金魚鉢
逆瀬川さかせ
金魚鉢
あれは私が幼稚園に上がる前の頃のことだったろうか。車で祖父母の家に向かうときに通る大きな道のそばに、一軒の花屋があった。その花屋自体は特に変わった建物ではなかったのか、記憶には残ってないが、色褪せた一台の茶色い路面電車がその花屋の隣に置かれていたのを覚えている。
祖父母の家からの帰りには、必ずと言っていいほど信号に引っ掛かって、その花屋の前で車が停まった。そのため、いつも電車が目についた。ところが、その電車はある時突然姿を消した。いつものように信号で止まった時に、どこを見ても電車の姿は見当たらなかったのである。あれから十五年以上が過ぎた。あの電車のことも今では幼少期のとるに足らない思い出の一つに過ぎない。きっとこれからの歳月の積み重ねの中で、他の雑多な記憶と共に深く埋もれていくのだろう。そう思っていたのだが、私は先日思いがけずあの電車と再会したのである。
先日、散歩の途中で立ち寄った公園で、私は見覚えのある電車を発見した。色があの日見た電車よりも薄い気がするが、形は紛れもなく同じものだ。あの日見た電車の番号は確か「79」だったが、目の前の電車には「71」と書かれている。説明板によれば、昭和五十年まで大阪と神戸の間を結んでいた「阪神国道線」という電車らしい。
使われなくなってから四十五年も残っているのだから、相当運がいい電車だろう。けれども、柵と低い屋根に囲まれて窮屈そうに見える。
そんな電車の前に座り、スケッチブックを広げている女性がいた。彼女のそばを通るときに一瞥すると、スケッチブックには電車が描かれていた。それも柵に囲まれて公園の片隅に置かれている姿ではなく、夜の街をバックに走る姿だ。繊細なタッチに思わず感嘆させられた。
それに気付いたのか彼女は顔を上げた。そして、微笑んでこう言った。
「この電車、金魚鉢って呼ばれてるんですよ」
彼女はそれから、火が付いたように語り始めた。その説明によれば、戦前に造られたこの電車は、丸みを帯びた流線型のデザインや、車体高さの半分を占めるほどに大きな窓から「金魚鉢」の愛称を持っているらしい。
私が、子どもの頃に見た花屋の電車について話すと、
「ああ、
「となると、やっぱり見るのは難しいですよね」
「時間はかかりますけど、これを使えば大丈夫です!」
彼女はそう言って手元のスケッチブックを見せた。
それから数日後のことである。私は久しぶりに高校時代の友人の家を訪ね、その帰りに阪神国道を歩いていた。もう遅い時間とあって歩道を行く人は少ない。そろそろ終電の時間だな。そう思いつつ青になった横断歩道を渡ろうとしたとき、私はあの電車が中央分離帯の辺りに停まっているのに気が付いた。おでこの部分には一灯のヘッドライトが光り、大きな窓からは温かみを感じさせる、黄色みがかった灯りが漏れている。番号は「79」と読める。あの日花屋の隣に置かれていた電車だ。思わず足を止めると、「プシュー、ガラガラ」と音を立てて目の前で扉が開いた。
「乗っていきませんか」
開いた扉から顔を出したのはあの日公園で出会った彼女だった。ステップに足をかけて乗り込むと、扉が閉まり、それと同時に電車はゆっくりと動き始めた。床下からくぐもった音が聞こえ、振動が伝わってくる。
「びっくりしましたよ。まさかこんなところで会うなんて。それにしても、線路も無いのにこの電車はどうやって動いてるんですか」
「それは……」
私の質問に答えかけた彼女の顔の前を一匹の赤い金魚が横切った。
「金魚……?」
車内を見渡してみると、白熱灯に照らされたレトロな車内を無数の金魚が泳ぎ回っていた。和金、琉金、出目金、コメット、朱文金、
「どうして線路が無いのに電車が動いてるのか、どうして水が無いのに金魚が泳いでるのか、深く考えちゃダメですよ」
彼女は私にそう言った。はぐらかされた気がしないでもないが、言うとおり深く考えないようにしよう。
私は彼女と並んで椅子に腰かけた。古い電車で椅子も木製だけど、座る部分と背もたれにはちゃんと緑色のモケットが貼られている。
窓の外に目をやると、眼下に街灯で照らされた国道が光の道のようになっているのが見えた。電車はいつの間にか空を飛んでいたのだ。視線を他に転じてみると、
「何気にこの角度の夜景って、こうして空からしか見えないんですよね。マンションだと高さが足りないですし」
彼女がポツリと言った。確かに、阪神間の夜景をこれくらい高い位置から眺めようとすると甲山なり、六甲山なりに登らなければならず、ビュースポットも山側に固まっている。一方、私たちが今見ている海側からの夜景を見れるスポットはほとんど無いに等しい。マンションなどもあるにはあるが、居住者以外が入るのは難しいだろうし、第一高さが足りない。見ようと思えばセスナを貸切るくらいしか手立てがないだろう。
「そう思うと、こうやって二人で見れてるのって結構贅沢なことですよね」
私はそう返した。
「ええ」
彼女は静かに微笑んだ。「金魚鉢」は街や国道を見下ろしながら夜空を進んでいく。
その後、どこで電車を降りたのかは覚えていない。気が付くとアパートの自分の部屋の布団で寝ていた。カーテンを開けようと思い、立ち上がった私は隣にもう一つ布団が敷かれているのに気が付いた。そして、窓際に所狭しと金魚鉢が並べられていて、見覚えのある金魚たちが泳いでるのにも気が付いた。朝になって魔法が解けてしまったのか、金魚たちはごくごく普通に水中を泳ぎ回っている。「金魚鉢」も今頃は魔法が解けて、本来いるべき琵琶湖の畔で眠りについているのだろうか。私はふとそんなことを考えた。
金魚鉢 逆瀬川さかせ @sakasegawa
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