三ツ折峠の赤ずきん

 朝比奈教授に押し付けられた雑務を済ませて研究室を出る頃にはとっぷりと日が暮れてしまっていた。最後に残った人が片付けるルールになっているゴミ袋を手に持ち、斜め掛け鞄のストラップの位置を調整しながら後ろ手に戸を閉める。照明の落ちた廊下は暗闇に包まれて、目を眇めてもぼんやりとしか見えず、向きが合わなかったりうまく入らなかったりと手探りに鍵を差し込んだ。カチリ、と錠の降りる音が無人の廊下に殊更響いて、訳もなしにドキリとする。

「……遅くなったな」

 研究室のある三号館裏手の所定の場所にゴミを捨て、敷地入口の駐車場脇に併設された駐輪場に向かう道すがら、俺はふと独りごちた。

 時計の針は日付を跨ぎ、構内に人気はなかった。植木の梢が鳴る音さえ聞こえるほど静まり返り、常にあちこちで乱痴気騒ぎが起こっている昼間との落差に、せっかちな夏が我が物顔で振る舞う晩春だというのに俺は堪らず身震いした。大学が無人という訳じゃない。敷地内に建つ何棟かの建物には照明の灯った窓が幾つもあって、泊まり掛けで作業に取り組んでいる者はそちらに掛かりきりになって出歩かないだけの話だ。要するに人はいても人気がなく、こうして足下も危うい――といっても、構内は芝生や煉瓦で見栄えにも拘ってしっかりと舗装されている訳だが、とにかく足下も辛うじて月明かりに見えるかどうかの夜道を歩いていると、この世界には本当は自分一人しか存在しないんじゃないか、なんて気になってくる。

 元々市街地から外れた郊外の大学だ。日が暮れれば駅前へのアクセスも困難になり、周りに暇が潰せる場所があるでもなく、人の数が減れば必然的に静かにもなろう。時計に追われる現代人たる今の世代の我々には徒歩での行き来も面倒に思える絶妙な立地を誇る我がS大は、斯くして泊まり込みを辞さない一部を除いて日暮れ過ぎまで構内に屯するのは馬鹿のすることという連綿と受け継がれた認識があった。講義にしろゼミにしろサークルにしろ、構内での活動を終えたら早々に帰るように、とは、入学してすぐに先輩に教わるS大生の鉄則だった。若人よ書を棄てよ、街へ繰り出すべし――実際に俺が世話になったサークルの先輩から頂戴したありがたいお言葉を、学生どころか教員や事務員まで率先して守っているのだから、余程だろう。

「はあ……云われてるだけあるよなあ」

 まさにその鉄則を遵守し損なった結果、俺はこうして夜も更けゆく暗闇をとぼとぼと歩くはめになっていた。

 午前中の講義だけしか取っていなかった俺は駅前にある行きつけのラーメン屋で昼食をとるつもりでいた。しかし近頃は暑い。第二食堂の前を通り掛かった折、不意に喉の渇きを覚えた。俺は運動がてら隣町の自宅からここまで自慢のマウンテンバイクで通っている。スムースに行けば片道一時間もかからない距離だしちょうどいいと思ってのことだ。駅前までなら十五分程度。余裕だ。

 俺はぺたりと首筋に手を当てた。汗を掻いていた。暦上ではまだギリギリ春なのに、天候は夏に片足を突っ込んでいる。食前の運動の前に喉を潤しておくか、なんて気の迷いに乗せられてしまった。

「おお、ちょうどいいところにいるじゃないか!」

 そう云って食堂の受け取り列からやってくるのはいつもの白衣を羽織った朝比奈教授その人だった。きつねうどんにカツ丼、デザートのミルクプリンを付けた軽く二人前はありそうな昼食を載せたトレイを抱え、朝比奈教授は自販機の前にいた俺を呼び止めた。言いつけられたのは雑務だった。本当に取るに足らないあれやこれやを山と押し付けられ、同情はしても手は貸してくれない連中を恨みながら全てをこなして未だパソコンに向かっていた教授に辞去を伝えたのが五分前の出来事であり、指示通りに鍵を閉め、ようやくこうしてロックチェーンをハンドルに巻き付けていた。

 サドルに跨り、ペダルをぐっと踏む。僅かな力が連動して自分の体重が滑らかに前進するこの瞬間が堪らなく好きだった。

 大学のある街と、俺の住むアパートが建つ街の間には白鐘山が横たわっている。だから普段は駅前の方まで降りて、そこから線路に沿うように山を迂回する形で走るのがお決まりのルートだった。理由は単純。峠道は慣れないと危険だし、坂やカーブは体力の消耗が激しい。何より寄り道が出来ない。だからルートとしては認識していたがこれまではそちらを通る意味があまりなかった。走るのは好きだが、競技として突き詰めたい訳でも趣味として走ることを目的にしたい訳でもなく、あくまでも移動手段という前提があったからだ。

 今日はもう、とにかく帰りたかった。こんな深夜に立ち寄れる店も思い当たらず、アパート最寄のコンビニで買い物をして適当に晩飯を済ませようという算段だった。体力には余裕があり、時間との兼ね合いを考えて、だから俺は近道をする程度の気分で峠に乗り入れる道を選び、いつもなら直進する道を山の方へと漕ぎ進めた。多少の気後れはあった。だがそれはあまり気にしないことにして、交通量が全くないのを良いことに我が物顔で坂道を登っていく。澄み渡る夜陰をライトで掘削し、高純度の静謐を車輪の回る音が切り裂いていく。月明かりが照らし出す昏々とした闇が続き、世界を独り占めしているような高揚と背筋のざわつく寒気を同時に感じた。

 車道に並走する歩行者用の通路に沿って進み、やがて見えてくるのは山を刳り貫いた横穴だ。馬鹿々々しいと思いつつも胸の奥底に本能的な怖気がじわりと滲み出す。三ツ折峠の幽霊トンネルといえばこの辺りでは割と知られた場所だ。夏の時期ともなれば肝試しと称して話題にのぼることも増える、所謂心霊スポット。

 オレンジ色の照明が暗闇の中程でぼんやりと浮き上がる不気味な様子にペダルを漕ぐ勢いが弱まった。新鮮な空気を胸一杯に吸い込んで、逸らした視線をガードレールの彼方に向け、トンネルを迂回して続く歩道の先が目についた。トンネルは進路上で左にカーブしていて、入口の手前から出口の向こう側が遠目に見渡せた。車も停められるように外側に膨らむ形で空間が設けられ、街灯が一つ灯っている。白鐘山の風景を臨む展望台のような場所らしかった。視界が遮られる直前だったからはっきり確かめられた訳ではないが、そこに一瞬、何かの影が浮かんで見えた。ような気がした。

 馬鹿々々しい、とまた思った。

「馬鹿々々しい」

 口にも出してみた。さっきのアレが人影に見えたから何だというのだろう。俺がこんな場所を走っているのと同じように、誰かがあの展望台から山の夜景を眺めるのを楽しんでいるだけかもしれない。時間は掛かるが徒歩で来れない場所ではないし、見えていなかっただけで車が停めてあったかもしれないし、それこそ俺と同じで自転車に乗ってきたのかもしれない。そもそも本当に人影だったかも疑わしい。尤も実際に誰かいたとしても何の問題もない。通り過ぎてしまえばいい。確かにこんな時間にこんな場所で人と遭遇するなんて不意打ちはドキリとさせられる。でもそれだけだ。絶対に在り得ない訳じゃない。相手だってトンネルからいきなり現れる自転車に驚くかもしれないし、おあいこだろう。

 トンネルの中間、オレンジ色のライトが顔を照らし、我に返った。――そう、何も怯える必要なんてない。俺はこんなに肝の小さな男だったろうか? きっと疲れているんだそうに違いない。

 トンネルを抜ける。左手に、やはり展望台があり、車はなかった。三脚の背凭れのないベンチが山並みに向かって設置され、手摺越しには夜闇に包まれた恐ろしげな森が広がっていた。一つきりの街灯は展望台の中心辺りにぽつねんと立ち、茫洋とした白光の円錐が孤独な浮島のように闇を切り取る。俺はペダルを踏み込んだ。速度を緩めず、僅かに傾斜する下り道に体重を乗せる。足が一周する頃には何メートルも距離が進み、横目にした展望台は一瞬で飛び去って行った。

 心臓が跳ねた。バクバクと耳の奥で鳴り響く太鼓がうるさく頭の中で反響した。

 背筋が寒気立った。ぞわぞわと肌が粟立ち、慌てて前を向いて、そのまま振り返ることが出来ずに一刻も早くこの場を離れようとサドルから尻を浮かせ、がむしゃらにペダルを踏み込んだ。

 結局、コンビニに立ち寄ることもせずに帰宅した。玄関に飛び込み、後ろ手に戸を閉めて鍵を回し、チェーンを掛け、ほっと一息をついて先ほどの光景を反芻する。

 俺はかぶりを振って財布だけを持って再び外に出た。冷蔵庫が空っぽなのは今朝に確認済みだったのでやはりコンビニに行こうと思い直したのだ。――直前、この安っぽい扉の向こうに得体の知れない何者かがいると直感してノブを握ったまま固まってしまった。勿論、アパートの共用廊下には何もいなかったのだけど。

 拭い切れない不快と不安を忘れたい一心でコンビニ弁当を摘まみに珍しく酒精に耽った俺は、二時を回った辺りで半ば溺れるように意識が混濁し、寝床に倒れ込んだ。朦朧と見上げる天井が渦を巻き、ベッドが立ち上がって、シーツの海に体がずぶずぶと沈んでいく。視界が溶け落ち、遠くでみゃあみゃあと鳴く声がして、ふ、と重力が喪失する。

 ――夢を見た。

 夢現な心地にふわふわと浮足立ち、いつの間にか俺はそこにいた。

 高密度の空気に新鮮な緑の匂い。見渡す限りの鬱蒼とした木々。自転車には乗っておらず、一人、あの展望台の入口に立ち尽くしていた。目の前には街灯が灯っている。白い円錐に茫洋とした影が落ちていた。奇妙な光沢を帯びた鮮烈な赤が網膜に、記憶に焼き付いて離れない。俺はそこで自分が一人ではないことに気付いた。光芒の中の赤い影が顔を上げる。全身を覆う赤いレインコートの、目深に下ろしたフードの下は頭上の光によって濃い陰になり、けれど二つの瞳が真直ぐにこちらに据えられているのだけはハッキリと感じられた。

 俺は立ち尽くした。そうしようと思った訳ではなかったが、動こうとしても、きっと動けなかっただろう。石像の如く硬直し、赤いレインコートからの眼差しをただ、受け止める。みゃあ。山のどこかから音律も何もあったものじゃない、狂ったような音がした。篳篥や神楽笛、琵琶に箏、楽太鼓と鉦鼓――以前にみんなと連れ立って繰り出したある地方の祭で見た雅楽に似た、それぞれが好き勝手に演奏する不協和音が耳を聾するように沸き起こった。今まで静寂に包まれていた展望台――否、山のあちらこちらからひそひそぶつぶつ囁き合う声と声と声が、どっと沸き起こる笑い、聞き取れない唄声、ドン、ドン、ドン、と一際乱暴な太鼓が次第に大きくなり、みゃあ、ハッキリと聞こえ――ふとそれらが森の奥、山の上から降りてきているのだと理解した。音はそこここから聞こえている筈なのに、それは俺の背後の山上からゆっくりと――恐ろしげな早さで、こちらに向かっていた。

 赤いレインコートの右腕が動く。やけに白くて細い指が伸びて、俺に向けて手を差しだした。

 息も絶え絶えに飛び起きた。ベッドのシーツは異常なほどの寝汗でぐっしょりと濡れ、カーテンを閉め忘れた窓から射した刺々しい朝日が俺の顔を照らしている。


 十日ほど後のことだった。

 俺はあの夜の峠で見たものを、そしてその後の悪夢を努めて考えないようにして、日々絶え間なく押し寄せる日常のあれこれに忙殺されるうちにほとんど忘れかけていた。夜は遅くならないように大学を出、帰る時も敢えて避けるまでもなく峠になど用はなかったから、それを記憶から消し去るのは存外に簡単だった。悪夢もあれ一回だけで、酷く夢見が悪かった気がするだけで今やどんな内容だったかも全く思い出せない。何もかも気のせいだったんじゃないか、とさえ思えた。

 そんな時だった。昼時だったので研究室に顔を出す前に腹を満たそうと食堂に向かうと見知った顔が並んでいた。

「三ツ折峠の赤ずきん?」

「そそ。そういう、噂? 都市伝説? あのほら、幽霊トンネルで有名なあそこの展望台に出るんだって」

「ああ、白鐘山。確かに色んな噂を聞くね」

「彷徨う女の幽霊、誰もいないのに聞こえる呻き声、怪鳥、人面犬、片足の首無し、白い大蛇――」

「まあ、最後の白蛇に関しては、どっちかっていえばこの辺に古くから祀られてる蛇神の影響だろうけど……」

「何かと曰くの多い土地だしね。でも今回のは私が知る中でも一番新しい噂よ。しかも、目撃者あり」

 昼時の食堂は賑やかだ。そこかしこで内容の聞き取れない会話の花が咲き、食器のぶつかる音、ケータイの着信、構内でどこかの馬鹿が歌う下手糞な歌謡曲や奇声が折り重なっている。不思議なもので、人間の耳は聞こうとせずともそのような無秩序な雑音からでも正確に聞き知った二人の声を拾い上げ、俺はその会話内容に向け掛けた足を止めた。

 やっぱり別の場所で食べようかな。そう思い、踵を返そうとして、しかしそれまで話し込んでいた片方の目がまず俺を捉え、視線を追ってもう一人も振り返った。真藤真尋がひらりと手を挙げ、水城静流は手招きして自分の隣の空席を叩いた。

 俺は観念して諸先輩方の勧めに従った。

 ども、と浅く頭を下げると、真藤はおうと投げやりに顎を引き、水城はやあと微笑を浮かべた。

「ちょうどいいところに来たな」

 味が足りなかったのか、食べている途中のうどんに汁が真っ赤になるくらいの七味を投入して、真藤が云った。

「今から静流さんが楽しい話をしてくれるらしい」

「はあ。静流さんが、ですか」

「いいじゃない、好きなんだから。最も新鮮なフォークロアだよ?」

 都市伝説に鮮度があることに驚きだが、しかし噂話というものが時代の潮流や時々の世相に如実に影響されるのも事実だ。事件や事故、人々の不安が新しい怪異譚を生み出し続けるのは人間社会の文化活動に於ける作用の一つなのだろう。

「何だっけ。三ツ折峠の――」

「赤ずきん。三ツ折峠の赤ずきんだよ」

 真藤の呟きを、水城が引き取った。

 俺は隣の会話を聞き流す体勢に入り、箸を割って手を合わせた。今日の日替わり定食は鯵の竜田揚げで、梅肉を混ぜた甘辛ソースが絡めてあった。メインに手を付ける前にまず味噌汁を啜り、キャベツの千切りを食べる。空きっ腹に出汁の効いた赤味噌の風味が沁みて体が一気に食事モードに切り替わった。

 真藤がコップの水をあおった。

「また何ともいえないネーミングだことで。狼とかも出てくるのか?」

「なんで狼?」

「だって赤ずきんだろ」

 水城は頬張った唐揚げを飲み下して、そっと首を左右に揺すった。

「童話の赤ずきんは全く関係ないよ。ただ赤いフードを被ってるから赤ずきんって呼ばれてるだけ」

 概要はこうだ。深夜の三ツ折峠に出向いた連中が幽霊トンネルで肝試しをしていたところ、その先の展望台に人が立っていた。体格からそれは子供のようだった。

 酒の入った彼等でもこんな時間のこんな場所に子供が一人でいる状況は流石に不審がった。もしかして犯罪が関わっているのではないか、声を掛けるべきじゃないか、と目を見交わす。酔っていたのもあって実際に行動に移すまでそう悩まなかった。

 赤いレインコートを着た、フードを目深に被った女の子はぽつねんと街灯の下に立っている。怖がらせないよう声を掛ける。女の子が振り向き、彼等は竦み上がった――フード下に白塗りのお面が覗き、目の位置にある二つの穴に蒼白い鬼火が灯っていた。これが昼間の駅前だったらば、彼等もその異様の風体を痛々しい子がいるなと苦笑する程度で済ませただろう。しかし現在時刻は午前二時、所謂丑三つ時の人気のない山間の峠道だと、話は少々違ってくる。そもそも肝試しに訪れた彼等にすればそう感じるだけの雰囲気がとっくに醸成されていたのだ。云い知れぬ不吉が彼等を捉える。

 それまで静寂に包まれ、互いが交わす下らない言い合いだけが木々の間に響いていくだけだったそこに、突然休日の繁華街もかくやという騒音が生じた。祭囃子のような雅楽、笑い声、囁く声がわっと沸いた。思わず耳を塞ぐほどの音に、けれど女の子は反応を示さず、彼等をじっと見据えた。ことここに至って彼等も目の前の存在が得体の知れない何かだと分かり、騒音は次第に自分達に近付いている気がして怖くなった。そうして誰が早いか車に乗り込み、そのまま逃げ帰った。

「……で?」

「終わり」

 滔々と妙に慣れた様子で語り終え、満足気にコップの水を干す水城に真藤が促すと、彼女はあっさりとそう云った。

 落ちが弱い、と最後の一口を嚥下しながら思っていると、真藤が一句違わず云ってしまった。なあ、と同意を求めてくるので、俺は曖昧に頷いて返した。

「最後に誰かがその女の子に連れ去られたり音の主が姿を現したりするならまだしも、山間の正体不明の怪事、怪音か……個人的に興味深くはあるけど、大衆に膾炙するには色気に欠けるし、その噂はあんまり流行らないんじゃ――ああ、なるほど。目撃者、ね」

 水城の顔を見た真藤が言い直した。横目に窺えば、彼女はしたりと笑んでいる。

「実際に友達が経験した話なの。私もさっき知って、ちゃんと直接聞き取りしてきた。彼女はわざわざこんな嘘を吐くような子じゃないし、人柄は保証するけど……仮に作り話なら、もうちょっとそれっぽく脚色すると思わない?」

「地味だからこそ尤もらしいってことか」

 話を作るにしろ盛るにしろ、そこに作為があるのなら普通はそれらしく飾るものだ。特に怪談の類を山も谷もなく語ったところで聞かされた側はだから何だとなってしまい、失笑を買うだけだろう。

 それに、と水城は少し言葉に詰まった。

「なんていうか……本気で怯えてた。目の下の隈を化粧で誤魔化して……一週間前の話らしいんだけど、未だに夢に見て、夜も眠れないって」

 そりゃあそうだろうとは云えず、これ以上聞き流すのも印象が悪い。かといって話題を別に運ぶ機転もない俺は消去法的にトレイを持って席を立った。正直、一刻も早くこの場を離れたかった。

「やけに静かだと思ったらもう食べ終わったの? よく噛まないと体に毒だよ」

 母親のような科白を水城が云い、真藤は口の端を上げてからかうように視線をそちらに向けた。

「ほらみろ、詰まんねえ話するから」

「うわあ、ひどい人」

「いえ、すんません。今日締切の課題があって。お先に失礼します」

 浅く頭を下げ、俺のらしくない態度に目を丸める二人に見送られてトレイを所定の位置に返却し、足早に食堂を後にした。嘘は吐いていない。朝一で提出を済ませているが、今日締切の課題があるのは本当だからだ。

 七月を目前にして本格的に夏めいてきた日差しに堪らず手で庇を作る。冷房の効いた食堂を一歩出れば暑い風が正面から吹き付け、温度差にくらりと目の前が暗くなった。翳した手をそのまま額に当てて、目を眇める。行き交う薄着の学生が太陽に向かって口々に悪態を吐いていた。芝生の上で上半身裸の男が水を被ってふざけていた。ひと時の涼を求めて食堂に逃げ込もうとした桃色髪の女子が、入口に立ち尽くす俺に怪訝な眼差しを寄越してわざとらしく避けていく。失礼な奴だ、と思ったが、何気なく掌を見下ろして然もありなんと納得した。

 俺は、震えていた。

 自覚した途端、強烈な寒気が背筋を這いのぼった。無意識に二の腕を撫でさすり、掌に触れる肌はぷつぷつと粟立っていて、言い様のない暗い気分が明るい夏空とは対照的に俺の心にどんよりと冬の雲を落とした。


 ハッキリとは憶えていないあの夜の悪夢と奇妙に呼応する噂から逃げ出したくて、俺は日が暮れる前にマウンテンバイクに飛び乗った。単なる気紛れだと自分を騙し騙し白鐘山に入る道を意図的に外れ、ほとんど遠回りに駅前まで降りて真直ぐにアパートへと戻る。建物脇にはトタン屋根の付いた簡素な構造の駐輪場があり、自転車を停めて外階段を上がった。アパートは一フロアに四部屋の二階建てで、道路側から順に階数に部屋番号が割り振られている。つまり一階の一番道路側が一〇一号室、隣が一〇二号室といった具合だ。俺の部屋は二〇四号室だった。二階の一番奥に当たり、所々錆が浮いた共用廊下を足早に進む。閑静な住宅が広がるだけのこの一帯は基本的に一日を通して喧騒とは無縁で、室内にいても住民が扉を開閉する音や共用廊下を歩く気配が分かり、俺がこうして鉄骨廊下を歩く慌ただしい足音もアパート中に響いているに違いなかった。

 鞄に手を突っ込んで手探りに鍵を探しながら何気なく手摺の向こう側を見た。日暮れに差し掛かり、住宅街が鮮やかな夕焼けに染まっている。アパート側面に面した狭い道路にはもう街灯が灯っていて、訳もなく不安な気分が胸を騒がせ、ふとその明かりの下に人影があるのに気付いて、唖然とした。顔といわず体中から血の気が引いていく。ひっ、と引き攣ったように息を呑み、後退りした拍子に扉に背をぶつけて鞄を取り落とした。

 見間違える距離ではない。その人影は雨降りでもないのに赤色の真新しいレインコートに身を包み、何をするでもなくこちらに体の正面を向けて上向きにじっと佇んでいた。気付いた時、目深なフードの下の仄蒼い二つの灯と目が合った。気がした。

 どこかでみゃあと野良猫が鳴く。みゃあ、みゃあ。最初の声に応じて何匹かが続け様に鳴いた。みゃあ。みゃあ。みゃあ。みゃあ。声は更に増え、今や何十、何百にまで増殖している。声は一定のテンポで、まるで録音された鳴き声を無数に同時再生しているかのように無機質に繰り返され――なのに猫の姿はどこにも、一匹たりとも見当たらなかった。俺が赤い人影に魅入られていたから、ではない。小さな獣の気配は確かに増えていると感じるのにその姿だけが見付からないのだ。

「みゃあ」

 瞬間、十重二十重に重複し連続するみゃあという合唱の中、けれどハッキリと、人影が鳴いたのが分かった。腕が持ち上がり、フードの下の白塗りのお面に指が掛かる。心の深い場所からダメだと叫ぶのが聞こえた。見るな、見るな、あれは絶対に見てはいけないものだ――体は動かなかった。視線が絡み合ったままその蒼白い鬼火から目を引き剥がすことが出来なかった。

 ゆっくり、じれったいほどゆっくり、お面が外れていく。マズい。ダメだ見るなダメだダメだ止めろ! 出ない声を振り絞り、頭の中で激しく叫ぶ。

 金縛りが解けた。慌てて扉に取り付く。開かない。落ちていた鞄を引っ掴んで乱暴にまさぐり、何度か失敗しつつ鍵を開け――どうしてそんなことをしたのか、閉まる扉を振り向いた。狭まっていく隙間の向こうに鮮血をぶちまけたかのような光景が広がり、細長い影が隙間から入り込もうとしていて、そこで目が覚めた。

「……え」

 蒸し暑い空気が剥き出しの手足にねっとりと絡み付いていた。濃密な静謐に鼓膜がぐいぐいと圧迫されて鈍痛がする。肌が粟立ち、緊張に苦い唾を飲み下す、その音さえ周りに響いてしまいそうだった。空気はごうごうと唸り、風の吹き抜ける葉擦れが波のように遠く近くへ広がっていく。周辺は暗かった。人家の明かりはなく、月も雲の後ろに隠れ、夕暮れがほんのまばたき一回分の合間に夜に変わっていた。

 何が起こったのか分からず、俺は茫然とした。鬱蒼とした木々に囲まれ、足下の道路は右手側に伸び、緩やかにカーブして見えなくなっている。左手側はオレンジ色の光が不気味に灯るトンネルに吸い込まれていて、ようやくここがどこなのか思い至った。まさか、というべきか。やはり、というべきか。三ツ折峠の展望台に俺は立っていた。

 困惑していると背後でみゃあと猫の鳴く声が聞こえた気がして、振り向くと展望台に唯一の街灯がそこにあった。白い灯はさながら誘蛾灯のように暗闇を切り取り、俺は恐る恐るそちらに足を進めた。ベンチと手摺、あとはただ山があるだけであり、案に相違して何もいなかったし何も起こらなかった。猫はおろか赤いレインコートも見当たらない。耳を澄ませてみても聞こえるのはやっぱり風の音ばかりで、さっき耳にしたような鳴き声は影も形もなかった。

 ――――訳が分からなかった。

 俺は確かにアパートに戻った。部屋の前に来たところで赤いレインコートを見掛け、恐ろしくて玄関に逃げ込もうとした。なのに、ああどういう訳か実際に目が覚めてみればこんな場所に佇んでいる。いや、いや、在り得ない。昨夜のことがあって、夢見も悪くて、昼間にあんな嫌な噂まで聞かされて、俺は意地でも峠には近付かないと決めていたのに。あまりの動揺に膝から力が抜け、立っていられなくなって半ば頽れるように傍のベンチにへたり込んだ。

 仮にこの状況が夢なら百歩譲って理解は出来る。けれどアパートに戻ったのが――俺が現実だと認識していた方が夢だったとしたら、果たしてどこからが夢だったのか。

 先ほどから何度も反芻する、目が覚めた、と感じたあの感覚は間違いない。深い眠りからスイッチを切り替えるように覚醒する感覚とでもいうか、つまりはこれが夢だとは思えなかった。夢とはそれを見ている最中は現実と感じるものだ、というならまさにその通りなのだが、夢としか思えない状況だのに俺はこれが現実だと直感している。オッカムの剃刀でシンプルに整形すれば、俺が無意識に自分の足でここまで歩いてきたと仮定するのが最も当を得ているだろう。誰かが俺を拉致してここまで連れてきた可能性も勿論あるけれど、そんな手間の掛かることをして益のある人物はいまい。どちらにせよアパートからここに至るまでの一切の記憶が欠落している問題は残るが、やっぱり俺は自らここまでやってきたのだ。

 ――――帰ろう。

 そう思い、立ち上がり、途方に暮れた。元々深夜に車の往来がある道でもないからタクシーだって通らない。深海を彷彿とさせる重い静寂が辺りを包み込み、気温と乖離したゾッとするほどの空寒い闇が深々と果てしなく取り巻いている。虫か、夜行性の鳥や獣がこちらを窺っているらしく、ふと息を詰めると遠くからジィィィという音が聞こえてきた。右には大学のある方向に向かうトンネルが、左には緩やかなカーブを描いて住宅街にまで続く道路がそれぞれ伸びている。展望台の入口は車を乗り入れる為のちょっとした空間があり、しかし今、そこには何もなかった。

 その時だ。

 道路を挟んだ反対側――山の上の方から、しゃん、と澄んだ音色がした。しゃん、しゃん、と神楽鈴が鳴らされ、それに合わせて管楽器が吹かれ、次いでドン、ドン、と複数の打楽器を打ち鳴らし、弦楽器が爪弾かれる。それは神社にて奉納される雅楽のようにも、或いはそんな儀礼的意味合いから遠ざかった享楽的な祭囃子のようにも聞こえた。最初は遠い場所からしていた筈の演奏は次第次第に明瞭に聞き取れるようになり、すぐにその周辺に哄笑や囁き、調子の狂った手拍子や囃し立てる声が沸き起こった。

 何かが近付いてくる。演奏も、笑い声も、呟きや嘲りも、ひそひそと交わされる好奇の囁きも、少しずつこちらに向かっている。言葉もなく、身動きも取れずに立ち尽くしている間に彼我の距離は本当に道路を挟んだあちらとこちらというほどになり、木々の隙間を埋め尽くす真っ暗闇にちらちらと無数の影が動き回っているのが分かった。それらは俺の存在に気付いている。先ほどから木の幹に隠れた何かがハッキリと俺に視線を向け、隣にいる小さな――子供のような影に何事かを耳打ちしていた。そうしている間にも演奏は高まり、最高潮に達し、俺は言い様のない気配を感じて――ずるずると這い回る音、ぴちゃりぴちゃりと粘り気のある水音、引き攣った笑いと抑え切れない憎しみと怒りの唸り、凍り付くような炎の熱――振り向いた。

 しとしとと雨が降り、足首まで浸かる深さの透き通った水面に無数の波紋を広げ、巨大な白い満月を歪めていた。蒼白い仄かな光に照らされた四つの鳥居が縦に連なり、その奥、石段の上にひっそりと控える小さな木造の建物が見えた。正面の扉は一部が木格子になっており、建物の内部に灯る幽かな明かりが洩れている。四つの鳥居の一つ目、縦二本横二本の木を組み合わせただけの簡素な朱塗りの鳥居を潜る時、その柱に蛇が絡み付いているのに気付いた。注連縄が柱から横木を伝い、反対側の柱にまで巻き付けられているのだ。そのまま二つ目、三つ目、四つ目を通り抜け、右手の森に隠れた洞窟からぱしゃりと水の跳ねる音がした。巨大な尾びれが水面を叩き、赤と白の斑模様が深みへと潜っていく。

 視線を戻すと目の前に赤いレインコートを着た少女が立っていた。白塗りの面に顔を隠し、目深にフードを被った彼女の姿にようやく得心がいった。しとしととした雨粒がレインコートの表面を淫らに濡らし、水に浸かった裾を伝って一面の洸な水面に滑らかに溶け込んでいく。

 彼女が何かを云った。俺の手を取り、建物へと導く。篳篥や竜笛、神楽鈴に太鼓、彼等の演奏はすぐそこに迫っていた。

 木格子越しに影が蠢く。ひょろりと長い手か足が灯の前を横切って気怠くもたげられ、ずる、ずる、と湿ったものを引き摺る音が不快に耳朶を撫でた。悪寒が走り、ハッと我に返る。俺は一体何をしているんだ?

「うわッ――は、放せ!」

 手の中の感触はどうにも生きた人間の掌ではなかった。ひやりとした冷たさが爬虫類を連想させて怖気をふるい、反射的に振り払っていた。

 あ、と思った時には既にバランスを崩していた。足を滑らせて水を蹴り上げ、体が宙に浮く。ばしゃん、という衝撃と共に背中から打ち付けられ、鼻や耳、口から凍えるような水が一気に流れ込んできて反射的にきつく目を瞑った。慌てて手をばたつかせ、酸素を求めて出鱈目に藻掻いた。――落ち着け。水嵩は精々が足首が浸かる程度だ。体を起こせばそれで済む。筈なのに。どうしてか顔を出すことはできなかった。どこにも地面がなく、どんどん深みに沈んでいった。やがて息が苦しく耐えられなくなって、俺は泡の塊を吐き出した。パニックに陥りながら目を開ける。視界が歪み、暗闇が押し寄せ、その中心に白い明かりが灯っている。

 上へ。必死に水を蹴り、掻いて、浮き上がろうとしたその足に何かが触れた。それはしっかりと俺の足首に絡み、ぐいっと逆方向に引っ張った。見れば下方には水底さえ見えない深淵の闇が広がり、白い手が両足を掴んでいた。それも、一つや二つではない。無数の真っ白な人影がゆらゆらと漂い、俺に縋り付こうと手を伸ばしている。

 ゾッとした。止めろ、と叫ぼうとしたが、水中ではどうしようもなかった。代わりに死に物狂いで足を掴む手を踏み付け、水面を目指して暴れ回った。

 その時だった。頭上に射す光を何者かが遮った。巨大な影が右から左に素早く動き、尾びれの一振りが空気を攪拌して視界が細かな泡沫に煙り、凪いだ水中に生じた潮流は激しく俺の体を打った。ぐるん、と上下左右が入れ代わり、完全に水面を見失う。

 すかさず幾つもの手が伸びてきて俺の体を掴んだ。足といわず腕といわず腹や肩までべたべたと触れ、更なる深みへと引きずり込まれる。白い人影が集り、次第に目の前が暗くなってくる。肺が潰れ、意識が朦朧とし、掠れる視界を無数の白い影がゆらゆらと身をくねらせ、明滅する焦点の端で鮮やかな赤色が閃く。世界の歪みは刻々と悪化を続け、やがて最後に残った一息が泡となって浮かぶと焦点の針孔さえ目潰れし――瞬間、俺は飛び起きていた。勢い余ってベッドから転げ落ちそうになり、無意識に掴んだシーツは寝汗が絞れそうなほどぐっしょりだった。

 状況がうまく掴めなかった。うるさく暴れる胸を押さえ、ぜいぜいと喘ぎながら辺りを見回した。壁際に積み上げた本の山、飲みかけのペットボトル、空っぽの金魚鉢、脱ぎ捨てた靴下、窓の外には夜闇が縁に混じった暮れなずむ住宅街――そこは深夜の展望台ではなく、底浅の湖に建つ朽ちた神社でもない、ただの見慣れた自室だった。鞄が玄関に投げ出され、中身は散らばり、ケータイもケーブルに繋がず床に転がっていた。

 ベッドの縁に茫然と腰掛け、いよいよ悪心に耐えられなくなってシンクに立った。堪らず何度か嘔吐きながら水を注いだコップを一息に呷る。そうして多少なり平静を取り戻した途端、今度は汗みずくの恰好が――着替えもせずにベッドに入っていたらしい服が我慢ならなくなった。襟を摘まみ、中に空気を送り込む。

「うへぇ……」

 汗と埃、それに生々しい水がむわっとにおった。明らかに暑さからだけじゃない、嫌な脂汗を全身にかいていた。

 短い廊下を渡って脱衣所へ行く。何となく部屋の空気が湿気ている感じがした。シャワーを浴びたら換気をしなくちゃな、と考え、ふと意識を外に向けると、近所の家のどこかが窓でも開けっ放しなのか妙な節回しのくぐもった音楽が流れていた。素人が演奏しているにしても酷い、聞くに堪えない不協和音はハッキリいって騒音以外の何物でもなかった。三半規管が狂いそうになり、どこからともなく猫か赤ん坊がみゃあと鳴き声を上げる。玄関の向こう、共用廊下や道路、家の外でどっと騒がしい笑い声が沸き立つ。ひそひそと囁き交わす幽かなやり取りが風に乗って届き、この辺りにしては珍しくやけに賑やかな気配が感じ取れた。脱衣所と浴室を隔てる摺り硝子にぼんやりと青い光が漂っているのが映っていて、ぴちゃん、ぴちゃん、と水滴が水面を叩く音が何度も何度も、仄かな光が心許なく浮遊する浴室から響いてくる。

 しゃん、と神楽鈴を振り鳴らす音が部屋から聞こえた。テレビを付けていただろうか。よく、憶えていない。鈴の音は二度、三度と繰り返し、洗濯機から元気な魚が空中に跳ねる音がした。ぱしゃん。

「は、あ――」

 呼吸がうまく出来ない。胸がつかえ、耳元の血管がうるさかった。

 重い足を進め、摺り硝子に手を掛ける。ケータイの味気ない電子音が追ってきて誰からかの着信を報せ、ああ出なくちゃ、と思うのに俺はそのまま把手を下げていた。浴室の扉は、力を入れてもいないのに勝手に開き、着信音は変わらず鳴り続ける。

 月――

 醜い、あばた面まで見て取れる巨大な満月が、正面の空遥かに高々と昇っていた。

 浴室があるべきそこに広がっていたのは鎮守の森だった。注連縄の絡んだ鳥居。半ば朽ちた木造の建物。蒼い火の焼べられた灯篭。妖しい仄かな光が空間を満たし、中心には赤い花が咲いていた。花は右手に鈴が、それこそ鈴生りに実った桜の枝を持ち、左手の白塗りの面を扇子や何かのように扇ぐように動かす。指先まで意識の通った洗練された所作で手を差し上げ、しなやかに足を運び、堂々と神楽を舞う姿に神聖な秘め事を盗み見てしまったかのような罪悪感を覚え、苦しさは弥増した。

 彼女の奥に見える木格子の扉が少しずつこちら側に開こうとしていた。轟々と唸る風の音がそれに合わせて大きくなる。赤いレインコートがはためき、巫女は構うことなく、神楽舞は静かに激しさを増して一面の水面に美しい波紋が乱舞する。篳篥や竜笛や鉦鼓の狂おしい不協和音も負けじと高まっていく。

 俺はふらりと前に進み出て、鳥居の下に膝をついた。両手を差し上げ、彼女がそこに白塗りの面を置く。これが儀式の要所だったのだろう。顔を伏せたまま水中を踊る整った爪先を身動ぎもせずに見つめていると、鈴の音は右へ左へ緩やかに滑り、その間にも何者かの這う気配は社の外へと現れる。ず、ずず、ず。小ぢんまりとした建物に見合わない巨躯が地面を擦り、押し退けられる空気の圧にじりじりと肌が痺れた。巫女の舞、月、俺の顔を映す水面を白く輝く何かが横断する。月光が複雑に反射し、ちくりと眼を刺した。

 ぎゅっと眼を瞑る。固く固く目蓋の裏の闇を見据えた。視覚を閉ざしたことで、それ以外の感覚が明敏に情報を求めた。みゃあ、ジィィィ、カカカ、ちち、みゃあ、みゃあ、おわあ――いつしか複数の声が俺と巫女の周囲をぐるりと囲み、雅楽に合わせて異型の讃美を唄っている。儀式は佳境だった。無数の声とバラバラな楽器の不協和な旋律、そして何者かの這い回る音。やがて最後の鈴が鳴り、声が途絶えて舞が終わると、あらゆる音は波のように引いて俄かに静寂が訪れた。

 目蓋の裏に映る恐ろしげな幻影に耐え切れず恐る恐る目を開くと、彼女がこちらにしゃがみ込んでいた。レインコートの裾を水中に沈め、片膝を浸け、捧げたままだった俺の手にそっと自分の指を添える。白魚の、という形容がぴったり嵌まる細い手弱女の指だ。爬虫類のように冷たいその指にされるがまま、手を下げていく。

 手中の面は木ではなかった。硬質な異なる材料から掘り出してあるらしく、継ぎ目もない。白く塗られた――或いは元からそういう色合いなのだろう表面は丁寧にやすり掛けされて滑らかで、俺の方を向いた内側の上部辺りにだけ二本の歪な杭が突き出ている。白一色の面で、唯一赤黒く変色したその部分は勿論のこと両の眼球の位置にあり――これを着けていた巫女の顔がどうなっているのかを確認することは、叶わなかった。

 俺は一体何をしているのか。自らの行為を俺自身が理解出来なかった。なのに、ああ、勿論決まっているじゃないか、頭の奥で確信的にいう声が、みゃあ、俺は、だからその為に――ずずず、ずず、水面に映るてらてらとした白い光沢が今や細かな造形まで手に取るようだった。鱗だ。一枚一枚が掌大もあり、複雑怪奇な綾を描き出す巨大な鱗が整然と並び、足下の鏡像越しに深淵の闇が広がって干乾びた亡者がゆらゆらと手招きしていた。

「う――ぎ、ぃあッ、は――」

 どこからか、そうだ、勿論のこと俺の引き結んだ唇の隙間から零れ落ちる、獣の咆哮が蒼白い静寂をつんざいた。

 炎が――焼けるような感覚が、両眼から眼窩へと注ぎ込まれる。夥しい熱が垂れ落ち、零れて、堪らず頤を跳ね上げると今度はそれが額を遡り、こめかみや頬に流れていった。雫は髪を染め、毛先からぽたりぽたりと滴って清らかな水面を汚す。その様はきっと、傍目には赤い頭巾でも被ったように見えたかもしれない。

 俺は呻き、苦鳴を洩らして、やがて無駄な力が四肢から抜けていく。胸を荒らしていた恐怖と混乱の暴風が収まり、安らかな心地が麻酔となって全身に、血中を広がる。灼熱を湛えた闇の中にひやりとした白い月光を確かに感じた。

 ず、ず、ずずず。音が這い寄ってくる。

 冷たい指先が頬に添えられ、背中に手が回される。ぽんぽんと子供をあやすみたいに撫でられ、手を持たれて誘導されるがままに立ち上がった。

 しゃん、という音が最初に一つ。次いで左右一列に整列した幾つもの神楽鈴の音色と、その後に続く種々の楽器が演奏を再開する。今やその意味はおろか使われた痕跡すら歴史の地層に埋まって消し去られた太古の言葉が祝詞を唱え、しとしとと小雨が降り始めた。息を詰めた無数の聴衆がずらりと詰め掛けているのがハッキリと分かる。彼等は一様に口を噤み、跪いて、それぞれの祈りの形を手や指で形作っているに違いなかった。そんな中を俺は巫女に付き添われ、無明の道をぺたぺたと進んだ。

 最早、見えずとも分かった。この道の先にはあの木造の建物が控え、そこには白い美しい鱗を纏った大きな存在が待っている。

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矩越怪奇談 側近 @rusalka000

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