忘れてしまった桜花の背中

千羽稲穂

忘れたくない桜の背中

 近くに桜が咲いてないところに引っ越してしまいました。

 なんということでしょう。


 私の実家はうぐいすがくるほどの桜が近くに咲いていました。ちょうどこの時期なんかは温かい緑茶をすすり、心地良い音色を聞くんです。


 ちょっと待って、とテレビの音を消してみると、か細いうぐいすの声が家に響き渡ったものです。


 最近はそれも飽きて書庫の中に閉じこもっていたけれど、ああいった鳴き声が聞こえないことがどれほど心細いか、知りもしませんでした。


 また、私の家から自転車で五、十分ほどいくと桜が豪華絢爛に咲き誇っている場所があり、いくぶんか伐採されてしまい今ではそこそこの量になってしまった桜が、それでも生き残った桜の木々だけで煌々と連なっていました。その光景は目に涙をためこむほど圧巻さ。


 バイト帰りにその道をしばしば通ることがあったのですが、そのたび多くの人が足を止めて写真を撮っていたのを覚えています。


 駅に流れ込む電車の風で雪崩のように舞い散る桜吹雪を、どうだこれが私の街なんだと誇らしげに胸をはっていたこともありました。


 私の地元の小学校には桜があったんです。

 卒業式、入学式、春夏秋冬、そのどれもが私の行く先で桜を見ない日はなかったのに。


 引っ越してから桜を見ることはほとんどありません。それこそ、近くの公園に行けば見れますし、観光地スポットまで行けば有名な桜街道を拝めるのでしょうが、駅に、学校に、道の端々に、そんな場所に桜はないのです。


 どこにいったのでしょう。ちょっぴり心もとなく引っ越し先周辺を歩いては、あの桜並木を探してしまいました。


 これが大人になるということでしょうか。あの日の桜をもう見ることはないのです。


 鉄さびた街、ザ・都会。

 といってもそこまで都会と呼べるところに新社会人として上京したのではないのですけれど。それでもあんまりに寂しい場所に口をすぼめてしまいます。


 あの桜を私はいつしか忘れてしまうのでしょうね。それでも、捨てるよりかは忘れてしまうことの方が私にはいいんですけど。


 これから社会人となるべくして、たくさんのものを捨てました。引っ越し先に持っていくもの。置いておくもの。多くの物はそこに置いては行けず、持っていくことになりました。


 私は漫画も本も大好きなので、共に心中する勢いで、段ボールに詰めました。しかし一方でダンボールに入りきれない、捨てなければならない本もありました。


 みなさんは本を捨てるときどういった気持ちになりますか。


 私は悔しくて悔しくてたまりませんでした。それは過去に研鑽をつんだ教科書だったり、頑張って書いたノートだったり、とてもハマっていた漫画だったり。


 どれも大事なものなんです。捨てられないけれど、一緒に持ってはいけないものなんです。持って行っても邪魔になるのがわかっているんです。


 そこ置いていかなければならない。でもって、それを置いていくことすら許されない。


 見る人によれば私の本なんかトラッシュです。それに漫画やゲームなんかは売れるなんて言う人が出てきます。大事なものを理解されないのは悲しいことです。


 今回私はなくなく大事な物の中のさらに大事なものを見つけて、そのほかはトラッシュしました。夜中の寝静まった家の中で、書物を紐でしばったり、選んだりしていたので、ひっくひっくと嗚咽を漏らしながら泣いていた私の声が家中に響き渡っていたでしょう。


 そうして出ていく日は、なぜかとっても晴れた心持ちでした。案外悔しくっても悲しくっても大事なものがなくなるって、心の中のしがらみがなくなるから清々しいものです。


 大事なものとは、その場に根を張る鎖、のようなものなのかもしれません。


 大事なものは心に残るとは限りません。捨てることで、気持ちも記憶もきれいさっぱりなくなってしまうことだってあります。私はそれが嫌で大事なものは廃れて記憶の中から消えてなくなったものしか捨てません。傍に置いていたいのです。すぐ消えてしまうものなら、定期的に会っておきたい、見ておきたい。


 本を捨てるとき、ふと思い出したことがありました。


 あの人のことです。あの人は、家から出ていくとき最低限の荷物しか持ちませんでした。家にあった本はそのままに。大好きなグッズも。ぼろぼろになるまで読んだ本もそのままにして。縁も、血も、全て置いていきました。それが春だったか、夏だったかは思い出せんませんが、本当に突然の出来事で、どこにいくんだろうって、内心びくびく怯えていました。まさか二度と帰ってこないなんて思ってみませんでした。まだ幼かったんですね。いっちょまえに物書きであることだけは自覚していました。


 暫くしてから連絡が来て、家にある本は好きにしていいと私達に告げました。


 あの時、なんで私は今ほど本が好きでなかったのか。とっても悔やまれます。もっと好きならば、あの人の残る香りをとどめておけるよう、あの人の好きな本をもっと触れておけるよう、持っていたのに。


 あの人は一体どういった気持ちだったんでしょうか。全て置いていくことへの、罪悪感や、悔しさはなかったのか。はたまた、本当は内心捨てることへ清々しさを感じていたのでしょうか。苛烈な感情を抑えて、行ってしまったのでしょうか。私には陳腐な想像しか膨らみません。


 あの人は本が好きだったのはよくよく覚えています。

 幼い頃はそれこそ隣で寝ていましたし。寝る前によく本を読んでいました。何回も何回も、伊坂幸太郎の『重力ピエロ』を呼んでいました。『重力ピエロ』は486ページもあるのに、それを何回も。


 村上春樹が好きなのか、『海辺のカフカ』が本棚にあったのを覚えています。それにジャックザリッパー。妖怪も好きでしたね。


 映画の『キューブ』も見てましたし、『バトルロワイアル』も数回ほど見ていました。『隣人十三号』の映画の演技をよく真似してましたね。案外そういったグロテスクが好きな人だったのかもしれないです。


 私があの人に最初に買ってもらった本、ハマった本『GOSIC』。その時かけてもらった双葉書店のブックカバーは今でも持ってます。


 ああ、するすると思い出されます。


 それなのに今は本棚にあの人の本が一冊しか、残ってないんです。


 まだ本棚にあの人の本が残っていた時、その内の『重力ピエロ』を私はぬいて、あるとき読み始めました。読了後、私は驚愕し、感嘆し、感動し、胸に鳴り響いてしかたなかった。


 どうして486ページものページ数を飽きっぽい私が一気に読了できたのか。ひとえに、私の好んでいた系統の本だったのもありますが、それほどまでに面白かったからでもあります。村上春樹は悲しきかな私には合わなかったので、根本的にはあの人と趣味は違うんですが、それでもちょっと話してみたかったんです。すこしでいいけれど、本のお話を。


 無理な話。


 今でも『重力ピエロ』は持っています。一緒に引っ越しましたし。それこそあの人がしたように、私も数回は読み返しています。そのせいでぼろぼろで、黄ばんでいますし、ページのめくりやすさが他の本と段違いで良いです。


 ただ、この本だけ。この本だけしか残ってはいません。

 最初に買ってもらった『GOSIC』の一巻はどこかへいっちゃいましたし。そのほかの本はどういったものがあったのか覚えてもいません。


 全て捨て去ってしまうことなんてできはしませんが、忘れることは早かったりします。捨てることと忘れてしまうことは同義ではないでしょう。私は、そっと忘れたいし、忘れたくないことは何度も引き出して思い出したい。


 こうして思い出すのだって、つらいことだったりします。本当は、つらいのにごりごりと心を針で掘っているだけ。分かっているのですが、ふと思い出したんです。きっと私にとっての原動力。大事なことなのかもしれないから。


 あの人が本を捨てた時って、どういう思いだったんでしょうか。それこそ全て捨てたときの、あの感情。


 私は分かりたくありませんし、それを理解したいけれど、知りたくはないです。知るのが一歩前進なんて思えないし、それなら私はその場で立ち止まって先へ行く人たちをじーっと見ている方がいいです。


 私には、分かりません。

 いつだって、私の心の中は分からないことだらけ。そういった物事は宙ぶらりんに吊り下げられて、振り込みたく揺れているんです。感情が大きくなったら、振り子も大きく揺れますし、記憶がその分思い出されます。匂い、触感、明暗、ぬくもり、大嫌いなことも、大好きなことも。


 その全てが一気に蘇るより、ふらっと訪れる春のように思い出したいです。それが捨てるよりも忘れることが良いって思う理由ですね。


 ぱぁっと桜が咲き誇るように、開花した記憶は、ひどく居心地悪いもので、妖艶につやめいています。


 記憶って、なんでしょう。忘れたと思えば、また満開に咲き誇って、じわじわ私に見せつけてくる。ときには思い出して泣きだして、どういったわけかもわからないままにうずくまってしまう。やなやつ。


 記憶って心に結びつきますよね。導線のように伝って、じりじり、とにじりより、爆弾が爆発するように一気に。感情、心、精神がはらはらと舞い散る。その後は、その開花の残り香を追いかけてしまう。背中を見て、追いかけて、余韻を確かめる。作業じゃないんです。本能で。そして次第に忘れてしまう。後に残ったものは、また忘れてしまったものたちばっかり。


 その起爆装置を本のように物として形として傍らに置き続けたいと、思って、置き続けています。物はすぐに壊れますし、難しいですけど。なるべくでいいんで、まだ傍にいてほしいです。


 それはそうと、やはり当面の死活問題は、社会人としてちゃんと本を買えるかということでしょうか。違う違う。桜を見ることです。それも違う気もしますが。


 そういえば「桜ってどこに咲いてますか?」と上司に尋ねたら、あいさつ回りの帰りにわざわざ上司が桜の見えるところまで遠回りして、見せてくれたのを思い出しました。やっぱり桜はきれいで、どこに行っても、何かを思い出させてくれます。


 来年も、この桜と共に傍で生き続けたい。


 連れて言ってくれた場所にはうぐいすはいなかったのですが、まあまあ、そこは譲歩しましょう。

 何様ですか、自分は!

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