バックパッカーの老人、化け物と出会う。

オロボ46

化け物は待ちわびていた。この世界を旅する日を。蝶のサナギの如く。

 とある路地裏に、小さな傷跡が残っていた。


 雲、草、波、木……


 誰も訪れることのないはずの狭い路地裏に、奇妙な模様が描かれている。


 爪で引っかいたようなその傷は、


 まるで幼い子供が夢を描いた落書きのようだった。


 その奥の行き止まりには、誰も居ない。


 ただ、先ほどまで誰かが座り込んでいた気配がする。


 まるで、二度と戻ってこないであろう旅人の古巣。


 落書きたちも、そのことを理解しているのだろうか。






 グゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥルゥルゥルゥゥゥゥゥゥ




 その音が聞こえてきたのは、とあるコンビニの中からだった。


 コンビニの店内の視線は、ひとりの老人に集中している。

「……ふう、ここまで注目されるとは、俺の腹もなかなかいい音を出すもんだ」

「……」

 店員もその音に驚き、先ほどから口を開けたままだ。

「どうした、早く会計せんか」

「……あ、は、はい」

 老人と顔を合わせないようにしながら、震える指先で会計を行っていく。

「ご……520円……です」

「フム、それでいい。この街に来てからまだ何も食べてない。早くしないと飢え死にしてしまう」

 老人は大げさなことをつぶやきながら財布から小銭を取り出した。

「あ、あ、あの……」

「どうした、俺の後ろに幽霊でも見えるのか?」

「い……いえ……て……店内で……お召し上がりです……か?」

「いや、持ち帰るが……まいったな、歳を取れば穏やかなおじいちゃんになって子供たちの人気者になると思っていたが、若き日の男らしさは消えなかったようだ」


 店員が恐れているのには理由がある。


 この老人、

 服装は派手なサイケデリック柄のシャツに黄色のデニムジャケット、青色のデニムズボン、頭にはショッキングピンクのヘアバンドと、この時代にしてはある意味個性的。

 その背中には黒く大きなバックパックが背負っている。俗に言うバックパッカーである。




 コンビニの外、人々が行き交う道路。見上げた位置にある街道テレビはニュースを流していた。

「続いてのニュースです」

「……」

 コンビニから出てきた老人は思わず立ち止まり、街道テレビを見上げた。


 街頭テレビに、住宅街が映し出される。


 付近の住民が、何者かに襲われたというニュースだ。


「――警察は“変異体へんいたい”の犯行として捜査を進めており……」

「……ふん」

 まるで興味がないとわざと振る舞うように、老人はすぐに街道テレビから視線をそらした。


 ドンッ


「おうっ」「いてっ!!」

 その直後、老人は何者かと衝突した。

 老人は倒れることはなかったものの、手に持っていたコンビニ袋を落としてしまった。

 地面には、ふたつのコンビニ袋が落ちている。

「いててて……わりぃな、じいさん」

 目の前で尻餅をついている少年は、髪を金髪に染めており、学生服を着ていた。その後ろには同じ服装で髪を銀髪に染めた少年がいたが、彼はこの状況に戸惑っているだけで口を開くことはなかった。

 金髪の少年はもう一度「本当にわりぃ」と軽く謝りながら、コンビニ袋のひとつを手にして、銀髪の少年とともに去って行った。


 老人は彼らの後を見ながら残ったコンビニ袋を手に取る。


 その後、ちらりと中身を見ると、


「ああっ」


 と、ひと声上げた。





 路地裏に足音が響いてくる。

「先輩、マジ冗談じゃないですって!! 止めましょうよ!!」

「いいじゃん! 変異体を一度でも見てみてえんだ!」

 学生服を着た二人の男が路地裏に入って行く。金髪の少年は先輩と呼ばれており、銀髪の少年は気の弱そうな声だった。本当に学生ならば、今の時間帯は授業中のはずだが。

「先輩、変異体って知ってます!?」

「ああ、元人間だろう?」

「そんな簡単なもんじゃないですって!! いいですか!? 変異体は“突然変異症とつぜんへんいしょう”と呼ばれる、予防方法や対策どころか、原因すら判明しない疫病にかかった人間! 腕や足など、体の一部が大きく変形し、なかには化け物のように醜い姿へと変化した者もいます! その上、悪化すると人を襲うこともあるんすよ!?」

「そんなん、変異体たちがかわいそうじゃねえか! 俺様は変異体と友達になって、SNSで公開して、偏見をなくしてやるんだ!」

「だから、人を襲うんですよ!? 殺されたらどうするんですか!!」

「お、下手くそな絵だなあ。変異体が書いたのか?」

「先輩!! ちゃんと話を聞いてくださいよお!!」

 ふたりは路地裏の行き止まりへと足を進めて行った。


 そして、発狂した。

「……あ……あ……」

「本当にいたんだ本当にいたんだ本当にいたんだ本当にいたんだ本当にいたんだ」

 金髪の少年は目を見開きながら尻餅をつき、銀髪の少年は同じ言葉を繰り返していた。


 二人が路地裏の奥で見たのは、顔を上げた人影。全身が影のように黒く、女性のような体形に長く伸びた爪、髪は顔を覆い、上半身……細かく言えば、腰まで伸びている。その髪の隙間すきまから眼球の代わりに目の穴から青い触覚が生えているのが見えた。時々、それは引っ込み、瞬きが終わるとまた出てくる。変異体だ。


「……う……う……うああ……っ!!

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいやったの僕ですごめんなさいごめんなさいごめんなさいお金が欲しかっただけですごめんなさいごめんなさいごめんなさぁっ!?」

 突然、銀髪の少年が崩れ落ちた。それに続き、金髪の少年も仰向けに倒れる。


 その後ろにいたのは、コンビニ袋を持った老人だった。

「まったく、袋を取り違えた上に、近頃の若者は手刀で気を失うとは……情けないものだろう?」

「……」

 変異体は口を開いてあぜんとする。

「ところでお嬢さん、ここで飯を食わせてもらってもええか?」

「……」

「……」

「……怖ク……ナイノ?」

「わっはっはっは!!」

「……」

 老人の笑いに対して、変異体は口は閉じ、あきれたようにため息をついた。

「いやあ失礼失礼。この年になってくるとついからかいたくなるもんでな」

「……ボケテイルノカシラ」

「そうかもな。そんな哀れな老人の頼みを聞いてくださいな」

「……イイケド」

 変異体が許可すると老人はその場に座り込み、金髪の少年が持っていたコンビニ袋からいくつかのおにぎりを取り出した。


 老人が食事している間、変異体は首をかしげながら老人を見ていた。

「どうした? そんなに男前か?」

「ヨクワカラナイケド、違ウ。ドウシテ怖クナイノ?」

「それはお嬢さんが怖くないからに決まっているだろう」

「ドウイウ意味?」


 老人は倒れている二人の若者を見た。


「こいつらが怖がっていたのは、一種の化学反応といったところだ。突然変異症によって変形した部分には、人間の肉眼で見ると恐怖の感情を引き起こす。動けなくなる者もいれば、パニックになって逃げ出す者、命の危機を感じて殺しにくる者もいる」

「ナラドウシテ、オジイサンハ怖クナイノ?」

「そんなもん慣れだ慣れ。こう見えて二十代の時にはお漏らししたこともあるぞ」


 ひとりで再び笑う老人だったが、変異体は戸惑ったように触覚を出し入れさせていた。


「コメントに困ったような表情をしないでくれ、恥ずかしい」

 老人は少し不機嫌そうにおにぎりを口に入れる。変異体の触覚は老人の背中のバックパックに移った。

「オジイサンッテ、何ヲシテイルノ?」

「俺か? 若いころにちょっとした会社を立ち上げ、あっと言う間に億万長者。現在は会社を子供に任せて、孤独の旅に生きるご隠居と言ったところだ」

「!!」

 変異体の触覚が輝いた。

「オジイサン旅シテイルノ!? ドコ旅シタノ!? 面白イ話アル!?」

「まてまてまて、顔がぶつかりそうになるまで近づくんじゃあない。残念ながらつまんない旅ばかりなんだ」

「……」

 変異体は老人から離れ、そっぽを向いた。


「……そんなに旅に興味があるのなら、試しにお嬢さんが旅してみるか?」

「エ!?」






 しばらくして、路地裏からバックパッカーの老人が出てきた。


 その後ろから現れたのは、黒いローブを着た少女の姿。


「……本当ニ……大丈夫ナノ?」

 顔はフードで隠れて見えないが、その声は先ほどの変異体と同一だった。

「ああ、ちょうどある知人からモニターの頼みを引き受けてな。そのローブはまるで風を着こんでいるように違和感がなく、動きを妨げない、おまけにフードを深く被っても中から外の様子が見えるから、姿を隠すのにピッタリだ」

「余計怪シイト思ウケド」

「そうわがままを言いなさんな。くれぐれも、人々に姿を見せぬようにな」

 念を押す老人に、変異体の少女はうなずいた。




「ワア……!」

 人々の波を見て、変異体の少女は小さく感激の声を漏らした。

「そんなに珍しいのか?」

「コノ人タチ、ドコニ向カッテイルノ?」

「まあ、目的は人によって違うだろうな。……ちょっと紛れ込んでみるか?」

「ウン……デモ、迷子ニナリソウデ怖イ……」

 そうは言っているものの、変異体の少女は恐れずに自分から人の波に入っていった。


「ちょっと待たんか……それにしても、お嬢さんはずいぶん世間知らずのようだが、あの路地裏に居る前はどうしていたんだ?」

「……ドウシテイタンダロ?」

 変異体の少女は真面目に答えた。

「冗談じゃないんだな」

「ウン、覚エテイルノハ……外ノ世界ニ出タカッタコトト……“地球”ノ写真」

「……」


 老人は一瞬足を止めかけていた。


「コノ世界ハ、地球ト同ジナンデショ?」

「ああ……そして、非常に退屈だ」

「?」

「ただ地球のマネをしただけ……個性を殺してまで写したこの世界を、創造者は本気で嬉しがっていた」

「……」

 老人と変異体は人の波から外れて行った。


「この世界……いや、この星は、地球の劣化版だ。取りえと言えば、すべての不安を変異体に押し付ける、腐敗した人間たちが幸せに暮らせることぐらいだ。そんな世界に見て価値のある物なんて……」




「……見サセテヨ」




「……?」






「自分ノ触覚デ見サセテヨ、コノ世界ノ価値。写真ヤ言葉ダケデナク、コノ触覚デ」






 たくさんの人が行きがう波の側で、老人と変異体の少女の中だけで静寂が訪れた。


 老人は恐れたように、しかし、期待を込めた目で変異体の少女を見つめた。


「俺が見せる物なんてない……だが、こんな哀れな老人でも、お嬢さんはこの世界の価値を見させくれるのか?」


 少女は、触覚を引っ込めて笑顔を作った。

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