貴方のために

志摩しいま

貴方のために

「また落ちてる」


 十二月早朝、痛むような寒さを必死で我慢しながら、眞子は箒の柄を握りしめ独りごちた。店の出入り口を掃いて置き捨てられたタバコの燃えカスを集める。


 眞子が務めるスーパーの前にタバコの吸い殻が散乱するようになったのは、ここ一週間程。防犯カメラには何処かの動物の毛をふんだんに使ったコートを羽織ったやけに胡散臭そうな女性が、携帯片手にタバコを吸っている姿が映っていた。


 時間が深夜の三時なので、待ち構えて注意するわけにもいかず、店長が作った『タバコの吸い殻を捨てないでください』のポスターもまるで効果がない。


 きっと、他人に迷惑をかけるという行為になんの罪悪感も抱かない人間なのだろう。誰かが片付けるからと、平気でごみを捨てていく客は後を絶たない。

 

 眞子の夫、祐介もそうだ。自分がやらなくても他の人がやる。トイレットペーパの芯を取り換えるのも、お茶が切れたからと買いに行くのも、全て眞子の役目。注意をしても返事だけで実行に移してくれた事は一度もなく、最近では自分のゴミさえ捨ててくれない。妻は身内だから問題ないと思ってでもいるのだろうか。


 眞子は我慢を繰り返した結果、今は夫の顔さえ見るのが嫌になっていた。離婚の二文字が頭に浮かぶ。週5日のスーパーのバイトで、五歳になる娘の千夏を養っていけるのだろうか。35歳の自分に良い仕事が残っているだろうか。白い息を吐きながら、毎朝こんな事を考える人生を選んでしまった事が、とても情けなかった。


「眞子さん。すみません。私がやりますから」


 化粧気のない地味な顔立ちだが、肌の白さが魅力的な玲が、眞子の箒を素早く奪った。


 玲は二か月ほど前にやってきた女性で、確か年は28だったはずだ。

 ベテランバイトである眞子の事を何かと慕ってくれている。


「本当、迷惑ですよね。朝っぱらから何でこっちが寒い思いしなけりゃなんないんでしょう」


 仕事を終えるのは午後四時。これから幼稚園に千夏を迎えに行って、夕飯の支度をしなければならない。眞子が溜息をついてスタッフルームを出ようとすると、終わり際客に声を掛けられた。残業をしていた玲が焦って駆け込んでくる。


「眞子さん、お急ぎですか?」

「あ、うん。千夏の迎えが」

「そうなんですね。すみません。私眞子さんにお話ししたい事があって。ついて行っても良いですか?」

「え、うん、良いけど」


 眞子は内心嫌な気持ちを感じた。玲の“話したい事”の検討もついていた。


「これ、お渡ししようと思って」

 玲が分厚い書類が入っているだろう封筒を眞子に渡しながら言った。幼稚園に向かう道すがらだ。


「これは?」

「母子家庭になった場合の助成金とか、受けられる手当をまとめたんです」

「え?」

「眞子さん、お金の面が不安だって言ってたので」

「それは、確かに言ったけど」

「今の時代、離婚なんて全然珍しくないですよ。私の友達も、もう二人も別れました。そりゃ、千夏ちゃんもまだ小さくて当然不安はあると思いますけど、でも、本当に大切な事は、眞子さんが毎日笑顔で暮らせる事じゃないですか? 最近眞子さん、辛そうだから」


 玲は最後には申し訳なさそうに顔を下げた。

 夫への不満も、いっそ離婚した方が良いのではと言う相談も確かにした。だが、離婚して千夏を一人で育てる覚悟など、所詮私にはありはしないのに。


「ごめんなさい。おせっかいでしたか?」


 玲は黙ってしまった眞子を心配そうに眺める。


「ううん。ありがとう。でも、何でここまで親身になってくれるの?」

「それは……」


 玲はおもむろに話し始めた。自分の母が父から暴力を受けていた事。周りからの理解が得られず、結局離婚ができなかった事。


「私、後悔しているんです。私がちゃんと支えてあげれば良かったって。私がちゃんとしてれば、お母さんだって……だから、今度こそ、力になりたいって……すみません。出過ぎたマネをしました。でも眞子さん。一人で抱え込まないで下さい。大丈夫です。女性一人でだって、立派に千夏ちゃんを育てて行けますよ。私も、精一杯サポートしますから。自分の幸せを一番に考えてください」


 眞子に顔を見られないように頭を下げたまま動かない玲に、眞子は声がかけられなかった。




 午前三時。スーパーの前。

 手に持っていたタバコはまだ十分余裕があるが、あえて下に落としてハイヒールの踵で踏みつぶした。


「やっと決まったね。離婚はいつになりそう?」


 玲の足もとには大量のタバコの吸い殻が散乱している。


「一人で生きていけないからって、ずっと寄生虫みたいに纏わりつかれてもねぇ。あ、結婚式はいつにしましょうか? 私バイト先に仲の良い先輩がいるの。是非招待したいわ、こんなに待ったんだもん。盛大に祝って欲しい」


 防犯カメラに映らないように、帽子をもう一度深くかぶる。こんな寒空で吸いたくもないタバコを吸うのも、今日で最後だ。


「幸せにしてね」


自分の幸せを一番に考えるのは、人間として当然の事だ。


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貴方のために 志摩しいま @Ayumimi

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