足下のたからもの

津田薪太郎

第1話

 ある、春の日のことである。この時期の私にとって最も素晴らしいことといえば、散歩であった。家のそばを流れる川は、流れに沿ってずっと桜の木が植えてあって、それが春の時節となると一面真っ白になるくらい花を咲かせるのだ。

 私はその桜を目当てに外に出た。家を出て、川沿いをゆったりと歩いて、橋を渡って戻ってくるつもりだった。

 暫し歩いてから、もう帰ろうかと思い、写真を撮る人が多く来ている橋を渡った。両側では、カメラや携帯を構えて、皆思い思いに写真を撮影している。生憎と、私はそんな物を持っていないので写真を撮ることは出来なかった。

 橋を渡っていると、足に違和感を覚えた。私は視線を足下に向けた。財布である。茶色い革製の財布が、足元に落ちていた。それを拾い上げて中身を確かめる。大した金額は入ってなかったが一応届けておくべきか、と橋を渡ってさらに坂を下り、駐在所へ向かった。

 翌日、私はまた同じ様な道のりで川沿いの道を歩いた。さあっと吹く風は、花の香りを纏い、春の素晴らしさを私に教えてくれた。冬の残滓を吹き飛ばして、命溢れる暖かさを届ける風。私はこの風が、世界で一番好きだった。

 風に吹かれながら、私は昨日と同じ様に、橋に差し掛かった。昨日と同じ様に、桜の花が溢れるくらいに咲いている枝の前で、多くの人が写真を撮っている。通り過ぎようとした私は、また足に違和感を覚えて、下を見た。今度落ちていたのは、小さな鍵だった。特に怪しいところは無いし、見てくれもさして変わったところは無い。私の家の鍵とは少し違うが、店に行けば売っている様な物だった。

 またか、とため息をついた。だが、拾ってしまったものは仕方が無い、と私は昨日と同じ様に駐在所へと向かって歩いた。

 翌日も私は外に出た。今度は風はなく、桜の木はゆらゆらと小さく揺れているだけだった。一昨日と昨日と、同じ道のりを辿る。そして、いつもの通り橋に出た。

 橋はいつもと変わっていなかった。だが、今日は何故か、写真を撮る人が一人も居なかった。そればかりか、私の他に橋の上には一人も人がいなかったのだ。

 私にとっては、人が居ようがいまいがさして気にすることでは無い。いつもの通り、橋を渡って帰るだけだ。橋に一歩を踏み出した。すると、コツンと私の足に当たるものがあった。

 拾い上げてみると、それは夢であった。その時の私にとっては、とにかくそれは夢以外の何物でもなかった。拾おうと手を触れた時、何故か私はそれが夢だと知っていたのだ。

 夢はオルゴールの形をしていた。箱を開けると、小さく、ゆったりとしたメロディが私の耳に入ってきた。メロディは、私にどんな夢かを教えてくれた。不思議と情景が、私の前に浮かんで来る。小さな家、太陽が優しく照らすその家に、三人の人が居た。恐らくは、夢の持ち主であった女と、優しげに微笑む男。そして女の手には、満ち足りた様に笑う子供…。

 私はオルゴールの蓋を閉じた。不思議と今日は、駐在所へと届けようとは思えなかった。かと言って持って帰ったわけでも無い。私はただ、そこに夢を置いて行った。私には、過去に置き去られた夢は、必要無かった。橋を渡って、またこちら側へと戻った。

 次の日、私はまた川沿いを歩いた。今度も風はなかったし、最後の橋にも、人は居なかった。

 私はまた、夢を拾った。今度の夢は、指輪の形をしていた。指輪を手に取ると、また情景が私の前に浮かんできた。男が、女に指輪を贈っている。男は真摯に女を見て、女は涙を流してそれを承諾する。恐らくは、男の方が夢の持ち主なのだろう。結婚式、大勢の人に祝福されて、そのまま新婚旅行へ。そして子供が生まれ、育ちやがて独立して行く。全てが終わり、残された時間を連れ添った妻と過ごす…。平凡な、何処にでもある、小さな小さなロマンス。何処となく既視感を覚える夢だった。

 私は指輪を置いて、橋を渡った。結局のところ、夢は夢である。持ち主が持ち続けているからには、価値も生まれるだろうが、忘れられてしまってはもう無いのと同じだ。あの指輪は、誰か拾うものがあるだろうか。昨日のオルゴールと、同じ様に。

 また次の日、私は外に出た。桜並木を巡り、橋へと向かう。人が一人もいない橋の上。私は足下に目を向けた。

 瓶が一つ落ちていた。ラベルが貼ってあるが、それ以外は何も無い。ラベルに書いてあるのも、何か読めない文字だった。私は瓶を手に取って、気がついた。夢の欠片だ。手に取ったのは、夢になり切れなかった、夢の欠片だった。情景は浮かんで来ない。その代わりに、瓶の中に小さく夢が映った。

 朝、母親の優しい声で目を覚ます。起き上がって周りを見回すと、夕べまで隣にいた父親の姿が無い。慌てて探すと、鏡の前で顔を洗っている父親を見つける。自分の方を向いて、父親は笑いかけて頭を撫でてくれる。父親と母親と一緒に、テーブルの上の朝ごはんを食べる。美味しい、だがその食べ物は何となくぼやけていて、見えなかった。父親と一緒に家を出て、幼稚園へ向かう。今日も友達と一緒に遊ぶんだ。胸が高なった。幼稚園の門をくぐって、中に入る。部屋に入って、友達のところへと向かう。顔のぼやけた友達は、一緒に遊ぼう、と明るく言って、おもちゃをたくさん持って来る。お昼になると、先生がおいしい給食を持ってきてくれる。朝と同じ様にぼやけたそれを口に運んで、お腹いっぱいになる。そうしたら昼寝をして、起きたらまた遊ぶ。遊び疲れた頃になると、先生がおやつを出してくれる。小さなチョコレート。口に入れると幸せがはじけた。夜になって、父親が迎えに来た。嬉しくて嬉しくてたまらない。足にギュッと抱きつく。そして、手を引かれて一緒に帰る。家では母親と、温かくておいしいご飯が待っているのだ…。

 ここで夢の欠片は終わっていた。私は夢の欠片をもう一度、じっと見つめる。その中に映っていたのは、誰だって叶える事が出来きたはずの、小さな、小さな夢だった。

 さあっと、また風が吹いた。桜の花弁が、吹雪の様に橋の上に飛んで来る。すると、私の手の上の夢の欠片は、桜の花びらよりも小さな破片になって、飛んで行った。破片は、花弁と一緒に吹き上げられて、透き通った空の向こうへと飛んで行った。ふと振り返ると、幸せになりたかった、一つの家族の姿が見えた気がした。

 私は黙って橋を渡る。誰にも拾われる事がなかった、小さな夢の終わりを見届けて、橋を後にした。次の日には、橋は元どおり人で賑わっていた。足下を見たが、もう何も落ちては居なかった。

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