死に損ないのホモサピエンス
おこげ
第1話
スミは物心付いた時から路地裏で暮らしていました。親も兄妹もなく生ゴミを漁って日々を食いつなぎ、カビや泥にまみれた地面を眺めて過ごしてきました。
ですがそれを嘆いたことは一度だってありません。スミにとって生きるとはそういう事だからです。人生なんて個々に多様で同じものなど決してない。つまり彼女は今の生き方しか知らなかったのです。
薄汚れた壁と壁の隙間から覗く景色はいつも慌ただしく変化の絶えないものでした。
行き交う人々はみんな自分とは異なる存在だと理解していましたが、特別な感情を抱くこともありませんでした。それは自分が寝床に使うふやけたダンボールや生乾きのタオルと同じただの“モノ”であり、そこに必要以上の価値など感じなかったからです。彼らを見て、自分は不幸なのか今よりも幸せな暮らしがあるのか、そもそも自分とは何なのか、そんな事すら考えつきませんでした。
何事にも鈍感で無関心。世界に興味を示さず、他者に意識を傾けず、ゆっくりと人生を浪費させ続けていたスミ。
だからなのか、街から人が徐々に減っている事にすぐには気付けませんでした。
ようやく違和感を覚えたのは事態が起きてから三ヶ月が過ぎた頃でした。週に二度、食事を分け与えに来ていた浮浪者は姿を見せなくなり、逆に犬や猫が徘徊し始め、平和だった近辺はやたら獣臭くなりました。
面倒に感じるスミでしたが、だからといって何か行動を起こすつもりはありません。それまでずっとひとりだった彼女には仲間意識とか縄張り争いとか、そんな一般知識など持ち合わせていなかったからです。
人影が減ったとはいえ、生活は変わりません。通りのゴミ箱に顔を突っ込んで残飯を持ち帰る、それだけです。時々食い意地の悪いのが食事を奪い合っているのを目撃しましたが、余計に腹を空かせるだけじゃないかと侮蔑の表情を浮かべるだけでした。
ですが、さらに二ヶ月。他人事だと意に介さずにいたスミもそうは言ってられなくなりました。
夏です。上空から降り注ぐ日光が容赦なく街を焼きつけます。アスファルトは鉄板のように熱くなり、視界が揺らぐほどの熱気が辺りを支配します。たまに吹き込む風は晒された身が爛れると錯覚するほどです。
そんな猛暑が続く中で当然ながら食べ物が保つはずがありません。傷んでしまう残飯を前に動物たちは激しく争いました。まさに死闘です。爪を立て、牙を剥き、獲物を横取りされまいと全員が必死で相手に飛び掛かります。街の至る所に血痕が付着し、陽に焼かれた血液はこれまでになかった異臭を街中に植え付けます。日夜問わず、呻きや叫びの悲鳴が聞こえるようになり、通りに骸が転がっているのも珍しいことではなくなりました。
波風を立てずというのも妙ですが、スミは危険を
ですが灼熱のような暑さと身の毛もよだつ絶叫に多大なストレスを感じるうちに、ふと思ったのです。
ひとりは辛いと――。
どうやら街に獣が増えたのは飼い主に棄てられたペットたちが原因だったようです。通りを歩いているとそんな内容の記事を載せた雑誌が落ちていました。
2020年に爆発的に拡がったウィルスは動物にも感染することが判明。その事を理由に多くの家庭でペットを棄てる行為が相次ぐ。命ある大切な家族としてではなく、自身を飾り立てるための道具としか見ていなかった飼い主の多さが露呈し、結果その身勝手さが招いた愚行――という文面でした。
文字など読めないスミには書いてある事が分かりませんでしたが、玄関口から外へと犬を放り棄てる中年女性の写真が一緒に載っていたので概ね想像ができます。
そういえば、よく見掛けるようになったのは首に輪っかを巻き付けたり、小さいわりに真ん丸太った奴ばかりだったな、とスミは思い返しました。まあ大体そういう奴はすぐに見なくなったけど、とも。
取り巻く環境が変わってからスミは考えがちになりました。
空を見上げては今日は晴れだとか、月が大きいだとか景色に興味を示す。蝉がうるさいと不快に感じ、じゃれ合う猫たちを見て羨ましく思う。
物事に関心が生まれ、感情の起伏が顕著になりました。
だからこそ思いました。
自分は幸せなのかと。
周りと自分はどこが違うのだろう。どうして違ったのだろう。自分は何を望むのだろう。
このままひとりで死ぬことが当たり前だと思っていた彼女にとって、それは小さな奇跡でした。
それから数日後、スミに嬉しい出来事がありました。友達ができたのです。
飢えを凌ぐため、いつものように残飯漁りに向かう途中、小路からにゃあにゃあとか細い鳴き声が聞こえてきました。
声の元へと近付くと、ペット服を着た猫が側溝の中で横たわっていました。
若い猫ですが、お乳を欲するほどの幼さではありません。一歳前後の垢抜けるにはもう暫く掛かりそうな成猫です。短毛で落ち着きある藍色は知性を感じさせますが、本人にはまだその自覚はなさそうです。
スミに気付いて顔を上げるも、すぐに眼を背けて力なく声を漏らします。どうやら脚を怪我して動けないようです。
以前のスミなら鳴き声にすら興味を示さなかったでしょう。立ち止まることなくそのまま素通りしていたに違いありません。
ですが今の彼女は頭を捻らせ、模索しました。このまま鳴いていたら周りの獣に気付かれてしまう。そうでなくても最近はいやに殺気立った人影を眼にするのです。見つかればおおよその想像が付きます。
考えた末、スミは側溝に飛び降りました。若猫の襟首を咥えると強引に溝から引き上げ、住処に連れて帰ります。
それは寂しさを知ったスミの、ちょっとした気紛れでした。
ご飯を持ち帰っては若猫と分け合う。
食べる量は減りましたが、不思議と満腹感に似たものを得ていました。それが幸福だと知るのに時間は掛かりませんでした。
猫同士だからといって相手の言葉を理解できる訳ではありません。ただ声を聞いて鳴き返して、毛繕いをしてあげて一緒に眠る。若猫の脚は骨が砕けて治る見込みはありませんでしたが、そんな事情など知る由もないスミは元気に路地裏を駆ける若猫の姿を、来る日も来る日も夢に描きました。
若猫がそばにいる。ずっとひとりで生きてきたスミにとって、それは何ものにも代え難い財産となりました。寝食だけが全てだった彼女にも生きる理由と意味ができたのです。
ですが幸せは所詮、心を満たすためのまやかしです。生と死が並立するように物事は常にその双肩に対極のものを背負わせます。
何事も永遠はありません。幸せが崩れるのは本当に唐突で、そして無邪気なほどに気紛れなのです。
その日は帰路に着くのに時間が掛かりました。
いつものルートに猿にもゴリラにも似た、鼻のぺたんこな暗褐色な獣が徘徊していたからです。とても凶暴で仲間にすら容赦のない獣なので大きく迂回する事にしました。
若猫を連れ帰った頃から度々眼にしてましたが、どこからやって来たのかスミには見当も付きません。同時期に現れた黒の防護服に武装した人達と何か関係でも……?
そんな事をぼんやりと考えていたスミですが、しかし住処に戻るとその光景に眼を疑いました。咥えていた残飯を落っことし、全身が凍り付きます。
路地裏を抜けたすぐそばの通りで何羽もの烏が翼を休めて騒いでいるのです。その奇声は街路樹で喚く蝉たちを凌ぐほどです。
まるで久方ぶりの食事に感謝するように。
好奇心というものでしょうか。やがてスミは震える脚で一歩ずつ、ゆっくりと進み出ます。気配は殺せているか、足音を立てていないか、そんな事すら頭に入りません。
しみったれた路地裏から殺人的な太陽を浴びる通りをじっくりと窺い――。
スミは絶句しました。
烏が
スミの帰りが遅いのを心配したのか。それとも彼女の期待に応えたいとでも……恐らく若猫は自らあそこまで歩いて行ったのでしょう。真の目的は闇の中ですが、通りまで顔を出し姿が露わになったところを烏に襲われたに違いありません。怪我した脚を庇いながらでは大した抵抗もできなかったでしょうに。
気付いた時にはスミは烏たちに飛び掛かっていました。翼を広げて激しく威嚇する彼らですが、我を失ったスミは臆することなく暴れます。鋭い爪が宙空を走り、烏の胸を首を翼を血染めにします。中には眼球を突き刺されたものもいましたが、スミは躊躇なくそれを抉り取りました。
奇襲は
しかし多勢に無勢。なんとか烏たちを追い払ったスミですが、その代償は大きいものでした。身体は
フラつく脚で若猫に辿り着き、顔を覗き込みます。息はありますが浅く、うっすらと開いた瞳は今にもその耀きを失いそうです。誰が見ても致命傷でした。
スミにとって若猫は生きる全てとなっていました。何も感じることのなかった彼女は喜びを知り、友達を作り、幸せを抱きました。それが今、彼女の中で音を立てて崩れていきます。
スミの両眼から涙が流れました。
これもまた小さな奇跡です。美しくも残酷な得がたい奇跡。
みんな、みんな、なくなってしまいました。
どうしてこうなってしまったのか……自然淘汰?それとも人間のせい?
かつてのスミなら何てことなかったでしょう。ですが感情が成熟した今、彼女の空っぽの心は何を持って埋めれば良いのか……。
死にかけの友を見つめるスミ。
小刻みに頭が揺れます。
やがてゆったりと顔を近づけて……。
…………………………。
…………くちゃり。
遠くで銃撃音が聞こえました。
続く聞き慣れない咆吼。
そして悲鳴。
スミはもう、何も聞こえませんでした。
死に損ないのホモサピエンス おこげ @o_koge
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