第6話
『菊見先生! あの男です! あの男が、私の隣の部屋に!』
「落ち着きましょう、真山君」
落ち着いてなどいられないと興奮状態にある真山君をどうにか宥めて話を聞き、ひとまず、今後の対策について話し合うべく、これから子猫と共にこちらに来ることになった。
通話を終え、電話の子機を元に戻し、眉間の皺を揉みほぐす。
あぁ……ついに、この日が来たか。
「今の、聞こえましたね?」
「えぇ。なんか悪いことしちゃったわね」
「悪いことになるかどうかは、君と僕の頑張り次第ですよ」
小紫さん、と彼女の名前を呼ぶ。
紫月の傍らに寝転ぶ子猫が、それもそうね、と気だるげに言った。
あの日庭に現れ、紫月の腹に触れて消えた少女は、本人が希望した通り、今は紫月の子供として僕と共に暮らしている。
神の恩恵か気紛れか、不思議と今生では会話が可能なようで、僕と二人っきりの時にはこうして会話をするが、他の人間をはじめ、真山君の前ですらただの猫のフリをする。
『真山さん、妹のことを私だと思い込んでるから。夢を壊しちゃ、可哀想でしょ?』
小紫さんの名前を呼んで偶然にも返事をしたから、という単純なことで信じてしまうのもどうかと思うが、意外とロマンチストだったんだなとも思う為、夢を壊したくないという意見にはどうにも同意してしまう。
真実を告げずに協力してもらうことになるわけだが、まぁ、致し方ない。
「それにしても、何故、彼はあちらに現れたんでしょうね。小紫さんはこちらにいるというのに」
「……まだ、兄だと確定したわけじゃない」
「そうですが、そうかもしれない」
僕の返答に彼女はうんざりしたように顔を背け、
「……兄でも、兄じゃなくても、私のすることは決まってる」
溜め息混じりにこう言った。
「私を生かしてもらう代わりに、あなたと真山さんをくっつける努力をする。そういう約束だものね」
自然と口角が上がっていく。一度で良い頷きを何度もしたものだから、小紫さんは呆れたようにまた溜め息をついた。
「彼女も可哀想ね、こんな粘着質なおっさんに執着されるなんて」
「お恥ずかしながら、いくつになろうと恋はしてしまうもので」
今でもその瞬間のことは忘れない。
人間の身体の部位で一番美しくないのは足である。そんな持論を、彼女の素足は否定した。
肌被れも出来物もなく、形も歪んだり一部分が大きかったりせず、初めてそれを目にした時は驚き、そして感動した。
「美しきものを傍に置きたい。それは、人間であれば誰しも抱く想いでは?」
「男のエゴじゃなくて?」
あるいはあなたの、と付け足す声の、なんと冷たいことか。
僕は苦笑しか返せない。
「……何でもいいけど、約束、守ってよ」
「お互いに、ですよ」
もちろん、と答えて、子猫はその小さな可愛らしい足で、軽やかに居間から出ていった。
「……」
これから忙しくなる。あわよくば、吊り橋効果も狙えるかもしれない。
なんて不埒なことを考えながら、不安を抱えて訪れる真山君をもてなす為の準備を始める。
令和最初の夏、僕は年甲斐もなく、期待に胸を膨らませるのであった。
平成最後の夏、少女は猫になることにした 黒本聖南 @black_book
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