君と、僕と

天野蒼空

君と、僕と

 白い部屋の中には僕と君だけがいて、他には誰もいない。

 これが僕が望んだ場所だから。

 ここからまた、始めればいいだけのことだ。



 病院のベッドと言われても疑わないくらいシンプルなベッドの上に、僕のお姫様は横たわっている。君の白い肌は陶器のようで、濡れ羽色の髪は胸のあたりまで真っすぐ伸びている。頬は薄っすらと色づき、口元には微笑を浮かべ、まるでいい夢を見ているかのよう。掛け布団の端から少し出ている手は細く、この下にある胴体が強く抱きしめたら壊れてしまいそうなものであることを僕は知っている。

 サイドテーブルには白い花瓶。その中には赤いアネモネ。すべて白で統一された部屋の中、その赤色はよく目立った。アネモネは昔、君が僕に渡してくれた。だから今度は僕から君へ渡す花だ。僕の気持ちをアネモネに添えて、赤いアネモネを君に渡そう。

 少し開けてある窓から春の風が入り込んできて、白いレースのカーテンをふわりと広げる。広がっては収まり、収まっては広がるその様子は、ずっと前に君と見た海の波に似ている。

 君の長いまつげがほんの少し震えて、瞼が開く。髪と同じ色の瞳がこちらを見る。揺れる瞳がこの状況に戸惑っていることを教えてくれた。こんな君を見るのは久しぶりだ。僕は君を怖がらせないように微笑んだ。

「こんにちは」

 僕の言葉に君は答えない。上体を起こしたがそれっきり動かず、掛け布団の端をギュッと握りしめてこちらを見返している。薄手のネグリジェを纏った君の体は、いつもよりまして華奢に見える。窓から何本もの光がまっすぐ部屋の中に差し込んで、君を照らす。

「大丈夫。怖くないよ」

 僕は君の手をそっと取る。その手は子供みたいに温かく、まるで昔の君の笑顔のようだ。今の君があんなふうに笑ってくれることは、すぐにはないだろうけれど、僕が君をまた笑顔にすればいいだけだ。

「あの、あなたは、私を知っているのですか」

 恐る恐る、君が尋ねる。上目遣いの少し潤んだ瞳が僕を覗き込むので、君を強く抱きしめたい衝動に駆られる。だけど、もう少し我慢しなくてはならない。君を怖がらせてしまうかもしれないから。

「君のこと、知っているよ。誰よりも君のことを知っているよ」

「誰よりも?」

「そうだよ。だって、僕は誰よりも長く君と一緒にいるからね」

 ずっとずっと君と一緒にいたから、誰よりも長い時間を君と過ごしてきたから、誰よりも君を知っている。君が覚えていないところも、僕は全部知っている。

 たとえ何度君が忘れても、僕だけが君のすべてを覚えていればいい。それでうまくいくなら、これから何度でも僕は君にこうやって話しかけるだろう。

「ずっと一緒にいたの?」

 不思議そうに君が聞き返す。

 それもそのはず。今の君には、記憶がない。言葉や物の名前はわかる。でも、「思い出」と呼ばれるものが何一つとしてないのだ。

「そうだよ」

 そう言って僕は笑った。君の返事の仕方は今回も変わらなかった。恐る恐る、確かめるように。僕の言葉に疑いを持たないその純粋なままの真っ白な君が、僕はどうしようもなく好きだ。僕の手を握り返してくれる、その手の優しいぬくもりそのものが君だ。何度でも、君はやっぱり君だ。何度目でもそれが嬉しい。

 僕の大好きな君だ。だから、守らなくては

「大丈夫だよ」

 それでも不安そうな顔をしている君に僕はそう言った。

 大丈夫だよ。それは魔法の言葉だ。唱えているうちに本当に大丈夫になる気がする。

 そう教えてくれたのはずっと昔の君だけど、今の君は覚えていない。だから、僕が君に教え込む。

 右手を君の手の上に残したまま、左手を君の背中に回す。君との距離が近くなり、花のような甘くて柔らかいパステルカラーの香りがする。僕が一番好きな香りを胸いっぱいに吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。どうやら僕は、久しぶりなこの距離感に緊張しているらしい。

 もう、何回も繰り返してきたことなのに、ここで緊張するなんて。

「私、何もわからないの。なにか大切な約束があったと思うのに、思い出せないの」

 悲しそうに、寂しそうに、君は下を向く。

「君が覚えていなくても、僕は全部覚えているよ。だから、大丈夫だよ」

「あなたは誰なの?それに、私はあなたにとってどんな人なの?」

 僕はいつも君に大事な話をするときにしていたように、君の両手をとって、瞳の中を覗き込んだ。

「君は僕の一番大切な人で、僕は君の一番大切な人だよ」

 だから、君には僕以外いらないし、僕には君以外いらない。



 大丈夫。今回はきっとうまくいく。

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君と、僕と 天野蒼空 @soranoiro-777

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