

「俺、探してきますよ。水穂さんが食べられそうなもの。日本にはいろんな食べ物がありますから、必ず何か見つかるのではないかと思います。」

ブッチャーはよいしょと言って立ち上がった。すぐに食べ物が見つかるかという保証はないかもしれないけれど、何とかして、食べられそうなものを見つけたいという気持ちがあった。

とりあえず、スーパーマーケットに行ってみる。でも、食べ物は先ほど述べたように、発疹熱のせいで、ほとんどの人に買い占められていて、まったく売られていなかった。健康食品のコーナーに行ってみたが、それも売っていなかった。あるとしたら、ビタミン剤のような錠剤のようなものしかなかった。肉も野菜もレトルトも、冷凍食品でさえも、何も売っていないのだ。そばもうどんもラーメンも、売っているのは、まずいという悪評のレトルト食品しか売られていない。

これでは、花村さんに負けてしまったのではないか、とブッチャーは思った。実は、花村さんにああいうことを言われてしまって、ブッチャーはちょっとムカッと来たというか、怒りの気持ちになったのである。生きている人間に、もう駄目だなんて決めつけることは、明治くらいの治療法が何もない時代だったら、言ってもいいかもしれないが、今の時代だったら、言ってはいけないような気がしたのだ。

ブッチャーは、仕方ない、バスでも使って、別のショッピングモールへ行くか。と思った。本当は、不要不急の外出は禁止されていて、法律でも罰することができる制度になっていたが、今のブッチャーはそんなことはどうでもよかった。ある意味アウトローであった。バスだって、窓を全開にして、五人以上乗せてはいけないとか、色いろ決まりがあるようであるが、ブッチャーは、バス停でバスを待った。運転手にどこへ行くんだと聞かれたら、うちへ帰ると嘘をついてもいいやと思っていた。


「よう、ブッチャー君。こんなところでどうしたの?」

ふいに声がしたので、ブッチャーは後ろを振り向く。振り向くといたのは蘭だった。

「どうしたんですか、蘭さん。もしかして、蘭さんも食料の買い物ですか?」

「いや、うちは、食料は通販で賄っている。ただ、タブレットの電池交換に来ただけだ。それがないと、お客さんとの連絡ができないので。」

と、ブッチャーが聞くと、蘭は、そう答えた。確かに、タブレットのことだったら、外出しなければならないかもしれなかった。政府は、外出を控えようと言っているけれど、今の人は、こんなにものがあって、いろんなものを使いこなさなきゃいけないから、それに関連する用事はいくらでもできてしまう。いくら、外出を控えろと呼びかけても、なかなか効果はないよなあと、ブッチャーは思ってしまった。

「それより、ブッチャー君、君はバスに乗っていくつもりだったのかい?」

蘭がそういうのでブッチャーははいと答えた。すると蘭は、バスは密集を避けるため、このショッピングモールにやってくるバスは、廃線になったと言った。それよりも、個人で利用するタクシーに乗っていったほうが、安全だし、偏見もないと説明してくれた。ブッチャーがタクシーを呼ぼうとスマートフォンを取り出すと、

「ついでに、君のうちは近所にあるんだから、バラ公園まで乗っていったらどうだ?」

と、蘭が言った。ブッチャーは、別のショッピングモールに行こうとしていたということを、どうしても蘭の前で言えなくって、黙ってしまった。

「まあ、いいじゃないか。安全面を考えて、ワゴンタイプのタクシーで来てもらうように頼んだので、それに乗っていきな。」

「蘭さんはいいですねえ。」

とブッチャーは、ため息をつく。

「何が?」

「だから、そうやって、大型のタクシーに一人で乗れるからですよ。世の中にはねえ、もう生きるのをあきらめなきゃいけないという人だっているんですよ!」

ブッチャーがそういうと、蘭ははっとして、それは誰のことだとブッチャーに詰問した。ブッチャーも、こうなったら、やけくそになって、水穂さんのことだといった。もう、お米のおかゆでさえも、口に入らない、と蘭に説明した。それをすると蘭は、見る見るうちに悲しい顔になる。

「よし!コメじゃなくて、ほかのものを食べさせればそれでいいんだ!」

蘭も、一日一度しか外出してはいけないと、法律が作られてしまっているのを忘れていた。

「どうしたんですか。蘭さん。もうスーパーには、食べるものは何もありませんよ。蘭さんだって見ればわかるでしょう。ほとんど、錠剤とか、役に立たない薬とか、そういうものしか売ってなかったじゃないですか!」

「そんなこと百もわかってるさ!そうじゃなくて、食べものを作っている人に直接お願いしに行くのさ。」

どういうことだろうとブッチャーは思った。ということは、野菜でも作ってる人に、食べ物を分けてもらうようにお願いするのかな。そうなったら、まるで戦時中の時のようだ。


そうこうしているうちに、目の前にジャンボタクシーがやってきた。確かにセダン型のタクシーよりは、室内が広いし、衛生的である。蘭は、悪いが行き先を変更してくれないかとお願いする。行き先の変更は、原則として認められていない。運転手は、そんな危ない橋を渡れないといったが、蘭は、財布を開けて一万円札を出し、これでお願いするというと、仕方なく運転手はタクシーを動かしてくれた。

二人は、ジャンボタクシーに乗って、例のドイツパンのにおいがする家に来た。運転手に手伝ってもらってタクシーを降り、雨に濡れてびしょぬれになりながら、そのお宅のインターフォンを押す。どうしたんだこんな雨が降っているときに、なんて言いながら、阿部慎一君が、玄関先に出てきてくれた。とりあえず、雨でさぞかし大変だっただろうから、お茶でも飲んでいきなと、阿部君は、二人に、家に入るように言った。

阿部君の家の中は、パンのにおいでいっぱいだった。しかし、単なるパンのにおいではない。小麦のパンではなく、何か別のパンを作っている家だなということは、間違いなかった。蘭は阿部君に自分の友人の須藤聰君だよと紹介し、阿部君のことは、自分の小学校時代、同じクラスだった人物だと紹介した。

「で、蘭さん、その同級生さんに何の用があるんですか?」

と思わずブッチャーは言ってしまった。本来なら失礼な発言かもしれないが、今は非常事態だから、それを責める人はいなかった。

「阿部君。」

と、蘭は、一万円札を再び取り出して、阿部君に言った。

「これでお礼をするから、クルミパンでも作ってもらえないだろうか!ライムギだけを使って、小麦を一切使わないで作ってみてくれ!」

「ちょっと待て。なんでいきなり、」

阿部君はちょっと戸惑った顔をしている。そういう風に、感情が高ぶると、理論的にものを説明するのが難しくなるのが、蘭さんの特性なんだなとブッチャーは思った。そこでブッチャーは、蘭に代わって、水穂さんのことを説明した。水穂さんのことを、阿部君も覚えてくれていたらしい。なるほどなるほどと相槌を打ってくれている。

「わかったよ。じゃあ、夕方までにはできるから、ここで待っててくれる?」

と、阿部君はにこやかに言った。そして、材料であるライ麦粉とクルミ、ヨーグルトやイースト菌などを冷蔵庫から出して、パンを作り始めた。量りで粉を図るのも、パンこね機で材料を混ぜるのも、本当に手際よいものであった。さすがに手ごねというものはできないようであったが、パンこね機の中を見物するのも、大変面白いもので、蘭たちは退屈しなかった。40分ほど発酵させている間、蘭たちは、お茶を飲ませてもらった。その時、三人は、例の発疹熱のせいで、色いろ不自由していることを語りあった。そう語ってみて、やっぱり人間は、つながっていないとだめだなあと、ブッチャーはそう感じた。

発酵が終わって、パンこね機でガス抜きをすると、阿部君は生地をスケッパーで分割し、アンパンと同じくらいの大きさの丸い形に成型した。その手つきも手早く、それでいてしっかり成型できているので、蘭もブッチャーも、感心してしまった。

そして、10分ほど記事を休ませてから、オーブンを予熱して、生地を天板に乗せ、20分ほど焼いてしまえば完成である。確かに、ライムギしか使用していないので、茶色っぽい、がりがりした硬そうな雰囲気のパンになった。

「よし、これを水穂に食べさせよう。」

蘭はそう気合を入れていったが、自分は製鉄所に出入りができないことを思い出した。その顔を見て、ブッチャーはじゃあ、俺がそれをします、と言って、阿部君が箱詰めしてくれたクルミパンを受け取った。

二人は、阿部君に丁寧に礼を言った。蘭は、もう一枚一万円札を渡そうとしたが、

「いや、気にしなくていいよ。伊能君が友達思いなのは、ちゃんと知っているからね。」

と、阿部君はそれを受け取らなかった。二人は、それぞれ別々のタクシーを取り、もう完全にアウトローになった気分で、阿部君の家から、蘭は自宅へ、ブッチャーは製鉄所に戻っていった。


ブッチャーが製鉄所に戻ってくると、いつの間にか雨がやんでいた。誰かが、明日は晴れるわよなんてのんびりした会話を口にしている。ブッチャーが四畳半に戻ると、水穂さんは、相変わらず四畳半で眠っていて、花村さんが、枕元を整理していた。

「水穂さん、蘭さんのお知り合いの方に、クルミパンを作ってもらいました。ライムギのパンなので、当たる心配はありません。どうぞ食べてください。」

ブッチャーは、箱を開けて、パンを一個取り出した。小さく千切るのも大変なほど、硬いパンであったが、できるだけ小さく切って、ブッチャーは、パンを水穂さんの口元にもっていく。このクルミパンが、水穂さんのこわばった唇をほどいてくれるかどうか。ブッチャーは、期待と不安でいっぱいだった。花村さんは、ダメかなという表情をしているが、眠っていた水穂さんの目が大きく開いた。そしてその、鉄の扉みたいな唇が、やっと開く。ブッチャーは、よし!と思って、その唇にクルミパンを押し込んだ。そして指を離すと、水穂さんの口は、クルミパンを咀嚼しているとはっきり確認できたのである。

「水穂さん、水で流し込んだほうがよろしいですか。」

と、花村さんがそっと、吸い飲みを口にあてがった。どうせなら、お茶のほうが良いのではないかとブッチャーは思ったが、ぐいっとのどがなって、水と一緒にパンを飲み込んだんだということが、ブッチャーにも、花村さんにも確認できた。

「どうですか、クルミパンはうまいですか。やっぱり、手作りの食品だから、味が違っていいでしょう。」

ブッチャーがそういうと、水穂さんは黙って頷いた。

「もしかしたら、生まれて初めて、パンを食べたのかもしれませんね。」

と、花村さんが、苦笑いしながらそういうことを言った。




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クルミパン 増田朋美 @masubuchi4996

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