矩越怪奇談

側近

夜鳴き

 ジィィィ――ジィィィ――。

 深夜も遅く、トイレの帰りだった。妙な音に足を止めた。電化製品の稼働音にも似た、何となく耳障りな音が、庭の方から聞こえてきた。

 最初は無視しようとした。尿意から解放されて眠気がぶり返したからだ。しかし、その音はやけに気に掛かった。虫ではないな。寝惚け眼を擦ってぼんやりと考える。

 ジィィィ――ジィィィ――

 犬猫ではないし、狐狸の類もここまでは降りてこない。鳥に、こういう風に啼く種類がいたかもしれないが、うぅん、よく分からなかった。そのジィィィという音は何故かしら居心地が悪く、だからこそ聞き入ってしまい、気付くと足がそちらに向かっていた。

 なんじゃらほいと縁側に出て、硝子戸に額をぐいと寄せ、曇り空で月明かりもない庭に目を凝らす。

 ジィィィ――ジィィィ――

やはり音が、庭のどこぞから……


「――はあ。それで」

「まあ、それだけ何だけど」

「ええ……結局、その音は何だったんだよ」

「さあ。じいっと目皿で庭を見てたけど、別に何がいたって訳でもないのよねえ。何か、音だけがこう、どっかしら聞こえて」

「漏電してたとか」

「庭で? うちの庭、家が旧いからそりゃ多少は広いけど、桜と池と、後は物置くらいしかないよ」

 淹れたばかりの珈琲を注いだマグカップを左右に一つずつ持ち、静流さんは斜め上に視線を向けて首を右に傾けた。青いの方のマグカップをこちらに寄越し、僕は礼を云って受け取り、席に戻った彼女は赤いマグカップを両手で包み込む。空調が壊れた研究室は室内だというのにコートを着込まないといけないほど寒く、彼女はそうやって暫し暖を取っていた。

「ふぅん。電信柱、ほら、電線とか」

「――は、流石にないと思うけど」

 自宅と近辺を思い出しながら喋っているのか探り探り云うと、今度は左に、かくん、と頭が傾く。

「第一、だからさ、庭からしたんだってば、その音」

「ジィィィ――って?」

 さっき云われた通りに声真似して返しただけなのに、静流さんは眉間に皺を寄せて睨んでくる。肩を竦め、テーブルの籠に袋ごと置きっ放しのスティック砂糖一本とフレッシュ一つを取って珈琲を掻き混ぜ、次第に色が変わっていくのを眺める。ブラック派の静流さんは熱々のカップに息を吹きかけ、唇を湿らせた。

 僕は云った。

「それさあ、ほんとに啼き声なん? 実はそう聞こえてるだけで、別もんじゃないの」

「啼き声だよ。と、思う。うん。ね、だからさあ、お願いだよ」

「はあ。え、いや。本気?」

「今夜だけでいいからさあ」

 偶々居合わせただけでこんなお誘いを受けてしまったなんて、他の人に知られたらやっかまれて色々大変そうなので、みんなには黙っておくことにした。静流さんもあまり大事にしたくはなさそうだし。


 静流さんは実家住まいだったが、ご両親は懸賞で当てた温泉旅行に夫婦水入らずで出ていて、妹さんもそれならと連日友達と遊び明かして帰ってくるのが明け方になっているらしい。結果、だだっ広い日本家屋で一人で眠ることになり、普段ならば今更慣れてしまっているからどうとも思わないのだけれど、今夜ばかりは例のジィィィがどうしても気味が悪くてたまらないのだそうだ。

「同性の友達を誘った方がよくなかった?」

 せめてこれくらいはと御馳走になった夕飯の席で訊くと、静流さんも最初はそう考えていたんだけど、と行きつけの定食屋の豚カツを困り顔で齧った。店のオヤジさんが詰まらなそうにしているテレビから下らないバラエティの笑い声が垂れ流されている。テレビは関係ないだろうが、静流さんも揃えたように曖昧に苦笑を浮かべる。

 どうしてそうしなかったのかと目で問い掛ける僕に、彼女はたはは、と笑う。

「一応、言ったんだよ。泊まりに来ない、てさ。そしたら、怖いから嫌って」

「あー、ね。ホラーっぽい語り方したんでしょどうせ」

「はい。だって、私も怖かったんだもん」

 そんな訳で僕は自宅に招かれ、妙な期待を抱くのも申し訳なくて一先ずテレビを眺めながら時間を潰すことになった。


 丑三つ時。要は午前二時近くになった頃だった。縁側に通じる和室に座卓を挟んで差し向かい、持ち歩いている怪奇小説の頁を捲っていると、ケータイを弄っていた静流さんが不意に動くのが気配で分かった。和室の襖の前で、そこに映る影に不気味な予感を覚えた主人公がさあ中へ、というところで指を栞代わりに挟み、僕も顔を上げた。

「なん?」

「ん。多分、そろそろ。昨日は、これくらいの時間に……」

 そう云った時だった。

「あっ」

「お?」

 音、だ。静流さんが云った通りの音が硝子越しにくぐもって聞こえてくる。

 ジィィィ――ジ、ジィ、ジィィィ――

 鳥、虫、蛍光灯、鉄塔、そういうものが発する音に似ているけれど、それ等とは違ってどこか生々しく、人の口と声で真似ているだけのようにも思える。それこそ昼間に静流さん自身がやっていたように、人間がそういう風に発声しているような……。

「ほら、ほらほらっ、聞こえるっ、ほら聞こえるってば!」

 四つん這いでテーブルを回り込んできた静流さんが服を引っ張り、バシバシと肩を叩きながら声を潜めて興奮気味に云った。不気味な音に寒気がするのとは別に、耳元に息が吹きかかってゾクリとして、僕は何も言えず無言で頷いた。

「ちゃんと聞いて、ねえってば」

「聞いてます。聞いてますよ。これ、確かに……うん、庭からだな」

「鳥とか虫とか、かな」

「……人の声にも、聞こえ、る?」

「やだ――気味の悪いこと云わないでよ」

 ジィィィ――とまた音が聞こえ、僕達は黙り込んだ。不安そうに見てくる静流さんに言外に急かされ、なるたけ音を立てないように縁側へ行く。足を乗せると床板が軋んで、訳もなくどきりとした。

 静流さんの家は古いだけあって世の不公平に虚しくなるほど広かった。庭も、これまた立派だ。季節になればきっと壮観な花を付けるだろう桜の木が立ち、丁寧に形の整えられた植木が並び、錦鯉の泳ぐ池に短い橋が架かって、砂利敷きの道の先には月明かりのない暗闇の中でずんぐりとした土蔵が影となって蹲っている。敷地を囲む石塀もどっぷりと夜に溶け込んで、手前が和室の光で明るい分、周辺は余計に闇が色濃く感じられた。

 僕は硝子に顔を寄せ、目を凝らす。散らかったサンダルに如雨露の突っ込まれたバケツ、石亀の置物、灯篭、手水鉢が置かれている以外には何も見えなかった。少なくとも誰か、何かの潜んでいる様子は視界の限りでは確認できない。にも関わらず、ジィィィ――という音は今しもハッキリと聞こえている。ジィィィ、ジ、ジィィィ。眉間に皺が寄る。手を望遠鏡のように当てて覗き込み、何となく飛び石を辿ってもう一度庭を見渡した。

 こういう時、仮に怪奇小説の類ならば音の出所はあそこ――雰囲気満点に佇む、如何にも曰くありげなあの土蔵だ。ごく普通の、紋切り型の住宅街に建つ一軒家で育った僕には、貧困な発想と揶揄されようともそこが怪しく思えて仕方がなかった。実際、よくよく音の方角を探れば、そちらの方から聞こえている。と、思う。

 その時、不意に明かりが消えて、闇が室内にまで侵入を果たした。

「なんで電気を」

 消すんだ、と云いかけて、口を噤む。振り返ると静流さんはいつの間にか僕のすぐ後ろに立っていた。両手を胸に引き寄せるような恰好で目を見開き、ぶんぶんと首を横に振っている。自分じゃない、という意味だ。

 停電か。

 でも、まさか――よりによって、こんなタイミングで? 

 ぞぞっと、言語化出来ない不気味さが吹き上げてきて、背中が薄ら寒くなった。ジィィィ、ジィィィ――明かりが消えた所為か音が俄かに高まり、感極まったように大きくなった。ような気がした。

「……で、電気。電気付けよう。暗くて何も見えないし――」

 明るいところから一転して暗くなり、視野の輪郭がぼやけていて、その不安感に堪えられなくなった静流さんが震える声で云った。和室の入口によろめくように近付き、手探りにスイッチを求めて、パチッ、と押し込むのが、ジィィィという音の、まるで息継ぎのように途切れた合間に響いた。

 だが、部屋は暗いままだ。

 え……えっ、と言葉にならない戸惑いに彼女がこちらを見る。そうして手元を見直し、そのスイッチが間違いなく和室の蛍光灯の主電源であると確認して、パチパチと何度も入れ直す。何も変わらない。外から押し寄せる暗闇が粘液のようにねっとりと足下に這い寄ってくる気がした。じわじわと、怖気を振るう冷たい感触が足首を掴んだ。ジ、ジィ、ジ――ジィィィ――嘲笑うように、音がノイジーに波打つ。

「て……停電、かなあ」

 僕の二の腕にそっと触れて、静流さんが困った風に笑みを浮かべるのがうっすらと見えた。彼女も、まさかこんなことになるとは思わなかったに違いない。僕にこれ以上の弱味を見せまいと精一杯強がり、気丈に振る舞うが、引き攣った声音と震えた指先から動揺は隠し切れていなかった。

 僕は何もいえず片眉を上げた。例えば、本当に偶然、和室の蛍光灯が寿命を迎えただけかもしれないからだ。僕は停電ではないと思っていたけれど、敢えてそこを指摘して怯えさせるものではないだろう。和室にはテレビが設置されていて、小さなライトが赤く点灯しているのを僕は見逃さなかった。テレビは、つまり通電状態だということだ。仮に一帯が停電していたりブレーカーが落ちたりしたのならそこも消えている筈だ。だから消えたのはこの部屋の電気だけだ、とまるで他人事のように考えた。

 再び庭に目を凝らす。明るさが逆転して、今や硝子を隔てたあちらの方が月に照らされて明るくなっていた。僕達は縁側に肩を並べ、息を詰めた静流さんの指から緊張が伝わってきて、不思議とこちらの恐怖心は落ち着いてくる。むしろ憎からず思っている相手とこんなに接近している緊張と動揺を悟られまいと必死だった。正直な話、半ば消去法的に今夜ここに招かれて内心浮かれ気味だったのは認めざるを得ない。研究室での言動から今回のこれが僕を特別に信頼しての話でないのは幾ら朴念仁の僕にも流石に察せられたが、だからどうした。水城静流に気のある他の連中を出し抜いて、より仲良くなるチャンスが偶さか転がってきたのだから、有効活用しないなんてそれこそ嘘だ。

 とはいえ、本気で怯え困っている彼女の事情を利用するようで、心苦しくはあった。だからせめてこの音の発生の原因くらいは突き止め上げようと思い、僕は硝子戸に手を掛けた。

「え、待っ、開けるの……?」

「いいから。中にいて――ちょっと見てくるだけだから」

 笑い掛け、僕は戸を開けた。

 暖気に満たされていた和室にキンと冷え込んだ夜風が吹き込み、静流さんが明らかに寒さからだけではなく身を震わせて、一歩後退った。外縁に出ると、厚手の靴下越しにもすっかりと冷え切った床板が感じられ、ゾッとするほどの冷たさが体温を奪っていく。流石の寒さに自分を抱くように二の腕を掌で擦りながら、後ろ手に戸を閉め、足を下ろして爪先でスリッパを探り当てた。

 一歩踏み出した時に砂利に混ざっていた大きめの石を誤って蹴ってしまい、思いの他勢いよく飛んで、ぽちゃん、と池に落ちた。ジィィィ――ジ。音が、驚いたように止まる。

 外に出てみれば嫌でも実感することだが、ここは、これだけの規模の邸宅があるような閑静な地区だ。当然、繁華街のような喧騒とは程遠く、水音がいつまでもちゃぷちゃぷと鳴っているのが聞こえるほどだった。

 ジィィィ――という音が、石を蹴り落とした水音が止むと、再び鳴り始めた。僕は庭を中ほどまで進み、池の手前まで来たところで改めて耳を澄ました。聞きようによっては蝉の鳴き声に似ているが、今は真冬だ。季節外れにしたってあまりにもおかしい。鉄塔の放電音を増幅したような、人によっては耳を塞ぐだろう周波数の音波。一方で、まるで誰かが精巧に口真似して発声しているような、生物の声帯を通したような生っぽさもある。

 仮に、と馬鹿げた想像が脳裏を過ぎった。生物の皮や肉を纏った機械があれば、こういう風な音を発するんじゃないだろうか。バッテリーの心臓、銅線の神経、歯車と針金の骨格に本物の肉と皮をくっ付け、生の声帯を通して内部の音が外に放出されれば――なんて。それこそ三流の怪奇小説ではないか。

 目が暗順応し、月明かりでもある程度は見通しが利くようになってきて、僕は池に落ちないように慎重に歩いた。音の発生場所は一定だ。微妙に音の高さというか響きが上下して感じられるが、凡そ決まった方向から鳴り続けている。

 ほら見ろ。やっぱり土蔵だ。

 普通の家庭にこんな大きさの物置が必要なくらいの荷物がある時点で僕には無駄に感じられるが、要はそれだけの歴史が積み重なっているということなのだろう。土蔵には静流さんの家系が何代にも亘って受け継いできた歴史が収められているに違いなかった。当然、そこには現代の感性的に不要な、或いは奇妙に思える代物も含まれる――だからこそ土蔵に仕舞い込んでいるのだろうし。もし水城家が神道なり仏教なり基督教なり拝火教なり、何でもいいけれど宗教を重んじる家系だったなら、それに纏わる儀式道具や曰く付きの品だってあってもおかしくない。歴史のある家にそういった物品が眠っている、とは稀に聞く話だ。歴史的事実としてこの辺りの土地は古く山と谷に囲まれ、河川も多かったことから蛇神を祀った土着の宗教が盛んだったという経歴もある。そう考えれば、まさに怪奇小説的素養ともいうべき下地自体は昔からあったのだ。

 状況が状況だというのに先ほどまで読んでいた小説に引っ張られてそんな連想をしてしまい、僕はうんざりとかぶりを振って、目の前に佇む建物を見上げた。

 日が落ちる前に見た土蔵は、何の変哲もない漆喰の建物だった。土蔵と聞いて思い浮かべる、何というかそのままの外観をしていた。入口に庇らしき屋根があり、真上の窓は鎧戸がしっかりと閉まっていた。必要を感じなかったから直接確かめた訳ではないが、入口の扉も南京錠でちゃんと施錠されていた筈だ。ジィィィ――という音の響き方から、それは土蔵内ではなく、そう、隣に植わっている少々手入れの行き届いていないように見受けられる植込みの辺りが発生源に思えた。

 静流さん曰く、この音は昨日の夜に初めて聞こえたと云っていた。耳を塞がなければならないほど大きな音ではないが、鼓膜の奥深くをざりざりとやすりで削られるような生理的に受け付けない感じがして、確かに耳について、気に障った。

 植込みは石塀と土蔵の間を埋めるように植わっている。ほとんど、ただの藪だった。月明かりの遮られた濃い闇が常緑の葉に混じって黒々と溜まり、僕はその暗がりを注意深く観察した。正面から眺める限りでは生き物の姿も他の何かの姿も見えない。音はその奥、植込みの中からしていて、先ほどから音程――響きにささやかな揺らぎはあるものの、僕が接近しても調子自体にはあまり変化を感じられないところから、やはり生き物ではなさそうだった。

 となると――そう思った時だ、はっ、と尤もらしい考えが浮かんだ。タイマー式、或いは遠隔操作可能な小型機器を使い、予め録音しておいたジィィィという音、それが何のものであれ、その音をループ再生しているのではないか。安い機器をこんな風に野晒しにしている所為で妙な具合にノイズが混ざり、時々音が跳んだりして、例の不気味な鳴き声が出来上がったのではないだろうか。それとももっと単純で、元々はもっと別のそれらしいお経とか悲鳴だとかだったが、機器の不調によって完全にデータが潰れてしまった、とか。

「……なんか、そんな気がすんなあ」

 何者がどのような思惑からこんな手間も金も掛かる面倒な悪戯を仕掛けるのかは甚だ疑問ではあるが、そこはいずれ水城家かその家人との問題だ。そもそも問題すら存在しない、謂わば愉快犯的行いかもしれないし、そこまで踏み込んで事情を斟酌するのは流石に出しゃばりすぎだ。

 拍子抜けだった。考えれば考えるほどにそれが正しいと思えてならなかった。そもそも機械と生物の合いの子なんて発想からして古臭いのだ。近頃の読書傾向に影響を受けた結果ではあろうが、今時それはないよなあと自嘲気味に苦笑が浮かぶ。とにかくさっさとものだけ回収して、あとのことは静流さんに任せよう。

 一歩ずつ、サンダルがパタパタとうるさく鳴った。氷点下に近い気温に体はすっかりと冷え、早速耳が痛み出していた。石塀の向こうから吹き降ろした風が剥き出しの肌を鋭く撫で、鳥肌が二の腕の辺りからぶわっと広がった。体が勝手に震え、堪らずしゃがみ込んでいた。ジィィィ、ジ、ジ、ジィィィ――ああやっぱり。音は、ここからしている。

「はあ。熱い珈琲が飲みたい」

 知らず呟きが洩れ、さっさと終わらせようと僕は植込みに手を伸ばした。

 ふと、違和感を覚えた。

 静流さんは昨夜、初めてこの音を聞いた、と云った。怖がりな人ならこんな不気味な音が夜な夜な聞こえるのは耐え難いだろうし、誰かと共有して気を紛らわせたいというのも分かる。しかし、昨日の今日だ。こういう場合、せめて数日は様子を見たりして、聞き間違いや寝惚けていたんじゃないかと確かめたりしないだろうか。人それぞれだといえばそれまでだが、僕の感性からすればその異常が周期性を持ち、つまりは再現性を以て夜毎繰り返されると確信するまでは単なる気のせいと疑うと思う。誰かにそれとなく相談し、話題に出すことはあっても、翌日にいきなり人を自宅に招くまではしない――と思う。

 でも、彼女はそうした。それほどまでに怯えていたから、だろう。実際、研究室でこのことを語る静流さんの顔からは血の気が引いて、昨夜の恐怖をありありと思い出して慄然としていた。あの様子を見れば、そこに疑いの余地はない――ない、筈だ。だが同時に、こう考えている時点で、ほんの小さな砂粒程度であれ疑惑が生じているのを否定することは難しい。何故なのか。どうして、彼女は人を呼んだのか。妹さんではダメだったのか? そもそも妹さんは、確か高校生であり、そんな年頃の女の子が本当に毎夜遊び歩くものだろうか。家族と不仲という訳でもないなら、両親の居ぬ間に羽目を外すことはあれど夜には帰ってくるのではないか。いや――いや、それをいうなら彼女の両親が都合よく水入らずの旅行に出ている、という話も出来過ぎている。誰もいない時に限って、身内に相談できない時に限って不可解な出来事が発生しているというそれ自体が何だか都合がよくないだろうか? そうではなくて、もし全てが某かの結果としてこうなっているのだとしたら、その好都合な状況を僕に語って聞かせた静流さんは。

 馬鹿な。偶々だろう。そう思いつつ、けれど振り向く首の動きを止めることはできなかった。そして、ギクリとした。

 硝子戸の向こう、暗い和室を背にして佇む静流さんが見えた。白いワンピースを纏い、足は裸足で、いつものミサンガを付けた左手を窓に当てている。斜めに差し込んだ月光を浴びたその姿は妙に妖しく白々と暗闇に浮かび、誰もがハッとする美貌には一切の感情が宿っていなかった。土蔵の陰の藪に立つ僕を見つめる瞳は無表情で、目が合ってもただただ真直ぐに僕を見据えていた。

 草の擦れる音が聞こえた。僕はまだ手を触れていない。驚いてそちらを向き直る。それは丸かった。黒々とした穴に覗く赤色。三日月形に吊り上がった切れ目。白塗りの能面に似た、つまりは、人面があった。

 ジィィィ、と二つの瞳が間近から僕を見つめている。そうして、今や遮るものもなくクリアに聞こえるようになった例の音、ジィィィ――という音に混じって、カチ、キリキリキリ、カチ、ギィィ、ザ、ザザ、いあ、いぃあ、る、うぉわある、る、カチ、ギギ、ジィィィ――

 驚きと恐怖で身動きが取れないでいると、それは――ああ、それとしか呼べない、その奇妙な存在は藪の中から這い出してきた。焦げ茶色の皮を張り付けた体は犬に似ていた。節々がやけに歪んでいて、右の前足は人間の手になっている。その首も明らかに人間のものであり、首から上だけを挿げ替えたようだった。顔は面を付けているように見えたが、そうじゃない、能面自体が顔なのだ。三日月の切れ目から、だらりと白濁した唾液が垂れ落ちる。

「ジ、ジィィィ、ジ。カチ、キリキリ、ザザザ、ザ――白い、シロい、七色の光が見えておりまして、障子に眼があり、畳に耳あり、人形の噂が箱の裡からざりざり、ざりざりと聞こえた気がしました。ゆらゆら踊る白い光、輝く座礁した猫、鯨の光輝が、てらてらと私の耳の奥で夕陽の手触りが――ザ、ザ、ジジジ、ジ。カチカチ、ザ。ジィィィ――」

 唖然とする僕の額に、能面の額がごつんとぶつかった。


「……あ。ん、ぐっ……目、覚めた?」

「え――」

 静流さんが僕を見下ろしていた。口に運びかけた羊羹を慌てて飲み下し、油断した姿を見られて恥ずかしかったのか頬を赤らめる。

「……えっと」

 僕は茫然と視線を彷徨わせた。状況が掴めなかったからだ。意識に霞が掛かったように朦朧としていて、眼球の裏にどんよりと重い疲労が溜まり、鼻腔の奥がツンとした。頭がぐらぐらと揺れる。吐き気も酷く、立ち上がれないくらいで、そこで自分が横になっていることに気付いた。

 ビックリした、と静流さんははにかむように笑った。

「君ってば、いきなり倒れるんだもの。病院に連絡した方がいいか、すっごく迷った」

 まるで記憶になかった。憶えているのはちょうど庭に出たところで池に映った、月と、間の抜けた顔だった。――倒れただって? いつ、なんてのは愚問だろう。そんなのは池を覗いた直後に決まっている。いきなり倒れたという言い方からして、僕は濡れた石でも踏み付けて足を滑らせ、引っ繰り返ったに違いなかった。そう考えれば、頭の深い場所の疼痛にも納得がいき――後頭部に柔らかくて暖かい感触が当たっていた。

 はてな、と内心で首を傾げる。僕を見下ろしていた静流さんと再び目が合った。彼女は戸惑う風に目を逸らし、困ったような微笑を浮かべて、こちらを覗き込んだ。

「出来れば、そろそろ起きてほしいなあ、なんて」

「え、ああ……えっ? あっ、ごめん!」

 飛び起きると危うく静流さんにヘッドバットをぶちかましそうになったが、寸でのところで彼女は上体を仰け反らせて難を逃れた。僕の肘が座卓を引っ掛け、からん、と湯飲みが倒れて、足に掛かった熱いお茶に僕は思わず悲鳴を上げた。

「何やってんすか、先輩」

 声に振り向くと、木製の丸盆に二人分の湯飲みとお茶請けを載せた満ルちゃんが、呆れた顔をして僕を眺めていた。

「あ、あれ? 満ルちゃん?」

「もう、ほら布巾! というか脱いで! 火傷しちゃう」

「わっ、ちょっ――あれ、いつの間に帰ってきたんだ」

 ほぼ熱湯に近いお茶に濡れたズボンは確かに堪らなく熱かったが、しかし同年代の――同窓と年下の少女に監視されながら剥ぎ取られるのだけは断固として回避し、すると水城姉妹は双子のようによく似た表情できょとんと顔を見合わせて、揃って首を傾げた。

「満ルは、ずっといたでしょ?」

「……大丈夫っすか。それとも私なんて空気みたいなもんだ、とか。そういうディスっすか。喧嘩っすか。売ってるっすね。買いますよ」

「そう、だったっけ……?」

 そういわれるとどうだったのかよく思い出せない。いなかった、ような。気がするけれど――いや、頭を打って記憶が混乱しているだけ、なのだろう。僕と静流さんが二人きりだったと考えるよりも、満ルちゃんを含めて三人一緒だったと考える方がしっくりと来るし、実際に彼女はここにいる。

「……ごめん、なんかちょっと、頭がアレしたみたいだ」

「え。先輩、本気で病院行った方が……」

「救急車呼ぼうか?」

 云いながら、既にケータイを取り出している静流さんを慌てて止めた。

「いやいや! 大丈夫、もう平気だから。洗面所だけ、貸してもらえる?」

「はいはい、こっちっすよ、先輩」

 和室を出る直前、僕は何となく足を止め、縁側を振り返った。

 ジィィィ――ジ、ジィィィ――という、やけに生々しく響くノイズのような異音が聞こえた。気がした。

「静流さん」

「ん? 早くズボン脱いだ方がいいよ」

「例の音、結局何だった?」

「さあ……君が倒れた直後くらいに聞こえなくなって、それっきりだよ。満ルが確かめてくれたけど、別に何もなかったってさ」

 静流さんは照れ笑い、なんかごめんね、と云った。

「ええからはよこいや」

「あ、はい。すんませんっす」

 僕は洗面所へ急いだ。

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