エピローグ

 図書部員と思しき冴えない男子生徒が、図書室の入口に新聞を張り付けている。その後ろを駆け抜け、階段を二段飛びで驀進。


 途中、がっしりした体格の女子生徒とぶつかりそうになった。


「あ、すみません!」


 振り返って頭を下げると、相手はニヤニヤしながら「いいのよ」という風に優雅に手をヒラヒラさせた。


 なんだあれ。キモっ。


 三階まで一気に駆け上る。さすがに息が上がる。両手を羽ばたくように動かしながら、美術室に入る。


 美術部員の朝は早い。というか、今日は一限目から美術の授業がある。美術のマオ先生から頼まれていた物品を、美術準備室から美術室に出しておかねばならない。


 しかしそんなこと部員に頼むもんかね。不当労働ではないのか。美術部員がいないクラスの授業の時は先生が自分でやっているのに。


 カーテンが引かれ薄暗く静かな美術室内で、油彩のオイルの匂いが微かに鼻をくすぐる。頭の中でひとりでに、ナイフで色をペタリと乗せるイメージが被さってくる。ああ、やっぱりこの匂い、好きだなあ。

 


 結局、二ヶ月ほど行方不明の扱いだった。正確には五十七日間。もっと長かった気がしたんだけどな……。


 その間、両親から警察に捜索願が出され、十日ほどしてから先生から学校中に告知された。まあ、当たり前だなあ。みんなには迷惑と心配をかけた。


 家に帰ったとき、お母さんがその場で失神してしまった。すぐに意識は戻ったけど。お父さんは何事もなかったかのように「おかえり」と言ってくれたが、げっそりとやつれていて、次の日には会社を休んでしまった。

 その晩はゆっくりと風呂に入り、身体を隅々まで石鹸をつけ、文明の利器ナイロンたわしで擦った。どんだけ出るの、っていうくらい次から次へと垢が出た。


 さらりとした「懐かしい洗剤の人工的な匂い」のパジャマを着ると、あれほど飲みたかったコーラを飲むのも忘れて寝てしまった。


 翌日からは学校は夏休み。警察の人や学校の先生ともいろいろ話をしたけど、どう説明していいのか。次の日には病院を受診させられたが、結局よく分らないまま、安定剤のようなものをもらった。一度だけ飲んでみたが眠くなるのでやめた。

 カイリ障害とかなんとか、そんな病的な状態で放浪生活をしていた、ということになったみたい。


 まあ、病気扱いされるのもわかるよ。今振り返っても夢みたいで、自分でも現実とは思えない。


 でも、夢じゃない。


 前と逆転してスマホの中だけにいる女将さんとお繭を見つめる。あと他の向こうの世界の人たち――女中さんたちや団子屋のやっちゃん、おばさん、草履屋のおっさん、工場の男衆のマサさん、ゲンさん、具伍さん、与力の福留さん、同心の炙さん、そしてモロー。

 みんなはちゃんと実際に生きている。別のところで、生きているはず。そうでなきゃ、おかしい。

 だって、前はスマホの中だけになっちゃってたこの世界も、こうやってちゃんとあった。


 戻って数日してから小次郎――いや「ポチ」に会った。

 近所を歩いていると、後ろからポチの吠える声がした。振り向くと、遠くから飼い主がすごい勢いで散歩ひもに引っ張られてくる。白い毛が綺麗にカットされていた。


 凛々しいよ、ポチ。もともとそんなだったんだね。


 大喜びで互いに抱き合って押し倒されちゃった。飼い主も慌てて「あらごめんなさい、ごめんなさい」と平謝り。大丈夫です、仲良しなんです、と言うと、飼い主は不思議そうな顔をしていた。

 家の場所を教えてもらったので、その後もちょくちょくお土産を持って会いに行っている。


 夏休みの間に学校の友達と会ったりもしたが、なんかその「失踪」の話題にはみんな触れない。気を使ってくれているのだろう。いろいろと。わかるよ。ありがとう。


 そして夏休みが終わることには、日常がもとどおりになった。


 いや、変わった。コーラが飲めなくなった。一口飲んで、甘すぎてダメだった。まあ、ダイエットになるからいいか。


 学校で食べるおやつも、必要なくなった。

 そして歴史の授業に真面目に出るようになった。

 


 美術室内でしばしオイルの匂いを身体に馴染ませた後、美術準備室に入る。ここは、一般生徒は入れない秘密の博物館だ。入るたびに美術部顧問であるマオ先生の妙な作品が増えたり減ったりしている。


 今日は、粘土像だ。さてと。毎度ながら目の前にあるのは、小型犬ほどの大きさの、ただのぐにょぐにょの粘土塊だ。これは本当に芸術なのか。そして、粘土臭い。嫌い。粘土の匂い、鼻が痒くなるから、嫌い。


 さて、もうひとり来る筈なんだけど。


 思った瞬間、美術準備室のドアから、徳山が入って来た。相変わらず、おでこが張っている。


「なんだ、まだやってなかったのか。おっせーな。手伝うから、早くやれよ」


 乱暴な言葉遣いと裏腹に、テキパキと動いて一つの粘土塊の下に敷いてある台を持つ。そして、こちらを睨む。

「ほら、早く。まだ二つあるぞ」


 つい、徳山の顔をじろじろと見てしまう。

 やっぱりこいつ、どう見てもあいつの子孫だよなあ。十代くらい後か。しかし随分偉そうな態度だ。商売人でなかったら、こんなもんか。


 徳山が眉をひそめて何かを言おうとする。葵は慌てて粘土塊の台の下に手を差し入れた。


 ふと、準備室入り口の横の壁に、見覚えのない五十センチ四方ほどのアクリル画が掛けてあるのを見つけた。シンプルな静物画だ。

「これ、前あったっけ?」

「あ、それ、俺が描きかけてる奴な。今度の展覧会に出す。マオちゃんにアドバイス受けてるとこなんだ。武田も出すだろ?」


 葵はその言葉を無視して、その絵をじっと見る。見覚えがないのに、見覚えがある。


「徳山くん、これさ、何?」

「コレ? だから、今度の……」

「じゃなくて、何を描いたの?」


 葵の目は、絵の中の一点に集中していた。

 そこには、竹の筒に斜めに差さった一本の棒があった。そしてその端から、何か小さな物がぶら下がっている。


「何をって。これな。こないだ婆ちゃんが亡くなったときの遺品の中にあったんだ。親父によると、昔から代々伝わってる大事なもんだとか。かんざし、っていう奴だな。知ってんのか?」


 またじっと絵を見る。これ、たしかに……。

「これ、このぶら下がってるの、ひょっとして小さい犬じゃない?」


 徳山のおでこが一瞬前に出た。

「へ? なんでわかった? そこは後でもっと細かく描こうと思ってたんだけど」


 じっと絵を見て、そして徳山のデコっぱちを見た。


 そうか! あの後、のか! そうか!


 なんだか嬉しくなってきた。やっぱりは、あった。

 そして、あの後もずっといた!


 よかった!


「なんだよ気持ち悪いな。ニヤニヤしながらこっち見んな。それに早くしないとマオちゃんの気分を損ねるぞ」

「へいへいへーいでやんすう」


 徳山の顔が、一瞬こわばったような気がした。


 葵は口の端を上げ、両腕にぐいっと力をこめて、粘土像を持ち上げた。

 粘土の臭いが鼻を突いて、思わずくしゃみが出た。

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なぞの南蛮人 ンマニ伯爵 @nmani

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