第13話 翻転

 以前お繭と行った是付の櫛屋で、犬の飾りのついたかんざしを指す。


「これ、いただけますか?」


 中年の女店主がそれを見て、「いいのかい? これで。もっと高いのでもいいんだよ?」と心配そうな顔をする。


「いいんです。これ、すっごく可愛いし、めっちゃ気に入ってたんです」


 女店主は「めっちゃ、って言葉も可愛いよ!」と笑いながらかんざしを取り、布で丁寧に拭って紙で包んだ。

 包み紙には、葵がデザインした屋号紋が押してある。


 ふふ。我ながら格好いい出来だ。


「あいよ、また店先で似顔絵描いとくれ。色んな店の前で葵ちゃんが似顔絵やってくれて、この街も前とは賑わいが段違いだよ。江戸からわざわざ来る人も多いんさ。かんぺん、だったかい?」

 両手で差し出されたかんざしを、同じように両手で受け取る葵。

「キャンペーンです」葵が笑う。

「そうそう、かん……ぺえんだね。なんだかやっぱり南蛮の言葉は独特だねえ」

 傍らに置いてあった「たびおか」を一口飲む女店主。

「これも葵ちゃんが考えたんだってねえ。凄いよ。ほかの所でもじわじわ広がってるんだってね」


 モローが色んなところに行商で売り込んでくれて、「たびおか」「吸斗漏」が広がり始めていた。江戸にも顔本城の「アンテナショップ」が出来て、そこでも人気が出ているようだ。なんだか誇らしいような恥ずかしいような。もともとのアイデアはパクりだもんね……。

 複雑な思いで照れながら手を振ってお辞儀をする。


 さてと、宿屋に戻るか。

 店の前で待っていた小次郎とともに、別巣へと向かった。

 


「女将さん、ただいまあ」

 宿屋に戻ると、葵はスニーカーを脱ぎながら奥に向かって声を掛けた。

 すぐに女将が出てくる。

「葵ちゃん、おかえり! 最近忙しそうだけど、大丈夫かい?」

「大丈夫です。慣れました。――そうそう、お繭、います?」

 女将は小首をかしげ、手をポンと叩いた。

「お繭はあれだ。ちょっと用向きで出掛けてるねえ」


 そうか、残念。


「ありがとうございます!」

 頭を下げると、葵は詰所へと向かった。


 絵の道具箱を開ける。黒の南蛮筆を取り出し、先程受け取ったかんざしが入った包み紙に「お繭へ あおい」と書いて、箱の中に丁寧にしまった。そして、画板と南蛮筆を持ち、ため息をつく。


 街の賑わいを感じながら、あちこちで似顔絵や風景画を描く日々。小次郎もずっと一緒だ。

 日中は是付にも行き慣れた。ここしばらくは、この近辺には賊も出ていないらしく、一人でも昼間ならば安心して別巣と往復できる。是付に知り合いも増えてきた。さあ、今日は何をしよう。明日は、といろいろ考える余裕も出てきた。


 しかし何だか、疲れたのとも違う感じ。何かがむなしい。何だろう、この気持。しっくりこない。違和感がある。


 是付でも別巣でも、事あるごとに「南蛮」の情報にアンテナを張っている。知り合いになった同心の炙さんや与力の福留さんにも度々尋ねたが、その後も情報は全く無かったので、そのうちあまり尋ねることもなくなっていった。

 流行が広がった「たびおか」を辿って葵に到達する「現代人」が来るかもとも思ったが、そんな様子も無い。


 心の奥に固まっている、重い気持ち。元の世界に帰りたい気持ち。その外側に、この世界での生活の新しい記憶が少しずつ覆い重なっていく。

 まるで元の世界が過去――思い出になってしまったかのように、焦点が合わなくなっていく様な気がする。


 けどその中心にある気持ちは、やっぱり重いもの。吹っ切れない気持ち。


 ひょっとしていつまでもずっと、こんな気持ちのままなんだろうか。

 あるいはだんだん、時間とともに軽くなって消えてしまうのだろうか。


 宿屋の縁側にぽつんと座り、画板を横に置いて、じっと井戸を眺める。


 頭がだるく、重い。


 中庭の出入り口から、のそりと小次郎が顔を出した。

「小次郎、おいで」

 尻尾を振りながら来る。抱きしめるようにして背中や首を撫でてやる。


 かわいいなあ。小次郎はほんと、かわいい。


 手に首輪が当たる。

 どうだろう。小次郎も同じ気持ちなのかなあ。犬の気持ちって、どうなんだろう。

 犬にとって、本当の世界とか、そういう思いはあるんだろうか。


 何気なく首輪を眺めていると、POCHIと書いてある部分に膨らみがあるのに気づいた。ホックがついている。何かが入っているようだ。前は気づかなかった。


「ごめん、じっとしててね」


 ホックを外すと、中には細い鎖に繋がった金属の板が入っていた。引き出してみると、金属の板には文字が書いてある。

 


 《犬鑑札・令和元年・根木市》

 


 胸がびくんとして視界が狭まった。

 頭が真っ白になった。


 自分の町。元の街。その情景が一気に頭の中に展開して目の前に重なった。

 手の力が抜ける。

 小次郎が手から落ちてドサリと音を立てた。


 葵は目の焦点が合わないまま、よろよろと薄暗い部屋に戻った。

 部屋の隅に畳んであった学校の基準服に自然に手が伸びた。


 だめ。障子を開けたままで着物を脱ぎ、ひとりでにブラウスを身につけていた。


 いつもの動作、何も考えなくても自動的に動く。毎朝何度も何度もやって、半分ねぼけていてもできる動き。


 駄目。着ちゃダメだ。ダメよ。


 そして、スカートを履く。


 いや。着ちゃだめ。着ちゃったら……多分。心が全部ダメになる。

 でも、戻らなきゃ。戻らなきゃ? なんで? 

 戻れない! 戻れないのよ! 戻れないのに、着ちゃだめ! 

 ダメになる! せっかくの、ここでの私が、何もかも!


 思いとは裏腹に、いつの間にか手がするすると動いてブラウスのリボンを結んだ瞬間、その匂いと体の感覚で、ここでの生活で幾重にも塗り重ねてきた記憶の中にあるずっと抑え込んでいたつもりの気持ちが、ぶわっと一気に全身を貫き、枝葉を伸ばしてくまなく身体じゅうに「蘇って」きた。


 ダメだ。


 もうこの部屋、部屋の外の様子、強烈な違和感。

 違う。そぐわない。自分の部屋じゃない。

 ここは自分の場所じゃない。ここじゃない。

 自分がいるべきなのは、ここじゃない。


 偽物。


 ここは偽物の世界!


 体が硬直し、そして手足が小刻みに震えはじめた。


 手がひとりでにスカートのポケットに滑り込み、スマホを取り出す。電源はもう入らない。電源ボタンを押し続ける。反応しない。それでもずっと押し続ける。


 そう。この中に、友達がいる。学校の友だち、部活の友だち、先輩、後輩、ネットの友だち、フォローしている人たち、そして家族、街の人たち、馴染みの店のクーポン、ゲーム、動画、写真、音楽、ネットの世界、私の世界が、本当の世界が、全部入ってる。この世界に居たら、みんな、会えない。ここは私の世界じゃない。私の世界がない。私の世界にみんないるはずなのに、会えない。ここにはいないから、会えない。いるのはここじゃないから。ここじゃないから。ここじゃない! この世界は偽物!

 電源ボタンから指が離れない。やっぱダメだ、家に帰りたい。帰りたい帰りたい。これはゲームなの。ゲームはもういい。ゲームオーバーでいいから、バッドエンドでいいから、帰りたい。ここじゃないの。もう、ゲームは嫌だ! やっぱり帰りたいの!

 涙と鼻水と涎が次々とひとりでに流れ出てきてブラウスをべちょべちょに濡らした。それでも止まらない。ぼろぼろ出てきて止まらない。重く激しく渦巻く何かが胸をいっぱいにし、出口を探して押し寄せ涙とともにどくどくどくとくと溢れ出て一気に噴き出した。


「うおおおおおおお! おおおおおおおおおおおおお!!!」


 身体の奥からせりあがってくる津波に抗えず全身をがくがくと震わせて叫び続けた。


 帰りたい。ここは嫌じゃないけどダメ、帰りたい。あっちがいい。嫌じゃないけど、嫌! 嫌なの! ダメなの! ここは、もう、嫌――!!!!


 中庭の小次郎が不安げにこちらを見ている。でもごめんよ。抱きしめたい。けど、もうだめ。抱きしめる気力もない。だめなの。行けない。もうダメ……


 その時突然、全身に圧迫感を覚えた。


 えっ!?


 今までやっていた嗚咽を忘れた。

 目の前の小次郎が、


「小次郎ーー!!」


 慌てて近寄ろうとするが、細長く、そして半透明になり、存在が薄くなっていき……。


 消えた。


 転びながら小次郎のいた場所に駆けつけ、そこに立って呆然とする。

 空気が妙に熱く乾燥している。


 見回しても、小次郎の影も気配もない。


「小次郎! どこ!?」

 あたりを見回すが、葵が呼べばすぐにどこからでも尻尾を振って全力で走って来るはずの小次郎が、出てこない。


 ふと、井戸に目をやる。

 まさか、ここに落ちたんじゃ……。


「小次郎!」


 井戸の中を覗き込む。

 なんだか変だ。声がものすごく響く。

 そして、井戸が……空っぽだ!


 胸が激しく上下した。全身が動悸で震える。


 いつの間にか宿屋の廊下も、女中さんたちが不安げな顔でバタバタ音を立てて行き来し、慌ただしい雰囲気になっている。


 とにかく小次郎が心配。不気味な空気に驚いて外に逃げ出したんじゃないだろうか。


 急いで出入り口から通りに駆け出す。

 宿屋の入り口の前には、女将が不安げな顔で佇んでいた。

「あ、葵ちゃん。なんか悪い予感がするんで、出てきたんだけどね……。へっついの置き水、目の前で急に全部カラになっちまって。みんな大騒ぎさ」

 女将が葵の泣きはらした顔や格好を見て一瞬驚いた顔をするが、すぐにまた周囲を見回す。


 葵はようやく震える口を開く。

「こ、小次郎が……小次郎が、逃げ出しちゃって! いないの!」

「えっ、小次郎が!? 葵ちゃんにあんなに懐いてたのに。変なことになってなきゃいいけど。一緒に探そう!」


 二人は並んで、大声で「小次郎!」「小次郎ー!」と叫びながら通りを往復する。小次郎のあの毛だらけの姿はどこにもない。


 通りでは、同じように不安げな顔をした人々が、所在なげにうろついていた。


 一瞬、ガサリと音がして、草むらの方で何かが動いた気がした。

 思わずそちらに駆け寄る。


「あ、葵ちゃん、そっちは危ない。盗賊が潜んでるかも!」


 わかってる。でも、今捕まえないと、小次郎ともう一生会えない気がする。そんなの嫌だ。小次郎は、だ。小次郎だけは!

 絶対に、嫌だ。

 会えなくなるなんて、いや!


 必死で草むらの中に入っていく。

 振り向くと、女将が周囲を警戒しながらゆっくりと追ってくる。


 また、全身の圧迫感。なんだこれ。

 次の瞬間、地面が急になった。


 あ、え?


「あ、葵ちゃーん!」女将の声が聴こえた。


 両手を見る。薄い。透けてる。っていうか、どんどん背が……伸びて。


 下を見ると女将さんが両手を口に当ててその場にへたり込むのと同時に、そこに倒れた男が出現するのが見えた。

 一瞬、女将さんの声で「ジロさん!」という叫び声が聴こえたが、すぐに女将さんも、倒れた男も、そして草むらも、町も、地面も、もうずっと遠くに。


 そして、あっという間に真っ黒に。


 次の瞬間には、どこから来たのか虹色のリングが体にまとわりつき、うねうねと動き回っていた。


 な、なに!? これ!


 突然、色彩がなくなり、静寂に、すべてが止まった。そしてしばらくすると、いきなり背中に何か硬いものがドンとぶち当たって来た。


 痛っ!


 背中をすごい力で前にぐいぐい押してくる。

 何だこれ。

 あわてて右手を背中に回して確かめようとする。

 平らで硬い大きな壁のようなものだ。大きすぎてつかめない。左手も同様だ。

 頭の後ろも、足も、硬くて平らで冷たいものにぐんぐんぐんぐん前に押されて……。


 ふと意識が回転した。


 広い硬い平面……ゆ、床だ。石? いや、もっとこう、普通の。


 背中を床に着けたまま、灰色の空間をじっと見上げる。ぼんやりと、奥行きが判るようになってきた。


 奥行き……向こうの壁? いや、天井か。継ぎ目のある白い板がコピペしたように整然と並び、一面に小さくて黒い不定形の模様がついている。

 天井を見回していくと、定規で引いたような真っ直ぐな境目、そして、横には透明なガラス窓。鈍く銀色に光る窓枠……。


「窓! ガラス! アルミサッシ!」


 眼の前で突如として「わかる世界」が一気に気がした。

 ガバっと起き上がる。頭がズキズキする。見回すと、とっても馴染みのある、見覚えのある光景だ。


 ここ、学校じゃん!


 立ち上がって見回す。高校棟の一階だ。


 基準服に袖を通した瞬間に自分の全身の中でパンパンに膨らんでいたモノがとめどもなく外に溢れ出して「世界」と一体化した。


 や、やった! 帰って来た! 本物の世界! 信じらんない! うっひょうほう!

 とにかく早く帰りたい! 家だ、いえ! お母さん、お父さん!


 土足のまま駆け足で靴箱のあるエリアを通り過ぎて校舎の外に出る。

 疲れのせいか、なんだかだるく不安で、暑く感じる。けどそんなの、もうどうでもいい。

 本物なら、暑くてもだるくても。

 だってだから!


 外に出て振り返ると、校舎の上の方の窓ガラスが割れている。というか、校舎が半壊してる。

 なんだろう。ゲームの影響か。


 空を見上げると、UFOのような形のものが二つ見えた。

 あれに乗って戻ってきたのかな? とも思ったが、じっと見ると、どうも単なる雲のようだ。


 なんだか分からないけど、もう、いい! とにかく早く家に帰って、キンキンに冷えたコーラ飲みたい!


 ゲームクリアだな! やった!



 駆け足で校門をぶっちぎり、コーラコーラとぶつぶつ言いながら家路を急ぐ。

 車の音が耳に心地よい。真っ直ぐ並ぶ電柱の存在感、整然と立つ街灯の安心感、足裏に馴染むしっかりしたアスファルトの感触、発進する車の躍動感、鼻腔に届く排気ガスの臭い、ひらひらした洋服の人、点滅する信号、だれかのスマホの着信音、がっしりしたガードレール、幾何学的な横断歩道の線、灰色のコンクリートとカラフルでプラスチッキーな店構えのコンビニから聴こえるいつもの案内音楽!!!!


 文明が発する無駄な光と音と臭いと空気の味と振動を全身に存分に受け止め、空虚と思っていた心の中をどんどんと埋めていきながら、葵はひたすら家への足を速めていった。

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