4:森の中に置き去りにされた令嬢と追いかけた執事

  空を覆うように枝葉が広がる中、隠しきれなかった日の光が、木漏れ日となって道を転々と照らしている。

ヒールの低い靴でよかったわ、と私は考えることにした。

ところどころが破けたり、汚れてしまったドレスは使い物にも売り物にもならないけれど、とにかく森を抜けなければお話にならないのだから。

風に揺られ、木々が騒めく。

森の中は想像よりもいろいろな音がする。

足音かと思って後ろを振り向くと、小鳥と目が合うし、太い幹の後ろにいたのは黒い虫だし、誰とも出会えない現状に、私はまるで牢獄の中に閉じ込められているかのような閉塞感を感じていた。


「でも、この虫、何という虫なのかしら」

「オオクワガタですよ」


 あら、本当に人がいたのね。

私の六感も卑屈になるほどのものではなかったみたい。


「ナリウス、こんなところで会うなんて偶然ね。迷子にでもなったの?しょうがない子ね。心細かったでしょう、手でも繋いであげましょう」 


 親切に手を差し伸べた私をナリウスは鼻で笑い、


「迷子なのはお嬢様の方でしょう。手を繋いでほしいなんて、そんなに寂しかったんですか?全く、仕方ないですね。お嬢様の不安を解消するのも有能な執事の仕事ですから」


 握られる手は、思い出と違って、大人の男性の手になっていた。

想像と違うことに年月を感じ、ゴツゴツとした手の握り心地は良くはなかった。

木の根で転びそうになった時についた泥が、落としきれなくて手に残っていたけれど、ナリウスは気にならなかったかしら。


「クワガタもわからないなんて、やはりお嬢様育ちに森は早すぎましたね」

「森に早すぎるも遅すぎるもないわ」


 暑くて、いつも憎まれ口を叩く時だけ無駄に働くナリウスの頭も回転していないみたい。

汗を吸って更に重たくなったドレスにうんざりしながら、ナリウスの手を借りて、先ほどよりも歩きやすくなった森の中を歩く。


「それにしても身一つで来たの?何も持ってないじゃない」

「あなたが言える台詞ですか」

「仕方ないでしょう、こんな所に置いて行かれるなんて思わなかったんですもの」


 だって、まさか国境近くの森の中に置いて行かれるなんて、想定できるわけないじゃない。

このことで世間知らずと呼ばれる言われはないわ。

婚約破棄されて、城都から着の身着のまま兵士たちに連れられて、森の中に置き去りにされた。

文章化して客観的に見ても、現実味のないお話。

最初から決められたかのように、あっという間の出来事だった。

父上や母上は私のことを心配しているかしら。

期待できないことをぼんやりと私が考えていると、ナリウスが焦ったように私を呼ぶ。

そんなに呼ばなくても聞こえているわ。


「…さま、お嬢様!!」

「はいはい、聞こえているわよ、ナリウス」


 ナリウスは私の声を聞いて、ずっと探していた迷子を見つけたかのようなホッとした表情で息を吐く。

手も繋いでいるのに、心配性ね。

そんな性格だったかしら?

思い出そうとして、ふと記憶の欠落を自覚してしまう。

こんなに記憶力悪かったかしら?

もしかしたら、自分が思っている以上に森に置き去りにされたことがストレスで、影響がでているのかもしれないわ。

ふと、手を繋いでいるナリウスを横目に見て、首を傾げる。


「あら、ナリウス、身長が伸びた?」


 昔はあんなにかわい…いえ、最初から小生意気だったわ。

三つ年下ということもあって、出会った頃は私よりも身長が低かったのに、いつの間にか私の身長を越していたのね。


「いつの話をしているんですか。とっくの昔にあなたの身長は越してましたよ」

「そうだったかしら」

「そんなことより、そっちじゃないです。ちゃんと着いてきてください」

「そんなに昔だったかしら?」

「考え事ばかりして、足元がお留守ですよ。そこに木の根があるので気を付けてください」

「ナリウス」


 強張った表情のナリウスの名を呼ぶ。

追い詰めるつもりはなかったのに。

ただ私はあなたの名前を呼びたかっただけ。

美しい烏の濡れ場色の髪を、少し日に焼けて焦げ茶色になった肌を、私を必ず見つけてくれる深い夜の色をした瞳を、薄い唇から出る憎まれ口を、思い出すのはあなただけだったから。

こんなところまで私を探しに来てくれたのも、あなただけだったから。


「そうよ。やっぱり、あなた、私を追いかけてきたのね」


 詰ればよかったのかもしれない。

実際、ナリウスの顔は痛みを抱えたかのように歪んだのだから、期待された言葉を吐けばよかったのかも。


「ありがとう」


 それでも出たのは感謝の言葉と、出るはずもなかった涙の滴だった。

私は泣きながら笑って、ナリウスを困惑させた。

自分と彼の愚かさが、愛しくて、愛しくて、私は幸福に酔いしれた。

こんな状況なのに、もう二度と会えなかった人に会えた奇跡に、一度も言えなかった言葉を伝えることができることに、私は嬉しくて笑いが止まらなかった。


「言っておきますが、僕がここにいるのは偶然ですから」

「無理のある言い訳ね!

あなたのひねくれた性格は死んだって治らないわ!」


 苦虫をかみつぶしたようなナリウスの表情が次第に笑顔に変わって、私達は笑い声を上げ続けるのであった。

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〈短編集〉試作的悪役令嬢 五百夜こよみ @nois

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