夏の忘れ物

木屋輔枠

夏の忘れ物

 蒸気みたいな熱風が頬をなでた。

 場所が変わったところで夏は夏だ。

 片側一車線の道路を舐めるように目で追い、顔を上げる。

 緩やかな坂道。でこぼこしたコンクリート。

 その先には昼下がりの太陽。


「……」


 十年ぶりなのに何も変わっていない。

 反対側の道は雑草がもりもりと生い茂り、木々が青々とした葉を風に揺らす。

 強い日差しが葉っぱの上に降り注いで、深い影とまばゆい光のコントラストが目に染みる。

 鳴りやまない蝉の合唱が猛然と押し寄せて、自分の輪郭がぐにゃぐにゃになっていく。


 暑い。


 半袖のTシャツとカーキ色のハーフパンツにビーチサンダル。持参したうちわで首元に風を送る。

 近所のコンビニに行くみたいな恰好で、俺は帰省していた。

 機械的に足を動かして坂道を登る。


 キンキンに冷えたビールが体中に行き渡るイメージが脳裏に浮かびあがって、それしか考えられなくなる。

 ゾンビみたいな目でコンビニを探すけれど、あるのは観光客用の釣り堀だけ。

 夏休みは観光客でにぎわうはずの釣り堀に、今年は人の気配がない。少し不思議だけれど圧倒的な夏の暑さを前に、全ては些末な問題だった。

 惜しみなく熱を届けてくれる太陽と、長く伸びる坂道を細目でにらむ。

 帰省なんてやめておけばよかった。


 俺は大学卒業と同時に地元を出て都内のワンルームで一人暮らしをしている普通の会社員だ。

 会社が休みの今日は特に予定もない、ただ暑いだけの日。

 暑いだけの平和な休日に、突然エアコンが爆発した。

 修理を頼むも部品がないらしく、三日ほど待てと言われた。

 一つしかない窓を全開にして、パンツ一枚で寝転ぶ。足元から扇風機が必死に風を送っていた。

 西に傾き始めた太陽が容赦なく部屋を暖める。俺を燻製にでもするつもりか。

 夏の熱気に包まれて、ここが実家だったらなあと思う。

 昼になると日が差し込まなくなって、少し暗くなる畳の部屋。井草の匂いと柔らかさ。たまに日陰を通った涼しい風が流れ込む。


「……」


 行く、行かないと脳内でせめぎ合って、ここで溶けているよりも歩いて汗を流す方がましだろうと起き上がる。

 そうして今、坂の途中で後悔しているわけなのだが。



 よたよた歩きながら「ううう」と、うめいてバス停のベンチに腰を下ろす。

 固いベンチに身を沈めるようにうなだれて、大きく息をついた。

 生い茂った葉っぱが屋根になり、少しだけ冷たい空気が立ち込めている。

 葉の隙間から漏れた光が風とともに揺れる。


 バス停の看板は風雨にさらされて色を失っている。時刻表は白の面積が圧倒的に多く、一時間に一本あるかないか。

 誰もいないし、車も通らない。

 もやっぽい青空と白い日差し、ざわざわと揺れる新緑。

 何も変わらない風景の中、変わったのは俺だけだ。


 坂の上からコツコツと足音が近づいてくる。

 夏の熱気が淀んで背中に積もっていた俺の隣にその人は座った。

 ちらっと顔を見た瞬間、全身にぶわっと血が巡った。


 長本夏美ながもと なつみ、俺の彼女だった人。


 慌てて顔を伏せる。

 高校時代の同級生である長本は、俺の記憶の中の長本と全く変わっていない。

 自分の腹を見下ろして、ズボンに乗った肉をぎゅっとつまむ。

 俺の髪はあの頃より伸びたし、その、彼女といっても付き合っていたのは一ヶ月くらいだったから、たぶん長本は俺だと分からないだろう。


 長本の家は俺の家から離れていて、ここら辺にはバスで来ていたはずだ。

 目の前の時刻表を見たけれど、今が何時か分からないからどうしようもない。

 細かいプリーツの入った紺色のロングスカートに白の丸襟のブラウス。

 横顔をちらりと盗み見る。

 細い首にのった顔は、小さな唇をとがらせて、鋭く前を見つめていた。

 一ヶ月しか付き合ったことのない俺でも分かる。

 今、長本はめちゃくちゃ不機嫌だ。


 西に動き始めた太陽の熱と木々が蓄えた湿っぽい涼しさが風に乗って運ばれてくる。

 長本のポニーテールが俺の方に流れる。

 終わりゆく夏。

 胸に溜まったこの熱は、この夏の――それとも恋心の残滓なのか。


「あの」


 思わず話しかけていた。


「…………?」


 長本はぱっと俺の顔を見て、眉毛をちょっとハの字にした。丸い目が見開かれてさらに丸くなる。

 疑っているときの長本の癖だ。全然変わってなくて笑いそうになる。


「あの……、もしかして、国木くんの――」

「ああ! いいのいいの俺のことは!」


 なおも訝し気に俺を見る長本をそのままに話し出す。


「えと、暑いですね、今日」

「あ、まあ……」

「俺、久しぶりに帰省したんですけど、やっぱり地元っていいですね」

「はあ……、私はここから出たことないので……」


 前を向いて時刻表に目をやる長本を見て、また面白くなる。

 俺との会話をやめたがっている。


「こんな場所に何か用でもあったの?」

「まあ……人に会う用事、的な」

「なんか不機嫌そうじゃん」

「……あなたに関係ないですよね」


 高校時代に戻った感じがして、つい軽口をきいた俺はギロリとにらまれた。

 怖くなって上体を起こして両手をあげる。


「いや、俺、不審者とかじゃなくて! ほら、何も武器持ってないし。うちわだけ!」


 ばたばたと長本をあおいでやる。

 長本は「うわっ」と手のひらを俺に向けて(ひどくないか?)、冷めた目で俺を見る。


「……男の人って、何考えてるか分からないですよね」


 うちわを持ったまま静止する。

 えっ、なにこれ……。俺に何を求めているのか。


「まあ……それを言うなら女の方が分からんけど……」


 長本と付き合っていたわずかな期間、長本の機嫌の取り方が俺にはさっぱり分からなかった。


「そういうとこですよ」

「えっ」


 長本のあきれたような眼差しは、中途半端に生ぬるい。


「ほら、女友達だったら『何かあったの?』とか聞くじゃないですか。今の口ぶりで私が男の人のことで悩んでるなーって分かる……と思うんですけど」

「あー、あー……」


 まあ、そう言われればそうかもしれない。


「それなら直接……」

「直接言うほどのことじゃないじゃないですか」

「……」


 やっぱり女はめんどくせえ。俺にどうしろと。

 長本は持っていたハンドバッグからタオルハンカチを出して首の汗をぬぐう。そういえば長本は汗っかきだったな……。


「あ」

「……なんですか」

「ああ、いや……」


 顔を見られたくなくて、目を伏せる。

 坂の上から、いかついエンジン音が聞こえてきた。


「あー、バス来ましたね」


 渡りに船と、長本が立ち上がる。

 日陰から出て、バス停の横に立つ。

 バスが坂を下りて近づいてくる。


「な、長本、あのさ」

「? なんで私の名前……」

「そいつも、何ていうか、悪気があったわけじゃないと、思う」

「……何の話ですか?」


 バスが俺たちの前に止まって、プシューと扉が開く。

 長本がステップに足をかけて、振り返る。


「おじさんは乗らないの?」

「あ、ああ。俺は乗らない」


 階段をのぼるために足に力を込めた長本の背中に叫んでいた。


「君のことが好きなんだ!」


 長本が大きく目を見開いて、俺の顔をまじまじと見る。


「君が……君が君自身のことを、どう考えてるのかは俺には分からないけど! 俺は君が好きだった!」


 バタンと扉は閉じられて、ガラスの向こうに驚きで固まった顔の長本が見える。

 そのまま遠ざかっていく。

 坂の下で右に曲がってバスが消えるまで俺は長本を見送っていた。

 排気音がどんどん小さくなって、蝉の声と日差しが俺を現実に引き戻す。


「帰るか……」


 そう言って、俺は坂を登るのをやめた。


          □


「ふう……」


 店の自動ドアをくぐって、外に出る。

 地面から湧き上がる熱気に全身から汗が噴き出した。


 2030年の今も、夏は変わらず暑い。

 

 店の方を振り返る。

 タイムトラベルサービスを提供する会社、『ディライト急便』の真新しい看板が目に入る。

 まさか俺が生きている間にタイムマシンが開発されるなんて思ってもみなかった。


「一時間の料金、無駄にしちまった」

 

 俺の実家は十年前の冬、取り壊された。

 老朽化していて、オリンピックの年に建て替える予定だった。

 だから、タイムマシンで十年前――2020年の夏の実家に行こうとしたが、坂道を歩いただけで終わってしまった。(過去に遡ろうとするほど金がかかるのだ。)


 長本が汗を拭くのを見て思い出した。

 あの日、長本は俺の家に遊びに来ていた。

 俺の部屋のクーラーは壊れていて、汗っかきの長本はさぞかし困っただろう。

 彼女の首にキスをして「すげえ汗」と言った瞬間、俺はぶっ飛ばされて壁に激突した。

 俺としては汗かいてるくらいの方がむしろ……と思ったけれど、長本にとってはそういう問題ではなかったみたいだ。

 コンプレックスだったんだろう。


「お客さん! 忘れ物!」


 振り返ると女の店員が俺を追いかけていた。

 その右手には俺のうちわが握られている。


「あっ……すみません。ありがとうございます」


 受け取って歩き出そうとして、シャツの裾が引っ張られる。


「……もしかして、国木?」

「はあ」


 店員が眉毛をハの字にして俺の顔をまじまじと見ている。

 この顔の雰囲気、さっきも……


「……長本」

「うわあ偶然」


 俺も「うわあ」と言ってみる。

 明るい茶色のショートカット。よく見るとさっきまで見ていたあの顔だ。

 少しやつれた印象はあるけれど、俺と違って長本は太っていない。


「国木も東京出てたんだ」

「うん、長本も……。元気そうだな」

「……」

「……」


 見つめ合って、沈黙。

 俺たちの間に、どこからか草を蒸したような生温かい風が流れる。


 夏の風は時をかける大河だ。

 必要ないほど暑かった夏は、通り過ぎる頃には人肌くらいの温もりになっていて、心の中に寂しさを置いていく。

 十年前も今も、変わらずに流れている。


「あのさ……もし暇だったら、仕事後、飲みに行かねえ?」


 酒を飲むジェスチャーをして、思わず長本を誘っていた。


「……いいよ。じゃあ、七時にまたここで」

「本当? じゃあ後で」


 夏は暑い。

 俺の輪郭も君の輪郭も蜃気楼みたいに揺らめいて、全部まぼろしみたいに見える。

 だから、よく分からない間に一歩踏み出している。


 歩き出して気が付いた。

 

 今日も家のエアコン、壊れてる。

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